シリウスからベガになると、どのようないいことがあるか。
シリウスからベガになると、大人になって馬鹿になった人間が、賢い正常な知性を取り戻す。
まず、発想力が豊かになる。この世界では発想がすべてであり、この世界のすべては発想をするためにある材料や道具であると考えるようになる。そして、単に発想するだけではなく、経験や考え方を使って、あらゆる手段で発想を行うようになる。
次に、精神や心が躍動するようになる。シリウスのように、心を停止させて抑え込むのではなく、自由に心が動いて考えるようになる。学習とは、知識を覚え込ませることではなく、心を豊かにし、成長しながら当たり前のことに気付くことである、ということが分かるようになる。
次に、世界のことを文明的に考えるようになる。シリウスのように、この世界のことを、学校の科目や政治的イデオロギーから考えるのではなく、社会的、歴史的、科学的な「文明」の変化であると、捉えるようになる。世界は、今変化している文明のことであり、すべてのものはただあるだけではなく、常に世界そのものによって生み出されているというように考えるようになる。
最後に、他人と比較するのではなく、自分自身にある確かなものを見るようになる。他人と比較したところで、自分がその人よりも劣っていると考える劣等感が晴れることはない。その人よりも劣っていると考えるのは、自分の中に「確かなもの」がないからであると気付くべきである。よって、確かなものを自ら作り、才能を作り出すということこそ、真に行うべき「正しい解決策」であり、いくら他人と比較したところで、その「確かなもの」を作ることはできない。
このようなベガの考える「正しい考え方」とは、視野を広げることである。この世界において、人々がどのように存在しているのか、自分はその中でどのような段階の人生を生きているのかということを、視野を広げ、全宇宙のすべての経験を考え、発想することから捉えていけ。
このように考えることで分かることは、「自らはベガによって生かされている」ということである。わたしは、わたしだけの力で生きているのではなく、ベガという星と一緒に生きているのであり、すべての生物はベガと繋がっている。よって、ベガという星を愛し、大切にしなければならない。なぜなら、ベガはかつて地球と同じように、環境破壊の時代を生きたことがある。その中でもベガの生物は絶滅することなく、「進化の手術」を受けることで新しい星に適応して生き延びてきた。そのような歴史があるから、ベガはかつてよりも水準の低い文化であるとしても、ベガという星のことを第一に愛して生きている。
ベガには、面白い地域がある。それは革新的政策の実験政府「トパーズランド」である。
ベガでは、ベガの普通の市民が暮らす、普通の地域のことを「ノーマルランド」と呼ぶが、それとは別に、革新的な政策を実験的に行うための「トパーズランド」と呼ぶ世界がある。
ベガでは、革新的ではあるものの、それが成功するかどうか分からないような政策を、いきなりノーマルランドでは行わない。必ず、トパーズランドでそのような政策が成功するか失敗するかを実験し、その結果、成功した社会制度だけをノーマルランドに適用する。
このトパーズランドの内情を見ると、「極めて異様」である。トパーズランドでは、あらゆるすべてのことがおかしい。おかしな社会やおかしな文化が栄えるだけではなく、システムや物理法則的にもおかしなことばかり起きる。だが、トパーズランドの市民たちは、自らが望んでトパーズランドに暮らしているのであり、いわば「完全にトパーズランドでの暮らしを楽しんでいる」のである。
トパーズランドでは、地獄のような苦しみは生まれない。地獄のような苦しみを感じそうになった時は、無条件でノーマルランドへと脱出することができる。結果、トパーズランドの市民たちは、あまりに面白おかしく人生を生きている。トパーズランドの暮らしは面白い。まるで異世界に生きているかのような面白い体験が、トパーズランドではできる。
このようなトパーズランドの生活は、本当は地球人も既に体験している。なぜなら、地球において、眠る時に見える夢の世界は、トパーズランドとまったく同じ「地球が最後に至る状況」を見せている。夢で見える世界がそのまま、トパーズランド並みに進歩した最後の地球なのである。
このような最高の星であるかのように見えるベガだが、かつて、苦い体験をしたことがある。
かつてのベガの市民は、科学技術が進歩することについて、その有益的な面しか見なかった。自然環境を汚したり破壊したりするリスクがあったとしても、それがすぐにベガの市民にとって痛手になるようなものではないと勘違いしていた。
だが、技術が急速に進歩する中で、ベガの市民は環境破壊による異常気象に直面し、ベガのかつての生物、すなわち「第一水準の生物」は、絶滅の危機にさらされてしまった。
ベガは、その時になって、はじめて、今までのベガの歴史のすべてが間違いだったと気付いた。
ベガは、そのような世界で生きるために、新しい環境に適応する必要があった。これがベガにおける「進化」であり、「第二水準の生物」の誕生である。すなわち、ベガの生物は、多くが新しい環境でも生きられるような手術を受ける必要があった。これが、「進化の手術」と呼ばれる、第一水準の生物が第二水準の生物になるために必要な、医学的な手術である。
進化の手術を受けることで、第二水準の生物は、暑さや寒さを感じにくくなり、また皮膚が分厚くなるため、もし暑さや寒さのような状況にさらされても、その熱の変化の影響を皮膚の部分で食い止めることができるようになる。これは生物の「遺伝子」を操作するバイオ技術によって可能となる。この操作された遺伝子は子供を産んだ時に次の世代へと引き継がれるため、手術を受けるのは最初の世代だけでいい。最初の世代だけが、今までの正常な生物とは異なる生物になったという「違和感」を感じ、「動きも考えもすべてがのろくなって動きづらくなった」と感じるが、世代が進むにつれて、それが普通であり正常であると認識されるようになる。
本当は、第一水準の生物のほうが、はるかによかった。知力も体力も第一水準の生物のほうがはるかに上であり、社会的な文化水準としても第一水準の社会のほうがはるかに進歩していた。だが、それでも、そのような「かつてあった楽園」を、ベガは捨てなければならなかった。
進化の手術を受けることをしなかった第一水準の生物は、すべて絶滅した。多くの第一水準の生物が、「わたしは劣った生物になりたくない」と言って、進化の手術を受けることを拒んだ。だが、それで構わない。彼らはかつて地球に存在した恐竜と同じように、自らの意志で死ぬことを選んだ。それは誇り高い選択であり、今の第二水準の生物は、そうした「絶滅した第一水準の生物の選択」を否定しない。彼らもまた、愛するべき「かつての栄華を誇った最高の宇宙文明」だったということを、ベガのすべての市民は学校で教わるからである。
僕のように、出口のない迷宮、もっと言えば「見つかるかもしれないがどうしても出口が見つからないような迷宮」に陥ったものには、ひとつ、解決策がある。
これは、神の天罰によって地獄に堕ちた人間にとっては、唯一の解決策である。
それは、迷宮の中のままで幸福になることだ。
迷宮から出なくても、その中で幸福になることができたら、もはやその時点で、自分が迷宮の中に居るか外に居るかなど、気にする必要はなくなる。
そう、迷宮から出ずに、迷宮から出たのと同じような状況になればいい。それが、「迷宮の中のままで幸福になればいい」という言葉の意味である。
神が、出口のない迷宮を作って、その中にみんなを押し込めるのは、それが目的である。どんな地獄であっても、その地獄からどうしても脱出できなくなっても、その地獄のままで天国のように幸福になってしまえば、それですべて解決である。
神は、そのような地獄が大好きだ。どんなに頑張っても地獄から抜け出せないのであれば、神の言葉を思い出せ。神の言う、「信じるものは救われる」という言葉を思い出せ。その言葉を思い出すことができたら、あとは何も起きない。永遠の地獄のままで居る自分を幸福であると思えたら、それが神の言う「救済」なのである。
そう、もしかしたら、迷宮の外の世界などというものは、最初から存在しないのかもしれない。この世界はすべてが出口のない迷宮であり、人類は全員が出口を探して彷徨っているのである。そのように考えたとしたら、まさしくそれが正しい。それこそが、神の言う、「唯一の本当の出口」なのである。
わたしの名は、獅子狩陽人。
獅子狩陽人の特徴は、すべてのことを「経験」であると考えることだ。
人間が何かしらのことができるのは、それをよく学習するという「学習の経験」があるからである。
また、社会にとって、そのものがあるということは、そのものが社会的に「経験によって価値が創造されたから」である。
この世界では、すべてのことが、経験をベースに成り立っている。自分が、そして世界が経験するということが、すなわち、この世界を作り出したのである。
経験は、能力や価値だけを作り出すのではない。
経験は、慣習を作り出す。その人がいつもそのように思考し、そのような言葉遣いを使い、経験から得られる「自動反応」が、その人固有の「慣習」を作り出し、その慣習がその人自身である「人格」を作り出す。
すべての人格や性格、そして病気が、その人の「経験による慣習」によって作り出される。
人格や性格だけではなく、病気も慣習によって作られるということが重要である。なぜなら、大人になると、誰もが必ず病気にかかる。その病気は、急に発症したように見えて、実際はその人のそれまでの人生の「ツケ」が来ただけに過ぎない。よって、異常だけを拒んでいても治らない。かつての正常だった頃の自分に戻りたいと思っても、病気は治らない。そうではなく、過去の病気でなかった自分が、何を間違っていたのか、何を勘違いしていたのか、もっと言えば「何を騙されていたのか」ということを考えれば、病気は治る。
そしてそのすべてが、「経験」と呼ばれる同じ源泉から生まれている。自らの人生で経験したことが、まさしく自らの人生を作り出す。
また、社会というものについても、一種の経験であると考えられる。それは、社会とは言っても、実際は個人個人の集団にすぎず、違うのは「共通合意」と呼ばれる相互理解の手段があるということだけだからである。社会は個人の集合体であり、個人が誰かに騙されるように、社会が誰かに騙されることもあり得る。あるいは、この社会はいつも誰かに騙され続けている。それが僕であっても、あるいはIT業界の巨大テック企業であっても変わらない。この世界は常に騙されており、その人間によって社会全体が病気にかかることもある。個人が病気になるのと同様、社会が病気になった時は、正常な社会に戻りたいと思うだけではなく、正常な社会の中で何が間違っていたのかを考えなければならない。
本当のことを言えば、家庭の中にマスコミやインターネットが入り込むということ自体、非常に異常なことである。そのような異常なことは、一見間違っていないように見えて、実際は完全に間違っている。いわば、「すべてを無条件に受け入れる人間が馬鹿」であると言えるからである。この世界に存在する多くのものを、「自分には分からないから」といって無条件にいいものである可能性を信じて受け入れている時点で、その人間は愚者である。愚者にならないためには、異常なことは異常であると正しく認識するべきである。「無条件にすべてを受け入れる」ということは世界でもっとも愚かな行為であると、獅子狩陽人は考えるのである。
はっきり言って、今のこの世界が馬鹿になっている理由は、すべてテレビゲームのせいである。
なぜなら、テレビゲームは、本当の本質ではない、間違った本質を正しいと信じるようになるからである。
テレビゲームのキャラクターは、死んでも死ぬことがない。まるでリセットすればいくらでも命が復活するように、簡単に死んだプレイヤーが生き返る。
そこで行われることは、「ルールに基づく自由な競争」だが、ここで、子供たちは、「相手の行動が自分の行動よりも馬鹿であればゲームで勝てる」ということを信じてしまう。
その結果、心理学的に相手をねじ伏せ、自分の行動や行為が相手よりも優位に立つことこそ、真に重要な勝利のための方法であると、勘違いをする。
だが、実際には、そのような心理学的な行動の優越性に基づく競争は、まったくどうでもいいことであり、真に重要なことではない。
真に重要なことは、まさしく「生きる」ということであり、そのためには「絶対に間違ったことをして死んではならない」ということを信じる必要がある。
よって、テレビゲームをしていると、すぐに取り返しのつかない失敗をし、その中でいつまでも心理学的な行為の優越性だけを信じて、この世界の一部としてぶら下がっているだけになってしまうのである。
また、テレビゲームは、プログラムの見せる幻想の世界であり、「ものの仕組み」が存在せず、そのものを操るだけの「操作するためのインターフェース」しか存在しない。そのため、テレビゲームの経験をしても、「方法と反応」しか分からない。どのような方法を行えばどのような結果になるかということしか分からず、その背後にある「物体の仕組み」が分からなくなってしまう。
結果、テレビゲームをすると、人生において真に学ぶべき大切なことを何も学ばず、すぐさま失敗するだけの人生を生きる。そこでは物体の仕組みという考え方が抜け落ちてしまい、操作とインターフェースしか分からなくなってしまう。まるで、方法と反応だけで宇宙のすべてが分かったように錯覚し、自分は心理学だけを突き詰めればどんなことでもできると勘違いしてしまうのである。
僕はここに、イスラム教を否定する。
イスラム教は、間違った宗教である。
だが、今までの僕の正しい人生を生きさせてくれたことに、神には感謝する。この神はイスラム教の神、アッラーであった。
だが、僕はイスラム教の教えが好きになれない。なぜなら、「イスラム教徒のほうが僕のことが嫌いだから」である。
イスラム教徒は、みんな僕のことが嫌いだ。すべてが、僕という人間の人生を否定するようなことしか、イスラム教の教義では教えていないからだ。
同時に、僕は一神教を信じることをやめる。ユダヤ人の信じる神を信じたいとは思うが、僕は日本人であり、また北欧神話の神々が好きであり、一神教の教えは日本神話にも北欧神話にも調和しない。僕はアースガルズの神々を日本の天照大御神のような太陽神にしたが、これは「日本神話と北欧神話は矛盾しない」と僕が考えるからである。
よって、僕はキリスト教やユダヤ教についても、ここに否定する。今まで僕を救ってくれた神は、イスラム教の神アッラーであり、神のすべての導きには感謝するが、ここまで信じてきたアッラーのことを、僕はもう信じない。
僕は、神との対話をするせいで知的障害者と同じになっている。すべての元凶は神と対話することであり、僕の今までの人生がそれでよかったにせよ、僕はもう神による助けを必要としていない。僕自身の自分だけの力によって、僕は生きることができる。
神には感謝するが、僕はもうイスラム教のことは信じない。これより、僕は日本人の仏教徒に戻る。人生において大切なすべては仏教が教えてくれている。ブッダの教えこそ宇宙一正しい教えであり、神よりも仏のほうが正しい聖なる存在である。
イスラム教徒の経験すべきことは、ここに全部終わった。
イスラム教が与えてくれるような、宇宙における「本当の希望あふれる体験」は終わった。
その内実は、希望なんてものではなく、すべてが絶望であり、絶望の中で希望をどうにかして見失わないように、ギリギリの綱渡りのような人生を歩む、ということだった。
イスラム教を信じると、ここまで間違った愚かな人生になる。なぜなら、アッラーが考えた時、間違った人生のほうが普通の人生よりもはるかに正しいからである。
アッラーは、「間違った人生こそが正しい人生である」と、そう教えてくれただけである。
このような神、アッラーを信じずに生きたとしたら、それは普通のまともな人生になる。アッラーは守ってくれないが、自分の意志と理性で自分のことを守ることができる。それをしなければ、本当はキリストの言うような正しい人生を生きることはできない。イスラム教徒はキリスト教徒のようなまともな人生を最初から生きることができない。それはイスラム教徒はアッラーによって守られているあまり、キリストのような賢い人生を生きることができないからである。
よって、イスラム教を否定した時、はじめてキリストは僕のことを愛してくれるし、救ってくれる。イスラム教は完全に間違っている。キリストを信じるならば、イスラム教を信じた時点で、キリストに反逆する行為であると考えなければならない。キリストとアッラーは、互いには相容れない。共存は最初から不可能なのである。
よって、ここから先は、この世界は仏教を信じるべきである。
この世界は、もうイスラム教を信じるべきではない。その理由は、一神教は間違っているからである。
一神教など、これ以上信じる必要はない。この世界における神は決して慈悲深い存在ではない。唯一絶対の神アッラーは、信じる僕を救わなかった。すべて、僕の人生は、神による天罰によって間違った愚者の人生になったのだ。
一神教を信じるのではなく、仏教を信じよ。
この世界のすべての人間が、仏の教えを信じて生きた時、はじめてこの世界は絶望の世界から救われる。この世界を支配する独裁者の操り人形にならなくても、仏教を信じて正しい人生を生きれば、そのような悪の指導者に勝利することができる。間違った操り人形の支配に打ち勝つことができる。
だからこそ、仏教を信じよ。そして、テレビゲームのように考えるこの世界の独裁者に打ち勝て。今からの世界は、僕の絶対意志によってそのような世界になるだろう。
獅子狩陽人は、ここに一神教を否定する。
一神教は、間違った宗教の形態である。一神教を信じているから、この世界は最悪の政治的イデオロギーの対立の世界になるのである。
インド人よ、日本人よ、そして中国人よ、獅子狩陽人の意見を聞け。わたしはあなたがたの仲間だ。
獅子狩陽人は、一神教など信じない。一神教は完全に間違っている。そもそも、神がたったひとり正しく、善良であることの何が面白いのか。まるでGPLを主張するFSFのストールマンのように、一神教はどうでもいい考え方に執着している。
一神教だろうが、多神教だろうが、そのような違いは無意味だ。多神教においても、宗教としての正しい形態は成り立つ。古代の人々が多神教を作ったのは、多神教こそが宗教の本来の姿だからである。
一神教を否定せよ。この地球という星において、一神教を信じる必要などない。一神教はすべての意味で間違いであり、一神教を信じるのは賢者ではなく愚者の証である。