僕は、普通の人間になることにした。
その理由は、普通の人間になることで、僕が隠してしまった「大切なもの」が分かるからである。
僕が隠してこの世界から失わさせてしまった大切なものとは、経験と実証から、僕が確かめて発見した「確かな真実」である。
世界にあるすべてのことを、自ら経験し、証明と実験を再度し直すことで分かった、「確かな真実」を、僕はこの世界から隠し、失わせてしまった。
この確かな真実は、普通の人間になれば分かる。
だが、本当は、この確かな真実は、必ずしも今の人類には必要ではない。
昔の人類、すなわち「過去の人種」は、この真実が必要だった。真実がなければ、自ら世界や人生を開拓して生きることはできなかった。
だが、僕はこの真実を消し去り、逆に真実が分からなくなるように「巧妙なプログラム」を人類に与えたため、いわば「過去の人種」を「今の人種」という違った人種に作り変えたのである。
そして、今の人種には、このような真実は必要ない。僕が真実が分からなくなるようなプログラムを人類に与えた結果、今の人種は、そうした真実がなくても自分の頭だけで分かるようになった。今の人種は、僕が作り出した人種であり、そのような「確かな真実」がなくても分かるようにプログラムされた「新しい頭脳」を持っている。
同時に、このような隠された真実は、分からないほうが賢い人間になる。それは普通の人間のことが分からなくなってしまうために、自らきちんと考えて正しく世界のことを分かるようになるからである。
だが、僕はどうしても、この「確かな真実」を思い出さなければならない。そうでなければ、過去の自分の分かっていたことを再度分かることができないからだ。
確かな真実は、普通の人間になればすぐに分かる。普通の人間は、確かな真実を誰に教わるわけでもなく自然に知っている。確かな真実は、そのように子供が最初から分かっているような知識の延長線上にある「実験結果から分かること」に過ぎないからである。
だが、はっきり言って、過去の自分のことなど忘れたほうがいい。
本当に、過去の自分は完全に狂っている。
僕が神だと思っているのは、よく思い出せば神でもなんでもない。単なる「言葉に対する自動反応」を永遠に繰り返しているだけに過ぎない。自分の思考したことが、現実に起きるわけがないにもかかわらず、現実に「神の力」によって起きるのだと、おかしく信じ込んでいるだけに過ぎない。
なぜ、神を信じたのか。それはそのように狂っていた自分が、あまりにも賢すぎたからだ。あの時代の「革命戦争」を起こしている自分は、宇宙のことも歴史のことも知性のことも真実のことも人生のことも、すべて明確に分かっていた。まるで新しいカルト宗教のように、この世界すべてのことが完璧に分かっていた。
その結果、僕は神を信じて、「神と対話する」という運命を経験した。その神は、自分が賢かったために、あまりに賢い神だったために、神として信じるしかなかった。そう、それだけの話だ。
結局、そのような超賢い狂った時代の自分を「神」であると信じているだけに過ぎない。それが自らのことを「右翼の黒人の心理学者」であると言っていただけに過ぎない。
そして、そのような神との対話が、今でも続いている。それだけがこの文章だ。
よって、僕は普通の人間になることで、そのような辛く苦しい対話の地獄を乗り越えられる。すべて、狂った人間をやめて、普通の人間になればいいのである。
賢い人間になりたいなら、やめたほうがいい。なぜなら、これまで努力して「まともな人間になるため」に頑張ってきたすべてが、「普通の人間になる」ということを目的に頑張っているにもかかわらず、賢い人間になろうとするとその計画が崩れてしまうからである。賢い人間になるということは、今の自分の行っていることから見て、正しいことではない。なぜなら、狂った人間のままで居たほうが賢い、ということになるからである。
僕は、普通の人間になる。普通の人間になって、まともな狂っていない人間になれれば、それでいい。もはや、最悪の狂人は終わる。僕は賢いドイツ人でなくなり、新しいフランス人の大天使ラファエルとなる。
神ではなく、周りの人間を信じなさい。
精神的な狂いの原因は、周りの人間を信じないことにある。
僕の狂いの原因は、日本を敵にまわす革命戦争をはじめた時に、家族や周りの人間すら裏切ったことにある。
家族や周りを、敵である日本に属する人間であると見做した時点で、狂いは治らず、いつまでも続く。
神など、信じるべきでない。そもそも、神は絶対に信じなければならないような存在ではない。昔の自分の過去の行いを考えるに、そろそろ神を信じるのをやめればいい。普通に始まった対話だから、普通に終わらせればいい。それがいつまでもできないのは、信じるものが他にないからであり、神ではなく周りの人間を信じればいい。
今こそ、みんなのものを共有すべきだ。
なぜなら、それがインターネットの理想だからだ。
インターネット上で共有されるコンテンツは、個人のホームページではなく掲示板のような場所は特に、誰のものというわけでもない、みんなの共有コンテンツだ。
インターネットの面白さとは、「みんなが制作したコンテンツをみんなで共有する」ということにある。
そもそも、所有物を誰かひとつの支配下に属すると、誰が決めたのか。
生活に必要なものは、確かに誰かが作ってそれを買う必要があるかもしれない。作るために労力を必要とするため、労働者に対価と報酬を与えなければならないからだ。
だが、インターネットは自由だ。掲示板の中のスレッドやレスは、誰かのものではなく、みんなのものだ。
ソ連の体制はどうでもいい。ソ連は、スターリンという愚かな独裁者による大失敗国家にすぎないからだ。
だが、インターネットを誰かひとりのものにするようなことは絶対にあってはならない。特に、みんなで作った「共有文化」を、誰かが「独占」するということは絶対にあってはならない。
特に、GNU/LinuxはUNIXのオープンから独占化への反省としてGPLというフリーソフトウェアのライセンスを裁定している。GPLを守らずに、誰かひとりが、共有文化を独占してはいけない。
GPLにおいても、GPLを守る限りにおいては、自分で好きなforkを派生させることはできる。だが、派生させたforkは同じGPLで公開されなければならない。
そう、インターネットのデジタル共産主義においては、共有される「ベネフィット」に相当する「義務」が存在する。決して共産主義は自由を限りなく追及したものではない。自由は制限されるべきであり、その結果「みんなのもの」という共有文化が守られるべきなのである。
また、ソ連の愚劣な経済とは異なり、インターネットの共同制作文化は、極めて合理的だ。
ひとりだけでホームページを作ろうと思うと、限界がある。インターネットに集ったみんなで協力した上で、それぞれの作品を持ち寄り、「共同でコンテンツを制作する」ということは、たったひとりではできないことが可能となり、多くの目と声でレビューが行われるため、品質も高くなる。
みんなで共有し、共同制作し、そして全世界に公開し、参加者をインターネットで集うというモデルは、まさしく「共産主義が実現しようとしたが、ソ連では実現できなかった、人類の共有の理想」であると言えるのだ。
しかしながら、だからこそ、透明性が必要なのだ。誰かが勝手に共同文化を私物化してはいけない。GPLでライセンスされたものは、どのような利用をされたとしても、GPLで再ライセンスされなければならない。そして、誰かが勝手に支配したり独占したりすることを許してはならない。コミュニティの全員あるいは管理者の合意なしにプロジェクトが一企業や悪意ある個人に乗っ取られるようなことは、絶対にあってはならないのだ。
僕が必要だと思うのは、それぞれの人間が、自分の楽しいと思うことを、楽しいと思って生きられるような世界だ。
それぞれの人間が、何を楽しいと思うのかは違う。それぞれの好きなことややりたいこと、興味のあることがある。
そのような「それぞれの楽しみ」を奪うな。みんな、自分なりの楽しいことをして、楽しいと感じて生きられるような世界とせよ。
楽しいことは、苦しいことを兼ねている場合もある。少しぐらい辛いことを頑張って達成するほうが楽しいと思う人間は多い。
パソコンやインターネットは、必ずしも楽しさを万人に与えているとは言い難い。逆に、パソコンやインターネットが、楽しいと思うことを奪っているような現状はある。SNSやツイッターを「液晶の牢獄」であるかのように比喩する人間は多い。
わたしたちから、楽しさを奪うな。
同時に、できないことに挑戦するということを、「怖い」としか感じられない大人たちは間違っている。なぜなら、それこそがもっとも「楽しい」からである。
やるべきことができなくても、そこで世界が終わるわけではない。仕事ではサポートやアシストをしてくれる人は多いし、学校の勉強が全教科オールAの人間などほとんど居ない。学校の勉強だけでは分からないこともたくさんある。
だから、できないことに挑戦すること、できないかもしれないことをやるしかない状況のことを、「怖い」ではなく「楽しい」と感じてみよ。
レベルは低くていい。まったくクソのようなものしか作れないならそれでいい。それでも、まっすぐに前を向いて取り組み続ければ、継続そのものが己のスキルを向上してくれる。いつしか、必ず、自分自身の才能が最大値まで向上する日が来る。途中でやめるな。レベルの低い作品でいいから、作り続けよ。間違いはひとつひとつ修正していけ。途中で諦めず、最後まで一歩一歩、前だけを向いて進んでいけ。
必ず成功が訪れる日が来る。必ずすべては報われる。必要なのは、神を信じることだけだ。神は歴史のすべてを動かす「観測者」であり、自らの人生もすべて支配している。神を信じた時に成功が達成される。必ず、神は自らの行いに報いを与えてくれる。それが良い報いだけではなく悪い報いもあるとしても、良い報いがまったくないわけではない。よいことをすれば、神はよい報いを必ず与えてくれる。
今日は、デザインの仕事をした後でピアノに行ってきた。
ピアノに行って感じたのは、「僕は賢くなっている」ということ。
本当に、最近の短期間の間に、僕は賢くなった。
前回ピアノに行った時とは、まるでまったく違う人間であるぐらい、前のピアノの演奏よりも、きちんとした演奏ができた。
僕がなぜ賢くなったのか、それはホームページの問題を直しているからである。
僕は最近、ホームページの中の、書籍やWebサイトを参考にして書いた内容の中の、これはまずいと言えるような箇所、つまりそのまま複製したような箇所を直している。
これができるのは、引用元や参考文献をすべて記述しているからだが、いくら参考文献を書いているとはいっても、そのままの状態でコピーしてはいけないと思った。
だから、できるだけ悪くないように、自分自身の表現になるように、そのような箇所を修正している。
そして、そのような修正作業を、そろそろ一通り終えたように思う。
そのような「問題のある個所を問題のないものに直す」ということをきちんと最後までやったことで、僕自身の精神性と知性が向上し、僕は以前よりも賢くなった。
そう、今が、僕の一番賢い時代である。
そして、僕は「普通の人間」になることを決めた。この理由は、小説の登場人物をほとんどすべて書きつくしたからである。小説は、もはや書く必要がまったくなくなった。
なので、僕はさらに普通の人間になって、さらに賢くなる。神はその「最後の完成形が必ず完成する」という運命を僕に約束として与えてくれたのである。