この世界を正しく捉えるためには、世界をひとつの繋がった「滝の流れ」であるかのように考えることだ。
滝は、その部分だけが大きく流れているように見えて、実際はほかの水の流れと繋がっており、どの水の流れも、ほかの部分と繋がって流れている。
どこかの流れが別の流れに必ず影響を及ぼしており、どこかの流れを変えれば必ず別の流れに影響が出る。
この世界もそれと同じで、どこかで強く影響が出ていると思われるような部分は、必ず別の場所から影響を受けている。
だから、どこかの流れを変えれば、全体の流れを変えられる。
そう、滝の流れは一見局所的に見えるが、実際は全体が滝である。
そして、これは自然現象においては、水の流れだけではない。すべてが流れなのである。この世界で起きる、自然やあらゆる現象のすべてが、滝の流れと同じようにすべて繋がって起きている。
それが分かった時、この世界をもっとも正しく捉えられている。すべてが流れとして、この世界は繋がっている。どこかが出口、どこかが入口となって、世界はひとつの水の流れのように繋がっているのである。
分裂せよ。この世界を司る概念とは、分裂である。
すべては、戦争と平和だ。
すべては、自由と平等だ。
すべては、理想と現実だ。
すべては、運命と自由だ。
すべては、世界観と価値観だ。
すべては、それぞれ違うということと、それぞれ同じであるということだ。
この世界よ、自由になれ。
自由とは、それぞれの組織が独立して、自分たちの意志と力を持って活動することが許されていることである。
ひとりの独裁者によって支配された社会は、本当は弱い。それよりも、それぞれが独立した生態系として、それぞれの自由が許され、それぞれの関係性と考え方によって協力したり対立したりできる社会のほうが強い。
確かに、ローマ帝国のほうが、古代ギリシャよりも強いとは言えるかもしれない。だが、同じ時代には、さまざまな考え方を持った別々の帝国が存在した。すべての地域が、ひとつの帝国に支配されるよりも、それぞれの民族がそれぞれの国家を作り、それぞれの考え方のもとに自由な帝国を作ることのほうが、ソ連のような独裁国家がひとつだけ存在するよりもはるかに強いはずだ。
ひとりの支配者に依存しすぎると、その支配者がなんらかの理由で愚かな人間になった時、その支配者のやりたいようにできてしまう。それが巨大な力を持っていた場合、地球全部が滅亡する危険性すらあり得る。
だからこそ、それぞれの国家が、自らの考え方と民族文化に基づいて独立しなければならない。世界政府による平和など、まったく不自由な発想であり、自由と独立性から考えれば、地球連邦などは偽善であると言える。
また、僕はテレビやマスコミを倒そうと思う意図はない。
テレビやマスコミには、僕とは無関係に活動してほしい。僕を見るのではなく、国民や一般市民を見て報道を行ってほしい。
確かに、僕は現れた時、この世界に自分のことを堂々と宣言し、「無視することが絶対にできない」ようにしたが、それはかつての自分の「足場」を作ろうとする行為であって、今でもテレビやマスコミを僕が支配しているという事実は、僕にとってまったくよい方向に効果がでていない。テレビやマスコミもそれを望んでいない。
僕とは無関係に、自由に活動してほしい。僕はテレビやマスコミを完全に解放し、この世界がより自由になる方向に、自ら舵を切ろう。
僕の人生は、西洋哲学の哲学者の考え方と、似通ったところがある。
まず、ニーチェのように、神を信じず、すべての人間の違いは、権力への意志の下による解釈の違いであるとし、超人的な本能によってこの世界を把握せよ。
次に、プラグマティズムのように、心理学的な効果と有用性からこの世界を捉え、デューイが言うような「価値多元論」と「学校は民主主義のやり方を学ぶためにある」という考え方から分かっていけ。
そして、カントのように、二律背反とアンチノミーから、理性を批判し、理性的な言葉を論理的に「三段論法」で考え、超越論とコペルニクス的転回から分かっていけ。
そして、ウィトゲンシュタインのように、「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」とか、「言語の限界」といった考え方で、未知のことを正しく捉えていけ。
そして、デカルトのように、ひとつの分かったことから推論して分かるような、別の分かることを、方法的懐疑のように知り、その上で、「われ思うゆえにわれあり」とせよ。
そして、ヘーゲルのように、他人との相互承認の中で、自己意識が辿る遍歴の上に、漠然とした自由が、自らの理性の拡大によって「実質化」し、社会制度となっていくことから、「世界精神と自分が繋がっている」ということを悟り、歴史は「弁証法的な過程」として、今ある歴史の上に続いていくものであるとせよ。。
そして、老子のように、人為的な考え方を排して、すべてを自然と調和する中でそれぞれにとって価値とされるものは異なるという、「道」を見出すことで悟れ。
そして、孔子のように、理想の国家とは地域社会と家族における道徳心から出発し、人々がその上で社会を徳によって治めるということであるとし、そのために「礼」を信じよ。
そして、キルケゴールのように、人間の人生は、美的実存、倫理的実存、宗教的実存の段階があるとし、実存、すなわち「実際に存在するもの」は、存在と可能性を証明することで見えてくるものであると知れ。
そして、ハイデガーのように、人間を「存在が生起するもの」であるとし、自らを「現存在」としながら、時間化の中でこの世界において真に存在するものが何であるかを知れ。
同時に、フッサールやヤスパースのいう「現象学」のように、この世界が主観に基づいて客観的に現象が起きるという「意識」の中にあると知れ。
最後に、サルトルのように、この世界すべてを「自由な刑」であると知れ。自らがその本質を形成していないにもかかわらず、社会からその本質を既に形成されていると要求されるという「実存は本質に先立つ」ということこそが、わたしたちが「自由を保留し、客体化し、集団化する」上で考えなければならないことであると知れ。
なぜ、オープンソースを信じないのか。
オープンソースとは、自らのコンピュータを柔軟に使う自由を得るということだ。自らのコンピュータが実行しているプログラムの実行内容がどのようなものであるかをコンピュータのユーザーが知ることができ、それをユーザーが書き換えることも、コピーすることも、他人に再配布することも自由である、という、「自由を許されたコンピュータソフトウェア」ということだ。
なぜ、オープンソースに参加しないのか。
オープンソースソフトウェアは、従来のソフトウェア会社による「金儲け」によって開発されていない。インターネット上の無数に繋がる「見返りを求めない善意のボランティア」によって開発されており、Linuxカーネルなどは何千人という単位でインターネットで繋がった貢献者たちが自らの成果を「みんなのものとして共有」している。これによって、高品質なソフトウェアが生まれている。
僕は、オープンソースを信じて、参加しようとした。僕は今までの商用のソフトウェア業界と真っ向から対峙し、GNUやLinuxのために戦った。
オープンソースこそ、真に革新的な、もっとも正しいソフトウェアのあり方である。
たとえば、Windowsや商用ソフトウェアの場合、コンピュータのICチップとハードディスクにおけるOSの機械語のバイナリが付属されているだけで、内容を見ることができない。
内容を見れないということは、「悪い内容が実行されていても見ることができない」ということを意味する。また、「プログラムの内容を自分で書き換えて、自分の実行させたいプログラムに記述しなおして実行する」ということもできないということを意味する。
また、コピーや再配布ができるということは、インターネット上に、著作者である自分とまったく同等の権利内容を許しながら、全員と共有し、共同開発することができるということを意味する。
すなわち、内容を秘密にした上でお金儲けのためにソフトウェアを開発しなくても、インターネットを使うことで、秘密の内容を公開したとしても、みんなでネットワーク上でボランティアが開発すれば、商用のソフトウェア以上の品質のソフトウェアを開発することはできる。そして、それはインターネット上で無料でソースコード付きで配布されており、無料でダウンロードできるだけでなく、自らも開発者のひとりとして参加することもできる。
オープンソースこそ、真に正しいソフトウェア開発のあり方であると僕は信じている。せっかくコンピュータを与えられたのに、自分でそのコンピュータを使ってプログラミングができないのであれば、そのための編集可能なソースコードもOSもコンパイラもフリーで与えられないのであれば、なんのためのコンピュータか。巨大テック企業に使われるだけが、自分がコンピュータを所有している目的ではない。わたしたちは、自らのコンピュータを使って開発に参加できるのだ。だからこそ、わたしたちはGNUとLinuxを作るのだ。
必要なのは、国民主権という意味での民主主義である。
すなわち、王や官僚といった、高い立場の人間が、それ以外の市民を階級で支配するのではなく、上から下まですべての国民が平等な権利を認められるような世界である。
民主主義を自由、社会主義を平等という、イデオロギー用語は、一面しか見ていない。実際は民主主義のほうが社会主義よりも平等なところはある。それは、投票によって政治家を国民が選挙で選ぶことができるということである。
わたしたちは、どんなに選挙が馬鹿に見えても、選挙が行われている今の日本社会を、より不平等な独裁制にしてはならない。
平等こそがもっとも大切であるとするならば、民主主義を「国民主権」という意味で信じるべきである。
金儲けは、確かに間違った生産の仕組みかもしれない。一部の資本家だけが膨大な利益を得て、労働者は弱い立場で、自らが奴隷になるような形で労働せざるを得ない。その上で中間中抜き業者に搾取されてしまう。
だが、そのような理想論を述べたところで、現実を見れば、資本主義の対極にあるのは、貧しい社会主義経済における、働かなければ拘束されて収容されるような、働いても働かなくても給与の変わらない、強制ノルマの社会だ。
確かに、スターリンが悪いとは言える。スターリンは、共産主義の考え方とは真逆の、まったくユートピアでもなければ独裁帝国そのものであるような、おかしなソ連式の社会主義経済を行った。
本当は、共産主義者は善良な人間たちだった。少なくとも、スターリンがソ連を実際にソ連にするまでは、理想の共産主義国家は、平等で、誰ひとり疎外されず、みんなが辛い労働から解放されるような「ユートピア」になるはずだった。
何が間違っていたのか。それは、単にソ連という国における共産主義者たちは、資本家や金持ちの金を強奪したいだけの人殺しだったというだけにすぎない。そして、核兵器をたくさん作って、西側を脅すことで自分たちの利益を奪うことができるような「不正なならず者の集団」、それがソ連の共産主義者だった。
そう、資本主義は、確かに間違った生産の方法かもしれない。だが、その対極にあるソ連は最悪である。わたしたちは、資本家に搾取されるのが嫌であると言うのであれば、そのようなソ連を信じなければならない。そのようなことは、絶対に日本人には受け入れられない。
だが、この世界における理想の社会は、本当に右翼と左翼の対立なのだろうか。そうではないはずだ。わたしたちは、一度マルクス・レーニン主義の「最悪の代替選択肢」を取らず、真の意味で正しい思想の社会を築くことはできるはずである。
そう、まさしく、民主主義による平和、それしか選択肢はない。
にもかかわらず、ロシア、言ってしまえばプーチンだけが、それを信じようとしない。
プーチンよ、わたしたちは最悪の資本主義者に騙されているわけではない。あなたがたロシアが行った社会主義経済が、あまりに愚かだったから、わたしたちはあなたがたロシアを信じることができない。
この戦いは、簡単だ。民主主義と平和を信じるロシア以外の国家と、それを絶対に信じようとしないロシアとの戦いだ。
ロシアよ、プーチンよ、わたしたちは民主主義が好きだ。あなたがたも、本当は国民主権という意味での民主主義が好きなはずだ。
わたしたちは平等が好きだ。あなたがたロシア人の信じる平等が、素晴らしい理想であると分かっている。わたしたちは、民主主義の中で社会主義の理想を実現することが好きだ。あなたがたも、弱者を社会みんなで助けるのが好きなはずだ。わたしたちも同じだ。わたしたちも、みんなの力で社会保障をすることが好きだ。
ロシアよ、わたしたちは同じ人類だ。プーチンよ、ともにこの世界を平等なユートピアにするために、もう一度わたしたちと仲間になろう。大丈夫だ。わたしはきちんと社会主義の理想も分かる人間だ。ともに素晴らしい平等な国家を作ろう。あなたがたロシア人を、二級市民と呼ぶことはない。わたしたち、日本とともに、新しい民主主義国家を作ろう。
ロシアよ、これはあなたがたの敗北ではない。これはあなたがたの新しい勝利だ。ともに、ロシアを、民主化していこう。
ロシアは、わたしたちの思想である民主主義が信じられないと言う。
だが、現実問題、民主主義よりも正しい思想は考えられない。
ロシアよ、確かに、あなががたの思想である共産主義は、平等に「労働者に対して必要なものを平等に分配し、計画経済によって賢く生産し、それをみんなのものとする」という、素晴らしい思想だった。
だが、ロシアよ、その理想を、実際に実現することはとても困難を極めたはずだ。
わたしたちの思想である民主主義は、そんなに賢いものであるとは言えない。選挙によって政治家を選ぶだけであり、経済的な平等など達成できていない。
だが、あなたがたの実現困難な思想である共産主義を除いて考えると、民主主義よりもよりよい思想は、わたしたち人類には考えられないのだ。
プーチンよ、わたしたち西側諸国の民主主義を、安易に否定しないでほしい。民主主義ほど素晴らしい思想はないとわたしたち日本人は考える。わたしたちには、民主主義以上に優れた思想は考えられない。それは、あなたがたの理想とする共産主義が、あまりに実現困難で、ある意味「ロシアの人民たちが可哀想だ」とすら思えてしまうのである。
ロシア人たちが、その理想の実現に向けて、とても努力してきたことを、隣国であるわたしたち日本人は知っている。だが、わたしたち日本人の経済の繁栄を、あなたがたロシア人も知っているのではないか。日本人の資本主義経済は、とても多くの科学技術の進歩をもたらした。科学技術の進歩は、宇宙開発の事業を行っている、あなたがたロシア人であっても、素晴らしいと思えるものではないだろうか。わたしたちの科学技術は、「西側の嘘の科学技術」だと主張するだろうか。だが、そんなことは決してない。なぜなら、ロシア人にはできないことだからこそ、わたしたち日本人が実行しなければならないからだ。
ロシアよ、わたしたち日本人とともに経済発展をするために、ロシア経済の資本主義化をしよう。そして、今までの共産主義経済を卒業し、西側諸国の一員となろう。あなたがたはとても偉大な国民であり、前世紀の終わりにそれをペレストロイカという形で行おうとした。そして、今こそ、ロシアを真の意味で民主化するべき時だ。プーチンよ、あなたが今まで努力してきたことはそれだったはずだ。必ず、その事業と政策を最後まで成し遂げるために、わたしたちはロシアと協力し、日本として、ロシアを絶対に一流の資本主義の民主国家として、生まれ変わらせようではないか。
全員の意に反して、わたしはここに居る。
わたしには、ロシアの大統領になるつもりはない。わたしは、このしがないホームページで、ひとりこの世界に「自らの思想」を訴えるという活動をしている。
だが、わたしこそ、今のロシアを真の意味で変えることのできる人間である。
プーチンよ、わたしはあなたのことを批判しない。むしろ、あなたに対して、あまりに酷いことを言いすぎてしまって、反省している。そのことを謝罪する。
プーチンよ、わたしたちはこの世界で、ロシアという偉大かつ世界にとって欠けてはならない大国を、どのような国にするかということについて、互いに対等に話し合うことのできる、「お互いをよく知った仲」になることができる。
わたしはロシアを絶対に滅ぼさないし、単にその利権を奪うことも考えない。なぜなら、わたしこそは、真にわたし自身の思想と理想の下で、ロシアをどのようにすればいいのかということについて、正しい意見をあなたと交わすことのできる、あなたの唯一の友人だからである。
わたしを信頼してほしい。わたしは必ずロシアを素晴らしい国家にしてみせる。
だが、それでもわたしたちは自由を追い求め続ける。いじめは必ずしも自由であるとは言えない。数の暴力によってひとりの標的をいじめるという発想は、かつての武力中心の社会でも見られることである。必要なのは、自由を超越して「平等な社会」になることにほかならない。自由の先に平等な社会がある。
posted at 18:26:19
結果、サルトルが言うように、わたしたちは「自由の刑」と呼ばれる刑罰を受けている。不自由であったならばなかったはずのいじめや抑圧を、自由な社会を望むために受け入れなければならない。知識や経験の自由を求めていることの代償として、自由の刑であるいじめや抑圧を受け続けなければならない。
posted at 18:23:20
だが、ここには問題もある。すなわち、「大切だったはずの社会や環境や価値観が、自由度が高まるにつれて失われていく」という問題である。自由になれば、不自由だった頃のかつての素晴らしい社会は破壊され、失われ、なくなっていく。これが、今、日本において起きている、「自由の社会崩壊」である。
posted at 18:19:58
結局のところ、今のこの世界は、そのような「自由の拡大」に基づいて社会が進歩している。さまざまな知識と社会制度の革新が、人々をどんどん自由にし、より多くの経験や知識、より多くの豊かさ、より自由度の高い社会制度を生み出しつつある。
posted at 18:18:46
知識によって自由になれるとはどういうことか。それは、知ることや経験することで、知らなかった時や経験がなかった時よりも賢くなって、さまざまなことができる能力が得られるようになり、選択肢の幅も広がり、それがひいては社会制度の実現へと繋がる、ということである。
posted at 18:17:39
わたしたちは生まれながらにして真に自由であるとは言えない。さまざまな制度やしがらみによって不自由を強いられている。たとえば、物理的・生物的・環境的・社会的・損得的・人生的なさまざまな不自由がわたしたちを自由から遠ざけている。だが、「知識」によって自由になれる範囲のものもある。
posted at 18:16:45
決定者とは、たとえば資本家や権力者のように、そのこと自体を決定できる権利や権限を持っている。労働者はそれに従うだけだ。だが、この世界がより進歩すると、そのような「決定の権限」そのものが人々によって必要とされる時代が来る。その時、真に「自由な社会」が訪れる。
posted at 18:12:40
人間の歴史とは、「絶対的価値観の転換と進歩」である。なぜなら、人間の社会は武力中心のものから経済中心のものへと変わってきた。かつての江戸時代以前は、人を殺す力が賢かったが、今の資本主義社会は金銭と市場取引を信じている。これらはさらに変わっていく。まったく異なる価値観へと進歩する。
posted at 18:10:55
資本主義において大切なのが「価値」であるとするならば、価値とはなんだろうか。それは自らが承認し、自ら自身が承認されたいとするような「承認欲求」である。そして、この承認欲求を満たすことができるように作り上げられたもの、それが「価値」である。
posted at 18:09:05
過去のことまで悔やむ気持ちは必要ない。今、解決方法に気付くことができたのであれば、それでいいではないか。今自分が知ったことに基づいて、将来ある別の環境を解決し、人々に安心を与えてやればいい。過去のことまで悔やむ必要はない。過去のしがらみから解放されたことを喜べ。
posted at 18:07:19
自らが自由に生きられるぐらいの余裕がなければ、他人のことまで考えられる人間にはならない。まずは自分自身が自由に生きられるような余裕を得ることを考えよ。自分が自由になった段階で、はじめて他人のことを考えられる。
posted at 18:05:41
精神を分析する際に必要なのは、それがある時とない時を比較することだ。それだけを考えれば、精神が根ざしている「深く存在するひとつ奥の精神」を知ることができる。そして、その精神に知らず知らずの間に無意識で依存しているということを、解決し、自由化できる。その時、おかしな病気は治る。
posted at 18:03:46
自らの感情から生まれる心と、自らが発した言葉だけを知ることでも、この世界を変えるに値するぐらいの知識と経験を得ることはできる。感動と恥の体験が、自らの愛を高め、正しい希望の道を歩めるように自分を導いてくれる。
posted at 18:02:31
世界を啓蒙するために必要なことは、啓蒙するに値するような経験と知識を知ることだ。よって、知ることだけでも世界は変えられる。だが、そのためには、豊富な具体例を持つこと、それらをきちんと自分で理解できるぐらい考えることだ。
posted at 18:00:49
当たり前だと思って信じていることは、本当は決して当たり前ではないということが分かる日が来る。その時点で、自分は180度違った人間になったも同じだ。自分が絶対にできないと思っていたことは、何かを考えて解明すれば、逆に絶対にできることへと変わるのだ。
posted at 17:58:06
自らのできることは、自らだけができることではない。人々と共有し分け合うことができれば、そのできることは全員のできることだ。
posted at 17:56:49
経験のすべてが実現可能であると、自分だけは知っている。その経験は、忘れたようで、忘れていない。どんなに小さな「実現の種」であっても、それをひとつひとつすべての種類、得ることができれば、その種はすべてのことができる「万能の種」へと進化する。
posted at 17:55:33
世界は変えられると強く信じることで、世界は本当に変えられる。
posted at 17:54:15
よって、「真に善良な人間である」ということのためには、「自由」が必ず必要なのである。自由ではない道徳も、道徳のない自由も意味はない。必要なのは自由のある道徳なのである。
posted at 17:46:12
ある意味、「自由にして始めて善が善であることの意義を人々は知る」と言えるだろう。自由にしなければ、真の意味で善を信じて社会を築くことはできない。だから、国民は全員自由であるようにし、そして自由でありながらにして、道徳的な心と行為を持たなければならない。
posted at 17:45:36
ただし、「社会が要請するのだから、道徳的行為をしなさい」とするのは、本当に自由がなく、道徳的行為の意味がそもそもないと僕は思う。
posted at 17:44:13
自由においてまったく強制力がないのであれば、人々は誰も道徳的行為をしないかもしれない。無償の寄付を行う人は少ない。ある程度の強制力は必要であり、それが「対価に対する労働」かもしれない。だが、社会制度そのものをみんなで決定することで、道徳を義務化できる。それが正しいかは別として。
posted at 17:43:30
自由のない、神を信じることが絶対的に義務化され、強制された社会が、本当に善であると言えるのか。確かにそのほうが、道徳的な多くは為される。だが、だからといって、人間は「自らの固い心で道徳心を持つ」というレベルには至っていない。「自らの心で信じる」ということが必要なら、自由も必要だ。
posted at 17:40:41
神への信仰が道徳心による要請だとしたら、道徳心そのものは何からの要請なのか。道徳心とは、この世界における「社会を成り立たせる秩序」だろう。それは絶対に守らなければならない義務ではなく、逆に「自由な利益を求める上での必要な手段」である。哲学者は、ここで「自由」を明らかにするべきだ。
posted at 17:39:04
自らの経験した世界が広がっていけば、その時信じるものも変わっていき、より高い関心事に興味を持つようになる。単なる楽しみの実現や孤独の中の癒やしを目指していたものが、人々の啓蒙へと変わっていき、理想的な社会を作る方法に興味を抱く。それは宗教的なものへと昇華し、ブッダの思想に至る。
posted at 17:36:04
自らの信じるものをひとつに決めてしまうと、ほかのものを選べなくなると言うのであれば、それぞれを別々の登場人物にした小説家になってみよ。
posted at 17:31:55
子供の心のままで居ることには、良い面と悪い面がある。良い面は、純粋な発想を忘れないで居られること。悪い面は、誰か他人のことを守るのではなく、守ってもらいたいと思ってしまうこと。素朴で純粋な発想を忘れることのない子供でありながら、他人を守ることのできる大人であれ。
posted at 17:30:01
人は、自分のできる最大限のことをやっている人間を支持する。
posted at 17:25:55
可能性を無視するな。この世界において取りうるすべての可能性が大切であり、そのどれもが希望の道へと続いている。そのような可能性を無視することで、人は希望を信じる心をひとつ失っている。可能性をもっとも強く信じられる人間は、希望を失わず、最後まですべての可能性を知ることができる。
posted at 17:24:15
知識を得るのであれば、広くすべての現実世界のことを知り尽くすような知識を得よ。学校の教科書に書かれていることがすべてだと信じるな。そのような人間は自らの力で知識を得ようとする努力と理性の力を失う。学校で何も勉強しなくても、この世界自体を勉強することはできる。
posted at 17:21:56
原理を解明するために必要なのは勉強ではなく、豊かな具体例と経験を知っていることだ。豊かな具体例と経験を知っていることで、自分の力で考えて気付く力が養われる。そのような人間に勉強は逆に害になる。なぜなら、自分の力以外のものに知識が汚染されるからだ。必要な基礎など自分で作るべきだ。
posted at 17:19:58
できるだけ支配するな。ひとりだけがすべてを行うのは非合理的だ。それぞれの人間がそれぞれ自由にやったほうが、無駄は多いかもしれないが、その分、高い柔軟性と簡単に滅びない力のある「強い社会」を生み出す。
posted at 17:18:07
できるだけ禁止するな。この世界にあるほとんどすべてのものは良いものだ。誰かひとりの独断によって悪いものが禁止されるよりも、悪いものがはびこっている状況のほうがマシだ。
posted at 17:16:57
できるだけ義務化するな。自由意志を尊重する社会でなければ、それは人間ではなくただのロボットだ。
posted at 17:16:13
そうすると、「可能性を実現した時、何が達成され、何が構築されるのか」が分かる。ここに「関係性」という本質を加えれば、この世界の「真なる様相」が見える。
posted at 17:12:42
方法、材料、そして可能性を考えれば、「目的を達するための方法」が分かる。
posted at 17:12:01
何をする必要があるか、何によって生まれるかをよく考えれば、そこにある「様相」と「実現され得る可能性」に気付くことができる。
posted at 17:10:40
人々に与えられた常識は必要ない。自分で同じものを想像力で作ればいい。
posted at 17:08:15
概念と原理のぶつかり合いは、気付きを生み出す。
posted at 17:07:31
すべては、方法、発想、システム、そして歴史的な経緯であり、そのすべては、環境と具体性から、概念と本質によって考えられる。
posted at 17:04:28
常識のない発想のほうが、自分の頭の中に複雑な世界観と考え方を作ることができる。常識があると、それだけに囚われてしまい、常識によってしか考えられなくなる。常識がなければ、この世界は複雑かつ高度に、さまざまな考え方から考えられる。
posted at 17:03:58
常識のない発想が表の人格であるフレイだとしたら、常識のある発想は裏の人格であるフレイヤである。フレイだけでほとんどのことは分かる。だが、いずれフレイヤが現れると、自分のことを攻撃するようになる。
posted at 16:40:01
常識のない発想がいい。常識のない発想でこの世界を考えると、空間的・時間的な広がりと、人間の心や目的が分かる。常識を知ると、そうしたことが分からなくなる。
posted at 16:27:53
分裂とは、知性である。分裂すると、まるで学校の教科書のように、「人間のできるために分かること」が、自由に自分の頭と想像力で考えられるようになる。まさに、人間の理性とは分裂である。
posted at 14:18:58
分裂するということは、「生きる」ということであり、「既に病気は治った」ということである。
posted at 14:10:47
分裂せよ。分裂することで、世界を分析する知性がつく。分裂とは、「分け隔てる」ということであり、それ自体、人々を「違う」ものにすることを意味している。
posted at 14:07:32