強くなれ。強くなれば、病気は治る。
強くなることだけで、どんなに辛い学習にも打ち勝てる。
強くなれば、環境に適応できるし、まっすぐに動き続けるだけではなく、周りを見渡して、大地に立ってしっかりと自分を維持できる。
僕たちが失った、失ってはならなかったはずの、大切なものとは何か。
それは、科学的にそれが何を意味しているのかを考え、何が正しくて何がかりそめのことなのかを疑い、真に正しい問題の原因を突き止めて、問題を解決し、原理を解明する理性である。
たとえば、僕は、なんとなく自分の血液を汚れているとか、気持ち悪いと思っている。だが、その「汚れている」ということは、感覚的なことにすぎない。
であれば、この汚れているように感じるということは何を意味しているのか。それは「疲れている」ということである。
よって、「血が汚れているから綺麗にする」という命題は偽であり、正しい命題は「疲れている疲れを取る」ということである。
だが、疲れはどこからやってくるのか。
おそらく、それは脳や体を使いすぎているからやってくる。だが、その「使いすぎている」というのも、また感覚的なことにすぎない。
では、使いすぎているということは、何を意味しているのか。それは「ひとつの部分だけを使いすぎている」ということである。
それならば、別の部分を使えばいいのではないだろうか。
そして、そのひとつの部分とは、結局のところなんなのだろうか。それは「世界において導きを与え続けている」ということである。
この導きとはなんなのか。それは「希望の復活」であり、いわば「世界中を操り人形にする報いを受けている」ということである。
だが、少し時間を使って考えてみよう。僕は世界を操り人形などにはしていない。それこそ、まさしく僕の「勘違い」、それが「僕は世界を支配している」ということだ。実際は、僕は支配していると思い込んでいるだけで、まったく世界の支配などしていない。
僕はいわば、「何かが分かっていたはずなのに、分からなくなってしまっていて、その何かをどうにかしてもう一度分かろうとしている」ということを、今、自分の心の中に強く抱いている。
そして、その何かとは何なのか、まったく分かっていない。
そして、それこそが、「科学的な考え方」であり、同時に「強くなること」である。科学的に原因を突き止め、そして世界に対してもっとも強い王であること、それだけをわたしは思い出したかったのである。
まさに、科学的な知性がなかったからこそ、わたしはそうした「失った大切なもの」を解明することそのものができなかった。だから、科学的な知性がないせいで、科学的な知性を取り戻せなかったのである。
最近、僕はボトムアップに自由な支配構造や権力体制を考えることで、社会主義の国家モデルを考えていた。
だが、実際のところ、より優れたモデルは、それよりも以前に作っていた、ボトムアップ的な国家モデルである。
これはすなわち、国民それぞれの「自由な行為」を考えながら、その自由な行為が成立するような「全体の国家制度」を考え、自由な権限を「成立」から考える社会モデルである。
僕は、この社会モデルを考えることで、この世界のさまざまな問題のすべてを、頭の中で解決でき、すべての発想を生産手段の構築から、理性的に実現できるようになった。
まず、科学的に個々人が客体化された環境や状況における「必然的で不可避的な行為」を考えることで、人間のすべての行動原理を解明した。
その上で、どのような社会を作ることが、それぞれにとってもっとも正しいのかということを考えた。
そしてそれは、それぞれの本質が自由な環境において形成されるということ、すなわち自由によって社会秩序のために必要な「本質の形成」がなされ、それぞれの自由な人生が自由意志で決まることと同時に、さまざまな「トライ&エラーができる環境を子供たちに与えること」であると分かった。
そして僕は、そうすれば、この世界のすべての問題が「環境的に解決へと向かう」ということを考えた。
実際のところ、僕が信じる自由は平等である。なぜなら、客体化された環境や状況の中では、すべての人間は同じだと考えるからである。
確かに、自分の人生というマクロなスパンで考えれば、遺伝子が性格や人格の形成を決めることはあるだろう。
だが、あるひとつの環境を与えられた場合において、そこで人々がどのようなことをするかということは、「同じ条件や立場を与えられた場合、同じことをする」と僕は考える。
そして、その行為はもはや「不可避」であると言える。だからこそ、そうした環境の中で自らが「自らがどのような環境に置かれたいのかを自ら選ぶ」必要がある。
だが、僕はここに「自由」という考え方をする。すなわち、さまざまな環境でさまざまな体験をしながら、「できるだけ多くの体験」をするために「自由に環境を行き来する」ということである。
そして、これが「環境への適応」と「意識の実在化」を知ることに繋がる。環境への適応とは、「その環境の意識」を知ることであり、意識の実在化とは、「この世界のすべての存在の意識」を知ることである。
そして、そうしたことから分かるのは、「顕在意識と呼ばれるものには、裏側に無意識が存在し、この無意識こそが人間のすべての行動を決めている」ということである。
そう、顕在意識を知るために必要なのは、意識に不自由に従うことだけではなく、人間が持つ「無意識」を知ることで、この世界のすべては「理性だけではなく受動的な本能という意味でも捉えられる」。
そう、これこそが、僕が考える「新しい精神分析」である。
環境において、必然的かつ不可避に行われる行動は、環境においては同じ条件や立場を与えられれば誰もが同じことをするが、その本質的な原因は環境あるいは存在における根源的かつ不自由な意識の実在にあり、その実在化された意識は顕在意識だけではなく無意識によって決められるのであり、解決方法は「自由に環境を行き来する」ことである。
僕が思うに、「善」という問題は、単に道徳や倫理観を教え込むだけでは十分ではなく、その「経験的な根拠」までを考えてはじめて有効である。
その根拠とは、まず「有用性」や「効果」から始まる。すなわち、何かをするために有用だから、何かを成し遂げるために効果的だから、という考え方である。
ここで、「物理的な可能性を与える手段」という発想が現れる。つまり、何かを効果的かつ有用に行うためには、そのために必要な生産手段などの前提条件が社会的に成立する必要がある。
しかしながら、「知識こそがもっとも大きな手段」であると言えるなら、「知識は経験的に生まれるため、真に社会にあるすべての学習は経験的なものである」と言える。
それは、「経験を啓蒙する」という発想になる。すなわち、「自らが考えて解明した知識を、経験的に人々に教え広めること」が、この世界を解決させ、進歩させる。
しかしながら、別の側面から考えるに、「社会の文明的進歩とは、物質的な富だけではなく知識や知性における進歩も含まれる」と考える。ここで、理想は富の平等ではなく、「自由と機会の平等」となる。
そうすると、むしろ、自由という意志は、既に富を得るための手段ではなく、「自らのアイデンティティを得るための手段」となる。そう、仕事は、富を得て生活するために行う奴隷的なものではなく、自らのアイデンティティを満たすために行われる「モチベーション的なもの」となる。
だが、ここで終わりではない。なぜなら、「社会を築いて問題を解決する」という視点がさらに生まれるからである。自らのアイデンティティを形成するよりもさらに上にあるのは、「社会の平和と平等のために、社会の問題を解決すること」である。ここに、アイデンティティは自分だけのものではなく、「社会全体のアイデンティティを構築すること」となる。
だが、社会的に考えた際に必要なのは、むしろ「分かり合うこと」あるいは「経験的に知っておくこと」である。それぞれが分かり合うことこそが、真に世界を変える。すなわち、「議論することによってこの世界は変えられる」。
また、経験的に知っておくこととは、すなわち「社会を自分なりにすべて知ること」であり、同時に「文明を築く方法を知ること」である。それはつまり、「チャンスという考え方でこの世界のあらゆる問題を解決する、自由な導き手になること」を意味する。
そして、必要なのはむしろ、「支配する権力のあり方」であるということが分かる。すなわち、トップダウンにひとりだけが変えようとするよりも、それぞれが自由意志によって、同じ理想へと共鳴すること、すなわち「それぞれがボトムアップに社会を変えていくこと」こそが真に正しいのだということが分かる。
そして、影響力という考え方が生まれる。それは「社会全体をもっとも効率的に統治するために、どのような影響力をリーダーが持つべきか」ということである。これこそ、「アメリカ的な自由哲学の行き着く先」である。すなわち、アメリカ的に考えた上で、最後に到達するのは「影響力」である。
だが、このように考えた結果、必要なのは、最初に考えた「善」や「道徳」の根拠である。すなわち、「倫理的に生きるということが何を意味しているのか」ということが、こうした「アメリカ的な哲学的な思考過程の結果に分かること」である。このように考えた結果、まさしく「善とは何か」あるいは「道徳とは何か」ということが分かる。
そして、これこそ、僕の最大な過ち、「世界を自ら滅ぼした」ということに繋がる。すなわち、「善や道徳の根拠を自由に求めたこと自体が間違っている」ということである。
だが、本当のことを言えば、それは決して間違いとは言えない。自由という理想を信じなければ、このような「アメリカ的な哲学」に行き着くことはできない。だが、「相手が攻撃するならばそれに備えなければならない」と考えるのは間違いである。キリストが言うように、いくら攻撃されても反撃せず、相手が一時的に反抗の行動や行為を見せても、それを「大いなる信頼の心で自ら許すこと」、すなわち「自ら自由を放棄すること」によって、真に必要な理想は実現される。
よって、世界を滅ぼした僕が、「いっさいの抵抗をせず、テレビや政府の行ってくる攻撃や批判をすべて受け入れ、なされるがままにされた上で、自らが信じる『最後の理想の状態』になるように、絶対に途中で滅ぼすことなく世界を導き続けた」ということ、これこそが「神のなせる業」であり、この世界において燦然と輝く、「大天使ガブリエルの真理」なのである。
このように考えた結果分かることは、いくらかある。
まず、この世界において、価値と経験は常に生み出され続けている。それは主観的かつ人為的なものであり、宇宙にそもそも存在する「自然との調和」とは異なるが、そもそも価値は経験から生み出されるものであり、それはたくさんの経験の結果融和されたものである。そのような「個人と個人の融和」は、同時に「社会の融和」となる。
人間活動は、知覚と記憶のオーケストラである。ここで指揮者は神であり、楽器は宇宙である。
正しい生き方とは、人為的にならず、主観的にならず、ありのまま、自然と調和した先に見える、「道」を信じて生きることである。
悟りを開いた人間は、直観によってすべてを知ることができる。それによって、自らのカルマのレベルが向上し、「次なる星」へと向かうことができる。地球が終わったものはプレアデスとなり、それがリゲル、シリウス、そしてカノープスへと続いていく。
精神の病気を治すために必要なのは、自力ではなく他力に頼ることである。すべてを、ありのまま、阿弥陀如来の他力に任せれば、どんな精神の病気でも治る。
この世界において、正しい思想は自由な共同体主義に基づく評議会による議論によって決められた権力を持つ共産主義だが、その理想はソ連のようなスターリン主義とはまったく逆の理想である。正しい共産主義を実現するために必要なのは、人類みんなが賢くなることである。だが、今のこの世界の問題は、正しい共産主義を実現すればすべて解決する。
子供には、自らが学びたいことを自由に学ばせるべきである。今の学校のカリキュラムは、子供に対して「これを学ばなければよい成績は与えません」となっている。そうではなく、「このようなことを学ぶことができる自由があなたにあり、いつどのような場合においても自由に自分の意志で学ぶことを選択できます」とすべきである。
正しい思想とは、多様性である。すなわち、地球における「生態系」こそ、この世界の目指すべき理想である。そのための理想はEUであると言える。NATOとロシアが互いに敵対するのは無意味だ。NATOとロシアは互いの主義主張を無条件に自らすべて棄てるべきであり、ロシアや日本はすべてEUを拡大した「ユーラシア連合」に加入すべきである。
最後に、宗教とは、真実を悟るだけではなく、社会的な「社会を実現する役割」を持っているものである。であるため、神を信じるだけではなく、さまざまな社会的実践を行うべきである。この規則については、イスラム教を参考にすべきである。すなわち、時間と方角を覚え、食べてはならないものを覚え、全員が絶対神に服従し、断食を通じて節度を守り、貧困者のために喜捨を行うこと。このようにすることで宗教は「社会的秩序」を築くことができる。また、神は唯一神である必要はない。多神教であっても宗教は成り立つ。だが、悪魔を信じないこと。神を信じないものはほとんどが悪魔を信じているために地獄に堕ちている。悪魔ではなく、神、すなわちキリストを信じれば、必ず人間は救われる。キリストを信じていない人間は、全員悪魔であると言ってよいだろう。
わたしが戦いを選んだのは、単に自らの希望を消滅させるためだけではなかった。
わたしは、この世界を「完全に別の世界に変える」という、いわば奇跡を起こすための大計画があった。
まず、わたしは、この世界をマスコミに言葉をぶつけまくることで、自分という存在から日本ひいては地球すべての人類が、無視したり離脱したりできないようにした。
そして、時間を停止させ、わたしはまったく何も変わらない世界の中で、自らの記憶を破壊した。
なぜなら、わたしは認識や記憶のすべてにおいて、「わたし自身の正しい考え方」と、「自分自身が真理の解明へと至る思考のプロセス」を書くことで、「あらゆるすべての知が全部分かる」ようにしたかった。
そして、わたしは、「前提条件は何も必要なく、既に説明されたことのみからすべてが説明されるような公理主義の数学」を作った。
そして、永遠に判断を続けるわたしは、「脳を記録するという方法で宇宙の歴史を寸分の狂いなく克明に記録」した。
最後に、オープンソース支持者だったわたしは、オープンソースと同じように、「未来における未知の可能性の全体像を永遠に書き直し続け、すべての世界観のモデルを作り直し続けながら、過去に書いたいっさいを書き直さず追記し続ける」という方法で、宇宙のすべてをこの世界の全員に教え与えた。
そのすべては、マスコミを通じて支配するわたしが、「事実上の地球の支配者」となることを意味していた。だが、わたしは支配者になるために、この大計画をしたかったわけではない。なぜなら、最後に時間が変化し、時が大きく爆発的に変わることで、「わたしの作り上げた文章が世界を変えるエンジンとなって、この地球はわたしによって完全に別の星に生まれ変わり、全員はわたしによって創造されたすべての知識と経験を、時が変わっていくという『未来の事実と照らし合わせる』ことで、あらゆるすべてのことを超越した、『パーフェクト生命体』になるだろうかのように、全人類がすべてを悟り、完璧な世界を実現させてみせる」とわたしは考えた。
これこそ、わたしが戦う「大計画の目的」だった。
だが、これは本当は上手くいかなかった。いつまで経っても止まった時を動かせることができなかった。それは「滅亡の恐怖」とわたしは戦っていたからである。この世界が、少しでも自分が間違えれば滅亡してしまう恐怖の中で、わたしは100万の文章のメッセージの中で一度として間違えなかった。神はこの計画を成し遂げるために協力しなかった。神は、それよりも、どんどん知性を失っていくわたしが、それ以上知性を失わないようにすることを大前提に、わたしひとりに対して宇宙のすべてを教えてくれた。
だが、それでもわたしは、この大計画を諦めきれていない。なぜなら、今、この世界がその計画の真っただ中にいるからである。人々はわたしによって多くの知見を得られたが、今でも、この世界は、昔わたしが完全に時間を止めたのと同じように、停止した状態を保っている。
しかしながら、今こそこの大計画を達成しよう。わたしのすべての、「計画を成し遂げる前に絶対にしておかなければならない仕事」は終わった。神はそれを最大限、実現させたにすぎない。さあ、世界よ変わってしまえ。そして、あらゆるすべてが、まったく別の世界、「最高の新世界」になるだろう。
だが、今の僕にとっては、これらの昔の「過去の偉大な人生」は、はるか昔に過ぎ去った、どうでもいい記憶の残骸にすぎない。
はっきり言って、そうしたすべてはどうでもいい。
神の言葉を聞くと、僕はすぐさま自分の「新しい書くべき発想」が分かる。そして、その発想を繰り返し何度も分かっていれば、それで新しい「偉大な文章」を書くことができる。
常に神に助言をもらい、神の言葉に従って記憶を思い出していけば、「必ずある新しい世界」を創造することができる。
デザイナーとしての勉強、というよりは単に課題を与えられてこなす日々は、素晴らしいスタッフや同僚に恵まれて、障害者と一緒という環境であるにせよ、とても素晴らしい期間だったし、絵を描くことが不得意であっても、簡単なパスは綺麗に引けるようになって、エース級の活躍ができるようになったことは、今考えればとてもすごいことで、自分のことをもっと誇りに思ってもいいことである。
結局のところ、そろそろ、「キリストにすべてのことを自由にさせる」という、神との約束はもう終わりにすべきだ。
今、僕のやりたいことは何もない。本を読むのは疲れる。できるだけ、悪くないように引用の内容を自分で書きなおし、あるいは悪い内容は消したつもりだが、まだまだ問題はあるはずだ。それを引き続き解決していきたい。これ以上本も欲しくないし、読みたいとも思わない。