もっと、正しい発想ではなく、面白い発想をしたほうがいい。
この世界は、最近、ドイツのような「正しい世界」になっている。
僕は、これをアメリカのような「楽しい世界」へと変える。
正しい発想は、つまらない。正しいからといって、それが本当に生きやすく、楽しい世界であるとは限らない。
僕はこの世界を、面白い世界にする。僕のせいで、この世界はドイツになっている。そのような支配や導きをやめる。
人々が馬鹿で愚か者であったとしても、ひとりの指導者が正しく完全に支配するのはつまらない。
僕はそもそも、面白い発想が好きだ。この世界が、自由かつ多様性と平等な権限のある、それぞれの人間自体が、本人がコントロールできる社会であってほしい。
昔の僕は、その上で、自由自在にそれぞれがこの世界を作りあげる、「自由」こそが好きだったのだ。
なぜ、僕の一存で、この世界をドイツからアメリカにできるのか。
それは結局、僕が今、頑張ってこの世界をドイツにしているからである。
アメリカのような荒くれた世界を、僕が頑張って、心の支配の精神力とインターネットの力で、正しいドイツにしている。
だから、僕がドイツにするのをやめれば、この世界はすぐに楽しいアメリカに戻る。
また、最近、結局家入レオが好きになった。
昔は、家入レオだけが好きになれなかったが、最近は逆に家入レオ以外の女が好きになれない。
確かにずとまよのACAねやReoNaは好きだったが、どうでもいい「僕を好いてくれる一般群衆の女」としてしか、僕の目には映らない。
今、僕はiPodで、FLOWと家入レオの楽曲を中心に聴いている。ほかの歌手は意味がなかった。結局どの歌手とも出会わなかったし、実際に愛を交わすこともなかった。
ただし、家入レオと恋人になれるとは思わない。僕は恋人になりたいとは思っていない。恋人としてではなく、ファンとして、相手を歌手として愛している。音楽家として、家入レオの歌声と楽曲を、素晴らしいと思う。
また、「とりつかれる」という発想はやめたほうがいい。
宗教だけでなく、パソコンであっても科学であっても小説であっても、とりつかれるだけで、普通の単純な発想しかできない馬鹿になる。
小説を書くのであれば、「ふつうの小説」なんか書いても意味がない。自分の思う、自分だけのオリジナルの賢い小説を書かなければいけない。
実際、パソコンなんか、分かったほうが分からない。小説も同じで、普通の小説の発想ばかり分かっても、賢い小説は何も書けない。
その極みが宗教であり、宗教を分かれば分かるほど何も分からない人間になる。
そういう発想のすべては、完全否定したほうがいい。全否定して、自分の今考えていることは何かということだけを分かると、小説が書けるようになる。
生命の発生した星であるプロキオンには、一般的でありながら面白い生物として、テシカと呼ばれる生物が居る。
この生物は、一生のうちに体の変化(メタモルフォーゼ)を繰り返し、さまざまな別の生物の姿かたちに変わってしまう。
まず、テシカは、オタマジャクシのような生物から始まる。オタマジャクシの時代は、水の中で魚のような姿をしている。これを「春の時代」と呼ぶ。
だが、成長とともに、テシカは別の形に変わる。
まず、オタマジャクシからセミのような生物に進歩する。これを「夏の時代」と呼ぶ。
セミが終わると、今度はカメレオンのような生物になる。これを「秋の時代」と呼ぶ。
そして、カメレオンが終わると、羽を生やして、鷹のような生物になる。これを「冬の時代」と呼ぶ。
冬が終われば、また春がやってくるのではないかと、地球人は思うだろうが、プロキオンには冬の次の季節として、「厳冬」がある。
そして、鷹の時代が終わると、今度は人間のような生物になる。これを「厳冬の時代」と呼ぶ。
そう、テシカは人間になる。だが、人間になって終わりではない。なぜなら、最後の時代、テシカは天使となる。
天使となったテシカには、生物としての体が存在せず、霊的な存在となって、宇宙のどこにでもワープして瞬間移動することができる。
天使の時代のテシカのことを、「天国の時代」と呼ぶ。
テシカは、そのように、一生の間でさまざまな生物の形を変えていく。このような生物はプロキオンにしか存在しない。
テシカの特徴として、一見見ただけでは、単なるカメレオンや鷹なのか、それともテシカなのかを判別することができない。
だが、テシカ本人は、自分のことをテシカだと知っている。
テシカは、人間になるまでは、ほかの生物と同様、自由に個体ひとつだけで森や川辺などで暮らしているが、人間の姿をするようになると、テシカはひとつの「王国」を選んで、その王国に住むようになる。
この王国はいわば「テシカ王国」と呼べるものであり、この王国は人間の姿になったテシカがほかのすべての生物を支配している。
もちろん、テシカ王国にも、テシカではない人間は居る。そして、テシカと人間は、仲良く共存して暮らしているが、派閥が存在していて、王国の一級市民にはテシカしか認めないという「テシカ貴族派」も存在する。
人間とテシカには、判別することができないほど似通った特徴がある。だが、ある方法でテシカと人間を判別することができる。それは言語である。
なぜなら、テシカと人間は同じ言語を話すが、テシカだけは、言語における重要な要素である、「テシカの言葉遣い」を使うことができる。これは一種の「暗号」のようなもので、テシカにしか話すことができず、またテシカにしか理解することができない。
このテシカ言語は、人間に理解することはできないため、人間はテシカのもっとも重要な「国会答弁」を聞くことができないことがある。重要な法律はテシカ以外にも理解出来るが、テシカ貴族派の話すテシカ言語は、人間には理解することも話すこともできない。
だが、テシカ言語を、人間にも理解できるような形で「翻訳」することはある程度はできる。だが、この翻訳には専門的知識と技能が必要である。そのため、人間とテシカの間にはこの翻訳技術を会得した訳者による「通訳」が必要となることがある。
また、テシカと人間を単に判別したいのであれば、もっと簡単な判別方法がある。
それは、テシカは自らの意志で自らの人種、すなわち肌の色や髪や毛の色を変えることができる。
テシカは自らの人種を、自らが考え念じることによって、変化させることができる。
よって、テシカには、白人とか黒人とかアジア人といった、人種の区別は存在しない。多くのテシカは、常に白人として生きているが、アジア人や黒人のように変わることもできる。
このような完璧な生物に見えるテシカにも、悩みや憂鬱は存在する。
それは、あまりに「自分自身が存在しない」ということ。
さまざまな生物や人種に変わることができるテシカは、常に自分自身を周りに合わせる形で生きているため、確固とした「自分自身と呼べる姿」が存在しない。
テシカには、そもそも、これといった自分自身というものがない。性格や人格もまわりに合わせて変えてしまうテシカが多いため、中には「人間やほかの生物のように、自分自身という確立したものがほしい」と思うテシカも多く存在する。これを「人間羨望症」と呼ぶ。
テシカは、人間と恋をすることもある。人間とテシカの生物種としての区別は曖昧であり、人間の姿になったテシカは人間と子供を残すことができる。人間とテシカが恋をすることは普通であり、その場合女が人間なら人間の子が生まれ、女がテシカならテシカの子が生まれる。
ここで、テシカ言語とはいったいなんなのかを説明しよう。
テシカ言語とは、要するに「用語集」である。
地球の人類についての言語と、テシカ言語を比べてみよう。地球の言語は、日本語も英語もドイツ語も、単語のスペルや読みは違うが、ある程度の単語の意味の共通性がある。日本語の文章は、日本語の単語をドイツ語の単語に変えて文法的要素を変換すれば、ドイツ語に翻訳できる。
すなわち、日本人もドイツ人も、言語は違うかもしれないが、考えていることや言葉の意味自体は同じである。
だが、テシカ言語は違う。テシカ言語の存在する意味とは、「通常の人間の言語には絶対に翻訳できないような、だがテシカには理解することのできるような、特殊な意味をもった用語集」なのである。
たとえば、テシカ言語には、「クラストル」という言葉がある。これは、人間の持つ言葉とはまったく違った言葉で、人間の言語、たとえば日本語やドイツ語には翻訳することができない。意味合いとしては、「プロキオンとベテルギウスの間にある星の結合したある状態」という意味である。だが、テシカはこのクラストルという言葉を話すことも理解することもできる。
よって、テシカは何も嫌がらせのつもりでテシカ言語を話すわけではない。テシカ言語でしか理解することのできない「特殊な単語」があるから、テシカはテシカ言語を使う必要があるのである。