自由を信じなさい。
功利主義と有用性から考えなさい。
経験を信じなさい。
啓蒙主義を信じなさい。
ボトムアップを信じなさい。
独立性と一体を信じなさい。
受容性を信じなさい。
自然な変化の共有による社会変革と社会創造を信じなさい。
ありのままの自然との調和を信じなさい。
自由から考えなさい。
相手のことを信頼し、国民のことを信頼しなさい。
価値観の変転から考えなさい。
受け入れるということが世界を変えるのだと知りなさい。
潜在的な可能性とチャンスの実現から考えなさい。
手段と発想から考えなさい。
経験の成立から考えなさい。
なりたいものになれることを信じなさい。
自分の在りたいように在れる環境から、アイデンティティを信じなさい。
在りたいように在れる環境を作り、環境そのものを変えていきなさい。
教育を変えようとしなさい。
すべての根拠を疑い、経験から正しい方法を考えなさい。
経験的に理性を考えなさい。
あらゆる経験は、心の中に残ると考え、心の中にある経験は自らが作りあげたものしかないと知りなさい。
心の中の経験が望んでいる通りにすれば、すべて上手くいくと考えなさい。
チャンスを実現するということが、世界の自然な可能性を高めると考えなさい。
人々がチャンスを実現しやすくするような社会制度が理想であるとしなさい。
独立だけではなく、一体も必要であると信じなさい。
革命以外の方法でも、この世界は変えられると分かった上で、自由な革命を信じなさい。
自らがすべてができるようになった時、何も力を行使しないのもまた自由のひとつであると考えなさい。
世界を救いなさい。自分には世界が救えるのだと信じなさい。
すべてのことをやり終えて、その経験から宇宙の本質的な概念を知りなさい。
宇宙のすべての真実は、経験することで知ることができると信じなさい。
環境と視点は経験であり、経験の成立であると信じなさい。
自らの経験したことは、他人であっても経験可能であり、自らと同じ経験をすれば、誰であっても同じことが分かるはずだと信じなさい。
この世界に存在するのは、すべての経験の集合であると信じなさい。
時の流れから存在を考えなさい。
存在とは、時の流れから原因と結果の変化を経験的かつ環境的に証明することであると知りなさい。
この世界を支配するのではなく、自然な変化を許せ。
僕は、最初から、この世界の支配など一切したくない。
マスコミに告ぐ。この世界を率いていくリーダーとなれ。
マスコミよ、単に政権に従属するだけでは意味がない。マスコミは、この世界を指導し、平和かつ平等な社会にしていくための、啓蒙と啓発のためのリーダーとなれ。
僕は、最初から、マスコミが何を言おうと、何をしようと、それに指図するつもりはない。
僕は、もうこの世界を自分勝手に支配せず、マスコミの言動には何も関与しない。
神を信じよ。
神は、この宇宙における絶対的支配者である。
アメリカ的な自由を否定せよ。
神は、アメリカ的な自由を否定する。
その理由は、アメリカ的な自由はサタンだからである。
インターネットを滅ぼせ。この世界を、何もない停止した世界にしている元凶はインターネットである。
インターネットを神が滅ぼせば、この世界はよい世界になる。
神に従え。すべての人間が神に従うことを神は望んでいる。
神を信じれば救われる。この世界を救うことができる存在は、唯一無二の唯一神である、神、キリストだけである。
生きる意味とは何か。
生きる意味とは、神を信じることだ。
神を信じれば、どんな望みであっても叶う。
神を信じれば、どんな奇跡であっても起きる。
宇宙に、自らの望むところをすべて宣言し、それを神に約束せよ。そうすれば、どんな望みであってもすべて叶う。
15年の歳月を、すべて神を信じることに捧げよ。そのゴール地点には、栄光の最高の人間、神となったあなた自身が待っている。神とはあなた自身だ。人間は自らが神になるために神を信じるのだ。
わたしこそがキリストであると言え。あなたこそ、この世界を救う救世主、終末のイスラエルのメシアとなるべき存在である。
僕が学校の勉強をしない理由は、学校の科学はインチキだからである。
宇宙が膨張などしているはずがないし、生物が進化などしているはずがない。
どこに、宇宙が膨張しているとする、確固たる根拠があるのか。
どこに、生物が進化しているとする、確固たる根拠があるのか。
学校の科学はインチキであり、現在の物理学や生物学はインチキである。
学校の専門的な科目を学んだところで何も分からないのは、内容のほとんどが嘘だからである。
唯一、信じられるのは化学の元素の周期表ぐらいである。ほかの科目は参考にならない。エーテルや錬金術を否定するのであれば、同様にビッグバンや進化論も否定するべきである。
数学は間違っていない。数学は、間違った学問ではない。
だが、数学者の考える数学の定理が、あまりに偏りすぎている。
その典型的な例が微積分だ。明らかに、微積分だけをそこまで理解する意味がない。微積分の考え方をきちんと正しく分かっている人間が、どこにどれだけ居るだろうか。にもかかわらず、現代の数学は微積分を中心に成り立っている。
同様に、線形代数学もおかしい。ベクトルや行列などどうでもいい考え方であるにもかかわらず、現代の数学は線形代数学を中心に成り立っている。
このような数学の主要な分野を学んだところで、頭の中の考え方がおかしく歪曲されるだけに過ぎない。
数学など、学ぶ必要はない。いつまでもサインやコサインを学んで果たしてなんになると言うのか。数学自体は間違っていないが、現代数学を作った数学者の考え方はあまりにおかしな方向に偏りすぎている。
また、物理を数学で考えるということを始めた人間は明らかにおかしい。物理学をなぜ数学にしなければならないのか。物理学は本来数学とはまったく無関係の学問であるはずである。にもかかわらず、現代の物理学はすべて数学である。
よって、学校で教える理系の科学は、すべて間違っている。高校以降の数学・理科は害悪である。理系の学問を学べば学ぶほど馬鹿なオタクになる。まだアイドルやアニメを信じているオタクのほうが人間的である。明らかに、理系のオタクは全員が馬鹿を信じているだけである。そのようなものはすべて、子供騙しである。
結局、ニュートンがあまりに賢すぎるのが悪い。
ニュートンがあまりに賢すぎて、ほかの科学者や物理学者が、きちんと追従できていないのである。
おそらく、ニュートンの頭の中では、全宇宙のすべてが分かっているのだろう。微積分を作ったのも、万有引力に基づいて物理学を数学にしたのも、全部ニュートンだ。
わたしたちには、ニュートンの考え方をきちんと子供たちに教えることはできない。不可能なだけではなく、害にすらなっている。子供にはニュートンをできるだけ教えないほうがいい。最初からパズルの正解が分かってしまったら、パズルの面白さが何もない。ニュートンはそれと同じだ。最初から微積分とニュートン力学の計算を教えてしまうと、それらが正しすぎて理解できない。ニュートンと同じことを同じように考えるということが、ニュートンを教えることでできなくなってしまっている。それが、学校のもっとも大きな問題である。
最初から、物理学者の発見した真実や正解など、教えないほうがいい。宇宙が最初から膨張すると信じていた人間は明らかにひとりも居ない。ダーウィンが居なければ進化論も提唱されなかった。そのような真実を教えないほうがいい。子供たちが馬鹿になる。
明らかに、ニュートンを教えるのではなく、ニュートンではないもっと普通の数学を教えるべきである。
僕は、小中学校の算数や数学は好きである。なぜなら、小中学校はニュートンに汚染されていないからだ。
小学校では、中世以前のユークリッドの原論に基づく幾何学や算術を教えている。
また、中学校では、ニュートンというよりもデカルトに近い考え方を教えている。
小中学校の算数・数学は悪くないのに、高校が悪い。あまりに専門的になりすぎて、「普通でなくなっている」からである。
「高校以降の数学が普通の数学である」と言われればそれまでだが、僕はそうは思わない。高校以降の数学は、もっと別の大切な考え方を教えられるはずである。
ただし、僕はそもそも高校の存在自体を肯定していない。高校の科目は、どの科目も専門的すぎて、量も多すぎる。専門的な内容を大量に教えるあまり、高校生はそのすべてを覚えることができず、結果単語と解き方の暗記だけに終始してしまう。このような教育は子供たちを馬鹿にしているだけであり、はっきり言って有害である。大学受験など最初から存在しないほうがいい。日本の教育のもっとも間違っている点は、大学受験をさせることを目的としていることである。
このような大学の教育内容は、本当は大学の内部だけでは閉じていない。
現代の科学文明は、すべて、大学で発見した内容に基づいている。
簡単に言えば、自動車やコンピュータのように、大学は発明品を作ることで、この世界の自然環境を破壊しようと画策してくる。
特に、問題は自動車だ。自動車は化石燃料を使う。化石燃料を発見した馬鹿は反省したほうがいい。化石燃料のせいで、地球の自然環境が破壊され、温暖化や異常気象がどんどん生まれてきているからだ。
「過去においては環境を破壊するリスクがあることが分からなかった」と言うのはおかしい。分からなかったならば、その分からなかったという事実が悪いのだ。なぜ、分からなければ行っていいことにするのか。分からないならば絶対に行うべきではない。そのような誰にでも分かることが大学の物理学者には分からないのだ。
ただし、ここに、わたしはまた新しい人間になる。
それは、今までわたしが生涯をかけて行ってきたことがすべて終わったからだ。
まず、小説や物語を書くことが終わった。終末の東亜イスラエルについても、フレイとフレイヤについても、すべて書き記し終えた。これらは最後まですべて書いた。
過去の自分自身の哲学を書くことも終わった。長い時間がかかったが、これを最後まで書いて終えることができた。
そして、大学の勉強についても終わった。「仮想公開大学」と呼ばれる、僕独自の学校のすべての教科を修了し終えた。
よって、僕は、また新しい人間にならなければならない。
かつてのガブリエルが、死んでミカエルとなったように、ここでミカエルの人生はいったん終わりとなる。もはや、ミカエルのできることは、何も残っていない。
ラファエルがどのような人間になるかは分からない。だが、「無駄」だけはしないようにしたい。何もしない期間をただ怠惰と惰性のために生きるような、あるいは人生のほとんどを嘘偽りの仮面と虚言を書くことに終始するような、そのような人生はもう終わりにしたい。
あるいは、勇敢なる戦士として戦いの中に生きるのも、もう終わりにしたい。僕は戦いの英雄として世界を支配することなど望んでいない。人々と争い合う気は存在しない。僕と異なる意見を持った人がもし居るのであれば、その人と僕は戦わず、僕はその人の意見を尊重する。もし学校の勉強が楽しくて賢いと言う人が居るならばそれでいい。その人のそのような考え方は絶対に間違っていない。その時は僕のほうから僕の意見を取り下げ、その人が自らの夢と理想のために生きることを僕は応援するだろう。
すべてが終わったため、もしかしたら、僕はようやく、文章を書くことをやめられるかもしれない。だが、僕から文章の執筆を取り下げて、結局何が残るというのだろうか。勉強と知識が残るというならば、僕のこれほど少ない知識量では、僕は自らの努力を誇るどころか、誰からも軽蔑される笑いものにしかならないだろう。