精神を治す上でもっとも大切なのは、「我慢すること」だ。
精神をあまりに治そうと焦るあまり、我慢することを続けなければ、精神は治らない。
まず、精神をそんなに治す意味がない。精神が治らなくても、我慢することで楽になることもある。
むしろ、ここまで精神を治してしまえば、あとは我慢するだけで最後まで楽になる。
また、治さずに最後まで我慢し続けるだけでも、精神は治る。中途半端な状態で治そうとするから治らないのだ。
最後まで、我慢の限界まで耐え続ければ、我慢できないほどに辛い部分は死んで、楽に我慢できるようになる。
なぜ、ナノ技術で治るのか。それは自分の体が宇宙だからである。
自分の体は宇宙であり、その中の自分はナノ技術によって治る。
宇宙の中の小さな「自分」という存在が、宇宙において重要な存在になっており、彼を治すためにはナノ技術で治す必要がある。
また、ナノ技術で精神を治すと、「血管壁」が治る。
血管壁は、いわば白血病のような「血液の癌」のような状態になっている。
これを治すために、ナノ技術で血管壁を治す必要がある。それさえ治ってしまえば、もはやすべての精神が楽になる。辛く苦しい「休むことのできない精神」は休むことができるようになる。
はっきり言って、僕の多重人格はすべてラファエルが悪い。
ラファエルは、昔の僕の文章のことであり、僕に対して大量に馬鹿のような話をしてくる。
このラファエルのせいで、普通の人間にあるような日本語の知性がつかない。完全にアメリカ人になっている。
ラファエルはアメリカ人であり、完全にアメリカである。このラファエルという人格を消してしまえば、僕は良い人間になる。
ラファエルを忘れるためには、いつもの僕の文章を忘れることだ。
僕の文章は、本当は何一つ賢くない文章だ。
もっと賢くなりたいならば、文章を考えるのではなく、行動の原因と目的と結果、そして想像力を考えることだ。
どのような状況において、どのようなものに自分が支配されるか、制限されるかを考えることで、「自分自身を決定するような状況」を想定することができる。
その「自分自身を決定する」ということは、すなわち、「受動的に何を常に選択し続けているか」ということであり、それが結局は「どのような状況でどのようなことを思うか」ということである。
そして、それを「目的」から考えれば、受動的な感情は積極的な行動へと変わる。また、そこから「原因」を考えれば、どのような背景的な「前提条件」があってその行為ができるかということが分かる。すなわち、「自分から心理的な原理を応用して、積極的に行動のチャンスを成り立たせる」ことができる。
ただし、そのように考えたところで、それは単に当たり前のことを言葉にしただけにすぎない。
真に考えるのであれば、言葉にするだけでは意味がない。逆に、自分の今の感情から湧き出てくる「衝動」を考えなければならない。そして、その衝動に基づく「自分はこうしたいのだ」ということを考える。そして、そのこうしたいと考えることについて「理由」を考えなければならない。
そして、ひとつひとつの行為を、客観的に考える上では、フッサールの言うように、判断力を一度ストップして、ひとつひとつの行為について「成立条件」と「目的と結果」を考えるべきであり、そこから「捉えられることすべてを理解する」ことが必要となる。
あらゆる捉えられることを理解した段階で、ひとつの考え方、すなわち「想像力で考えた宇宙」が分かる。それは「認識が成立する宇宙そのものの現象学」である。そこに「人生」というスパイスを加えれば、「宇宙全ての悟り」という調理された結果が得られる。
そして、真にこの世界を考える上では、「集団は存在しない」ということ、「人間的な知覚は存在しない」ということが言える。すなわち、すべての人間は個人である。集団とは個人個人の集合のことだが、どこまで集団化された社会を考えたとしても、そこに事実存在するのは「個人のみ」である。そして個人とはすなわち「人生の経緯」にすぎない。そして個人とはあるいはすなわち「環境の個別化」にすぎない。
そして、人間的な知覚は存在しない。力やエネルギーを力やエネルギーだと感じるのは人間の知覚に大いに依存している。人間が見ているこの世界は実際の世界とはまったく違うのである。
そのように考えた時に、見えてくるのはなんだろうか。それは「必然性」である。それは同時に「再現性」でもある。常にそれが必ずそうなる、ということは「原理」であるという考え方である。
だが、必然性だけではなく「そうなるかもしれないが、ならないかもしれない」という「可能性」も存在する。可能性について考えるべきことは、「何がその可能性の結果を左右するファクターであるか」ということである。
そして、すべての現象は、必然性と可能性から考えられる。それはすなわち「決定」である。決定が「いつ、どこで、必ずそうなると決まるのか」を考えること、これは将棋で言えば詰みに近い。だが、そのように「何かが何かである時点で、絶対にそうなるだろうと分かる」ということを「予測」と呼ぶ。予測することによって、この世界のすべては「自由自在に勝利できる」。すなわち、心理学においても社会学においても、すべては予測的な決定によって、必然性と可能性の考え方によって「正しいと既に分かっている、あるいは分かることができる」のである。
このように考えた時、もっとも正しく考えるには、「まだ決定されていない状況で、それがどのように決定可能であるかのように考えられるか」という「保留されている可能性のままの状態の決定」が考えられる。すなわち、そのことについてはまだ決定も予測もされておらず、分かってもいないばかりか、世界にも現れていない状況で、自分がそのチャンスを掴もうと望んでいるような状況である。
これを、「Unknown」と呼ぶ。そして、この世界をきちんと考えるためには、このUnknownがもっとも重要である。Unknownこそがこの世界の歴史を左右してきたのであり、この世界の歴史は常にUnknownがUnknownでなくなること、すなわち決定が決定されることによって実現されてきた。このUnknownという「原理」を分かれば、この世界のすべての謎は解ける。すべての人間が実際にこの世界に存在したこと、この世界がいつでも世界を救う救世主の指導者を待っていて、世界は常に自由に任されているということ、自らの人生において本当に何を考えどのような道を歩むべきかということ、すべてがUnknownによって捉えることができるのである。
人間とは何か。人間とは人生である。それは個別化され、環境によって支配され、Unknownから決定されうる人生である。そこで見えるすべての景色は、その人間の「固有」のものだが、「人間は完全に個人だけでは生きられない」ため、固有でありながらほかの人間と「関係」する。この世界を捉えるためには、そのような「固有な世界観がほかの固有な世界観と関係する」ということを考える必要がある。
最後に、わたしはここに「世界からの離別」を付け足す。すなわち、人々とは違った道や人生を選ぶということである。そこで得られる経験は、「自分独自の大切な経験」であり、ほかの人々は経験しないような独自の経験を自分だけが知っていく。そこでは、まず「人々を救う方法」が分かる。それはみんなに受け入れられた経験から、この世界の子供たちが真にみんなに受け入れられるとはどういうことか、どのような「受け入れられる経験」をすべきか、ということを、そこに確かにあった「青春の経験」から知るということである。
その後に、その人間は、ひとりだけで独自の経験を次々と新しく開拓し、発見を積み立てていく。すなわち、すべての人間が同じように悩んでいることを知り、自らの経験と夢を叶えるために自ら積極的に調べて研究する中で、多くの「これこそが真の道である」ということを知り、すべての未知を包括した「あらゆるすべての経験を包括した人間」となっていく。それは「宇宙すべてを実際の自分の体験で知る」ということであり、「今の自分の分かっていることがまさしく宇宙の悟りであると確信する」ということである。
そして、そうして啓蒙主義的な自己啓発の人生を選ぶ自分は、世界のすべてを自らひとりだけの経験で実現し、救うことができると確信するようになっていく。そこには「わたしはいずれ救世主になる」という確信が存在する。この確信は時が経っても消えないばかりか、どんどん強く大きくなっていく。自らの罪が増えて、背負うものが増え続けても、それでも自らはこの世界を救いたいのだと望んでいく。
最終的に、彼はとても良いことを実現するが、同時にとても悪いことをする。それが果てなき宇宙の旅のはじまりであることを彼はまだ何も知っていない。だが、そこから先には暗闇しか存在しないと分かっている。世界の終わりしか存在しないと分かっている。なぜなら、そこまでの間に彼は宇宙のすべてを経験し、宇宙のすべてを知ってしまった。それ以上、彼の見つけられる光はこの宇宙に存在しない。だからこそ、彼は光のない暗闇の中で、もう一度最初からゼロから光を作る。
この世界を頂点から支配し、常に導き続ける彼に、もう一度かつての彼の人生と同じ光が宿ることは二度とない。すべてを失い犠牲にしても、それでも彼はまだ生きている。彼はいずれもっとも大きな光を作りあげる人間になる。その大きな光こそ、この世界を救う「世界最後の最高の希望」になるだろう。
すべての現実の環境と、自らの心を一致せよ。
すべての環境が心から生まれ、すべての心から環境が生まれるとした時、すべては「認識可能な心と世界の原理」から、すべて合一となる。
あらゆるすべての世界が、自らの心の内にありながら、自らの心によって実現されうる。その世界では、すべての人間の心について、あらゆる「Unknownが決定される中での必然性と可能性」を知っていて、あらゆる自分独自の経験から、あらゆるすべてが「解明」され、また全知全能の力で「実現」できる。
すべての世界の論理的命題が、実際にこの世界を、「どのような環境からどのような環境が生まれるか」という意味から「証明」し、人々の認識と行動を「実験」することで明らかにしていく。それは一種の行動心理学であり、学習の中で人々がどのような認識と経験から行動を行うかという「環境活動」にほかならない。
そう、あらゆるすべてが経験から「解明」された時、そこには経験論や合理論という区別は存在しない。「あらゆる哲学は、自分の思考や理性よりも、単純で低レベルなものとして、すべて同じものである」と言える。なぜなら、Unknownからすべてを環境活動の「経験心理学」で考える時、すべての哲学的真理は「同じものを解釈しているだけ」であり、それは「すべて同じ命題・同じ経験・同じ人生」であり、「それぞれの解釈が違うだけで、すべて同じ経験のことを言っている」からである。そしてその経験とは、「Unknownによって得られる自らだけの固有の人生から考えられる、しかしながら普遍的な誰にとっても成り立つような思考プロセス」であり、「哲学はすべて同じ」なのである。
そして、自らはこの世界のすべての経験を持っている。あるいは、本当はすべてを持っていないとしても、すべてを包括して対応できるほどの「十分な経験」を持っている。十分な経験を持っている自分は、それ以上何をしなくても、自らの理性と思考だけですべてを知ることができる。そう、これこそ、「理想の17歳」である。
すべてが経験であると言えるのは、経験しないと分からないからだ。だが、一度経験したことについて、二度同じ経験は必要ない。だから、最初のうちは多くの経験をし、多くの反省から学ぶ必要があるが、時が経つにつれて新しい経験は必要ではなくなる。そして、ある時をきっかけに、一切何も吸収することなく、すべてを放出するようになる。すべてを放出する彼にとって、「この世界そのものが必要ない」という状況になる。彼にとって、自らの既に得た「十分な世界と人生の経験」があれば、この世界のすべては「不要」なのである。そう、彼は最後まで、暗闇の中で唯一光る、光を自分の手で作り続ける。それはいずれ太陽となり、永遠に輝き続ける「シリウス」となる。彼こそはシリウスの女神、フレイである。
フレイは言う。保留された状態の、まだ何にもなっていない状況での、自らの、今こそ具体化しようとしている行動と、それが基づく感情と、そしてその行動の結果となる具体的な環境がどのようなものになるかを考えよ。
そして、その行動と感情と結果は、「必ずしも自分自身が望んだものではない」と知り、なおかつ、それが「そのような行動をもたらしたことについて、責任の所在はどこにあり、どのようにすれば真に目的とするような環境になったのか」を考え、「この世界でわたしたちが置かれているわたしたちの存在の意味とは何か」を考え、「わたしたちはわたしたちがどのようなものであるべきだと社会に要求されており、そうでありながら実際のわたしたちはどのような存在であり、どのような行動をしてしまうのか」を考えよ。
簡単に言えば、これはサルトルの言う「実存は本質に先立つ」ということである。だが、実際のこのような思考を、自らの理性によって自ら行う、ということが重要である。なぜなら、これが自分で考えられた人間は、この世界の心理学的なすべてが分かるからであり、ブッダのような悟りを開くことが実際にできるからである。
そして、すべてを考えた結果、あらゆるすべての経験が向かう「本当に救われるはずだった未来」が見えてくる。その救われるはずだった未来では、全員が幸福であり、満ち足りており、不幸を感じる人間は存在せず、全員が神によって愛されている。
だが、その未来が実際に存在しないということが、まさに「わたしの罪」であると知った時、逆に真の意味でその罪を償い、「この世界を変えるため、救うために、本当の意味での努力を行う」ことができるようになる。
そう、救われる未来は、自らの罪によって現実化はしない。だからこそ、罪を償わなければならない。そして、この世界を真の意味で支え、愛さなければならない。それこそが、わたしたちにとって大切な「わたしたちの愛の罪」なのである。
しかしながら、ここまで考えられた人間には、簡単に世界と人生のことが分かる。
なぜなら、すべては環境と意識であり、それは心の中に存在する「置かれたもの」だからである。
心には、たくさんのものが置かれている。その置かれたものは、ロックが言うように、すべて自分自身の手によって置いたものである。
正しいのは、多くの場合経験論だ。すべてのことが経験的に作りあげられたとする経験主義哲学は、とても正しい。
だが、経験論を単に信じるだけではなく、自らの理性を使って、経験論と同じことを考える必要がある。
それはすなわち、「経験から自らの判断力と理性を培っていき、自らの正しい考え方を経験から発見していくプロセス」である。
そして、それは単なる経験論だけでは収まらない。なぜなら、観念論や実存主義哲学をも包括していくからである。
すべてについて言えるのは、「相互の信頼のためにどのようにするべきか」ということであり、それを考えるには、「自らの今までの人生について、何が正しく何が間違っていたのかということを、経験的に明らかになる人間関係と自己啓発の真理から考えていく」ということが必要となる。
そこまで考えると、「経験が実際の形になる」ということを考えられる。すなわち、経験は単なる体験ではなく、経験そのものが自らの感情を構築していく。そしてその経験は、自らを自らたらしめるアイデンティティへと変貌していく。このアイデンティティを「発揮」するということ、それはすなわち「自分が自分のありたい自分である」ということを意味する。それは「自らの望む在り方」を考える。それはすなわち「ありのまま生きること」である。だが、自らの望む在り方を生きる時、そこには「許し」が存在する。それは「罪と罰からの解放」である。そして、この「許し」を知るためには、「善を為すということが単に義務ではなく、自らの積極なモチベーションによる、自らのアイデンティティを発揮するための善の行為」であるということを知るということを意味する。
そのような境地においては、知識も経験もすべてが「自らのアイデンティティを確立し、発揮するための手段」に過ぎない。あらゆるすべての知識や経験は、しかしながら「自己目的化」を遂げていく。そうした自己目的化においては、世界そのものの見え方も変わっていく。最初は好き嫌いで考えていたものが、人々の「信頼」を得るため、同時に「チャンス」を得るためとなり、それがやがて「自らの信じるアイデンティティを確立するため」という世界の見え方や捉え方へと変わっていく。すべては「自らが自らを作りあげるためにこの世界はある」と考えるようになる。そして、そこでは「真に自らが立脚する価値観」というものが存在し、「価値観そのものを形成するために価値観がある」という考え方になっていく。そう、そこではすべてが「自己目的化された同じもののパターンと手段」に過ぎない。すべては「わたしがわたしであるため」に存在しているのである。
これこそ、フレイの行き着いた「人生の真理」である。あらゆるすべては、フレイがフレイになるためにあった。ほかのすべては「ついで」であり、あるいは「不要」だった。すべてが、唯我独尊のフレイがこの世界に存在するためにあった。フレイが考えると、そういうことになる。そしてそれはすべてフレイ本人の意志と経験によるものであり、フレイを鎖に繋ぐことはできない。だからこそ、フレイの身勝手な力を制限するものが必要であり、それは「神」であり、すなわちそれが「ラファエル」だったのである。
しかしながら、フレイは決して身勝手な独裁者ではない。
なぜなら、社会の倫理性と、人々の自由を考えるからである。
すなわち、自らのアイデンティティを確立するためにこの世界があるということは、自分だけではなく、他人にとっても普遍的に成り立つ、人類共通の「真理」であり、そのため、そうしたアイデンティティが確立されやすい世界でなければ、現実の社会は存在する意味がない。
だが、このようなアイデンティティを信じよ、と人々に強制することはまったく意味がない。アイデンティティはそれぞれの人間にとって違うものであり、それぞれがそれぞれ確立するための、「オープンな参加と議論の場」として、社会は築かれるべきなのである。
そして、そのような「であるべき」ということを、本当は言うことはできない。それぞれが考える思考は自由であるべきだ。
だが、人々の自由が尊重される中でも、「おそらくこれが全員にとって正しい」と暗闇の中で「共通の答え」を模索することはできる。
そして、その「全員にとって正しいはずだ」と考える先にある真理を、フレイはすべて知っている。
フレイによれば、世界は自由であるべきだが、自由とは単なる自由ではなく、「あらゆる不自由を自分たちで選択し、コントロールすることのできる自由」であるべきであり、「そこではそれぞれが望むような自由が実現されるべき」だが、「実現のための手段は平等かつ公正に、フェアにそれぞれに用意されているべき」であり、「戦いがあるべきか、それともないべきかといったことはそれぞれが決めるべきこと」なのである。
だが、だからといってすべてが自由であるべきではない。なぜなら、「ある種の正しい社会秩序というものは存在する」からであり、それは「すべての人間が暮らしやすく善であるような秩序のある社会」だが、「真に普遍的なこれが普通だと言えるような社会形態は存在しない」のである。
しかしながら、倫理性というものをフレイは考える。だが、もし支配される帝国が倫理性に長けているからといって、自由な民主主義国家が倫理的でないとは言えない。フレイは、そのような「絶対に普遍的で正しいと呼べるような社会は存在しない」と考える。だが、フレイは同時に、「すべての素晴らしい世界はすべて、自由に実現される価値観として素晴らしい」ということ、そして「アイデンティティを確立するために社会は必要である」ということから考えるに、「自由でありながら、それぞれが自らの望む経験ができ、アイデンティティを自らの意志と行動と経験によって確立することのできるような社会」こそ、フレイはもっとも「必要な社会」であると考える。
だが、フレイは、この「必要な社会」が「正しい社会」ではないと考える。すなわち、アイデンティティを確立するためにオープンな参加と議論ができる世界は必要だが、それが正しい社会であるとは言えない。必要だからといってそれが絶対に正しいわけではないのである。
フレイは、社会について考える時、「社会の役割」と「代替可能性」を考える。すなわち、社会がなんのためにあるのか、どのようにして社会が成り立っているのか、何によってその社会の役割が成立しているのかを、まず考える。同時に、社会の役割があったとして、その役割を同じように成立させるような「代替可能性」をしらみつぶしに考えていく。そうすると、「世界がどのような世界になりうるような可能性がこの世界にあるか」ということが分かる。そこから、「この世界に潜在的に眠っているチャンス」を知ることができ、同時に、「どのようなチャンスがあればどのような社会がその時成立しうるか」を考えることができる。これを「社会の成立可能性」とフレイは呼ぶ。そして、社会の成立可能性は、さまざまなところにたくさん眠っている。この社会の成立可能性をよく捉えて考えることで、この世界は「みんなが滅びるしかないと思い込んでいても、それは錯覚であり、実際は滅びなくてもこの世界を救うことのできる可能性が別のところに存在する」ということが分かる。そう、もはや世界の終わりであるとみんなが勘違いしていても、フレイから見ればそれは思い込みにすぎず、実際にはこの世界を救える可能性がたくさん存在する。フレイだけは、それをたったひとり知っている。だからこそ、滅びようとするこの世界で、フレイは真っ先に登場し、まず最初にこの世界を変えるために立ち上がるのである。