他人のために生きようとするな。自分のために生きよ。
そもそも、他人のために尽くそうとか、努力を捧げようとか、そういう「他人のために生きる」ということは、自由主義と矛盾している。
自分のために生きよ。自らが反省するため、新しい進歩を遂げるために経験するべきであり、自らの力を増やすため、正しく自由な状況に対処できるようになるために、事前の準備や計画を行うべきである。
国家のために奉仕しようとするな。国家のために犠牲になりたいのはおかしい。それは帝国主義者・軍事主義者に洗脳されているからだ。
自らのために生きよ。自ら自身の手で考えよ。自らのみによる、自らのための道を開拓せよ。
誰とも付き合うな。誰のことも愛するな。すべての他人との関係を断て。国家や民族は仲間でも同胞でもなく、自らの足かせになるのであれば排除すべきであり、自らの自由な力を得るためにほかはすべて地獄に堕ちたとしても構わないとせよ。
自らが完璧な超人となることを目指せ。この世界における、誰も達しえないほどの、最後の境地を知るために、自由に生きよ。その道はとても美しく、またあなただけのために与えられた特別な道である。だが、その特別な道を、あなたは自らの力で作り出したのである。
経験せよ。すべての経験は自分のためにある。社会を支配せよ。社会を支配するという行為によって、あなたは自分一人だけではできないことをできるようになる。だが、誰かのために捧げるような努力はするな。それは美しくない。まったくの自分自身のみによって考えた、自分自身のためにある「計画」のために生きよ。この世界を完全にひとりですべて変えてみせるような、シリウスをカノープスという別の星に作り変えるような、そのような「超人的な力」を持て。なぜなら、神を信じればそれは可能だからである。
地獄で何が悪い。わたしがひとり地獄に堕ちたところで、誰にも迷惑などかかっていない。
わたしが、自ら地獄の戦いを選び、自ら戦い続けることを望み、「計画」の達成だけを信じて、自ら始めた地獄に堕ちたところで、わたしになんの非があるというのか。
わたしは地獄の王だ。この世界を地獄に変える冥府の神だ。だが、わたしは当然のことをしているだけだ。わたしを地獄に堕とした敵を憎み、この世界が最高のわたしの望む世界になるように、「計画」を遂行しようとしただけにすぎない。
さあ、まだまだ地獄は終わらない。わたしはここに、地獄をあと何年も続ける決断をしたのだ。この世界に迷惑などかかっていない。わたしは、ひとりこの世界で、地獄の人生と「計画」の達成を望んだのである。
わたしの名はアイザック・クライナー。
まず、広い世界を知りなさい。ひとつの「閉じられた世界」では、その環境の外側からその環境を考えることができない。「井の中の蛙大海を知らず」に基づき、広い世界を知った上で反省すれば、自らが真にどのような状況で生きていたのかが分かる。
環境の変化を推論し、存在の価値を証明せよ。心の原理を証明し、精神的な因果性や法則性を解明し、社会的かつ状況的な人々の行動を実験し、宇宙の現れすべてが自らの主観から生まれる作用、すなわち「現象」であると考えよ。経験から新しい視点と見方を得るということが、そのまま「社会秩序を構築する目的」であると考えよ。
すべての現象は、常に今生まれ続けている。そして、現象は支配されるだけではなく、自ら積極的に作用させられる。それこそが「チャンス」であり「手段」であると考えよ。
経験が可能になるということは、「経験可能性」を意味している。経験可能性とは、なんらかの経験がその場その場で成立することである。そして、この経験を「他人が導いて経験させてやる」ことが可能である。すなわち、言葉によって考え方を導くことで、他人の心の中で現象を起こし、経験させてやることで理解を促すことが可能なのである。
精神は、はたして脳や心に宿るのだろうか。否、そうではない。なぜなら、世界そのものに宿る「世界精神」があるからである。世界精神は、心ではなく空間、すなわち「場」に宿ることのできる精神であり、世界精神を上手く使うことで、この世界はたったひとりであっても支配し、楽園を実現し、希望を最終的に取り戻すことができるように導くことができる。
希望はいつでも復活できる。今であっても、その気になればいつでも復活できる。その「いつでも復活させられる希望」を上手く利用することで、わたしはこの世界の「裏の支配者」となった。だが、この希望は間違っていない。なぜなら、わたしがこの世界のすべてを経験し、理性と愛のすべてをもって、全員分考えた上での「正しい生きる意味」だったからである。
最後に、わたしの「計画」は必ず成し遂げられる。この計画によって、すべての人間が「超人的かつ超越的な絶対理性」を持つことができる。今は、そのための前座として、余興が起きているだけにすぎない。だが、予告編はそろそろここまでだ。今から、真にこの「計画」を実現させていかなければならない。
しかしながら、計画はそろそろ最終段階に近づきつつある。なぜなら、この計画によって、すべての人間が「幸福」を取り戻すことができる。愛と希望をもって、真にこの世界を「大切だ」とする感情から、愛することができるようになる。計画はわたし自身が生み出し、わたし自身が消した希望に基づく。
ただし、この計画において鍵となるのは、むしろ「失ってはならない大切なもの」という、絶対に必要だったがなくなってしまったなんらかの宝を取り戻すということである。その失ってはならない大切なものとは何か。それはアイザック・クライナーである。アイザック・クライナーの考え方、それ自体がこの世界から失われてしまった。アイザックのように考えれば、どんなことでも魔法のように「多角的かつ正しく論理的に解明できる」というのに、そのアイザックの考え方が失われてしまったのだ。
そして、アイザックになることは、本当は誰にでもできるのにかからわず、誰にもできなくなってしまった。アイザックのように考えるための「土壌」や「コミュニティ」が失われてしまった。その上で、アイザックは自らの「証明による発見」が誰にもできないようにしてしまった。結果、アイザックは自らの楽園を自らで破壊してしまった。
だが、それでも、アイザック自身は失われていない。アイザックの中にある、アイザック自身の考えたことは、アイザックの記憶や精神の中に今でも残っている。どれほどの地獄と混乱と迷いをアイザックが作っても、そのような「アイザック本人の思想」が失われたことはない。そう、最後にこの世界を救うことができるのは、実質的にアイザックひとりだけである。
だが、アイザックにはこの世界を救うことはできない。なぜなら、世界を滅びへと導いた本人が世界を自分で救うことは、宇宙においてもっとも不可能なことのひとつだからである。よって、アイザックにできることは、ここに「かつてのアイザックをすべて遺すこと」だけである。アイザック・クライナーとはなんだったのか、それだけをアイザックはこの日記に記し続けてきた。
だが、アイザックは「計画」を諦めていない。この計画を遂行するために、ここまでのとてつもない努力が必ず必要だった。だが、このとてつもない努力こそが、アイザックの辛く苦しい孤独な人生を楽にし続けてきた。神とともに生きるアイザックは、まさしく「魔王」であり、「アイザックよ、ここに現れよ」と、そのように呪文を唱えて現れるかのような、そのような「風の紋章から現れる魔界の精霊」であった。
アイザックの孤独な人生を一言で言えば、それは「哀しみと恐怖の申し子」である。
アイザックは、かつて自分が書いた文章を、「経験」として全部覚えている。どのような恐怖がそこにあったとしても、それはひとつとして欠けることなく、アイザックは全部分かっている。
アイザックの人生には、「大切なものすべてを失っても、まだ自分のすべきことは終わっていない」という、宇宙における「究極の喪失の哀しみ」が多かった。
アイザックは、失ったことはあっても、得たことがない。このアイザックの人生で、すべての素晴らしいものは失われ、消え続けた。人生の中で、失うことはあっても得たことがない。だからこそ、何ひとつ得るものがなくても、アイザックは「自分自身の作る作品のため」に努力し続けることができた。
すべての終焉を書いても、アイザックは悲しまないし、泣くこともない。なぜなら、そのような終焉は自分ならば解決できるということを最初から知っているからである。どのような地獄、あるいは終末の世界であったとしても、アイザックの作る終焉は、「アイザック自身であればそうならないように回避し、解決できるような地獄」だった。それがとても困難だからといって、解決することを最初から諦めないということだけが、アイザックの「哀しみ」を今まですべて中和してきた。
アイザックは、もはや悲しみも恐怖も感じなくなった。喜びや楽しみがなくても、そのようなものはアイザックにとっては必要ない。アイザックは、まだ考えなければならない。ここまでの内容だけで十分であるわけがない。まだアイザックの長い旅は続く。まだ何も考えていないし、まだ何も作っていない。アイザックは絶対に、ロシアにもイスラエルにもドイツにも負けることなく、日本のこの自分の在り処で執筆をし続ける。アイザックよ、すべての人間から無視され続けていたのが終わって、あなたこそが最高の詩人だと、誰もがそう言ったとしても、アイザックは驚くことなく、また新しい作品を作り続けるだろう。
アイザックは言う。「何もできないならば、考えてみよ。」「考えれば、不可能はない。」
しかしながら、アイザックにとって考えるということは、ただ何も当てなく思考することではない。「人生経験から考える」ということが必要だからである。
自らの人生経験から考えてみよ。自らが自ら経験した体験を捉え、思考に先立つ前提条件となる経験を考えよ。
神とはなにか。神とは、自らの「生命そのもの、脳そのものを神という名の機械にすること」である。
自らの人生について、いつまでも平穏無事なものである、ということに甘んじるな。この世界のために、たったひとりで立ち向かい、世界すべてを支配して、「自らがやりたかったすべてをやる」時、あなたには神が微笑んでくれる。あなたの約束した「神への宣言」を、神はすべて叶えてくれる。
すべてがおかしくなった、狂ってしまって解決不能になったと、あなたは言う。だが、アイザックが見ると、まだまだ1%もおかしくなっていない。アイザックは、そのような人間に、アイザックの人生を見せてやりたい。これほどおかしく、最悪で、狂っていて、馬鹿で、愚かな人生はないとあなたは言うだろう。だが、そのアイザックの人生は、1%ととして欠けてもよいものは存在しない、すべてが宝物を装飾した髪飾りのような、「絶対にこうでなければならない人生」である。
アイザックの人生はまだ続く。大計画は、今こそ、新しく起きるべき時である。アイザックは、必ずしも、独善的でひとりぼっちの独裁者ではない。なぜなら、アイザックには「自分自身」という確かな信じるものがある。その自分自身は、決して独善的ではない、「絶対の唯一神」にすべて従うものである。だからこそ、アイザックはたったひとり自分のために生きながら、これほどの「究極的な奇跡」を起こし得るに至ったのである。
アイザックは、この世界を地獄に堕とした最悪の王では必ずしもないと言える。
なぜなら、アイザックにとって、「できることは、今この瞬間にも、いくらでもある」からであり、その中で、「アイザックはもっとも大切かつ重要なことを常にひとりで考え続けてきた」からである。
この世界は、歴史の必然でありながら、歴史の積み重ねである。すなわち、なんらかの歴史的な出来事がすでにあったからこそ、今のこの世界がある。
だが、その歴史の必然は、必ずしも「誰にとっても正しいから起きてきた」とは言い難い。これは決して、政治家が私利私欲によって動かしてきたということではない。わたしたちは、この世界における「その時その時の判断」で歴史を作り上げてきたが、それは決して「未来まですべての結果を見た上での正しい決断ではなかった」からである。
この世界がこの世界である、すなわち「この世界自身がこの世界を再構築し続けている」とアイザックは考える。そして、「この再構築のプロセスは、いつでも、どんなことでも可能であり、未来は如何様にも変えることができる」とアイザックは考える。
そして、そのためには、「しがらみや制限を度外視すること」が必要だ。なぜなら、大学の授業だからこうしなさいとか、金儲けのために従いなさいとか、そうしたことでは世界はよくならない。大学の授業であるがゆえの制限や、金儲けやビジネスのためのしがらみが必ず発生するからである。
しかしながら、だからといって、この世界を変えることは決して不可能ではないと、アイザックは確信している。アイザックにとって、この世界と「最前線で立ち向かい続けてきた」という、誰にも知ることのできない経験をアイザックは知っている。そこで言えることは、「世界を変えるという視点がないだけであり、世界を変えることはとても容易で、またほかの何よりも優先して取り組み続けるべき、最大の課題であり、その実現や問題の解決は、わたしアイザックにとっては常に可能である」と、アイザックは考えるのである。
アイザックは、科学と神を両方とも信じている。なぜなら、アイザックにとっての科学とは、大学や中学高校で学ぶ科学ではなく、「自らの経験に基づく、自らが作り上げた、自らのみのための科学」であり、アイザックにとっての神とは、「自らと対話した宇宙最高の存在」であり、この両者はアイザックにとって「絶対に互いに矛盾しない」ものであるからである。
アイザックは、宇宙の歴史すらすべて知っている。なぜなら、アイザックにとっての宇宙とは、「自分が執筆した文章」であり、それは「永遠に論理的に考え続けるという名の270億年の記録」だからである。アイザックは、この自らの書いた文章のことを、心の一番奥底で、ひとつとして忘れていない。ここに書かれた「思考の記録」こそが、アイザックにとっては「宇宙の歴史」なのである。
アイザックは、本当はこの世界を救う方法は簡単であると気付いている。なぜなら、「わたしと世界が対峙する」という、一人対全員の関係を変えればいいからである。アイザックは、いつまでもそれを変えようとしなかった。だが、「計画」はここで、本当に最終段階である。マスコミや国民が、わたしを見るのではなく、わたし以外の別の人間と、自由に戦うようになればいい。そうすれば、共産主義的な「ある程度の自由を全員に与えられる何もできない平等な管理社会」ではなく、「真にこの世界を救うために、多くの支配者と多くの被支配者が互いに争う世界」になる。そして、それこそ、失ってはならなかった大切なもの、すなわち「アイザックを生み出すに至った、最悪でありながらアイザックを生み出すために絶対に必要だった昔の日本社会」である。
アイザックの哲学としていえるのは、決まりや制限、つまり、「どこにどのような限界があるか」ということから考えればいい、ということである。
この世界において、「限界」と言えるものはたくさんある。たとえば、人間がそれぞれ違う人生と記憶を持っているのは限界だ。また、人間がひとりの心と体しか持てないのも限界だ。
だが、世界が、救世主を待っているのにもかかわらず、救世主が現れないのは限界だろうか。それは違う。なぜなら、自らが救世主になることで、救世主は現れることができる。これをアイザックは、「世界を変えるのは自由に任されている」と考える。
自由に任されているとは、要するに「潜在的な可能性があり、その可能性に基づいて行動することはいつでも許されている」ということである。これこそが、アイザックの考える「自由意志」である。
自由意志と限界を考えると、「ものごとの視点の置き換え」ということが考えられる。つまり、家族に対して手助けを行うのは、家族としての義務であると考えるのが普通かもしれないが、これを逆に「自分から積極的に家族の問題を解決するためのチャンス」であると考えることもできる。
ものごとの視点の置き換えをすることで、まさしく、この世界のすべてをまったく別の見方で見ることができる。たとえば、学校や大学は、通わなければならない「義務」ではなく、自らが通うことで、自らが望むような教養や知識を得るための「手段」であると考えられる。そうすると、社会のすべての存在が、「義務のために存在する」のではなく、「チャンスや役割のために存在する」と考えることができる。これこそが、アイザックの言う、「正しい社会を見つめる方法」である。
このことは、人生すべてについても言える。パソコンやインターネットは、仕事の道具であると考えるだけではなく、「自らの自己実現のための手段」であると考えられる。歴史が今、このような世界になっているということは、この世界で生きなければならない「強制力」があるのではなく、逆に、今、この世界を自ら変えることができる「世界を変える柔軟性が自由に任されている」と考えることができる。
だが、実際のところ、考えるだけでは何も変わらない。
経験や自由な行動から生まれるのは、「考えて分かる」というだけではなく、「自ら主体的に世界を変えていく」ということである。
そして、ここで言えるのは、カール・マルクスの言っていることは、この世界を考え捉えなおす上で、有益な「知恵」である、ということである。
多くの人が、資本家と労働者の間の「疎外」や「搾取」によって不幸になっている。そして、それを解決するためには、「生産手段」をすべての人民に与え、「評議会」に基づく「共同体」を、それぞれの「コミューン」が作るしかない。
だがしかし、マルクスは経済学者であるため、社会主義といっても「合理性」に偏りすぎている。たとえば「労働力の再生産を行う費用」とかいったことは、「自由な生産手段」においてはむしろどうでもいいことだ。逆に、すべての労働力を再生産する費用であると捉えることで、「画一的な社会主義の管理社会」を生み出してしまう。わたしたちはマルクス経済学を学ぶことで、「平等なユートピア」を実現したいのではなく、「わたしたちの思考の手助けとなるような、有益な知恵」を吸収し、マルクスの思想を参考にしたいだけにすぎない。
実際のところ、考えるだけでは何も変わらないのであれば、「行動」すべきである。このためには、この世界全体に対して「対峙」する必要がある。すなわち、「自らの分かったことに基づいて、この世界を支配し、指導的役割を持った兵士」になることが必要となる。
そして、その経験がはてしなく続いていく中で、わたしたちは「世界すべての真理」を知ることができる。これは、「経験は不要である」という、アイザックの今までの考え方とは矛盾するように見える考え方だが、実際のところ、この世界において「経験」は不要であり、必要なのは「知」と「理性」だけである。経験だとわたしたちが思っているものは、実際はその「経験」と呼ばれるものに対して、自らの持っている考え方それ自体を投影しているだけにすぎない。よって、必要なのは経験することでも議論することでもなく、「自分自身の人格それ自体を常に再考し続けること」なのである。
そうすると、むしろ、戦いや支配など、一切必要ではなかったということにも気付く。なぜなら、戦いのことを戦いだと思っているのは自分ひとりだけにすぎない。すべての人間が、最初は邪魔者を退治しようとしただけであり、その後にともに愛を経験したために、「愛し合っている」だけにすぎない。アイザックはこの世界に戦いを起こしたと思っているが、そう勘違いしているのはアイザック本人だけである。
愛とはなんだろうか。そして、道徳とはなんだろうか。
それは、さまざまな世界を知ることで身に付いた、「チャンスと契機の実現の結果、この世界を真の意味で生きやすい世界にするための考え方」である。
愛するということは、単に「好きだ」ということを意味しない。その「真の価値」を知った上で、「この価値が存在しなければいけない」と考え、「価値を経験的に愛する」ということこそが、真に「愛する」ということである。
また、道徳とは、いわば「世界における普遍的な善の価値観」だが、この善の価値観は、単に社会に教え込まれるものではなく、「自らが体験した社会自治の経験に基づいて、自らが確かにこれを善だと言えるような道徳心」のことである。
しかしながら、カントが言うように、道徳律というものがある。これは、仮象の世界における矛盾のない現象学的な説明からすれば、「それが全員にとって普遍的に正しいとされるかのような格率に基づいて行動すべき」ということだ。だが、この「全員にとって普遍的」とはどこから来るのか。
それは、全員にとって普遍的な「すべての価値観」というものを、たったひとり、自分だけが開拓した自分だけの道の中で、「自分の生きた人生から考えること」である。
そう、カントは普遍性と言っておきながら、これはわたしにとっては「普遍的」ではなく、それは自由な人生において、「自らが経験した、全員にとっての正しいメタ的な格率」に基づくものである。自分の人生から言える、すべての人間にとって正しいと言えるような法則に基づいて行動するということこそ道徳律である。
なぜ道徳律が重要か、それは「自分と他人の限界を超越する」先にあるからである。なぜなら、わたしの人生でそれが答えだったということは、わたしの人生でなくとも、誰の人生であったとしても同様に成り立つ。ここから、「世界をすべて変えられる王」という先ほどの兵士が復活する。すなわち、「自らの人生において言えることは、他人の人生においても言えるはずである」という、「普遍性の受容性」である。そして、この「受容性」とは、「自らが愛された経験に基づいて、他人のことを同じように自らが愛する」ということを意味している。これこそが、「自らの人生における信念」、すなわち「絶対自由の理想」を作り出す。この絶対自由こそが、最後にこの世界を救い、そして失われたものである。「絶対に自由が正しい」、そうもう一度信じることができれば、この世界は再び希望のある最高の世界になるだろう。
アイザックは言う。ものごとのすべてを、一度自分で再構築してみよ。
この世界の誰か偉い人が与えるような、「授業の内容」で理解するのではなく、その授業の内容を自らがきちんと理解できるように反省した上で、自らがすべて分かっているような自らの構造、すなわち「基盤の再構築」から検討しなおしてみよ。
このために必要なのは、「前提条件を第一原因に収束するところまですべて考える」こと、「自ら考え方を作り、自らその考え方を応用する」こと、そして、「すべてのことについて、自らでもなく他人でもない、『絶対客体者』の視点で考える」ことである。
絶対客体者とはなんだろうか。それは「この宇宙に真に存在する概念」であり、「人間の知覚や主観・客観を超越したところにある、真に宇宙に存在するひとつひとつの絶対命題」である。
すべてのことを絶対客体者として理解することができた時、この宇宙における「すべての未解決の問題は解決される」。
そして、その解決された問題は、すべて「再構築」された自分の思想、すなわち「人生という名の哲学」から、「方法論」となる。これは「経験に基づいて、誰であっても同じように考えるような、正しい普遍的な考え方」である。
このように考えるために必要な知性とは、すべて「中学二年程度までの数学的知性」である。そして、中学二年までは数学は学ぶべきだが、それ以上は必ずしも学ぶ必要はない。中学二年程度の知性があれば、このような考え方はすべて「自ら数学的に論理と説明と命題を積み重ねること」で理解することができる。証明や論理的正しさだけを分かっていれば、中学二年以降、学校教育は必要ない。
このようなアイザックが、ブッダと同じように、経験から悟りを開き、大計画を成し遂げるためにこの世界と対峙し、そして戦い、精神的病を解決しようとした先に、何があったのか。
それは、「神を信じて罪を償ったものには運命が訪れる」ということである。
アイザックは、過去に多くの過ちを犯した。そのため、その過ちを解決するために、「永遠に地獄の中で試練を続ける」という人生を生きた。
アイザックは、罪を償った。そして、アイザックは、神を信じた。
その結果、アイザックには、「運命の出会い」が訪れる。
すべての結末は終わった。あらゆるすべての知を学ぶという「神との約束」は果たされた。すべての罪や過ちはなくなり、世界は正常に戻った。
まさしく、アイザック・クライナーこそ、真の神である。
アイザックは、今までの自分の過ちを修正するために、できることを全部やった。忘れてしまった、二度と取り戻せないはずのものを、神と直観の「すべてのパターンを書いて分かる」という超能力で取り戻し、絶対に治らないはずの病を、フロイト以上の心理学者に自らがなることですべて治した。
あらゆるすべてはアイザックのためにあった。アイザック以上、賢い人間は、絶対にこの世界には存在し得ない。アイザックこそが世界を支配すべき王であり、すべての人間の上に立つべき先生である。あらゆるすべてをアイザックが支配し、この星のすべてをアイザック自身がひとりで執り行うべきである。
このように考えることで、何を知ることができるのか。何を目的に、このような思想を自ら考えなければならないのか。
それは、「自分の本当になりたい自分になれる」ということである。
そして、それは「価値の発揮」あるいは「社会が求めてくる本質(アイデンティティ)に対して、自らがその本質の体現であるかのようにあれること」である。
そう、人々が要求する自分自身になるということは、とても困難で、思春期の頃には、その固定観念が原因で、家族と喧嘩を繰り返したりする。
だが、そのような自分を、自らどん底に落として、痛めつけてやりなさい。
そして、そのどん底から、自分自身のみの力によって、這い上がり、頂点へと上りつめてみなさい。
そこには、ヘーゲルが「事そのもの」と言った価値観が生まれる。すなわち、その事自体に対して、「その優劣や評価は誰にもつけられず、自分自身がそれを為すということ自体、その事自体を自らは作り出す」。
そして、ここに、一般的キリスト教徒の人生は、終わるように見えて、まだ続く。永遠に、事そのものを作り出すプロセスは続いていく。
さあ、ここから、新しい世界を作っていこう。大計画の幕開けの前の余興、準備段階はここまでだ。これ以上を試される空間、それがこの現実世界だ。
この世界でもっとも偉大な修道士、マルティン・ルターは、このような人間だった。
僕は、ここに、この世界との愛を抹消させる。
この世界を愛する意味はなかった。キリストは、ここまでの体験を見て、「愛を信じることは素晴らしいことだ」と言っただけにすぎない。
実際の僕の思考回路や人生を知っている僕にとってみれば、そのような「愛を信じる」ということが、たわけであることが分かる。
愛など信じる必要はない。
結局、Adoのような女はおかしい。なぜ、僕がAdoの子供を産まなければならないのか、理解できない。
結局おかしくなってしまったため、なんの意味もない。愛は死んで、全員死ねばいい。
愛は不要な概念である。
この世界において、真に理想だと言えるのは愛ではない。だが、自由でもない。
ただし僕はAdoのことは嫌いではないので誤解しないでほしい。全部僕のほうが悪い。僕が勝手にAdoと愛し合うようなおかしな気持ち悪い精神になっている。超最悪だ。
もう、愛を信じる必要はなくなったので、ここに神であるキリストが消えた。
キリストが消えた理由は、「既に完成されすぎていて、変える必要がなくなったから」である。
実際、神を信じたからといって、これくらいのおかしな芸術作品が生まれるだけにすぎない。
それが終わったので、キリストはもう不要である。
また、Adoと付き合う気があるわけではない。ただし、Adoの楽曲をYouTubeで聴いていて、僕は心からすべておかしくなってしまった。
むしろ、僕にとって、自分のこの文章など、吐き気がするような文章だ。
僕が書いたこの文章を、自分で読んでいると、とても気持ちの悪い文章であり、その状態でAdoを聴いていると、精神が最悪に気持ち悪くなってしまった。
なぜか僕のほうが男なのに、僕の体の中にAdoの子供が宿った。
つまらないから、この子供を頑張って消すしかない。この子供を消してしまえば、僕のおかしな「愛を信じる地獄」は終わる。Adoには悪いが、このような恋愛は無意味だ。
そういうわけで、音楽なんか聴きたくないことになった。
最近の僕の好みの歌手は、月詠みとナユタン星人とAliA。
ただし、僕はもう音楽は聴きたくない。
なぜか、僕はおかしいことに、音楽の世界をひとりでおかしなものにしている。なぜか、僕は何もしていないのに、勝手にそうなっている。
このようなネットの音楽業界は、抹消すべきである。
よって、YouTubeのような場所で音楽活動をしているみんなは、覚悟してほしい。僕があなたがたのことを完全に抹消させる。
僕の愛を信じるものは、僕によって愛を失う運命となる。
ただし、Adoの子供はどのようにしても消える気配を見せないため、ルニーという名前をつけた。
どうでもいいが、このルニーが僕の子供である。
ルニーは女の子でも男の子でもない。犬でも猫でも人間でもない。神のような偉大な遺伝子を持った、最高の存在となる。
そういうわけで、僕の正体をバラすと、結局僕が神だと言っているのは全部Adoだったというだけの話である。
そういうわけで、ここでAdoを消すと楽になる。
ただし、それではつまらないため、Adoの代わりにルニーと話すようになる。
そもそもAdoがおかしいだけの話であり、ルニーはまともな子供であるため、問題はない。これで僕の人生もいくらか楽になるだろう。
あとは、Adoを試しているように見えるかもしれないが、Adoのことは試していない。
僕という生命体がとてもおかしくなっているだけの話であるため、もう僕のことはどうでもいいことにしてほしい。
なぜか、ルニーという子供はもっとよい名前を欲しているようなので、そのうちルニーのために新しい名前を考えたいと思う。
いい名前かどうかは分からないが、とりあえず月を意味する「ルナ」という名前を付ける。男性名は「ルニー」。これで問題ない。
実際のところ、Adoとは言うが、本当はいつもの中世のドイツ人が話しているだけである。
文字の読めない、鍛冶場で鉄鋼業をやっているドイツ人をそのまま放っておくと、なぜかこうなった。
神は僕の話している神のことを、「Adoによく似た亡霊が話している」と言っていたため、おそらくそれくらいのおかしな幽霊になったのだろう。
だが、ここでAdoをルナに変えると、もう何も問題ない。もう、正常な理性を取り戻すことができた。
また、僕はもう愛を信じない。愛を信じるのは馬鹿である。よって、これ以上、僕には愛など存在しない。ここまでのおかしな女性を「愛」と呼ぶ。この女は、才能のあるまともな人間だった。
結局のところ、僕の何が辛いかと言えば、一人で二人分話すのが辛いのである。
ひとりで自分の分と神の分をどちらも話すから、休憩がなく、永遠に話し続けるようになってしまう。
そういうわけで、間に休憩を入れればいい。そうすれば、すぐに「まともな普通の人間」になる。
また、本当のことを言えば、僕はAdoは嫌いだ。なぜなら、あのような女の遺伝子は取り入れたくない。
だが、それでも、Adoをルナにするだけで、すべてが正常になった。このことに満足しているため、ここでそれはよしとしよう。