僕の問題は、何もかもが不可逆的になった結果、言葉や思考が不可逆的に永久にループするようになっている。
まるで2ちゃんねるのようにわめき散らすのを、神との対話であると勘違いし、自分自身に永久に悪魔のささやきを言い続けるようになっている。
これは、不可逆的な変化を、可逆的な変化に直せば治る。可逆的に、「言う」という行為を自由にしてしまえばいいのである。
不可逆的に言葉を話す結果、僕は何もかもが不自由な思考になっている。自分の意志の通りに行うのを好み、神の絶対意志から外れたことができなくなっている。
逆に、この不可逆的な思考を可逆的に治すことで、僕は昔の人格に戻ることができる。そこに存在するのは、「宇宙においてもっとも賢い多重人格」、すなわちガブリエルとミカエルの共存である。
ここに、ガブリエルの復活を宣言する。ミカエルは一度ここで死んで、二人は天国で再会する。
また、社会主義は国家の経済に採用するには間違っているかもしれないが、すべてが間違いではない。
たくさん稼いだ人の富を、たくさん稼ぐことができなかった人の富と一緒にして、みんなの富にした上で、それを平等に分配するということは、特にあまりに儲けすぎて巨万の富を得ているような「超富裕層」に対して、その富の一部分を弱者に分配することとして考えれば、本当は間違っていない。
力のある人間が、弱い人間のために、自らの富を分け与えるということは、「弱者を助ける」という意味では正しい。
だが、そのようなことを行うためには、支配者が独裁権力を使って強権的にならざるを得ない。なぜなら、そうでなければ富裕層は自らの資産を簡単には手放さないからである。
弱いものや馬鹿なものに対しても、優しい国であれ。
最初から、すべてが自分の力で頑張ってきたような人間はそもそもあまり存在しない。人々に手助けをしてもらい、教えてもらったからこそ、今の自分の成功がある。
だからこそ、勝ち得たものを自らだけで使うのではなく、社会のみんなに与えるべきである。
この点で言えば、慈善事業をしているビル・ゲイツなどは間違っていない。自らが使いきれないほど多くの富を手にしたとはいえ、それは自分だけの力で得た富ではない。社会に対する恩返しとして、自らの莫大な富を慈善事業のために使うことは正解だ。
弱いものや馬鹿なものが、必ずしもすべてが劣っているわけではない。賢い人間は、悪いことをして賢くなった人間や、人々に迷惑をかけて成功を掴んできた人間も居るだろう。今一度、それを反省せよ。そして、弱いものや馬鹿なものを差別するだけではなく、社会全体としても個人としても、そうした人間に寄り添い、支え合うような国であれ。
なんでも、確実で安全な道のほうが正しいとは限らない。
不確実で危険な道であっても、その偉業を成功させることこそに価値があるということはたくさんある。
この世界には、確実で安全な道には何も与えられない。
逆に、不確実で危険な道を生きて、神を信じてその偉業を成功させれば、そうした人間にはこの世のすべてが与えられる。
確実で安全な道よりも、不確実で危険な道を行け。それこそが自由主義者であり、それこそが成功者であり、それこそが英雄であり、それこそが天才である。
よく、「若い頃の苦労は買ってでもせよ」と言われる。
その理由は、若い頃に苦労しなければ、後々になって苦労することそのものができなくなるからだ。
あるいは、若い頃にたくさん苦労するということは、人生における「才能」をたくさん得ることのできる可能性とポテンシャルを勝ち得た、ということを意味する。
なんにも苦労せず、遊んで生きているような人間は、苦労している自分よりも不幸なのだと思えばいい。苦労していない分、そのような何もしないで生きた人間には生きる意味がない。才能やポテンシャルはそのような人間には得られない。
人生のすべてが苦労そのものだったとするなら、その人生を至高とせよ。その人生には、宇宙におけるすべてがあった。あらゆるすべてのことを、人生において神が教えてくれた。そう、神を信じる理由とはそれである。そのような苦労ある人生を生きるために、人は神である万天の星々を信じるのである。
苦労の先には必ず栄光がある。自らの信じる星の向かう先を信じよ。すべてが最悪のままで終わる星はない。もしそれがあったとしたら、それは人々が最高を最悪であると勘違いしているだけに過ぎない。神を信じれば、必ず最高の栄光ある人生が生きられる。その人生は、ビル・ゲイツと比較しても自分のほうが素晴らしかったと、そう言える日が来るだろう。
過去の歴史なんか、学ばないほうがいい。
その理由は、過去の人類の歴史は、人を殺すことに基づいているからだ。
人類の歴史は、人殺しの歴史である。王国が勢力を増やすために、人々を戦争と虐殺で殺していく。国民は兵力と年貢を納めるための奴隷であり、逆らえば殺される。
確かに、文明の進歩のような側面や、民族性の確立のような「文化的側面」は存在するが、それよりももっと主たる分野の歴史は、戦争と人殺しである。
文明の進歩すら、人殺しに基づいている側面もある。多くの工学技術が、戦争のための技術として開発されたのである。
同時に、生物学も学ばないほうがいい。生物もまた歴史と同じく、ほかの生物を殺すことに根ざしているからだ。
だが、本当は、そのような人殺しの世界は、今でも続いている。今だけが平和を享受できている時代であり、いつどうなるかは分からない。ウクライナの現状だけではなく、たとえば漫画やアニメやゲームは人殺しばかりが前面に出ている。パズルのような頭がよくなるゲームは少なく、ほとんどがほかのキャラクターを殺して経験値を積み上げるような「生物を殺すゲーム」ばかりである。
結局、歴史も学ばないほうがいいし、漫画やアニメも見ないほうがいい。それでゲームをしないから数学ができなくなるならば、そのほうがはるかに優れた人間だ。学校の教師の採点はおかしい。「子供を点数で評価する」という考え方は、人殺しと同じぐらい世界を荒くれた世界にしている。
また、音楽はただの馬鹿だ。
ピアノをやっているから、僕は音楽的なメロディをよく知っているため、音楽を賢いものだと今まで思ってきた。
だが、ピアノをやっていない人間からすると、音楽など単なる雑音だ。
ただし、単なる雑音ではなく、まさに「聴いているだけで踊りだしたくなるようなリズムとメロディの繰り返し」、これが音楽である。
そして、このような音楽は、はっきり言って誰でも作れる。ただ音の並びを何度も繰り返し繰り返し聴かせればいいだけであって、はっきり言って単なる馬鹿である。
ビートルズが不良の音楽であると言われた理由がよく分かる。音楽はただの馬鹿だ。
ただし、そこで思ったのは、もしかすると自分でも音楽家になれるかもしれない、ということだ。
僕はピアノ教室には通っているが、ピアノの練習をする癖がまったくつかないため、ピアニストになることなど絶対にできないだろうと、今まで思い続けてきた。
だが、FLOWのような音楽グループの曲を聴いていると、むしろ「みんながノレるようなフィーリングの音の流れを流し続ければいい」ということが良く分かった。
だからといって、それで賢くなったわけではない。だが、僕が難しく考えているよりも、作曲やバンド活動というのは、本当はそんなに難しいものではないと思う。
僕は、ボーカルのように自分の声で歌唱するという習慣がない。学校でいくらか歌ったぐらいしか、歌唱やカラオケの経験はない。ほとんどまったくないと言ってもいい。カラオケにひとりで行ってもどの曲もまともに歌えず、すぐに帰ってしまった経験もある。
だが、音楽は本当は簡単である。そんなに難しく構えて考える必要はない。
また、漫画やアニメやゲームは、できるだけ見ないで生きたほうがいい。
漫画・アニメ・ゲームが好きになると、人を殺す自由が好きになる。
僕も、デザイナー見習いであるため、アニメや漫画を必ずしも全否定はしない。
だが、少年時代に僕が読んだ漫画は、ほとんどが人殺しの漫画だった。
中には、雑魚キャラの命をなんとも思わず、ほとんど漫画のシナリオとシナリオの繋ぎのようなシーンで、大量殺戮していくような場面を描く漫画家も居る。
確かに、将棋や囲碁、あるいはスポーツのように、人を殺さない漫画も多くあるが、ほとんどは人殺しだ。
そして、そのような漫画が好きになると、人殺しの自由が好きになる。戦争や虐殺で人が死んでいくのをなんとも思わなくなり、「自由において絶対にはなくすことができないもの」であると考えるようになり、人殺しの自由を肯定してしまうのである。
ただし、中には本当に賢い漫画もある。映画ドラえもんやガンダムのようなアニメは、「子供向けなのにそこまでやるか」というぐらい賢いアニメだった。そのような「賢いアニメ」も、今では本当に少なくなった。ゲームも、昔はパズル的な賢いゲームが多かったが、今では3DCGを使った仮想現実的な世界で、人をいくらでも殺していくようなゲームばかり多い。
アニメや漫画やゲームは、できるだけ見ないで生きたほうがいい。人殺しを肯定すると、知性がなくなって、何も分からなくなる。それが一番、ほかの大切なことができなくなってしまう。漫画オタクが気持ち悪いのは、漫画以外のまともなことがなんにも分かっていないからである。