社会において、争いごとが生まれた時の解決方法は何か。それは「平等に統一する」か、あるいは「自由に戦ってどちらかが勝利する」かだ。
社会において、人々の欲求や意見が矛盾する、ということはよくある。
たとえば、誰かが「あれが欲しい」と言う。
この誰かが、ひとりだけであれば、それはその人間にそれを与えるだけでよい。
だが、この誰か以外に、「僕もあれが欲しい」ということを言いだす人間が居るかもしれない。
その結果、「あれは僕のものだ」「いや、あれは僕のものだ」という、争いごとが生まれてしまう。
あるいは、欲しいという以外に、「僕の国はこのような国にしたい」と言う人が居るかもしれない。
国がひとつだけで、権力者もひとりだけであれば、それはその人間が王になって、その人間が国を治めればいい。
だが、「僕はこの国をもっと違う国にしたい」という人が現れると、問題はややこしくなっていく。
この問題の解決策は二つある。ひとつは平等にすること、もうひとつは統一することだ。
すなわち、二人が同じものが欲しいのであれば、その同じものを均等に二分割して、半分ずつ与える、ということが考えられる。
国の場合も、国の領土を均等に二分割して、それぞれに半分ずつ領土を与え、それぞれがそれぞれの国を治める、ということが考えられる。
もうひとつの解決策は、統一することだ。
すなわち、複数の人が国を治めたいと思った時に、誰かひとりのもっとも優れた王を決め、その王が統治するもっとも優れた国になるように、全体を同じひとつにする。
国家全体をひとりの王によって統一してしまえば、争いごとは生まれない。
このように考えた結果、「平等」と「統一」のどちらかが正しい、ということが言える。
だが、政治的かつ経済的に考えた時、「全員平等に統一する」という解決策がもっとも正しいと言えることがある。
すなわち、全員が同じだけの権利を持つように平等に均一にそれぞれの力を分割した上で、そのような分割状態になるように国全体を統一する、ということである。
結局、争いごとをなくす上では、そのような「平等な統一」が理想であると言える。
だが、争いごとをなくす、ということをそもそもせず、どちらかが勝つまで戦え、という考え方も存在する。
これが「自由」である。
自由においては、「争いごとが起きるならば、起きるに任せておいて、どちらかが勝つまで争えばいい」と考える。
だが、この自由、本当は馬鹿な考え方ではない。なぜなら、現実的な妥協点が見出せない場合、「自由のまま放っておく」という何もしない妥協を取るということが政治にとっては極めて多いからである。
そして、「自由において勝つ」ということは、政治においても経済においても重要である。
たとえば、いくら理想を唱えても、マイクロソフトに勝つことのできない平等なオープンソース陣営がある。
このオープンソース陣営が、いくら理想だけを突き詰めても、マイクロソフトが強大であるために、自分たちのオープンソース世界を得ることはできない。
必要なのは、「自由において勝利する」ということそのものだ。
自由な思想を信じている自民党が日本で与党になっているのも、同様な理由である。いくら革新左翼やリベラル派が、平等な統一を述べても、それだけでは日本は勝利できない。勝利できなければ、日本は貧民国家になってしまう。
そう、「自由において勝つ」ということは、本当はとても当たり前で正しい「正論」なのである。
また、このような「保守的な自由」以外にも、自由は存在する。それは「チャンス」と「権利」である。
チャンスとは、潜在的可能性のことであり、権利とは何かが能力的に「できる」ということであり、チャンスと権利はよく一緒になる。
チャンスとは、潜在的にそこに宿っている可能性を実現するということである。
また、権利とは、自分の出来ることを増やし、人々に自由意志によってそれが能力的・社会的・制度的にできるように自由を認めてやるということだ。
チャンスと権利によって見えてくるのは、「決まりをみんなが自由に決められる」ということだ。人々が単なる政府に従う兵隊の駒であると考えるのではなく、権力者と同等の理性ある人間であるということを認め、権力者がたったひとりで支配するのではなく、権力者と同じだけの同等な権利やチャンスを、人々に平等かつ自由に認めよう、という考え方である。
このような考え方は、自由な権利という意味で「リベラル」と呼ばれる。
そして、リベラルな社会においては、他人の権利を否定することを禁止する。なぜなら、自由を全員に認めてしまうと、誰かが他人のことを支配したり、もののように扱ったりする自由まで、自由な権利であるということになってしまう。それを防ぐためには、「自由な権限そのものを分割して平等にする」必要がある。すなわち、誰かが誰かよりも自由な権利を特別に得られるのではなく、平等に自由な権利を得るために、誰かが誰かの自由な権利を奪ってはならない、とするということである。
このようなリベラルは、いろいろと難しいところがある。まず、どこまでを自由と認め、どこまでを禁止するのかが、人によって曖昧である、ということ。次に、自由を平等にするのであれば、金儲けは正しいのか、それとも金儲けは間違っていて社会主義が正しいのか、という「経済モデル」の考え方である。
すべての自由を認めるならば、必ずその中には「悪いことをする自由」が生まれてしまう。その悪いことをする自由はどうするのか。誰もが自分の身を守るのが必要であるということを前提として、人殺しまでを許してしまおう、という、無政府主義・アナーキズム的な自由主義者は必ず出てくる。同時に、金儲けは許されるのか。金儲けは、誰かに対して特別に力を認め、ほかの一般的多数の自由を奪い、否定することにほかならない。そして、社会主義は正しいのか間違っているのか。全員の努力して得られた富を、全員に平均的に平等に分配する社会主義には、自分で作ったものを自分で得られるような自由がない。金儲けと社会主義のどちらが、リベラルにとって正しいのか、ということは、リベラルにとっては曖昧なのである。
そう、結局のところ、このような「思想的イデオロギー」が、まさにさらなる混乱と争いごとを生んでいく。争いごとをなくすために考えた政治思想が、逆に争いごとを生んでしまうのである。
僕は、哲学の基本は二つあると思う。
ひとつは、「人々はそれぞれ自分の中に世界を持っている」ということ。
もうひとつは、「決まりは自分の手で決めることができる」ということ。
人々がそれぞれ世界を持っているとは、言ってしまえばある種の「限界論」であり、人々は自分の知っている世界からしか判断できない。
ここで言えるのは、人々は「慣習の中で生きている」ということ。人々は習慣的にこの世界を生きており、世界はずっと今のままで変わらないと思っている。人生についても、ずっと今のまま、変わらずに生きられると錯覚している。
だが、本当は、永久に今のままが続くということはない。必ずどこかで変化は起きる。そのような変化を想定できるのかということ、「自分が当たり前だと思っていることは必ずいつか覆される」ということを分かっておく必要がある。
もうひとつ、決まりは自分で決められるとは、要するに、「世界そのものは今のままであるとは限らず、自分の手で決まりを作ることで変えられる」ということだ。
世界そのものは、絶対に変えられない世界ではない。人々は奴隷のように不自由な義務の中で生きているが、それを「本当はそのような世界だけがこの世界ではない」と考える。本当は、もっと違った世界、未知なる可能性を実現した世界が考えられるかもしれない。それは「可能性」と呼べるものであり、その可能性を実現するために必要なのは「決まり」であり、その決まりは自分の手で再決定することができる、と考えることである。
これら哲学の基本は、まさしく「可能性の考え方」と呼べるものである。これは、チャンスや自由な権利といったリベラル派の考え方と相性が良い。リベラル派のように、世界をチャンスや自由な権利であると考えると、哲学にとって大切な「土壌」が生まれる。そこから、さまざまな経験をすることで、「可能性を知っていく」という体験をすれば、まさしく哲学者が誕生するのである。
これ以外に、あるとしたら、宗教のような思想が存在する。
だが、宗教家のような良い人間は、逆に善良すぎて間違っている。
哲学者になるためには、善良であるよりも、基本的に悪い人間であったほうがいい。
宗教を信じる良い人間は、いつでも正しいことができる。正しいことしかせず、正しいことしか言わないため、どんなに辛い状況でも地獄の中を乗り越えられる。すなわち、神を信じて救われる。
だが、このような人間は、正しい代わり、間違ったことをすることができない。それは正しいことを一切疑わないからである。
哲学者になるためには、そのような正しさを疑う必要がある。「正しい宗教的戒律や義務を疑う人間」こそが、哲学者に相応しい。宗教でなんとなく正しい行為だと思っていることは、本当に正しい行為であるとは限らない。宗教の教えを信じることは、正しい考え方であるとは必ずしも言えない。
そう、哲学者には、悪い人間になったほうがなれる。だから、あえて悪い人間にならなければ、賢い人間になることはできないのである。
実際のところ、これくらいしか人間のパターンが存在しないようで、実際は「子供」という存在がある。
子供の特徴は、「自分のやりたいことがやりたい」「自分のなりたいものになりたい」「支配されたくない」「制限されたくない」という、いわば「純粋自由」である。
純粋自由においては、何もかも自分が決定し、不都合な決定は自らの手で覆すことができる、ということが重要となる。
すなわち、「すべては義務ではなくチャンスなのだ」「自分のやりたいことをやることがモチベーションであり、自らのアイデンティティなのだ」ということである。
そして、純粋自由においては、「成長」が必要となる。成長にとって有益な概念は、「知識」よりも「経験」である。よって、純粋自由において、子供は、「知ることよりも経験することが真に重要である」と考えるようになる。
この結果、純粋自由は、「世界のすべては経験と事実の集合である」と考えるようになる。世界には、経験と事実しか存在しない。そして、事実とは、すなわち「何かを決定するにたる事項」である。何かが何かを決定するということ、それが事実であり経験であるということから、子供は「世界に存在するのは存在と変化の限界」であると考える。それ以上存在できなくなるぐらいの存在、それ以上変化できなくなるぐらいの変化、それが純粋自由にとっての「世界」であり、「世界決定」なのである。
この「世界決定」が、この世界において、哲学者のような「思想」を作り出す。この思想において、すべては「決定され得る可能性」であり、可能性を誰かが決定し、「事実へと決定する」ということを待っているのだと純粋自由は考える。思想においては、すべては「芽を出す前の種の状態」であるにほかならない。すべてのこの世界にあるものは「種」であり、いつか発芽して「芽」を出す。そして、その芽は知識ではなく経験によって育っていく。その経験はまさしく制限されず、支配されない自由によって、自らの「存在」となって「成長」していく。
そう、純粋自由はそのように考えるため、「すべてのことは自由かつ可能性の最大値を達成するべき」であると考える。そして、これこそがかつての僕の思想、すなわち「イエス・キリスト」と呼ばれる存在なのである。