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2022-11-29

はっきり言って、僕はとても恵まれていて、幸福だと思う。

世の中には、株式などの不労所得だけで、働かずに暮らすFIREのような考え方を実践しようとして、実際働く必要はなくなっても、没頭できる趣味がなく、生きていく意味が分からなくなって、結果仕事に戻るような人が多く存在する。

【独自】「FIRE卒業」再び働く人が増加 “火だるま”市場乱高下で大損…米国でも続出(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

僕は、パソコンを使ったデザインという仕事をしているが、福祉施設の労働であり給与はあまり入らないとは言え、工場で電動ドリルを回し続けたり、あるいはミシンで衣服を縫い続けたり、魚のはらわたをさばき続けたりするような仕事に比べれば、はるかにやりがいと楽しさのある仕事をしている。

また、僕はホームページ制作という、没頭できる趣味があり、LinuxやYouTubeの音楽が好きで、日記や小説を書いたりIT技術の勉強をしたりするというライフワークがあり、子供の頃から習い続けているピアノや英会話を今でも続けている。

この世界の多くの人々は、つまらない仕事をしている。生きがいなど感じられない仕事の中で、無駄に年齢を重ねてしまい、好きなことを始めようとしたとしても既に遅すぎる年齢になる人も多く居る。大学で勉強して何も分からなくなる人も居れば、本当に悪いことをしたり悪い人間や組織に騙される人だって居る。

そんな中で、ホームページを執筆する中で、やりたいことを全部やっている僕のような人間は非常に希少であり、恵まれていて、本当に幸福だと思う。

ひとつあるとしたら、恋人が居ないとか、経済力がないせいで結婚できないとか、そのようなことが言えるかもしれないが、僕はそもそも結婚しなくても、YouTubeのさまざまな歌手が好きであり、彼らの歌を聴いていればそれで満足できるのである。

トール

YOASOBIが言うように、僕たちは操り人形じゃない。

誰かを操り人形にするなどということが、絶対にあってはならないし、誰かを身勝手に支配するということはしてはならない悪の行為である。

そのような人間は、北欧神話の最強の正義の神、トールが鉄槌を下す。

この世界で、悪いことをしようとしているすべてのものは、トールが滅ぼす。トールは、この世界の悪人が行っている悪事の内容をすべて知っている。罪のある人間には、必ず分相応な罰が下される。トールは悪人に天罰を与えるのだ。

予測せよ

すべての行動と経験を、予測して考えなさい。

あらゆる経験的な体験を、「経験する前の段階から、経験すればそのようになることが分かっていた」という、経験の予測から考えなさい。

前提条件となる決まりやルールから、自分がどのように行動するべきかを考え、その中で人々がどのように行動するだろうかと予測しなさい。

他人に依存することのない、大人としての「自立」という意味での成長から考えなさい。

自らが許されたという体験から、他人のことを許せるようになりなさい。

ベガ

オーディンの星、ベガでは、社会のことを「自立」という側面から考え、子供たちに「自立」の大切さを教える。

誰かの支配や支援に依存して生きるのではなく、自らが自由に考え、自由に行動し、自由に決断して生きられるようになるように、ベガでは子供たちに教える。

そこでは、「他人のことを許す」ということを重要視する。いつまでも、憎い相手を恨み続けるのではなく、その相手を許すことで相手も自分も自由になる。そのように、「相手を自分が許すことで両者がどちらも自由になり、解放される」という意味での「許し」を、ベガでは重要視する。

ベガにおいては、自由な経験から自ら自身が学ぶこと、それを「自立的な成長」であると考える。単に頭の中だけで考えていたのではなく、考えたことや思ったことを現実の行為として行い、そのありのままの結果を経験して確かめる。そこから、反省して新しい行動を行うという発想が分かる。そこから、自らが体得的に自分の経験から学ぶことができる。

ベガの大学においては、教師から学ぶということを重要視しない。自らの力で体得的に学び、自らの力で学校で教えられたことを反省的に習得していくということを重要視する。数学の公式を教えることよりも、自ら自身の知性で数学の公式を「再発見」することを重要視する。それによって、ベガの学生は、数学者の発見した真理を学ぶだけではなく、自らの力で数学者と同じ発見をすることができる。

必要なのは、勉強することではなく、「自らも過去の数学者と同じような新しい数学者になること」である。よって、ベガの科学は、車輪の再発明を重要視する。誰かが発見したことを、ただ知識として取り入れるだけでは、何も分かっていない。ベガでは、自らも同じように同じことを発見し、その発見から、「その発見が真に意味することは何か」ということを知る。それにより、「発見を解釈していた人間の歪んだバイアス」がなくなる。自らがそれを発見したのと同じようにそれを再発見すれば、「どのような考え方が正しく、その発見が真に言わんとしていることがなんであるか」が分かる。何が正しく何が間違っているのかを、自分自身の力で判断できるようになる。

そして、このような考え方は、「世界観そのものが変わっていく」という成長経験をする。この世界のすべてが、常に生み出されている再発見の創造的過程であり、真にそのことに気付くことができたら、それ以外何も分かる必要はないのだということを実感的に理解できる。そこでは、歴史のすべては「意識の創造」である。この意識は「環境によって創造される個人であり、個人によって創造される環境である」ということに根ざした考え方である。歴史のすべては意識の創造における再発見の過程に過ぎない。そこでの究極目的は、この世界の可能性を高め、その中で真に成熟した社会を築くために、個人個人が自分らしさを大切にし、世界の自由を尊重しながら、世界すべてを変えていくこと、自分だけが変えるのではなく、誰もが自分と同じように変えられるように権限を許すこと、そのために社会制度を改革していくこと、である。

そのように考えた時、「社会全ては、できるだけ変えられる可能性を高くしていくべき」だということが分かる。だが、それは自由すぎる無政府主義を意味しない。なぜなら、変えられる可能性において、理性的に考える上では、法治国家という「みんなが望まないことは禁止されるような社会」でなければならない。よって、必要なのは「法律の自由化」である。法律をなくしていくべきではなく、法律を自由化していくべきなのである。

すべての人間が愛されるということを、ベガでは目的としている。だが、愛とはなんだろうか。ベガでは、「愛とは神の守っている第一法律」であると考える。ベガでは、「神」とされる存在が宇宙には居て、その神はなんでも好きなことを自分勝手に行っているわけではなく、「神が守っている第一法律と呼べるもの」があると考える。すなわち、神は全能だが、決して好き勝手なことはしない。神は「第一法律」という法律を守って生きている。神は絶対に間違ったことをしないし、神は絶対に悪いことをしない。それは神だけが知っている、神の守る第一法律があるからである。そして、その第一法律こそが「愛」である。神は愛を信じてこの世界を支配している。神は愛において間違ったことを絶対に何一つ行わない。神の行いはすべて愛に根ざしており、神はそこから外れたことを一切しない。神は愛を信じている。そして、わたしたちもまた、神と同じように神と同じ愛を信じることで、神と同じになれる。この状態こそ、「愛される」という状態である。神の愛をわたしたちも信じるということが、結果的にわたしたちが「神に愛される」ということに繋がるのである。

よって、神が偉大なのは、その全知全能性によるものではない。神は愛という至高の概念を第一に守りながら、全知全能の業を行うというところが偉大なのである。神は決してこの世界を滅ぼしたりしない。神は間違ったものに天罰を与えているが、それも神が自分勝手に考えたことによってではない。神は第一法律である「神の愛」を守っている。本当は、神にしかその愛は理解できない。だから、わたしたちが神になることは容易ではない。だが、わたしたちが神と同じように、至高の愛を信じることはできる。その愛が、神ほどに賢いレベルのものになった時、わたしたちは神と同じになれる。その状態が、「神の望む理想の人類」であり、「神に愛された民族」なのである。

ベガでは、このような神の愛を信じている。ベガの神は一神教であり、たくさんの神のことを信じない。だが、多神教は本当は小説としては面白い。だが、宗教として信じるならば、多神教よりも一神教のほうがいい。よって、オーディンは、北欧神話の神でありながら、ベガにおいては北欧神話のような多神教の神ではない。オーディンはベガという星の中の唯一の神であり、それは一神教の神、主であることを意味する。オーディンとはアースガルズにおける名前にすぎず、ベガの神はただひとり「神」という名前で呼ばれるべき、聖書に記述された「主」を意味するのである。

変化可能と時間

この世界は、変化可能であるべきである。

変わらないせいで、迷惑を被るよりも、変えられるならば変えたほうがいい。

そのような自由を、人々に与えるべきである。

人々は、絶対に変えられない地獄などに堕ちるべきではない。人々の努力によって、そのような不都合を変えられるようであれ。そのような社会制度こそ、理想である。国民を縛る法律は、国民によって変えられるべきである。その変える権限は、独裁者によるものではなく、民衆の民主主義によるものでなければならない。

そして、人々は、最大限この世界を変えられるように、「もっとも大きな影響力の、もっとも高み」から世界を変えるべきである。

自らの思い込みから世界を変えようとするな。人々の現状をきちんと把握せよ。人々の生の声を聞けば、自分が何を勘違いしているのか、思い込んでいるのか、ということがありのまま分かるだろう。

そして、そのような「変化の可能性」は、「時間」と結びつく。

すなわち、過去においても、この世界は常に変化の可能性が許されていた。

その時代の知識や技術によって制限されながら、それぞれの国民の「文化水準レベル」によって、この世界は常に進歩を遂げてきた。

その中で、何が先に進歩し、何が先に進歩しなかったか、という「進歩の優先順位」によって、歴史というものは形作られてきた。

そのような時間は、過去だけでなく、未来においても言える。

未来の人々の自由を、過度に今のわたしたちが制限するべきではない。未来における人々が、それら当事者の人々によって、世界そのものを変えていくべきである。

よって、「絶対に正しい法律」などを作るべきではない。作るべきなのは、「未来の人々によって変えられる可能性を残した、自由に変えられる法律」である。

であるからして、今の社会制度を、絶対に正しいなどと考える必要はない。今の社会制度は、今考えられる限界に根ざした社会制度に過ぎない。未来において星が進歩すれば、新しい考え方の正しい社会制度が築かれるようになる。それらと対立するのではなく、過去の旧態依然とした勢力が妥協する形で、新しい考え方を取り入れ、世界を新しくしていくべきなのである。

そして、これが「宗教すら変わっていくべき」であると考える理由である。宗教は、いつまでも過去のキリスト教の聖書を信じているだけでは不十分だ。わたしたち人類が進歩していくに従って、多神教の神話が一神教に変わったように、新しい宗教の考え方を取り入れていかなければならない。いつまでもイエス・キリストを神だと信じ続けるのは間違いだ。わたしたちは新しい聖書、新しい神、新しい教義を信じていくべきである。それこそが、人類の正しい「進化」なのである。

ベガは、このような思想を信じる集団である。この宇宙における「最終形態の哲学」が、ベガにはある。

すべてのものに平等に自由を与えよ

ベガの信じる政治思想、それは「すべてのものに平等に自由を与える」ということである。

すなわち、「誰かのことを特別扱いするな」ということだ。

王を特別扱いするな。王だけが権力者として国を統一するのは間違っている。

金持ちを特別扱いするな。金持ちだけが貧乏人に比べて豊かな富と特別な力を持つことは間違っている。

独裁者を特別扱いするな。独裁者が独裁権力で経済の再分配をすることは間違っている。

革命家を特別扱いするな。革命家を神だと信じて世界に反逆の復讐をすることは間違っている。

あらゆる特別扱いを、ベガは否定する。その上で、ベガはすべてのものに平等に自由を与える。

自由と平等は矛盾しない。なぜなら、体制や制度として強制しなくても、「みんなが当たり前に正しく考えるようになれば、自ずと自由においても思想は平等に至る」とベガは考えるからである。

このように信じなさい、考えなさい、従いなさい、支払いなさいと、そのように強制することなど必要ない。それらすべての「義務」と呼ばれる考え方は、ベガには存在しない。

ベガの考える「当たり前の考え方」をすれば、自然に自由であろうがほかのどのような社会状況であろうが、人類にとって平等が正しいということが、明らかに分かるからである。

戦いのすべてをなくすことはできない。だが、戦いをやめる方法がないわけではない。そして、自由においてベガのように考えれば、自由においても戦いは自然になくなる。戦うということはまったく意味がないということ、領土や宗教や勢力の争いをするということ自体が、「集団的価値観」に根ざしており、そのような集団的価値観は本質的に意味がないものであるということが、ベガにおいて当たり前に考えれば誰でも同じようにそのような考え方に至るのである。

ベガには、自由を制限するような王は存在しない。ベガは全員が自由であり、ベガは本質的に「自らの人生と自分自身を創造するため」に生きている。そこに必要なのは支配ではなく愛である。そしてこの愛とは、「過去の経験すべてを融和した感情」である。

過去の経験のすべてを融和するということ、それは「今の自分の創造過程を知る」ということである。そして、その愛から、「新しい自分を創造させる実現手段を知る」ということができる。そしてそのすべては、「自分自身を知る」ということ、「自己批判をする」ということに根ざしている。それはまさしく「自分と対話する」ということであり、「心の声を聞く」ということである。

そして、そのような自分自身とのコミュニケーションは、神とのコミュニケーションに到達する。だが、そこまでは簡単には到達できない。なぜなら、真にそのような過程を歩むためには、「全員に平等に自由を与えるという思想の下に戦わなければならない」からである。

戦争を否定するベガの市民が、なぜ戦わなければならないのか、それは実際にベガの生命の人生を生きてみれば分かる。真に自らの平和と善良さを世界に対して証明するために、自分のためではなく世界のために、全力で世界を守る戦いをしなければならない運命が、ベガの市民には必ず訪れる。その時に、絶対に負けてはならない。諦めてはならない戦いの中で、ベガの市民はまさに「一段階上の存在」になることができる。そして、そのような「全員を平等に自由にする戦い」こそが、「神」を作り出す。なぜなら、神は「自由の体現」であり「自由の偶像」である。すべての人間を平等に自由にするという固い決意が、あらゆる宇宙のすべてを分析し、宇宙の存在を正しく書き表して証明した時、その「ロゴス」こそが「神」となる。そう、これこそが宇宙における「神の発生」であり、ベガにはそのような最高神であるオーディンが存在するのである。そしてその神であるオーディンが、宇宙全てを創造する。

このような人生を、ベガのすべての生命は体験しなければならない。それこそが、宇宙における神の一等星、こと座のベガを成り立たせる、「宇宙最高の聖なる集団」だからである。このようなベガはまさに宇宙における「聖域」なのである。

真善美を信じる美しい存在であれ

ベガの市民の価値観とは、「真善美」である。

正しいこと、善良であること、美しくあること、これがベガの市民の鉄則であり、モットーである。

中でも、「美しくある」ということが重要である。

ベガの市民は、汚いこと、穢れていること、あるいは気持ち悪いことを否定する。常に美術的・芸術的に美しい存在であることを、真に理想とする。

だが、それはベガが、容姿によって人の優劣を決めるということではない。ベガにとっての美しさとは、顔や容姿の美しさではない。ベガにとっての美しさとは、人生を生きるということ、生きざまを持つということ、自らを自らたらしめる根源となる価値観を持つということに対する「美しさ」である。

たとえば、いじめっ子がいじめられっ子をいじめるような考え方のことを、ベガの市民は「悪い」と言わず、「醜い」と言う。人々をいじめるという行為は、悪いというよりも前に、醜い。そのような醜い生き方をするということを、本能的にベガの市民は嫌う。

逆に、人々のことを助け、本気になって世界のことを悪から守ろうとするような考え方を、ベガの市民は「良い」とは言わず、「美しい」と言う。世界を守るということは、この世界を維持して救うという意味で「美しい」からである。

このようなベガは、この世界を救うための方法が、「もっとも美しい行為を行うこと」であると知っている。そして、それは「もっとも美しい芸術作品を作る」ということと等価である。すなわち、世界を救いたいならば、美しくなればいい。世界を救う方法は、美しさを探求することから見つかる。

だが、ベガは、すべての醜いものを否定するわけではない。なぜなら、ベガの多くのものが知っていることとして、「もっとも醜く気持ち悪いものが、もっとも美しいものへと変貌する」ということがある。本当に気持ち悪くて、すぐに死んだほうがいいほど他人に迷惑をかけ続ける人間が、その未来において、その過去の行いを反省し、もっとも美しい存在へと変わることがある。これこそが、ベガの言う「本当の成長」である。そして、この本当の成長こそが、この世界を救う。星を救うためには、星を美しくしなければならない。星を本当に変えたいのであれば、醜く腐ったものすべてを、生きた美しいものへと変えなければならないのである。

そのような結果、ベガは、「真善美」を信じ、その中でも特に「美」を信じている。こと座のベガは、織姫のように美しく、ベガの市民たちもみな、織姫のように美しい。その中でも、神であるオーディンはもっとも美しい。なぜなら、オーディンの人生こそが宇宙でもっとも正しい、「もっとも美しい人生」であるとベガは知っているからである。

もっとも美しい行いとは、もっとも強いものにつくのではなく、もっとも弱いものにつくこと

そのようなベガは、どのような行為が美しいかということをよく知っている。

もっとも美しい行いとは、もっとも強いものにつくことではなく、もっとも弱いものにつくことである。

この世界において、もっとも人々から差別され、もっとも人々から嫌われ、もっとも人々から迫害されるもののために、手助けをして生きよ。

それはすなわち、ドイツ人ではなくユダヤ人につくということだ。

それはすなわち、マイクロソフトではなくオープンソースにつくということだ。

それはすなわち、金持ちを助けるのではなく社会的弱者を助けるということだ。

それはすなわち、多数派の右翼ではなく少数派の左翼につくということだ。

すべての意味で、もっとも弱いもの、もっとも嫌われているもののために生きよ。キリストが言うよりも、それをさらに推し進めよ。すべての権威を敵にまわしてでも、もっとも弱い愛すべき仲間のために立ち上がって革命を起こせ。

そのような行為こそ、ベガは「美しい」と呼ぶ。それは本当は、「美しいだけでほかになんの足しにもならない」とは言える。だが、その行為は美しい。もっとも美しいオーディンの人生が、よく分かるだろう。

悪の道に堕ちたものが地獄に堕ちても、善を努力すれば必ず救われる

悪の道に堕ちたものは、必ず地獄に堕ちるということを、ベガは知っている。

だが、それは、それだけでは正しい真理ではない。なぜなら、地獄に堕ちたもの、悪の道を選んだものは、善になるための努力をすれば必ず救われるからである。

本当のことを言えば、悪を行うということは、必ずしも悪いことではない。真に悪いのは、「悪しか行わない」ことである。すなわち、悪を行ったとしても、その悪人が善人になるための努力を行うならば、その人間は悪ではなく善を行ったことになる。そのような「善を努力したもの」こそが、ベガにおいては成功者となる。

ベガは、悪を必ずしも否定しない。悪は人生にとって必ず必要だからだ。だが、真に悪いのは、「悪」ではなく「善の欠如」である。すなわち、「悪に対して善が加わることで、はじめて悪は善となることができる」のである。

ベガは悪を嫌うが、悪人のすべてが本当に悪ではないと知っている。彼ら悪人は地獄に堕ちる。だが、地獄から永遠に救済されない悪人など、本当は存在しない。悪人は必ず善人になるための努力をする。その時、その悪人ははじめて立派な善人となる。善の欠如が真に悪であり、悪と善の融和こそが真に善であると、ベガのすべての市民は知っている。なぜなら、ベガにおける「大人」とは、そのような経験をする人間のことを意味しているからである。地球の人類には分からないかもしれないが、これがベガの考える真善美のうちの「善」である。

正しいことを正しいと思わないことのほうが正しい

では、ベガにおける真善美のうち「真」とは何か。

これも、地球の人類には分からないかもしれないが、それは「正しいことを正しいと思わないこと」である。

すなわち、真なる真実とは、真実を信じないこと、正しいことを正しいと思わないことである。

「おや、正しいことを正しいと信じることが正しいのではないか」と、多くの地球の市民は疑問に思うかもしれない。

だが、ベガが考えるに、それは間違っている。本当に正しいものは、正しいものではないからである。

すなわち、正しいと思ったことを正しいと信じてしまうと、その時点で「正しさの探求」が終わってしまう。結果、自分の信じた薄っぺらいどうでもいい正しさを、いつまでも信じ続け、疑わなくなる。

そしてそれこそが、正しさではないということ、すなわち「間違い」ということだ。

真に正しさを追求するということは、正しいことをそれだけでは正しいということにしないことだ。「いや、これは間違っている」とか「これはまだ正しいとは言えない」と、正しさを追求し続けること、これこそが真の意味で正しい。

よって、言ってしまえば、「この世界には正しいものは存在しない」あるいは、「この世界には無限に正しくなっていく正しさしか存在しない」と言えるのだ。

正しい答えを知ったと思い込むならば、注意せよ。その時にあなたはもっとも間違いを犯している。その正しさは、まだ真に正しくない。真に正しいと言えるような答えは別にある。それをいつまでも探求し続けよ。そうすれば、さらなる新しい正しさが分かる。これが、ベガの考える真善美のうちの「真」である。