僕が真に必要としているのは、「本気になって取り組むこと」だということが分かった。
そもそも、歩き回る病気がなぜ治らないかと言えば、それは「本気で頑張っている部分を消すことができない」からである。
体も、心も、常に「本気になって取り組みたい」と本能で望んでいる。だから、本気で戦っていた頃の、足の感覚を棄てることができない。
だが、今、僕はデザインの勉強を頑張っている。今日は今からピアノにも行く。文章も書いている。
これらの自分の頑張っていることについて、本気になって取り組むことができたら、僕の病気は楽になる。
必要なのは、がむしゃらになって、あるいはめちゃくちゃになってでも、本気で今やっていることに取り組むこと。それこそが、もっとも大切だ。
また、聖書は最高である。
自分の何が間違っているかが本当に分からないと、すべて自分は正しいと勘違いしてしまい、傲慢かつ悪を悪だと気付かずに悪をするような人間になってしまう。
だが、真実は聖書に書いてある。聖書を見れば、「本当に自分の何が間違っているのか」が分かる。
また、自分の性別としては、女を選んで正解だ。
男になると、どうでもいいつまらない人生を生きることになってしまう。
だが、男が馬鹿である、ということが、転じて「本気で頑張っている人間が馬鹿である」という風にならないように。男は馬鹿かもしれないが、本気で頑張っている人間は馬鹿ではない。
女は、何も本気で頑張らず、頑張っている人間を馬鹿だと思い込む人間が多い。男は馬鹿な性別だが、本気で頑張っている男はまったく馬鹿ではない。
本気で頑張った部分を、精神は残そうと本能的に望む。
だが、「死に物狂いで、異常なほど頑張る部分」「地獄を耐える部分」「自分を破壊して犠牲にしてまでこの世界のためにつくす部分」は要らない。
そのような「異常な努力」は間違っている。
そして、それらはすべて学校教育が間違っている。学校教育は、異常なほどの無意味な努力を子供たちに強要するからだ。
また、僕の問題は、精神がアレルギー状態になっている。
また、僕は、常に精神を治して生きようとするせいで、精神的に平安な時間がひとつもない。
何もしない時間というのがない。いつでも精神の異常と戦っている。
もう少し、平安な時間があれば、精神も治るかもしれない。
今日はピアノに行ってきた。
木星(ジュピター)を弾いていて分かったのは、右手のメロディよりも、むしろ左手の伴奏のほうを先に読んだほうがいい。そのほうが楽に読める。
また、左手は右手の音符を読んだ後に読むのではなく、同時に読むこと。右手を見た瞬間に左手も読むようにすること。
実際のところ、僕はかつての赤ん坊に戻る催眠療法のせいで、今でも赤ん坊に戻っている。
この赤ん坊に戻る部分を殺してしまえば、きちんと大人になれる。
また、女はやめたほうがいい。
愛と恥を振りまく女には何の意味もない。どこにでもよくいるおかしな女になっている。
赤ん坊の部分を殺せば、そのようなおかしな女が治って、かつての賢い大人になれる。
また、そもそも、ビル・ゲイツを愛する必要などない。
嫌いなら、黙ったままで愛するよりも嫌いだと言ったほうがいい。
聖書には、富めるものも貧しいものも平等であると書かれている。
ビル・ゲイツなんか、嫌いだ。
みんなは、平安な世界、何も変わらない世界を望んでいる。
だから、僕は、この世界を平安に戻して、もう変わらなくする。
もう、悪い独裁者の王によって、操り人形にされることも、クローン人間のように同化させられることもない。
狂いも、恐怖も、疲れも、すべてなくなり、安心して安らげるような世界になった上で、もうこの世界は何も変わらない。
結局、この世界が狂っている理由は、僕が「頂点からひとりだけインターネットで全世界を支配する」という、支配の関係性によってである。
たったひとり、一番上でこの世界を支配しようとするから、この世界はインターネットと僕によって狂い続けているのである。
世界が狂っている理由は、いくらかある。
まず、停止した世界で、時間が人為的な機械になっており、機械が空回りするだけの時間になっている。
次に、僕の言葉に異を唱えることができない。
それから、僕が知性を失えば、この世界は僕と一緒に、同時に知性を失う。
また、僕が許したこと、僕が「既成事実化」したことしか、人々は行うことができない。心理的な「壁」によって、僕が許さなかったことは何一つ行うことができない。
僕は、そのような世界を作ったが、本当は意図して作ったものではなく、僕がやったこの「神の支配」では、そうならざるを得なかったというだけにすぎない。
結局、このような支配による影響は、直接的な「狂い」ではなく、間接的な「無価値化」にある。
つまり、地球にもともとあった価値あるものが、僕の支配によってなくなり、全部無価値化されてしまった。
子供たちが成長するための場所となる土壌や、面白くて感動できるものがたり、賢い発明や科学、ためになる教え、実際に戦って勝っている強者たち、愛を歌う歌、そのような価値あるものが、「ひとりの強権的な世界変革者」によって、すべてなくなり、「無価値化」されてしまった。
すべての素晴らしいものはゼロに戻って、無に帰した。この世界にあった愛も、繁栄も、あるいは毒や滅びさえ、すべてなくなって、「成長することのない子供たちの何もない世界」になったのである。
だが、神を信じることは間違っていない。
神を信じると、偉大な体験をすることができる。奇跡を起こした上で、全知全能の存在となって、この世界を救うことができ、また天才的な才能すら得られる。
すべては、神が決めることだ。僕が決めることではない。僕がこの世界を救いたくても、あるいは滅ぼしたくても、それをするのは僕ではない。すべて、決めるのは神である。
僕はいつもの通り、地獄を生きるだけだ。この地獄から抜け出す方法を、引き続き考え続けるだけだ。
僕は、さまざまなことを知って、考えた結果、逆に知性を失った。
それは、あまりに普遍的になりすぎて、個別的に考えられなくなっているからである。
すべてのことを原理的に考えるあまり、それぞれの具体的な「対象」を見ることができていない。
だから、もっと個別的に考えることで、知性は復活できる。
つまり、知性とは「違う」と考えることである。
これが、学校の教育によって、科学的な「同じ」とする普遍性を詰め込まれてしまう。だが、それは間違っている。
必要なのは「同じ」ではなく「違う」と考えることだ。それこそが、人間の持つ知性である。
また、すべてのことについて、正しいことを言う必要はない。
なぜなら、信じていることをそのまま言えばいいからだ。
世界が滅びていないとしても、自分がそう信じるのであれば、「世界は滅びている」と言っていい。なぜなら、「なぜ滅びたのか」と考えることがそれでできるからである。
自分の信じていることが、もし間違っていたとしても、信じている通り言えばいい。そうすれば、その信じている理由を考えられる。そして、間違いの「原因を解明」することができる。
はっきり言って、女なんかほしくない。
セックスしたところで、単に女が妊娠して悲惨なことになるだけにすぎない。
女なんかほしくないし、セックスなんかしたくない。僕は独身を貫く。
みんな、それぞれ、人生は違うのだ。
みんなが同じだと思っているのは洗脳だ。みんなが同じ尺度で測れると思っているのも洗脳だ。
学校のやり方で人を測ろうとするな。人の真の価値は誰かが勝手に決めるものじゃない。自らが自分だと思ったもの、自らが自分の本質だと思っていることを、自らの価値とすればいい。
相手に「あなたらしくない」と言われたところで、その相手があなたのことを勘違いしていたのだ。
結局、女の部分だけになってしまうと、さらに意味がないということが分かった。
男の部分もきちんとあったほうがいい。
よって、女になるとか、男になるではなく、女の部分も大きくして、男の部分も大きくすればいい。
そうすれば、僕は気持ちよくなれる。