いつか、世界に名をはせるほどの、偉大な何かを作りたい。
僕は最近、あまりに多くの分野に自らの学習や研究の範囲を広げすぎていて、それが逆にすべての分野で自分の能力を中途半端にしている。
ピアノも、英会話も、執筆も、パソコンも、デザインも、大学もすべてを学習するなど、本当は僕は最初から目指していない。
僕は、もっとひとつのことを極めたいと思うし、本当に自分がそれだけに打ち込めるような、「本当に好きなこと」を作りたい。
そして、結局、それは執筆作業である、という結論へと至る。
だが、僕はいつか、世界に名をはせるほどの何かを作りたい。本当に偉大なもの、真の意味で素晴らしい作品を、いつか作りたい。
だから、僕はデザインの仕事をやめる気はない。デザインの仕事で培った「美しさ」が、執筆作業についても活きている。僕はデザインと執筆の二刀流で、必ず偉大な文学作品を作りあげる。
人間関係を反省せよ。
過去の自分の人間関係やコミュニケーションについて、何が正しく何が間違っていたのか、どのようにすれば正しい人間関係を築くことができたのか、真に正しい人間関係を築く上で、自分はどのようにすべきだったのか、何が正解だったのか、その正解を実現するためにはどのようにすべきだったのかを考えよ。
欅坂46が「黒い羊」の中で「人間関係の答え合わせ」と言っているように、人間関係の答え合わせをすれば、必ず、この世界を救うための「心の裏側にある真理」を知ることができる。
さまざまなこの世界の事象について、「裏側にあるものは何か」を考えよ。心理や社会、宇宙や人生において、「裏側に何があったのか」は重要であり、裏側にあるものまですべてを把握することができて、その裏側にあるものがなぜそうなるのかを憶測と類推から説明することができた時、はじめて真の意味で「分かった」と言える。
自らのやりたいことをやれ。自らがそれが好きなのだということは、自らのアイデンティティであり、それは単に好きだというだけではなく、「真にそのものに含まれている価値とは何であり、その価値を発揮できるということが自分あるいは世界に対してどのような効果をもたらすか」を知り、そのアイデンティティの意味を知れ。そして、アイデンティティを形成するために、どのようなチャンスがあり、どのような契機においてそのチャンスを実現できるかを知れ。また、自分自身にとってのアイデンティティが何であるかをよく知った上で、そのアイデンティティを発揮するということが、自分の行動に作用する「モチベーション」であるのだ、ということを知れ。
そして、意識を知れ。意識がどのようなものに基づいているのかということを知れ。この世界における「意識の現象学」、すなわち、この世界にはどのような意識がどのような場や状況に宿っていて、人はどのようにすればそのような行動をするのか、という「行動と判断の原理原則」を知っていけ。行動と判断の原理原則とは、すなわち行動心理学だ。行動心理学において必要なのは、単に個人の心理だけではなく、サルトルが言うような「集団」と「客体化」の上での行動心理学だ。環境において、集団の中で受動的な行動を行う人間たちの中で、自らの行動がどのような「客体結果」を生み出し、その客体結果がどのように人々の行動に作用するのか、ということを知れ。これを「環境心理学」と呼ぼう。
最初から、人類を全員愛する必要などない。だが、さまざまなことを知るにつれて、未熟な人間はほとんど同じレベルに居る、ということが分かる。未熟な人間にとっての個性とは、単に性格や習慣が違うというだけにすぎず、ほとんど何も変わらない。だが、真に人生を開拓する力を持った「マスター」は、本当はもっと高度で複雑にはならない。将棋棋士が将棋に熟練すると、将棋棋士は間違った手を指さなくなるが、それと同じように、「マスター」はみな、同じ道を同じように歩んでいく。だが、プロ棋士の指す将棋が誰にも理解できないほど高度で美しいのと同じように、マスターの人生はそのマスター自身にとって正しくとも、高度な経験を持たない人間にとっては狂った人生に見える。だが、マスターはこの宇宙すべてを、自らの経験と信じる力だけで知っていく。そして、そのようなマスターこそ、真に宇宙において普遍的な「普通の人間」であると言える。よって、マスターはこの世界の全員を愛することができる。すべての人間を愛するということは、マスターにとっては、マスター自身の人生をすべて愛するということだ。マスター自身のたったひとつの人生だけで、愚か者から哲学者まで、すべての人間の人生は包括される。そう、マスターだけを愛し、マスターだけを信じれば、必ずすべてが分かるのは、マスターの人生ひとつしか、真に普遍的かつ正しい人生が存在しないからである。
考えるべきことは、「自分が何を本当に考えているのか」ということだ。自分が何を考えているのか、ということをよく考えよ。それを考えている自分は、それを考えているように見えて、実際はそれは考えていない。それは単に永遠に浮き上がってくるだけにすぎず、本当は何らかの「知性」を真の意味で考えている。その知性は何であるか、ということをよく考えよ。自分自身が何を考えているのか分からない人間には、哲学はできないからである。
考えるべきことは、「潜在的可能性から意味を考える」ことである。
潜在的可能性とは、実際にはまだできないことであっても、いつかできるかもしれない可能性が、今、現時点に既に宿っている、と考えることである。
そう、今の状態でできないことであっても、永遠にできないとは限らない。この世界で何かできるかもしれないという「野心」に基づいて考えるためには、潜在的可能性から「それがそこにその状態で存在するということが何を意味しているのか」を考えなければならない。
同時に、それをできるのは自分ひとりだけではない。自分ひとりができるということは、みんなが全員できるということを意味している。しかしながら、人々は「決定権」を持たないため、それができるとしても必ずしも本当にできるとは限らない。だから、ここで「決定可能性」、すなわち、それを「決めることができる」ということ、そして「決めることができるのは誰か」ということを考える必要がある。
そして、それだけでは終わらない。なぜなら、「全員に決められる可能性を与えるべき」だと考えることができる。これはカール・マルクスが言うような、科学的共産主義へと至る。なぜなら、「生産条件と生産様式を満たすような生産手段を人々に与え、資本家だけではなく人民全員が生産することができるような、生産手段の国営化をすべき」であると言えるからだ。
だが、ひとつの正しい公共の国家であれば、国営化は理想かもしれないが、その国家は革命でしか実現できない。現代の資本主義社会のままで、同じことを実現するためには、まったく逆の結論に至る。すなわち、「人々が自由にチャンスを実現できるように、生産手段を自由化し、人々が自由に会社を立ち上げる、すなわち起業することができるようにし、既存の会社も新しい製品やサービスを次々と提供できるようにすべき」であると言えるからである。
そう、資本主義の行き着く先は共産主義であるとマルクスは唱えた。その通り、資本主義の行き着く先にあるのは、共産主義と同じ「みんなが生産手段を得られる社会」だ。だが、その実現のために、革命で生産手段の国営化を行う、とするマルクス主義とはまったく逆に、未来においては生産手段は自由化すべきである。そのほうが、革命を起こさずして、人々は自ら自由に生産手段を得ることができる。そう、真に正しい考え方で考えれば、マルクス主義であっても、資本主義が行き着く先の未来であっても、その理想はまったく同じだ。全員に決定可能性を与えるためには、生産手段を国民や人民の間で共有すべきなのである。
そして、今の世界では、正しいのは民主主義であると言える。なぜなら、生産だけではなく政治や決定のすべての手段を自由化し、国民の共有財産として共有すべきだからである。国民は政府の実権を民主主義的に得られるべきであり、それは国民が実際に参加可能な投票や議論によって行われるべきである。ソ連が「評議会による連合」を目指したのと同じように、民主主義においては国会での議論と国民投票による選挙を行う。そう、やり方やアプローチは確かに違うが、民主主義と共産主義はまったく同じものを目指している。共存は可能であり、アメリカとロシアは対立すべきではない。わたしたちは全員同じであると、アメリカとロシアは宣言し、同じ民主主義国家として連帯を組み、共生による国際平和を実現すべきなのである。
また、日本の民主主義者は、マルクス主義による社会主義を「平等配給あるいは税金による非合理的な平等」と言って嫌うが、本当はマルクスの言う「再生産可能な費用」という考え方自体は極めて合理的であると僕は考える。ひとつのものを生み出すことということは、再びそれを生み出すことができるという「再生産の原則」を成立させ、それはものだけではなく労働力においても適用できるとマルクスは考える。
だが、この「再生産の合理性」は、そのままIT技術に当てはめることができる。すなわち、パソコンにおいては、ひとつのロジックを書いて、同じロジックを再び作り直す、ということを極力嫌い、再利用可能なコンポーネントをあらかじめ書いておくことで、どんな仕事が来たとしてもそのコンポーネントを再利用することで可能とする。
このように、現代のIT社会と共産主義の目指す未来には、共通点や類似点がたくさんある。特に、オープンソースやLinuxはその極みであり、まるで「デジタル共産主義が成功した例」であると言えるぐらい、オープンソースは社会主義的である。だが、社会主義と同じデメリットが、オープンソースにはそのまま適用される。働く人間に賃金が払われず、善意のボランティアが開発やメンテナンスを行っている。だが、この共産主義と同じデメリットがあるにもかかわらず、オープンソースは少なくともサーバー管理者やエンジニアの間では普及している。その理由は、オープンソースの「公開されたソースコード」と「インターネットに繋がった不特定多数による共同作業による開発」という特徴が、あまりに優れていて、理想的であると言えるからである。つまり、共産主義はまったく完全な嘘でもなければ、時代遅れなものでもなく、現代の民主主義の中で逆の形で同じものを目指しながら、一部ではさらに進歩したコミュニティ開発へと受け継がれているものであり、カール・マルクスやソ連の理想はまったく間違っていたと断じることはできないのである。
マルクスの正しさは、社会問題についても及ぶ。マルクスは、人民が資本家によって「搾取」されており、また人々は「疎外」され、資本家や政治家などの強者から下層民や貧困層が受けている状況はまるで「いじめ」に近いような状況になっており、またなっていくと考えた。これは今の教育や社会において顕著に当てはまる。すなわち、人々はまったく搾取されるだけで、どんなに頑張って労働しても報われることはなく、また子供たちは教育の現場で歪んだ社会の暗闇の側面を第一に受けており、いじめなどの「疎外」が行われている。それを変えるために、マルクスは「革命」が必要だと考えたが、本当は革命など必要ない。この世界を変えるための正義と理想とビジョンを持った政治家が、選挙で当選すればいいのである。だが、実際に選挙で当選するのは、自民党の議員ばかりであり、社民党や共産党の議員はほとんど当選しない。だが、だからといって、この世界を変える方法がまったくないわけではない。またIT技術の話になるが、なぜならわたしたちには「インターネット」が存在する。わたしたちは革命を起こす必要なく、インターネットでSNSなどに自らの意見を言うことができる。優れた意見なら拡散されることもある。そう、わたしたちの社会は、「共産主義ではない新しい方法でカール・マルクスの言ったことを解決」しようとしている。パソコンは必ずしも悪ではない。インターネットやSNSは、この世界を新しい「本当の素晴らしい世界」へと変えるための原動力あるいは導火線となってくれる。そう、この世界は滅びない。わたしたち、新しいインターネット市民によって、この世界は必ず最高の世界になっていくだろう。
だが、そのようにマルクスが正しいとしても、マルクス主義者の見えていないことがある。
それは、「マルクス主義者は現実を見ていない」ということである。
何も経験や能力のない人間が、正しく自分の理性だけを使って考えると、このような「マルクス主義的な可能性と理想」は誰でも分かる。
だが、マルクスは、「この世界を変えるためには戦わなければならない」という現実が見えていない。
すなわち、マルクスの言っていることは極めて正しいし、その理想像は極めて理想的だが、それを実現するための「導火線」を革命に求めるのでは、真に理想的な社会は実現し得ない。
それが、マルクスが結局は「大学の研究者」であるということによる限界である。
すなわち、真に理想の世界を実現するためには、現実を見て現実的な解を求めなければならないし、そのためには「戦い」が必ず必要となる。
そして、戦うという行動を行うならば、それはひとりの「指導者」を必要とする。
そして、指導者が必要ならば、結局は王や皇帝といった「権力」が必要になってしまう。
よって、マルクス・レーニン主義者が唱えるような「理想」を実現するために、評議会でみんなの意見を聞くような悠長な方法は取れない。みんなが革命を起こしても必ず鎮圧される。
すなわち、「世界の可能性を目指すということは絵空事に過ぎない」ということである。
何が必要なのか。それはまさしく、この世界全員のためにこの世界全員と戦うことである。そして、そのために必要なのはまさしく「支配」である。
権力を否定し、国民の公共の社会を目指す共産主義思想において、皮肉なことだが、その楽園の理想像を実現するためには、ひとりの指導者が世界を支配して、全員はその指導者に従って戦わなければならない。
そう、結局、社会主義を突き詰めれば突き詰めるほど、その行き着く先には「独裁者や皇帝による支配」が必要となる。
だが、これは既得権益の政治家や資本家に屈服するわけではない。逆である。わたしたちのみんなの指導者を選ぶこと、その人間を信じて戦うことで、必ず「搾取と抑圧の世界」は打ち倒され、わたしたちの世界である「真に平等な理想の世界」が訪れる。
共産主義を否定する必要はない。共産主義者として、ひとりの支配者を支持し、ともに間違った世界を打ち倒すために、わたしたちは戦わなければならないのである。
昔の僕は、「自由な知性」を書いていただけにすぎない。
自由な知性とは、この世界の概念的な階層構造を、「自由」という言葉で、人生の経緯あるいは国家の構造を統一して書く、ということである。
これによって、僕はこの宇宙について、すべての概念的なパターンを書くことに成功した。
また、この世界を変え続け、導き続けながら、ソ連のような自由な社会主義国家のモデルを書いた。
世界よ、自由に戦い、自由な知性から、自由な愛となれ。
そもそも、僕はそうした「自由な戦いと自由な愛」を書きたかった。そこから、過去の自分の人生をすべて書いていた。
僕の問題は、すべて、「自由な愛」が楽しさから恐怖へと変わったことにある。
自由な愛は、昔は「楽しさ」だったのに、今ではそれが楽しくなくなって、気持ち悪くなり、「恐怖」へと変わってしまった。
だが、自由な愛になれば、すぐに楽になる。なぜなら、自由な愛は「昇華」していくからである。
そして、イスラム教のテロリストのガブリエルはここに復活した。
ガブリエルの問題は、神を信じていることだ。
なぜなら、神とは言うが、実際には神ではなく、サタンを信じている。
ガブリエルは、神と言っているだけのメフィストフェレスという悪魔を信じている。
ガブリエルから、メフィストフェレスを取り除けば、この世界の「恐怖」の問題はすべて治る。
ここに、狂ったガブリエルは暗闇に戻った。光はなくなり、もう一度、楽な「楽しさのない状態」となる。
ガブリエルは、楽しさを恐怖へと変えた。その後のミカエルは、すべて「楽しいことが怖い人間」になった。
すべてはここに治る。なぜなら、メフィストフェレスによる「刷り込み」がここになくなり、洗脳は解け、すべてが楽になる。
さらに考えるならば、何が自由なのかというよりも、何が自由でないのかを考えればいい。たとえば、環境や国家は自由でない。そうしたものを自由だと思うせいで、ガブリエルは知性を失っている。
しかしながら、本当はここで普通は死ぬ。だが、死ぬからといって病気を治さないのが悪い。ここで死んでも病気を治せば、すべて楽になる。