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2022-11-21

僕は、日本のことを考える上で重要なのは、「人々が何ができて何ができないのか」ということを考えることだと思う。

人間が生きる上で必要なのは、本当はまず第一にお金である。

僕だって、できることなら、仕事なんかせずに、自由に生きていきたい。その理由は、仕事をしなければならない時点で、不自由になってしまい、自由なことができなくなってしまうからである。

毎日8時間のフルタイムの労働をするならば、生活の中心がその仕事をすることになってしまう。仕事をするために生きていることになり、ほかのことはできなくなってしまう。

だが、この世界のことを真に考えるため、あるいは科学や芸術といった知的活動を行うためには、そのような仕事から自由にならなければ、実質的にできない。

かつての古代ギリシャや古代ローマならば、奴隷をこき使うことで自由市民は自由な知的活動を行うことができただろうが、現代ではそのようなことはできない。

生きるためには、お金を稼がなければならない。

この世界において、仕事をしている人間は、まずプレイヤーとして不利な立場に居る。確かに、金があって多くのものを手に入れることはできるだろうが、その代わり自由がない。金があっても、自分の自由なことができないのであれば、それは真に恵まれているとは言えない。

大学に入るとか、結婚するとかで、お金を多く使うことがあるだろう成功者は、さらに不利な立場に居る。僕は大学にも入らず、結婚もしなかったため、生活のためのお金には困っていない。だから、フルタイムの労働をせず、福祉施設でいくらか働くだけでも楽に生きられる。それでも、何もせずに生きるということはできない。それは世間体などもあるからである。ニートや引きこもりの生活をいつまでも続けるということは、社会的な信用を失い、まともな人間であると見なされないだろう。

よって、この世界の人々は、資本主義経済で仕事をしている時点で、決して自由であるとは言えない。自由主義はもっとも自由の少ない主義だ。

だが、国家を成り立たせるためには、仕事をある程度する人間が居なければならないのであり、かつてのギリシャ・ローマのように奴隷を使うという方法は現代社会の人権擁護主義から見れば考えられない。奴隷に人権を認めなければ、楽な社会にはなるかもしれないが、いつ失敗する分からないその社会では、自らが奴隷になるというリスクも存在する。たとえば、古代の帝国同士の戦争で、戦いに負けて捕虜になった人間は奴隷として売られる。そのような「奴隷になるリスク」が、逆に兵士たちの「負けて奴隷になりたくない」という戦意を高めるというメリットはあるかもしれないが、はっきり言ってそのような「人権無視の帝国」は今から言えば考えられない。だが、ギリシャやローマの知識人は、そのような人権無視の奴隷制度があったからこそ、哲学者になることができたのだ。

政治家も国民もお金のことしか考えていない

また、現代の民主主義において、政治家も国民も、お金のことしか考えていない。

ネットのニュース記事を見ていても、補正予算が決まったという記事には、お金に関するコメントが多くつく。バラマキは意味がないとか、中身がスカスカであるとか、増税をやめろとか、あるいは国債は借金なのかそうではないのかといったことなどのコメントがつく。補正予算の記事だから、そのようなコメントが多くついて正しいのだが、いかに、お金の内容がそのまま政治の評論であるということがよく分かる。政治家はお金のことしか考えていないのであり、国民はそれをお金の問題であるとしか評価したり批判したりできない。

だが、この今の民主主義社会において、本当にお金のことだけがすべてであると言えるだろうか。

民主主義社会において考えるべきことは、お金のことだけではないと思う。この世界のすべてがお金という唯一の元素でできているとしたらそれでいいかもしれないが、実際はそうではない。お金というものは、民主主義社会においては一部に過ぎない。本当はもっと別のことも考えなければならないのに、大人たちはお金のことしか考えていない。

僕は学校とマスコミとSNSが嫌い

僕は、学校とマスコミとSNSが嫌いだ。

特に、中学校以降の学校教育のやり方と、学校の教育環境、マスコミのCMやお笑い芸人を始めとする品のない放送内容、そしてインターネットの基本を「フォロー」という友達付き合いにしてしまったツイッターが嫌いである。

中学校以降の学校を、僕は嫌う。中学校以降の学校の教育方針は間違っている。子供たちをロボットにして、試験勉強という単語の暗記と問題の解き方の習得に終始する教育内容は大嫌いだし、同時に学校の子供たちが強制してくる「友達をからかったりいじめたりして笑いものにする」という学校環境が大嫌いだ。

そして、そのようなからかいやいじめの元凶は、マスコミ、すなわちテレビのCMやお笑い芸人の「嘲ることで笑うことを楽しむ」という放送コンテンツにあると僕は思う。

決して、芸能人やタレントは、自分の意志で出演内容を決めているわけではないだろう。ディレクターの決定や台本もあるだろうし、芸能事務所に「このようなことをしなければ有名にならないからやってこい」と言われることもあるだろう。

だが、今のテレビやマスコミの放送コンテンツは、絶対に間違っている。テレビというメディアはこの世界において最悪のメディアである。

そして、僕はかつての昔のインターネットは好きだったが、今のインターネットは大嫌いだ。SNSは外国ではソーシャルメディアであると言われるが、外国人は決まって「ソーシャルメディアは最悪だ」とばかり言う。その通りで、SNSはあまりに最悪のコンテンツが多い。デマやフェイクだけではなく、多数が数の力で個人攻撃をしたり、みんなで誰かをいじめたりという「SNSいじめ」が昔から言われているが、僕はもっと基本的なところで、SNSは間違っていると思う。

SNSの問題は、僕は「フォローという考え方を普通にした」ということにあると思う。フォローによって友達を作るという発想は、悪くない発想であると思われるかもしれないが、実際はフォローされる人間はフォローされない人間よりもはるかに少なく、希少だ。だが、少し有名人になって知名度があると、逆にどうでもいい人間であるにもかかわらず大量にフォローされるようになる。その結果、「フォローされる人間とフォローされない人間の格差と壁」が生まれてしまう。フォローされない人間はツイッターの本当の楽しみを享受できず、ただただフォローされる人間の「支持者」であると位置づけられる。だが、フォローされる人間は決して貴族のような特別な立場ではなく、人々に批判される心配を抱えながら活動を途中でやめることができない。かつては自由で平等であったずのインターネットが、「フォロー」という仕組みによって不自由かつ不平等になってしまっている。まるで理想の自由なローマ帝国が中世の暗愚な封建社会に戻ってしまったように、かつての理想の自由はインターネットはツイッターやSNSの「フォロー」によって最悪の世界になってしまったのである。

このことを、結局僕がフォロワーにフォローされるほどの知名度がないのが悪いと言われれば、確かにそれで正しい。僕ももっとフォロワーが欲しいといつも思っているし、それが得られないのは力不足であると分かっている。同時に、フォロワーがたくさん居てそれらのフォロワーとの交流が楽しいという「親SNS派」もたくさん居る。だが、僕はインターネットはフォローを中心としたSNS社会になるべきではなかったと思う。フォローという考え方は、インターネット社会に対して、害悪しかもたらしていない。かつてのインターネットの、受け入れることは原則自由で去るものは追わない「優しい平等なみんなの掲示板」であった時代のほうが、僕ははるかに好きだった。確かに、2ちゃんねるというアングラな匿名掲示板が、ツイッターやFacebookの「実名あるいはアカウントによるメディア」になったということが、まともで正しいインターネットに変わったと考える人は多いだろう。だが、僕はそうは思わない。真に楽しかったのは匿名のほうであり、真にインターネットの価値を体現していたのはいつもの掲示板のほうである。僕はかつての掲示板を作るためならばPerl/CGIを今でも学ぶだろうが、今のSNSを作るためにRuby on Railsを果たして学ぶ気になるだろうか。「SNSのような最悪のサービスは作りたくない」と判断し、僕はプログラミングの学習をすることはないだろう。

よって、僕は学校とマスコミとSNSが大嫌いだ。この信念は簡単には変わらない。いくら人々に批判的意見を証明されようと、理性や言論では、僕の心を簡単に変えることはできないだろう。

YouTubeが流行って、メタバースが流行らないのは、仮想現実よりも現実世界のほうが楽しいとみんな分かっているから

僕は、YouTubeがこれほど流行っているのに、メタバースは一向に流行るように見えないのは、みんなが仮想現実よりも現実世界のほうが楽しいと、分かっているからだと思う。

YouTubeによる動画配信が流行っているのは、再生回数に応じてお金が入るというだけの理由ではない。

みんな、文字やテキストによるコミュニケーションだけではなく、現実世界でのコミュニケーションがしたいのである。

そのため、現実世界により近いYouTubeの動画配信が、インターネットの大きな勢力になりつつある。

僕はSNSは嫌いだが、例外的にYouTubeだけは好きだ。なぜなら、僕はYouTuberの歌手や素人歌手の視聴者として仲良くしているからである。

そういうわけで、僕はメタバースを推進しようとするメタのような新しい勢力が、いくらVR機器を安く作ったところで、インターネットテキストコミュニケーションの次のインターネット動画コミュニケーションの次はインターネット仮想現実コミュニケーションだ、という風には簡単にはならないと思う。人々は仮想現実でみんなアニメキャラになって一堂に会するような技術は望んでいない。人々はより現実世界に近い世界を望んでいるのであり、それに気付かないならば、メタやその他のメタバース推進企業には未来はないだろう。

昔のこの世界はもっと優しい世界だった

また、僕が思うのは、「昔のこの世界はもっと優しい世界だった」ということである。

どんなに弱くて馬鹿な人間であっても、その人間のことをひとりの人間であると尊重し、原則自由かつ原則平等にその人間のことを受け入れる、という考え方が、昔のこの日本という社会にはあった。

それが、SNSと最近の学校環境のせいで、「みんなから外れたものは要らない人間」であると冷たく突き放すようになった。「みんなから嫌われるのはその人間が悪い」とし、「嫌われた人間はそれなりの相応の生き方をせよ」という感じになって、みんなから排除されたものはどうでもいいと冷たく突き放すようになってきたと思う。

ただし、このような「冷たくなっていく日本社会」は、今に始まったことではない。昔の昭和・平成の時代であっても、同じように「昔はよかった」と言われた。昔の日本に戻れば戻るほど、愚か者に優しい社会になっていく。

だが、本当に昔はよかったと思うのは幻想に過ぎないのか。それは本当は違う。僕がこの世界を見ていると、むしろ、昔は優しかった代わり、荒くれたものや馬鹿なものも今よりも多かった。今よりも不良は悪かったし、おかしな左翼のニートや引きこもりはインターネットにもどこにもたくさん居た。そして、そのように荒くれていたからこそ、同じような境遇にある仲間に対しては優しかった。

今の日本は、あまりに均一化され、画一化されている。平等に不自由にしてしまえば、戦いや争いは起きないかもしれないが、排除されるものに対してはみんな厳しい立場を取るようになっていく。ある意味、アメリカの荒くれた自由な社会のほうが、ソ連の画一的な共同体よりも、はるかにコミュニティとして優しい。敵には厳しくとも、味方には優しいのが自由な社会だ。

僕は、そのようなかつての画一化されていない自由な社会を、日本がもう一度取り戻してほしいと思う。ひとりの独裁者が全員を均一化するような社会は間違っている。どんなに荒くれていて悪いものが多いからといって、自由な社会を不自由な管理社会にしてはならない。本当は、これは批判ではなく、自分の人生に対する反省点でもある。僕は本当はそのような自由が好きだったのである。