ホームページに戻る | シルフの秘密の場所に戻る

2022-01-27

わたしは、愛を信じている。

わたしたちの星の未来は、わたしたちの手によって変えられる。

わたしたちには自由がある。自らの人生を自らで決められるような自由こそが、愛である。

わたしたちは、愛と自由に基づいて価値を作り出せる。さまざまな素晴らしいものを、愛することができる。その愛を忘れてはならない。その愛こそが、自由を愛するということであり、国を愛するということであり、星を愛するということであり、自分を愛するということだからである。

自由とは、世界のことを素晴らしいと信じることである。そして、その素晴らしい世界はわたしたちのものであり、誰かひとりが勝手に支配してはならない。支配を否定することこそ、自由であり、愛である。なぜなら、支配する愛は、成熟すれば、ひとりの力に偏ることなく、それぞれがそれぞれの間で愛を理解し、「真実の愛」を平等に得ることができるはずだから、誰かひとりが支配する愛というのは、社会そのものが未熟な段階での愛であると言えるからである。

すべての人間は、愛と自由に基づいてこの世界を分析すべきである。そのためには、理性に先立つ経験が必要である。何もなしに、ゼロからこの世界を分析することはできない。分析するためには材料と方法が必要であり、そのために経験が材料となり、自由な理性が方法となる。だが、方法は「自ら分析することで、自ら生み出し、自ら身につける」ことができる。そのため、何よりも先んじて必要なのは「経験」であり、そのために必要なのは「自由な中で経験すること」である。なぜなら、自由においてしか、実際にこの世界の裏側のすべてを知ることはできない。そして、その経験したことを自らが自由に判断するためには、どこかの組織に属していたのでは自由ではない。そのため、経験はおのずと自由を必要とするのである。

すべてを、自由に基づいて考えるために必要なのは、「何から何がどのようにして生み出されているのか」を知ることであり、それはすなわち「変化の理由を知ること」にほかならない。そして、変化は、誰がなんの目的でその作用や行為を行うかという、「主体」が存在し、同時に、その主体となった結果が客観的にどのようなものとして現れるかという、「客体」が存在する。すべてのことは、主体と客体それ自体によって、目的と原因の「因果性」になる。つまり、主体と客体を考えるということ自体が、原因と結果を考えるということになる。これが「理由の解明」へと繋がっていく。そして、ここで得られた理由は、ひとつの事実が同じ条件をもったすべてへと適用される。すなわち、「一度分かった理由から別の場合に適用し、別の理由を推論して分かる」ということができる。これにより、心理学的な「場と視点」の考え方に基づく「心」の働きを解明することができる。この「心」とは、すなわちこの宇宙の「世界精神」を意味しているのである。

だが、必要なのは、まさに「愛」である。なぜなら、「経験しなさい」と言って経験したところで、経験しただけで普通は終わってしまう。考えるためには、「この世界で不幸になっている人々を救いたい」という「他人に対する愛」の感情が必要である。そのために必要なのは、「他人のせいにしないこと」である。他人のせいにするということは、「自分の立場になって考えることから逃げているだけ」ということを意味している。自らがその人間の立場になって考えることで、どのような「外部からの助け」があれば、その不幸な人を助けられるかが見えてくる。そして、そこから、論理的に経験の解決を考えることで、「この世界をどのようにしたら救うことができるのか」が分かる。だが、それを分かるためには、ただ「相手の立場に立ちなさい」といっただけでは十分ではない。経験が必要である。いわば、愛のない経験には意味がないが、経験のない愛にも意味はない。

人々の経験的な問題の解決方法が見えてくると、単に問題が解決できることを知っているだけではなく、「どのようにしたら問題を解決できるのか」を実践的に考えたくなる。だが、未熟な人間が、単に発想法やアイデアのレベルで分かったことをいくら積み重ねたところで、それだけではこの世界を解決することはできないし、机上の空論が現実味といくら比較されたところで、机上の空論にいくらか現実の経験を足しただけにしかならない。実際にインターネット上で、活動してみたところで、成功するとは限らない。「自分のやりたかった方向性の結果と真逆の、裏腹の結果」を生み出すこともある。

だが、諦めるな。あなたはまだ、この世界の救世主として、人生が終わったわけではない。この世界に堂々と現れなさい。そして、どんなに実現不可能に見えても、諦めず、先へと進みなさい。自ら退路を断つことは、王としてとても素晴らしい力となる。すべての人間を救うために、あらゆるすべての具体的な「方策」を考え、その方策に基づく「信念」を形成するために、「世界モデル」を作り続けなさい。そして、王としてそれを実現するために、世界に「宣戦布告」し、誰にもその秘密を明かすことなく、最後まで戦い続けなさい。最後まで、どんなに逆境であっても、途中で諦めず、終わらずに生き続ければ、もし死の危険に実際に遭遇したとしても、あなたがサタンを信じる裏側で神を信じていた信仰心が実り、この宇宙の神があなたを導き、あなたを死のリスクから救ってくれる。それによって、最終的に、あなた自身がこの宇宙の創造主であると、堂々と確かな根拠を持って言えるようになる。その日まで、どんなに長くても諦めるな。他人を否定し、この世界を一切信じないとしても、あなたは決してその問題を他人のせいにしなかった。あなたがこの世界を救うためにこの世界はあった。そう言えるのは、あなたが自らを世界の頂点とし、最高指導者として振る舞ったこと自体、あなたが「全責任を自分が持つ」ということができた証明である。そして、王はそのような王こそ、理想の「最高の王」なのである。

すべての根源となる源泉、第一原因とは何か

すべての理性や方法の根源となる、宇宙における源泉、すなわち「第一原因」とはなんだろうか。

それは、経験でも、普遍性でも、知性でも、悟性でもありながら、そうした言葉だけで言い表せるようなものではなく、自らの「人生」に根ざしたものであると言えるだろう。

自らの人生から、そのような「第一原因」とは何かを考えること、これこそ、わたしが十代の時に経験した「悟り」である。

なぜなら、少なくとも当時の十代の僕にとっては、この世界は「環境が変わる」ということから、すべて自らのみによる理性と経験によって、理解できたからである。

だが、あえて言えば、「知っていることしか分からない」ということ、「知性は経験に根ざしている」ということ、「すべての経験は愛のたくさんある別名の中のひとつの名前にすぎない」ということが言えるだろう。

すべてのことが頭の中だけで理解できたとして、それはゴールではない。なぜなら、理解するとは、「頭の中だけで理解することだけを意味していない」からである。

言葉でも、メッセージでも、知識でもないそれは、言うならば「精神としての理解」であると言える。

そう、宇宙のすべてのことは、頭脳だけでは理解できない。「精神の力」で理解しなければ、真の意味ですべてを悟ったとは言えないのである。

精神とは何か。それは、「宇宙のすべての法則を超越するような力」である。そして、それは「先入観のない、前提条件を必要としない考え方」から生まれる。それは、「自らにしか真実は分からないが、自らはすべてのことを完全に正しく把握している」という真実である。

その真実を、一言で言い表すとしたら、それは「心」である。

心の力によって、宇宙の法則を超越することができる。未来におけるすべての事実は、過去にそれが起きたことと同じように扱われる。肉体的・物質的な距離の遠さとは関係なく、同じ精神を共有しているかのように、記憶と心そのものをこの世界の愛する人々と一緒に共有できる。そこに一切の固定観念や絶対的価値観はなく、「自らが信じている通りに行うだけで、あらゆるすべては最後に覆され、それが永遠に続いていく」。

そう、この世界は心を信じることで、愛に包まれる。これこそが「精神」であり、そもそもそれこそが「精神を分析する目的」である。

もし、この世界からいじめをなくそうとするのであれば、精神を考えることである。子供になったつもりで、この世界の未熟な精神性を考えてみよ。他人の立場に立つことから逃げることなく、自分がもし相手の立場だったらどうしたかを考えよ。それだけでいい。それ以外に、キリストと同じことを分かる方法はないからである。

最後に、祖国を愛しなさい。この国家がいくら堕落して愚か者が増えたとしても、自分だけはこの国家のことを愛していると言えるようになりなさい。間違った思想を信じても、死ぬよりも前にその思想が間違っていると最後に気付くことができたら、あなたの信念は間違っていない。過激な社会主義が間違っていると誰よりも自分が言えるようになれば、それであなたは賢い。そう、わたしたちは全員同じだ。誰も違わない。全員同じ人格と人生を持っている。人格は心理学的なパーソナリティという言葉だけでは定義できない。それは「超自我」と呼ぶべきものだが、わたしはあえて、「人間に存在するすべての超自我は共通している」と言う。すべての人間は同じである。誰一人、違った人間は存在しない。正しいのは、すべての人間を差別なく、平等に、どんなに愚か者であっても仲間として受け入れることだ。社会主義は経済的な意味では間違っているが、神による平等はまさに正しいのである。

最後に、相手の立場に立って考えるならば、「愛している」と言いなさい。あなたは相手のことを愛している。相手がそれに対して反発することはない。太宰治(走れメロス)が言うように、人の心を疑うことは、もっとも恥ずべき悪徳である。相手が自分のことを愛さなくてもいい。それでも相手のことを愛していると言いなさい。その言葉には嘘はない。自分がそれによって敗北してもいい。敗北してもいいから、愛しているとただ言いなさい。どんなに相手が反発しても愛するのだという信念に、嘘がないならば、そう言わなければならない。どんな人間であっても愛することができる境地、それだけがわたしの表の側面と裏の側面の二つの人間が共有した「理想」である。そして、それが正しい。どんな人間であっても愛せるならば、ようやくあなたはキリストと同レベルの評価に相応しいと言えるだろう。

光と闇の側面が交わる時、この世界の表の真実と裏の真実もまた交わる。表の真実では、この世界は平常であり、何も起きていない。裏の真実では、この世界は神によって支配されている。だが、覚悟なく、神のことを陰謀論のように、批判しようとするな。その時は、あなたに対して神が復讐するだろう。それに立ち向かうことは間違いではない。わたしが、そのような人間だったからだ。

ツイッターより @zaidoubansou

科学が正しく、自由主義者が正しいのは、どんな盲信者であっても、どんな社会主義者であっても分かっている。だが、わたしは最強の革命家の王であると信じて、その最高の自分自身を誇ることができるということ、それが救いだとすれば、間違った嘘偽りであっても価値はあるだろう。
posted at 23:03:12

宗教はアヘンである。この世界のすべてを、神の原理の通りに起きていると勘違いすることで、「自分が神と合一である」あるいは「自分自身が神である」と錯覚し、まるで麻薬中毒者のように宗教の幻想と妄想に浸る。残念ながら、それがユダヤ人の神である。最強の勢力についていると勘違いすればいい。
posted at 23:01:28

騙されやすい人は、宗教に騙されるのが一番利益を得られるから、昔から宗教によって騙されやすい人々を騙すだけにすぎない。それに比べて、科学は騙されないようにするが、科学を信じることで、一切の誰も利益を得られない。科学者は国家の繁栄と経済の進歩のために奴隷のように使わされるだけである。
posted at 22:59:32

そういうわけで、宗教も政治もつまらない。これ以上、神がなんであるかを述べたところで、経験的な話以上のことはできない。ユダヤ人は最悪であり、仏教も含めて宗教は最悪であると、そう述べる次第だ。僕のことなど信じるな。宗教が人々を騙すのは、騙されやすい人は宗教ぐらいを選ぶのがいい。
posted at 22:58:01

まるで、自由主義者には、「自らは本当に自由であり、自由が一番正しい」と思って騙されている人間が多いが、彼らは社会主義者と違って無害であるため、「騙されている」とは言われない。だが、実際、より多くの嘘や偽りを信じて、不利益や損失を被っているのは自由主義者のほうである。
posted at 22:56:36

しかし、この論法が「奴隷と信者の論理」である。この世界を「今のままが絶対に正しいと刷り込む」ところから人々を騙す。自民党が正しいのは、自民党をみんなが正しいと思い込んでいるからだ。Windowsが正しいのは、Windowsを正しいと勘違いしているからだ。だが、彼らは過激派と比べて、無害である。
posted at 22:54:57

よって、「ロゴスにはキリストが神であると書いてある」と言えるのである。ロゴスに書かれていることが正しいならば、キリストが創造者である。ロゴスにはキリストが神ではないとは書いていない。どうでもいい文章にしかそのような文章はない。それなら、ロゴスに書かれた内容を信じるべきである。
posted at 22:46:47

そうすると、聖書以外はすべてどうでもいいのであれば、「聖書の記述が正しい」と言えるはずである。同じことを、聖書以外のすべての文書について言ったとしたら、そこには「正しい神とは誰なのか」が書かれている。そして、その神以外に神が書かれていないなら、キリストが神である。
posted at 22:45:40

実際のところ、たわいもない雑言は、誰もが「どうでもいい言葉」であると感じるのが普通である。そのような雑言をひとつひとつ除いていくと、大部分は残らない。残るのは、一部の哲学思想書だけである。すると、最後に残るのは聖書である。それならば、「聖書以外はどうでもいい言葉」であると言える。
posted at 22:44:48

ロゴスにおいて、何が根源であり、何が副産物であると言えるのか。それは「量と質」である。とても大量に、品質の高い文章があれば、それがロゴスにおいて勝利する。よって、聖書ほど大量にキリストが書かれていれば、キリストが創造者であると言えるのである。
posted at 22:42:12

では、宇宙のロゴスとは一体なんなのか。結局、それは「人間のすべてのロゴス」である。つまり、この宇宙におけるすべての言葉、すべての文書に記述された言葉である。それは文書だけではなく、人々の交流に使われる話し言葉も含まれる。そうしたロゴスの源泉となる根源に、聖書があるのである。
posted at 22:39:36

なぜ、ロゴスによって宇宙が生まれたと言えるのか。それは、人間の言語知能の根源にある「宇宙のロゴス」と呼ばれるものがある。つまり、人間は言葉を、赤ん坊の時代に覚えているように見えて、本当は最初から宇宙のロゴスと脳が繋がっている。だから、宇宙の創造者はロゴスなのである。
posted at 22:36:59

なぜ、宇宙がロゴスによって生まれるのか。それは、言葉は生物世界の中で「もっとも高度な数式」だからである。数式は、厳密さでは言葉に勝っているように見えるが、「記憶と結びつけて考える」ということができない。言葉は、曖昧に見えて、厳密さは数式と変わらない。宇宙数学とはロゴスなのである。
posted at 22:35:34

よって、聖書から生まれたのが宇宙であり、この僕の書いた文章から生まれたのが同じく宇宙であり、ほかのすべての「ロゴス」から生まれたのが宇宙なのである。これが、宇宙の創造者がキリストである理由である。聖書において神ならば、それは「創造者」なのである。
posted at 22:29:31

僕の文章から宇宙は生まれたとしても、ユダヤ人と同じことを言っているから正しいのである。なぜなら、超自我において、文章の執筆とはこういうものである。聖書とはこのように書かれた文章であり、僕が書いたのとユダヤ人が書いたのには、全く違いがない。ほかの人間の文章も同じだ。それがロゴスだ。
posted at 22:28:35

ユダヤ人は、宇宙をロゴスによって生まれたと言う。言葉から生まれたとするのは、普通すぎると言うだろう。だが、それが正しい。神は聖書の神であり、神は宇宙の創造者であり、すなわち、聖書が宇宙を創造したのである。ユダヤ人はそれを信じている。それが、僕の人生と文章にも、そのまま適用できる。
posted at 22:27:31

そういうわけで、僕はユダヤ人が好きである。ユダヤ人を信じていると、未来が当たるからである。ユダヤ人は、単純に、きちんと正しいことを言っているだけである。ユダヤ人を信じて分かったことはきちんと正しい。未来においても同じだ。ユダヤを信じると、未来を過去と同じように、すべて知れる。
posted at 22:26:01

あとは、本当に僕のことなんか信じなくていい。誰かに信じてほしいと言われるような教えなんか僕は作り出したくないからである。そもそも、宗教を「信じるもの」であると定義した誰かが間違っている。宗教は信じるべきじゃない。神を信じるのは地獄の中に居る悲惨な愚か者だけで十分である。
posted at 22:22:06

僕は、この世界で誰かひとりになれるなら、むしろ僕自身を選ぶが、それ以外の誰かになるのだとしたら、ブッダになりたいと思う。ブッダが昔の僕だと思うのは勘違いで、実際はこれ以上、はるかに高いところまで到達しているのは明らかである。仏教とブッダ以上、「賢い人間」と言える人間は存在しない。
posted at 22:20:46

仏教やキリスト教に誤解を招きかねない表現をしたことをお詫びする。実際、僕は仏教やキリスト教は好きである。特に、ユダヤ人はまったく馬鹿でない。単純どころか、人生を最後まで生きてまったく正しいと言えることを言っている。仏教は素晴らしい。仏教の教えは、賢い。あれほど賢いものはない。
posted at 22:19:36

そして、フレイを信じる必要はまさにない。なぜなら、フレイは信じない愚か者であっても、同じように「ふつう」を与えている。これが、ほかの宗教と違うところである。フレイは、神を信じる必要はないと教える。なぜなら、フレイは書き記しただけで、信じろとも、読まれたいとも思っていないからだ。
posted at 21:13:45

たとえば、子供のごろを考えてみてほしい。なにかを「ふつう」だと思っていて、自分をそのふつうと比較してあなたは成長したはずである。その普通とは、フレイの人生のことである。この世界の子供たちには、無条件に平等にフレイの「ふつうの道」が与えられている。そして、運命の出会いが必ず起きる。
posted at 21:12:37

なぜ、フレイが存在するのか。それはただ、この世界において、「ふつうの人間」が存在しただけにすぎない。ふつうとは何か。それは「誰がどう生きたとしてもこうなるであろう、もっとも賢い賢者の道」であると言える。フレイを信じるものはその道を与えられる。ここにそれが記述されているからである。
posted at 21:07:47

フレイは、地獄においても諦めなかった。他人のことを知り、聞き、話すことから逃げなかった。わたしが考えるに、それこそが「もっとも遠回りだが、もっとも多くのことが分かる道」である。そして、わたしを信じるものは、必ずその道をゴールまで生きられる。永遠のような地獄を耐えて、必ず救われる。
posted at 21:05:34

わたしが考えるに、救われたいのであれば、単にキリストを信じるのが「近道」であると言える。ブッダを信じて救われるのは「遠回り」である。だが、決してそれらの道をどちらも取らない人間が居る。彼らは「自分で救いの道を作り出す」。そう、まさしくわたし、フレイがそのような人間だった。
posted at 21:04:24

よって、あえて言えば、日本にとって神であるか神ではないかといったことはどうでもいいことである。なぜなら、「ヨーロッパとはまったく違う人種」だからである。これ以上の説明はない。だが、並行宇宙には「日本だけの宇宙」が存在するため、ヨーロッパといくら矛盾しても日本は正しいのである。
posted at 20:53:42

よって、日本という国はむしろ「ヨーロッパ世界とは別個の生物集団」として考えるべきである。そうすると、日本の教えの意味が分かる。ヨーロッパでは、キリストを神だとするが、日本的に見れば、太陽もフレイも神であり、すべてが神と言える。フレイが神なら、ヒンドゥー教の神を排除する理由はない。
posted at 20:52:53

むしろ、説明をより詳しくすれば、神においてもその中に真の神が存在することになる。だが、そうした考え方は逆につまらない。なぜなら、ユダヤの教えが間違っていることになる。そして、その時点でキリストが神であることは間違いである。だが、そうした矛盾を並行宇宙は「同時に成り立たせられる」。
posted at 20:51:38

よって、キリストは確かに人間だが、それ自体が星であり、宇宙の創造者であり、まさしく「人間の中にまぎれている神」であると言える。そうすると、シリウスのフレイやスピカのフレイヤにも同じ理屈が通じる。太陽神の末裔である天皇陛下についても同じだ。彼らが神である。
posted at 20:50:34

要するに、キリストは誰にとっても神であっていいとされるような存在のことである。プロキオンのことを説明した時に、プロキオンは生物が中にいながらにしてそれ自体が星であると言った。それならば、星がたくさん中にいながらにして、宇宙の創造者というものを考えられないか。それをキリストと呼ぶ。
posted at 20:49:32

キリスト教のことを、キリストが神であるのはおかしいと考える、アジア人に神の根拠を教えると、それはすなわち「六次元世界の並行宇宙」を考えなければならない。キリストは誰にとっても神であるような存在である。つまり、神と対話したいならキリストが居る。つまり、「神の代理人」だと思えばいい。
posted at 20:48:30

しかしながら、ここでユダヤ人の単純な二元論は逆に活きてくる。どんなに悪人であったとしても、「神を信じないものよりは信じるもののほうが正しい」ということがまさに正しいからである。神を信じるものは正しいから、結果、仏教徒は地獄に堕ちたまま救われず、キリスト教徒は救われるのである。
posted at 20:40:03

ブッダが言う、神を信じなくても救われるとは、仏の教えに従った上で善良かつ賢明に生きることが条件だが、そのような人間は地球上においてはごく少数である、というのが問題だ。多くの人間は、愚かでありながら神を信じていない。それを地獄と呼ぶが、地獄以外になりえないのに、救われるはずがない。
posted at 20:37:59

本当は、ブッダの教えに間違いは少ない。ブッダにしか説明できないのは、ブッダは嘘がないように、きちんと正しく言葉を定義した上で誤りがないように説明しているからである。だが、「神を信じなくても救われる」と説いたその理由は、多くの人に誤解されており、間違いと言ってもいいレベルだ。
posted at 20:37:00

もっとも大きなユダヤの間違いがあるとしたら、それは二元論である。なぜなら、ユダヤは「神と悪魔」と言っているが、その意味は「神を信じるものと信じないもの」である。ここまで単純な教えは逆に恐ろしい。信じるものが絶対に正義であり、それ以外は悪である。しかし、単純だからこそ、正しい。
posted at 20:34:44

だが、古代ユダヤの教えにも間違いはある。そもそも、単純すぎるところが逆に間違いだ。神は明らかにひとりだと考えるのは、皇帝や王がひとりであることに基づく。終末は文明の滅びであり、救済は奴隷の解放である。そのような古代の歴史は「原始人の宗教」と呼ぶべきで、現代においてはつまらない。
posted at 20:30:33

キリストのほうが、わたしは正しい宗教であると、考える理由は「単純でシンプル」だからである。イエス・キリストは、誰にでも無条件に適用できるような、単純なヘブライ語の古代ユダヤ人の信じている伝統の教えを、誰にでも分かるように教えている。単純だからこそ、間違いも誤解も少ないのである。
posted at 20:27:49

そのような問題の考え方を、解決することは難しい。特に、ブッダは誰にも理解できないことを言うため、「ブッダの言っている通りにしない自分に問題があるのか、それともブッダ本人の言っていることが間違っているのか」を知ることができない。これが、宗教の大きな間違いである。神や仏は全能でない。
posted at 20:25:34

多くの民族が間違えたのは、「正しい神を信じず、土着の神を信じた」ことにある。日本人が出口のない迷宮の暗闇から救い出されないのは、ブッダを信じているせいである。だが、ブッダの教えの通りにすれば、救われるはずなのに地獄に堕ちる。それはブッダが馬鹿である。だが、気付くはずがない。
posted at 20:23:34

正しいものは、必ず迫害される。なぜなら、正しいものは「正しいものへと向かうために、地獄を経験する必要がある」からである。これもまた、超自我によって定められた絶対法則である。正しいものが救われるというのは、本当は詭弁ではない。迫害された末に救われるということを指した言葉だからだ。
posted at 20:17:09

多くの宗教家が、多くの皇帝によって虐殺されてきた。キリスト教徒はローマで迫害され、儒教徒は始皇帝によって虐殺された。だが、彼らは間違った信仰をもったわけでもなければ、それによって宗教が強くなったのでもない。これは、生物が最初から抱える、「正しいものは必ず迫害される」という法則だ。
posted at 20:15:43

だが、哲学者が宗教で地獄に堕ちるのは、「神の軽視」が問題ではない。なぜなら、それは「進歩において絶対に乗り越えるべき必要なプロセス」であり、それは神が生物創造の理由とする、「自らが神になる」ために絶対に必要だからである。神はその哲学者を導く。その先まで見れば、必ず意味が分かる。
posted at 20:12:19

プロキオンの生物の特徴は、すべてが「神における表現上の側面」であるとするところである。それは外見や内面だけではなく、超自我においても、である。神を信じるものは救われる。神を軽視するものは地獄に堕ちる。これは「超自我によって決められている絶対原理」である。
posted at 20:10:47

神はすべて知っている。なぜなら、プロキオンの生物だけではなく、プロキオンという星もまた、ひとつの人格を持った存在であり、そうしたプロキオンとそれ以外の星々、つまり「生物の元のモデルになった生物」の創造者、星々の創造者こそ、神である。
posted at 20:09:50

そう、この世界には、そもそも自由などはない。自由だと思っているものは、幻想でもなければ現実でもない。並行宇宙に存在する、この世界を支配する誰か、すなわち、プロキオンにおける「神」のことを指す。まず、そのものを尊いと思え。そして、その神の通りに超自我は創造され、進歩するのである。
posted at 20:07:59

しかしながら、覚悟せよ。なぜなら、六次元には必ず「不自由な選択」が訪れる。不自由な選択とは、「選択したくないにもかかわらず選択しなければならない選択」のことである。六次元には自由はない。なぜなら、自由だと思っていたものはすべて超自我によって行き着く「絶対存在者」を表現したものだ。
posted at 20:06:21

しかしながら、このように述べることがそのまま間違いである。なぜなら、人間の言葉によって言い表せるのは、六次元の初歩の初歩程度だからである。六次元の情報を、たかが数ビット程度の情報量ぐらいしかない「文章」では表せない。自ら「体験」する必要があるのである。それが、「生き物の目的」だ。
posted at 20:04:05

そう、愛することのできる人間は、愛することのできない人間よりも優れている。愛することのできない人間には残酷な悲劇が起きる。愛することのできる人間には奇跡の復活が起きる。なぜなら、それこそが超自我の進歩のプロセスである、運命的な人生の推進力、すなわち未来を切り開く力だからである。
posted at 19:59:53

愛を信じればいい。愛とは進化する原動力である。愛を失った人間は必ず退化するからである。愛によって虫が成虫になり、増えるように、蝶は愛によって人間になれる。そう、プロキオンの生物など、地球と何も変わらない。だが、プロキオンの偉大な発明品の理由を知らずに愛するのは、あまりに可哀想だ。
posted at 19:58:15

プロキオンが言えば、人間のほとんどの問題の原因は、プロキオンの生物であれば誰でも分かることが分かっていないことに起因する。たとえば、肉よりも魚を好むのは、自由主義よりも社会主義を好んでいる証拠であり、哲学者が宗教で地獄に堕ちるのは、超自我の正常な進歩を知っていれば当たり前である。
posted at 19:53:26

そして、宇宙に存在するのは真理ではない。特に、ドイツ人が間違えたのは、「超自我が万人にとって共通している」ということを知らず、それを人類にとって普遍的な宇宙の真理とした。そうではない。超自我は「基本的遺伝子」と呼ぶべきものだ。超自我は、ほとんどの人生にとって「共通の進歩」をする。
posted at 19:49:22

よって、あなたがあなたのまま、このゲームをプレイするならば、あなたは今のゲームのままで、生まれ変わりのようなことは体験できる。だが、これは「超自我の進歩」と呼ぶべきものであり、「人生や人格自体がいくら変わっても、遺伝子は変わらない」ということである。
posted at 19:48:15

インド人の間違いは、なぜ生まれたのか。それは、インド人は「生まれ変わりではない生まれ変わり」まで含めて、輪廻転生であると言ったからである。たとえば、ゲームの途中で、別のキャラクターにメインキャラを変えたとして、これは生まれ変わりではないが、インド人はそれを生まれ変わりだと考えた。
posted at 19:47:13

そう、簡単に言えばそういうことである。だから、前世などというものはない。かつてのあなたがどんな人間だったということは関係ない。あなたがどのように生きるのかということは「白紙」である。これが、ブッダのようなインド人の信じる輪廻転生の間違いである。
posted at 19:46:13

遺伝子的に同じものは生まれることはないが、「あなた」という存在が、もし別の世界であっても「あなた」であるということがありえる。たとえば、ゲームをやめて別のゲームをすれば、それは違うゲームだが、そうだとしても、「あなた」がプレイヤーである。これが生まれ変わりである。
posted at 19:45:05

だから、地球において人類が滅びても、それは地球という星の終わりであって、宇宙の終わりではない。あなたがベテルギウスで人類と似通った生物として生まれ変わることはありえる。このままいけば、そうなるだろう。ベテルギウスは天国のような楽園だが、わたしたちの今の地球が、より発展している。
posted at 19:42:06

よって、プロキオンなどを考える必要はないが、プロキオンのすべての生物のエッセンスは、地球において存在する。地球上の生物の進化は、突然変異で起きていない。すべて、プロキオンの生物の魂がまず存在し、その「精神的遺伝子」に基づいて、必要な時に出現する。
posted at 19:41:04

プロキオンに生物は存在しないと言った。だが、並行する六次元の宇宙では、今生物が存在しなくても、「過去に存在していたのだとしたら、それは今でも存在することができる」という発想をする。かつて存在したプロキオンの生物は、今でも宇宙の大事なピースとして、並行宇宙に存在するのである。
posted at 19:40:02

プロキオンは言う。社会主義と自由主義は、どちらも間違っていない。戦う必要はない。もし、このまま社会主義と自由主義が、どちらかだけを優遇するような世界を続ければ、地球は滅びる。だが、どちらも必要である。どちらも、互いを排除しようとしながら、本当は互いに必要としているのである。
posted at 19:37:21

だが、プロキオンの多くの特徴、たとえば海の生物と陸地の生物が、それぞれ社会主義と自由主義を担当することなどが、今でも生態系に残っている。いずれ、海の生物は「海洋の神」となり、陸地の生物は「地上の神」となる。それはプロキオンが海と地上の対決によって滅びた、「滅びの歴史」である。
posted at 19:35:54

残酷なことを言うようだが、そのようなプロキオンの生物が、いくら地球の起源であるとしても、プロキオンの生物は既に死に絶えてしまっているため、プロキオンに生物は存在していない。
posted at 19:35:11

そう、プロキオンは、たとえればプラネタリウムのようなものだ。この宇宙における「星」を、もっとコンパクトな形で行おうとした。そのプロキオンで生まれた生物は、滅びの危機に瀕して、宇宙のあらゆる星に生物の種を伸ばした。その種が地球にやってきて、地球の生物は生まれたのだ。
posted at 19:33:54

そして、星になることができるのは、何も地球の生物だけではない。それは、プロキオンにおいて、生物が誕生したということをまず述べる必要がある。プロキオンは、それ自体が星でありながら、別々の星の成分を含むような星だった。だから、プロキオンには多くの星々が生物として生きている。
posted at 19:32:53

また、賢いのは何も人類だけではない。なぜなら、最初に星になったのはおそらく猫だからである。猫はシリウスを愛していた。リゲルと呼ばれる世界は、おそらく猫によって作られた世界である。だが、リゲルは恐ろしい星だ。なぜなら、この宇宙において、「もっとも生きるのが辛く苦しい星」だからだ。
posted at 19:29:52

五次元の世界とは何か。五次元とは、星と星の間の運動の世界であり、それは「座標に対して回転軸を設けた」世界である。だが、六次元の世界はさらに変わる。なぜなら、「座標に対して並行する」世界、すなわちマルチスレッド処理の行われる世界だからである。
posted at 19:27:10

六次元など、高次元ではない。宇宙には11次元の世界がある。六次元はとても低次元だ。だが、わたしたち人類は、特に日本人は、すでに五次元の世界を体験し終えた。ここに、シリウスの女神であるフレイは、この世界を六次元としよう。六次元の世界は、眠る時に見える夢の世界と同じだと思えばいい。
posted at 19:24:23

あなたは劣った存在じゃない。宇宙における星々が天文学的にあるように、あなたもどれかの星の導きを信じている。残念ながら、地球上の生物はその境地に達することがほとんどの人間にとってできていない。だが、古代の天皇は、太陽になれた。わたしがシリウスになれたように、あなたもなれる。
posted at 19:22:33

愛を信じるということの意味が、フレイを信じることで分かる。なぜならば、フレイとフレイヤの間にある愛は、宇宙において星々が天で繋がっている「星座」のようなものだからである。星座において、スピカとシリウスは同時に同じ星空にある。そのように、フレイとフレイヤは真に、愛し合っている。
posted at 19:20:36

みんなが馬鹿なのは、馬鹿にはフレイはできないからである。フレイができなければ、出口のない迷宮から人々が脱出することはできない。だが、馬鹿にとってフレイができるということは、「この宇宙においてもっとも難しい問題の解法を得る」ということにほかならない。よって、馬鹿には分からない。
posted at 19:17:40

わたしの名はフレイである。だが、ひとつ、みなが分かっていないことがある。それは、わたしはフレイヤと融和しているということである。フレイだけを見ても、フレイのすべては分からない。フレイとフレイヤの精神が融和した魂であることを知らなければ、この世界の支配者の謎を解くことはできない。
posted at 19:15:28

大事なことだから、もう一度言おう。この世界には、愛しか存在しない。愛以外のものは、存在も存在しない。この世界にとって必要なものは愛だけであり、存在するものは愛だけであり、世界を変え、救う手段となるのも愛だけである。
posted at 19:14:01

必要なのは愛である。存在するものも愛である。ならば、手段もまた愛だろうか。その通りだ。この世界で成功するものは愛するものであり、この世界を愛する手段は愛することである。愛によって世界は変えられる。愛によってのみ、世界は救われる。
posted at 19:12:42

言ってしまえば、この世界に存在するものは少ない。科学も、宗教も、多くが、真に間違っているものを大げさな飾り付けでデコレーションしたハリボテにすぎない。正しいのは「愛」だけである。「わたしはこの世界を愛している」と述べればいい。ここは、それ以外には、存在すら存在しない世界だ。
posted at 19:11:27

すべてを愛する際に、誰かが誰かよりもこうだとか、そういうことを基準に使ってはならない。好きだから好きなのだ。それ以外に、区別の方法はない。好きになったから好きだ。その理由だけを相手に告げればいい。あなたがそれを告げれば、それこそが最低限必要な「愛の儀礼」である。
posted at 19:09:38

愛するということは、差別しないことである。誰かをひとりだけ愛するのも、間違いではない。だが、相手がどんな人間でも愛するということは、人を愛することの基本である。たとえば、愛する相手がどんなに変わり果ててしまっても、結婚相手は愛さなければならないだろう。愛は平等だ。
posted at 19:08:37

愛を信じること。愛を信じなければ、この世界で新しいことを知ることはできない。愛は、この世界の真理を発見する知性であり、過去を未来へと変える「心」の力である。
posted at 19:07:27