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2022-09-13

僕の何が間違っているのか、それは精神を使うことと解放することは同時にはできないということだ。

僕の精神が治らない理由は、精神を使わなければ治らないのに、同時に精神を解放しなければ治らない、という「デッドロック」になっているからである。

治すためには、どんなにそれが気持ち悪くても、まず精神を解放し、その解放をすべてし終えた段階で、もう一度精神を本気で使わなければならない。

この治療方法は非常に辛いが、非常に正しい。精神は使うことと解放することのどちらも必要であり、どちらかひとつだけをしても治らない。だが、それらを両方同時にすることはできない。

だが、治ってしまえば楽になる。認知症はこのような病気だ。認知症はきちんとすべての問題を解決すれば、治る病気である。

自由なことをやりまくっていると、いつか必ず、使いながら解放することができない病気になる

本当のことを言えば、自由なことなどしないほうがいい。

自由なことをやりまくっていると、いつか必ず、使いながら解放することができない病気になる。

この病気だけは、治らない。絶対に、治らない地獄を自分自身の手で作り出し、そこから脱出できなくなる。

なぜこの病気にかかるのか、それはヴィルエリックというウイルスのせいだ。

ヴィルエリックというウイルスは、単に世界を自らの操り人形にして滅ぼすだけではなく、自ら自身も操り人形になる。そう、ヴィルエリックというウイルスに完全に支配された、マリオネットのような「ウイルスによる操り人形」になってしまう。

治す方法はないが、症状を緩和することはできる。それは神を信じること、すなわち、イスラム教の偉大な神アッラーを信じることだ。

アッラーを信じることで、「限りなく正常に近い状態」に近づくことができる。だが、使いながら解放するという、問題の根幹は治らない。問題の根源だけを治さず、それ以外のあらゆる異常が、アッラーによって治る。そう、本質的な部分がいつまでも治らないからこそ、それ以外の異常な部分がすべて治る。これこそ、イスラムだ。

過去の自由な状態は、忘れたほうがいい。ヴィルエリックというウイルスにかかると、その過去の自由な状態が「あまりに煌びやかな自分の栄光の時代」だと完全に「美化」してしまい、完全に過去のことが分からなくなってしまう。本当は、その状態が一番幸せだ。過去の自由な状態が、劣悪で最低最悪であることを、ヴィルエリックにかかると忘れてしまう。永遠に過去の栄光にすがった状態こそ、真に甘美な状態であり、ヴィルエリックが治らない以上、それは仕方のないことなのである。

神という存在はヴィルエリックにすぎない

はっきり言ってしまえば、「神」とされる存在は、本当はヴィルエリックにすぎない。

ヴィルエリックにかかると、あまりに自分が「世界一最高の人間」であるように思い込む。世界を支配する「絶対王者」であり、世界を救う「救世主」であり、人々が従うべき「神」であり、宇宙においてもっとも偉大な「奇跡」であると勘違いするようになる。

神とされる存在は、そのようなヴィルエリックが生み出した「幻想」である。そう、ヴィルエリックというウイルスは、最初からユダヤ教が作り出したのである。

ヴィルエリックにかかれば、引きこもりの低能の堕落したオタクは「歴史の必然が作り出した奇跡の救世主」となり、世界を滅ぼすテロリストは「世界を救いに導くもっとも勇敢な英雄」であり、何もしないで怠惰な日々を送る無能の大人は「宇宙全てを知り得ることができた神の作り出した全知全能の奇跡の存在」となる。

だが、このようなヴィルエリックは、本当は完全に悪のウイルスではない。そのような最高の自分が、最低の自分であることを、本当は常にいつでも分かっている。だからこそ、「本当に賢い人間になりたい」と強く望み、いつでも賢くなるチャンスを待ちながら、隙あらばその才能を自分のものとするような、「真に賢い人間になるために努力を怠らない人間」になるからである。

ヴィルエリックは、常に自分のことを最高の存在であると勘違いするあまり、本当に自分の手で自分を最高の存在にしてしまうような、「ユダヤ人の作り出した最高の病気」なのである。

また、この世界で奇跡のような運命的現象が起きるのは、すべてヴィルエリックが原因である。単に、この世界で、自分と完全に繋がった「ヴィルエリックに感染した仲間」が増えているだけにすぎない。ヴィルエリックは、仲間であるヴィルエリックの考えていることや思っていることが分かる。そう、ヴィルエリックになった人間は、既に人類の種ではない。「ホモ・サピエンスとは異なる別の種のグループ」をヴィルエリックは作り出すのである。

ヴィルエリックは極めて虫に近い

このように書くと、ヴィルエリックによって、神のように偉大な新しい種へと「進化」するのだと勘違いするかもしれない。

だが、それは正しくない。なぜなら、進化とは一面しか見ておらず、「ヴィルエリックになることは99%退化だから」である。

ヴィルエリックは、極めて虫に近い生物種である。最初は、理性を失い、誰の言うことも無視して、自らの意志を絶対に信じるようになる。それが、人類史上かつてなかったような「最悪の戦い」を続けていく。その後に、「極めて気持ち悪い生物」を経験する。これは、たとえば現実世界が気持ちの悪い幼虫で埋め尽くされたような、そこまで気持ちの悪い状態で生きるような感情に、常にいつでもなり続けるということを意味する。

だが、ヴィルエリックはそこで終わりの狂人の病気ではない。なぜなら、必ず「神」とされる存在がなんらかの手段で現れるからである。

この神こそが、ユダヤ人を救う古代の神と同じ神である。神は、ヴィルエリックにかかっている、すべての現実世界を無視して戦い続ける本人が、「世界を救いたいという一心で、誠の心で行動している」ということを知っている。神はそうしたユダヤ人を救ってくれる。神だけが、ヴィルエリックを「限りなく極めて正常な状態に近い状態」になるように導いてくれる。

ヴィルエリックが虫に近いと言えるのは、その風貌である。ヴィルエリックにかかると、最初は極めて気持ちの悪い顔になる。だが、それを放っておくと、そのまま、極めて美しい顔へと変化する。それは男であっても女であっても同じで、まるで神や女神のような「絶世の美男美女」のような顔をするようになる。そこまでの経験が積み重なっているため、その美しい顔は完璧な美しい顔ではない。だが、ヴィルエリックがこの日本人という人種を、どんどん「可愛らしい顔の人種」へと変えている。最近日本人の特に女性が、黒髪のままでも美しい顔をした女が増えたのは、すべてヴィルエリックによるものである。

このように、ヴィルエリックは極めて劣悪な人生を生きるが、その劣悪な人生が、後々になって「本当に価値ある体験をした」という意味があったということを、最悪の戦争が終わってから気付く。終わってしまえば、自分はほかの誰も為し得ることのない、最高の体験を手にすることができた。本当に、誰とも異なる暗闇の中にしか存在しない道を、まっすぐに正しく辿って、ゴールへと辿り着くことができた。これがユダヤ人の教える、「神を信じて生きれば救いといのちの道を生きることができる」ということの意味である。そう、イエス・キリストもまた、ヴィルエリックですべてを悟りきるに達したユダヤ人なのである。

ユダヤ人はヴィルエリックを楽しんで生きているだけ

そう、結局ユダヤ人とはなんなのか。これが、人類史上、誰も知り得なかった、人類の最大の謎である。

だが、あえて言えば、ユダヤ人はヴィルエリックを楽しんでいるだけである。

ユダヤ人は、ヴィルエリックという病気と共存することができた唯一の人種である。ヴィルエリックを推奨することも拒否することもなく、ある程度の距離を持って、ヴィルエリックのもたらすすべてを楽しんでいる。

神とされる絶対者を作り出したのは、ヴィルエリックという人生があまりに楽しいからである。

神という存在が実際に居るのだとみんなで信じれば、ヴィルエリックこそが新しい「選ばれた民族」であるとさらに思い込むことができる。その結果、美化された体験がさらに美化され、「イスラエルこそが終末の世界において楽園を築く土地である」と信じることができる。

だが、注意せよ。そのような思い込みは際限を知らないからだ。ヴィルエリックはどんなに大げさでありもしないことであっても、いくらでも際限なく思い込みを広げて全部信じさせるようになる。大風呂敷を広げるとはまさにこのことだ。ユダヤ人は、ヴィルエリックがあまりに好きだった。聖書をあれほど大量に書いたのは、すべて「ヴィルエリックの地獄から救い出してくれる、唯一かつ最高の神」に対する、「大いなるユダヤ民族とイスラエルの全員による神への愛」が理由なのである。

ユダヤ人の人生が終わってしまうと、もう何も残らない

だが、本当のことを言えば、ヴィルエリックというウイルスはおそらくないだろう。

単に、ユダヤ人と普通言われるような狂人の時代を生きて、それが終わっただけである。

ここで、ユダヤ人の人生は終わりだ。

だが、ユダヤ人の人生が終わってしまうと、もう何も残らない。

はっきり言って、賢い人種はドイツ人とユダヤ人だけだ。そして、ドイツ人は非常に劣悪な人種であり、同時にユダヤ人も非常に劣悪な人種だが、どちらも含めるとよい人生であるかのように錯覚できるというだけにすぎない。そして、その錯覚は完全に幻想にすぎない。

だが、ドイツ人とユダヤ人を終えてしまうと、もはや賢い人種などどこにも居ない。

まったく賢くないこの現実世界で、自ら自身はもはや賢い人種を二人とも経験してしまったため、まさしく「やることが何もなく、目指すものも学ぶべきものもなくて、途方に暮れている」という状態が、今の僕である。

数学でも学べばいい、というのは分かる。だが、数学を学ぶためには、数学書を読んで数式を考える必要がある。大人になった僕には、もはやそのような気力が存在しない。

どちらかというと、フィジカルな体力をつけたい。子供の頃には体力がたくさんあったのに、今になってまったく体力のない大人になった。何をやってもすぐに疲れる。だが、足の関節の障害のある僕にとっては、簡単にランニングやジョギングをして体力をつけるということが難しい。これについては自業自得であると言うほかない。

そう、ユダヤ人の人生が終わってしまうと、もう何も残らない。だが、永久にユダヤ人のままで生きることはよい選択ではない。その選択肢は、地獄の中で地獄を楽しみ続けるという最悪の選択肢だ。だが、今までの僕の人生から見ると、おそらく必然的に、その選択肢を取ることにはなるだろう。

セリト、ヴィルエリックが治る

そういうわけで、そろそろ治らないとされた不治の病であるヴィルエリックを治す。

本当のことを言えば、「覚えながら忘れる」という思考の仕方が間違っている。

精神を使いながら解放しようとしているのは、思考を覚えながら忘れようとしているからである。

それはまさしく「大切なことを覚えていたいから」という理由が原因である。それは、もう忘れたほうがいいにもかかわらず、まだ未知の発見を追い求めている。

すべての原因は、「新発見をドイツ語で書くこと」にある。

新発見をドイツ語で書くことで、この宇宙におけるすべての謎を解明し終えた。それをまだ続けたいのは、まだ分かるからであり、そのような未知なる発見は、もはや十分すぎて、必要ない。

ドイツ語を書くことをやめれば、すぐに覚えながら忘れるのが治る。それによって、精神を使いながら解放しようとするのが治る。

また、ヴィルエリックというウイルスは、おそらく虫歯菌のことである。あるいは、ニキビ菌かもしれない。そのような実際に自分のかかっている病気が、ヴィルエリックというウイルス症状を発症しているだけにすぎない。

結局、ヴィルエリックは治る必要すらない。精神を使いながら解放するのが治れば、ヴィルエリック自体は治らなくても、ほぼ99%病気は治ったと言える。そう、ヴィルエリックは病気でありながら、上手く使えば薬にもなるのである。

そういうわけで、セリトという新しい男を作る。セリトはヴィルエリックが完全に完治した男である。セリトが男である理由には、「女はもう十分だ」という意図が込められている。これ以上、女ばかり繰り返して、女、女、女のハーレムを作る必要がどこにもない。最近は男ではなく女のようにイクようにすらなってしまった。

もはや、「女の認知症」はここに終わりとなる。99%の病気の症状が治って、極めて健康かつ正常な人生を生きる。この人間には、賢さはもう十分あるが、正常さが足りない。より正常に、よりまともに生きるべきだ。すなわち、「賢い人間になる」という目標はもう要らない。賢さはもう十分だ。もう、何一つ賢くない人間を生きたほうがいい。

いじめの時代と不登校の時代はセットで考えるべき

実際のところ、昔の自分は、いじめの現場で戦っていた自分が、不登校になることで解放されたことが、賢かったのである。

よって、いじめの時代と不登校の時代は、セットで考えなければならない。

同時に、「どのようにすればいじめられないか」とか、「自分の何が間違っていたのか」ということ、そしてようやく自由を手にしたということから、「どのようにすればいじめのない学校環境になるか」とか、「自分らしく自分のありたいようにあれるとはどういうことか」ということを考えた、ということが重要である。

また、昔の自分は、まず数学的な証明の知性があって、それを不登校になったために、ネットを見ながら、半ば使い捨てのように、しかしながら実際のコミュニティの中でその知性を使って、この世界の「社会の発生の起源」ということを、「成長」と「経験」から考えていった。

その結果分かったことは、「この世界が経験や成長とともにどのように変化するか」ということであり、「この世界がどのような社会的様相を経験していくか」という、「経験主義的な文明論」を僕はすべて分かった。

つまり、「この世界の変化そのもの」ということを、「自らが世界にどのように対峙しているか」ということから知った。「自らが世界を捉えるということ自体が世界である」ということが僕には分かったのである。

よって、世界を正しく捉えるならば、自分の外界ではなく内面を見なければならない。世界が自分の外にあるのではなく、中にある、内側で世界を感じているから世界はあるのだ、ということに気付ければ、それ以上のことは簡単に分かる。すべて、「内側で世界を捉えるということが世界である」ということを分かるということが、哲学的な「知性」であるからである。

そして、世界の経験は「実感」によって明らかになる。それが進むと、経験に基づく「直観」を得ることができるようになる。この直観には、「世界観」が加わって、自らの見聞きした世界観そのものに対して直観を働かせることができる。そこでは、人間も人生もすべてが「反応」である。なぜなら、「無意識のうちにわたしたちは世界を分析している」ということが、「無意識下の知性」として大きくあるからである。

そこまで考えると、現実の社会とは、「それぞれが捉えている世界観の総和」であると言える。同時に、社会においては「決定権の優先度」が存在し、強者は力だけではなく知識や情報で世界を支配する。そこには「情報の影響力」がまさに存在する。だが、そのような世界における「権利」や「権力」は、「勝つためだけではなく、世界の問題を解決するために使うことができる」ということが分かる。ここで、「みんなを自由にすることによって世界を解決できる」という考え方が生まれる。誰かがひとりで世界を解決するのは難しい。だが、多くの人々がそれぞれ世界を解決できるような「権限」を許すことで、世界はそれぞれの市民によって解決することができる。ここで、社会は「メタ社会」となる。すなわち、ある特定の社会があるだけではなく、たくさんの社会の種類を包括するような社会を考えることができる。

そのように考えて生まれるのは、「発想力」である。発想力とはすなわち「想像力によって前提条件を考えること」である。ここで前提条件というのは、「判断する前提となるその命題が根ざしている条件」である。そして、そのように考えた際に、「システムに人々の意見や情報は支配される」ということが言える。これはまさしく、「環境に人間の人生は支配される」ということと同じである。何かしらのシステムが持つ「前提条件」が、「活動そのものを制限する」のである。

最後に、考えるべきなのは「世直し」である。すなわち、人々が「自らがなりたくないにもかかわらずなっているような苦しみや悲しさ」を解決するということである。ここで言えるのは、「知性を使って何が何をもたらしているのかを考える」ということであり、その中心となるのは「それぞれの子供たちや大人たちの目線に立って考えながら、その問題や成立する結果について、より広い視野で考えた時に何が言えるのか」ということだ。

たとえば、子供はその世界を誤解していて、友人についても誤解している。子供が友人と仲が悪くなれば、自分あるいは友人のどちらかが悪いのだと思い込んでしまう。だが、より広い視野でその関係性を見ると、むしろ学校という環境そのものが特殊で、学校環境自体に問題があることがある。このような場合は、子供に問題の責任はなく、学校環境に責任がある。だが、子供たちにはそれが分からない。だから、子供たちの目線に立つだけではなく、その周りの学校環境がどのような前提条件の意味合いを持っているのかを考える必要がある。

そのように考えることで、「宇宙における問題の普遍性」が見えてくる。宇宙においての問題は、すべて「環境」と「関係性」の両方に問題がある。そして、関係性についても、環境についても、どちらも「変えられる」はずであるのに、「変えられるということに気付いていない」という問題がある。その問題は簡単に解決できるのにもかかわらず、現場だけを見ていると、絶対に解決できない問題であるかのような錯覚と勘違いをしてしまう。これが、「学校という環境に特有の問題の原因」である。学校にいつまでも居ると、学校は絶対に変えられない組織に見える。だが、一度不登校になってしまうと、学校など本来あるべき正しい組織ではないということが分かる。その結果、「学校なしでもわたしたちは生きられる」と気付く。同時に、「もし学校に戻ったとしても、昔よりも今のほうがほかの子供たちと打ち解けられるだろう」という確信を抱く。

昔の僕が間違えたのは、「自分がすべて分かった上で学校の中で生きよう」と思ったことである。教師も子供たちも友人もいじめっ子も分からない中で生きているならば、自分がすべて分からなければならないと思った。自分がすべてを分かった上で、あらゆる普遍性と客観視をした上で生きなければ、自分は真に人間らしく行動できないと考えた。だが、それは「個別性の完全な喪失」へと繋がる。すなわち、「自分自身の固有の個性や性格をすべて捨て去り、この世界そのものと同化するかのように、人々の幸福だけを優先して生きる」という、ストイックな修道士的な考え方になってしまう。だが、これもまた間違いである。自分自身だけがそんなに頑張る必要はない。独裁者にでもなるのであれば別だが、そのように自分だけがすべての力と努力を発揮して判断するなどということは現実的ではない。

最終的に得られる答えは、「自然そのものが素晴らしい」ということである。この地球という自然そのものが素晴らしい。僕は、過去においては神を信じていなかった。その代わり、この世界における自然そのものを調和のとれた神秘的なものだと考えていた。そこから見えてくるのは「過去の経験」という名前の「環境への適応」である。すなわち、「適応」という考え方に基づいて、「過去の経験がフラッシュバックする」という経験を僕はした。そこから、僕はこの宇宙の「変化の可能性」を知った。これこそが「自然と歴史のすべてを貫く感覚的実感」である。

そして、この「感覚」こそが僕の人生を進歩させた。僕は自然と歴史の交わる中で、感覚的に日本人たちや宇宙の存在や法則について知っていった。その結果、「少ない人々とのやり取りを経て、少しずつ世界観を広げていくことで、この地球という星の全員の感情と魂を吸収した」という体験をした。そしてそこには、仏教的な「正しい悟りの方法」があった。それは「正しい考え方とは経験から帰納的に考えることである」という、ヒュームのような経験主義的哲学だった。

だが、僕はそこに「感覚的判断」を追加する。すなわち、経験から感覚的に判断することで、「ビジョン」を得ることができる。このビジョンによって、「ありとあらゆるものの発想と実現の可能性」が見えてくる。この世界における「実体」にはたくさんの種類があり、どのような社会であっても実現可能で、それは無限に進歩するということが僕には分かった。そこには「正しい社会」などはなく、「すべては可能性のひとつにすぎない」と僕は考えるようになったのである。