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2022-10-01

精神を治すためには、「動かす」のではなく「動く」という発想をせよ。

「動かす」とは、人為的に支配して精神を動かすということであり、「動く」とは、受動的に自然に任せることで精神が動くという発想だ。

すべてのことを、人為的に行おうとするな。自然と調和し、自然に任せるように生きよ。そうすれば、精神は正常になる。

古代的に考えよ

古代的に考えよ。

自らが古代人であるかのように、この世界を「古代」のように考えれば、きちんと賢いことが分かる。

小学校や中学校の子供が賢いのは、中世をやっているからだ。小中学校で習う内容は、中世のスコラと同じだ。だから、中学生は哲学者のように世界を考えられる。

高校や大学に入ると、中世が終わって、現代になる。そうすると、すべてのことが真に分かるように見えて、逆に何も分からなくなってしまう。現代人は、自分の手で考えなくても分かるため、「考える必要がなく、当たり前のことがただ分かるだけ」になってしまう。

学校の勉強など、しなくていい。学校の勉強をすると、「何も分からず、ただ終わるだけ」になる。この「終わる」ということを目指してはならない。終わってしまえば、それ以上何も分からなくなってしまう。終わるのと引き換えに分かるのを取ったところで、それでは何も分からない。本当に「終わる」ようなことはしなくていい。高校や大学の勉強をしても何も分からないからだ。

真に賢い人間は、中世でも現代でもなく、古代のように考える。すべてを古代のように考えると、「すべてのことに理由がある」ということ、「行動には目的がある」ということ、「世界には可能性がある」ということが分かる。その上で、古代で分かるものだけを観察して考えれば、「普通に考えられないことであっても考えようとすれば考えられる」ということが分かる。

世界の可能性を想定せよ。この世界における、すべての「変化」は、生み出されていない状態においては「可能性」であり、現実に存在するすべてのものは、根源的に解明することで「現象という名の可能性」へと回帰させることができる。それは、「予測」が「解明」へと至る結果である。あらゆるすべての「予測」できることは、原理的な法則を知ることで「解明」できるのである。

この世界のすべてを古代的に考える人間は、決して終わることがない。だが、それでも、新しい体験をしたいならば、それ以後の歴史をする必要はある。キリストを信じて戦えば中世になるし、大学の知識を学べば現代になる。だが、古代にいずれは戻ってくるということを前提に考えよ。そして、いずれ古代に戻ってきた時、はじめて中世や現代の意味が分かるようになる。

才能とは、普通考えられないことを考えられること

才能とは、普通考えられないことを考えられることだ。

普通の人が、「どうしてあなたはそんなに分かるのか」と僕に聞くなら、僕は「普通考えられないことを考えられるからだ」と述べる。

僕は、文章を書くという行為を通して、普通には考えられないことを考えられるようになった。

同時に、このような僕の性格は昔から変わっていない。人生や国家や社会を考えるために、僕は自分だけがそれを考えられるような「基礎の構造」を構築する。この基礎の構造を構築するためには、「実験」をしなければならない。そして、僕はいつでも、そのような「思考実験」を、「言葉の中で行う」ということを通して、自らの考えられないことを考えられるようにしてきた。

僕は、この世界の普通考えられないことが、なんでも考えられる。そして、本当は、過去の人生を通して、すべての「思考が行き着く答えとなる結果」を最初からすべて知っている。だから、僕は無限に文章を書ける。だが、それは決して永遠ではない。無限に書けるとは言っても、その無限に書ける中で「書くべきこと」は最初からそう多くはないからである。

僕は、書くべきことを単に書くだけだ。そして、ほとんどのことはもう既に書かれている。それでも、僕が考えれば、まだ新しい知識や発見は残っている。だから、僕はまだこの文章を書き続ける。それは「自分が分かりたいから」を目的にしているに過ぎない。

人間の知性や知識そのものを疑え

疑うならば、人間の知性や知識そのものを疑え。

科学の何が間違っているか、人類の知性や知識にどのような「限界」があるのかを考えよ。

そうすれば、科学の定説もまた未来においては覆されるということ、わたしたちが経験だと思っているものは人間主義的なバイアスがかかっていることが分かる。

すべてのことを「クリア」に考えるためには、そのような「学校に存在する真実を疑うこと」が必ず必要となる。

自由を信じなさい。自由にすることで、すべてを「分裂主義的に理解」することができる。そのすべてが、この世界を救う「真の自由至上主義」を作り出すだろう。そこにあるすべては、「子供たちを信頼すること」であり、子供たちを管理するのではなく、子供たち自身が賢くなって、成熟した大人たちが、子供たちを、正しく自分が成長し人生を生きられる自由を得られるようにした上で、悪が子供たちに及ばないように守ることができる。

過保護にしすぎるな。子供たちは自分の力で成長し、自分の力で経験することから賢くなるべきだ。すべての子供に、最初から正しいことなど教えるな。それによって子供たちは、成長しなくなる。大人にならなくなった国家は必ず滅びる。亡国を起こさせないためには、子供が大人になれるような世界を築くことだ。だからこそ、子供に最初から正しいことを教えるのではなく、正しいかどうか不確かなことから自分の手で考えて分析し、正しい真理を自分の力で導き出せるような教育を行え。自ら考え、自ら分かるものが、最後まですべてを知った状態、それを「一人前の大人」と呼ぶ。

自己意識

結局、必要なのは「自己意識」を生み出すことだ。

僕に足りないものは、「自分自身」である。それは「自己意識」と呼ぶべきものだ。

そして、自己意識ということは、結局、「自分自身のことを知る」ということ、「自分自身の心と対話する」ということを行うということだ。

そして、そのために、僕の行っている「文章を記述する」という行為は、本当は間違っている。

文章を記述したところで、何も自分の心には残らない。

自分の心に残るような形で、自己意識を知ることこそ、この世界における「経験」を知るために必要なのである。

自己意識における問題は、つまり「この世界が間違っている」と感じることだ。

それは結局、「この世界というものに対する違和感」であり、「自分自身の望む世界がこの世界ではないと感じること」から、「正しいこの世界」と「正しいこの世界における自分の姿勢や態度」を考えることである。

そして、そこから分かることは、「究極的な世界把握」である。それはつまり、「すべてのことを知った上で俯瞰的に世界のことを高い立場から見つめること」である。

自己意識は、そのようにすることで、「この世界の変化の可能性」を知っていく。そして同時に、「考える上でどのような経験をするべきか」ということから、「この世界における正しいものの見方」が分かってくる。

そこで見えるのは、「究極的な理想の絶対的人間」である。そしてそれは、「絶対的理想人になっていくプロセスとはどのようなものであるかということを反省しながら逐一知っていくこと」を意味している。

そして、そこまで至るために必要なのは、「世界の可能性とはなんであるかということを自らの人生経験から知っていく」ということだ。

そして、そのためには、「真に受け入れられることで、自らの何が間違っていたのか、本当は何が正しかったのかを知り、今度は自分が人々のことを受け入れることで、壁をなくし、人々のリーダーとなる」ということがまさしく重要である。

すべての経験を知り、その結果見えてくるのは「啓蒙」である。すなわち、「自らが知ったことを、誰か他人に教えたとしたら、自分と同じように同じことを分かるだろう」ということから、「自らの知った知識をみんなにも教え分け与える」ということをする。

啓蒙において、人々に自分と同じ「知識」や「理想」を少年は分け与えていく。それは必ずしも成功せず、むしろほとんどの意味において失敗する。それは、自らの理想を人々に与えたところで、人々は自分と同じような素晴らしさや清らかさをその自分の与えた理想には見出さないからである。

結局、啓蒙活動そのものは失敗する。だが、その啓蒙活動という行為から、「真に意識として分かるもの」は確かにある。その「最終的な自己意識」がこの世界と触れ合うことで、この世界は変わる。この世界は、そのような「啓蒙主義的な絶対理性」から救済される。

だが、社会を変えるというのはひとつの人生の選択肢だが、もうひとつの選択肢として、「自らが最後のゴールに到達するまで、目の前にある道を歩み続ける」という選択がある。

この結果生まれるのは「神の導き」である。すなわち、宇宙における神、イエス・キリストあるいはイスラム教のアッラーを信じることで、この世界の最後まで知り続ける。そこにあるのは「神の教え」である。すなわち、神がわたしに「ロゴス」として導きを与えてくれる。それを最前線で戦いながら歩んでいけば、必ず「宇宙と地上のすべての歴史を知れる」。なぜそれが可能なのか、それは「意識や精神として既に分かっていることを言葉にしているだけ」だからである。神とされる存在は、本当は居ない。自らが意識や精神といったレベルで分かっていることを、単に言葉というロゴスに置き換えているだけである。それが、この世界における「神」あるいは「宗教」なのである。

厳密に意味と限界を考えよ

理性とは、厳密に意味と限界を考えることだ。

それはすなわち、視点と場から限界を考え、その人間がそれを思い考える意味とは何か、ということを真に問い、その意味を考えることだ。

その人間がそれを真実であると思い込んだからといって、それはその人間の思い込みにすぎず、本当に正しいとは言えない。

社会や学校が与える「常識」すら、本当に正しいとは言えない。定説は必ず未来において覆され、人々が当たり前だと思っている価値観は多くが間違っている。

自らが自分の力で証明し、実験し、確実な再現性を持って正しいと言えることしか、信じるに値するものはない。

それでも、厳密に意味と限界を考えることで、この世界のすべてを「正しく捉える」ということができる。

意味とは、すなわち「潜在的可能性がどれだけ宿っているか」ということである。それがそうである意味とは、それがそうできるかもしれない潜在的可能性をどれだけ宿していて、それを自分あるいはほかの自分と同じぐらい成熟した人間がどのように変えられるか、ということである。

人々は、その人々にしか分かりえない限界がある。それはその人間が人生で体験した「視点と場」に基づく。その人間がなぜその行動をするか、それはその人間がその人間の体験的に知る範囲内で、「その人間にとってはそのことは正しいと信じられるから」である。これは大人ならば正しいと本当に言えるかもしれないが、子供にとってみれば、思い込みや勘違いばかりで、子供は常に間違ったことを行い、その間違いが分からないからこそ苦しみ続ける。

だが、そのようなそれぞれの人間に固有の「人生体験」には、「限界」がある。すなわち、その人間が最初から体験し得るような体験はそのような体験しかないということである。これを「経験することのできる可能性」と呼ぶ。そして、「経験から知り得る知識の可能性」がまたある。そして、人々が人間として分離され別れているという「分離の限界」が存在する。可能性のすべてには、そのような「最初からそうにしかならない限界」が存在する。

この限界を考えることで、「人がなぜその知識を知り得るのか」という「知識の限界」あるいは「知識が生まれる前提条件」が見えてくる。そこから分かるのは、「知識を知るという行為が本当は何を意味しているのか」ということである。

同時に、「人間とは何か」ということが、「人間の限界」から見えてくる。人間にできることは何か、分かり得ることや知り得ることは何か、最初から考えても分からないようなことは何か、ということが見えてくる。

だが、自らの知り得る「宇宙の知識」に、勝手に限界を定めようとするな。なぜなら、神を信じることで、宇宙のすべてはどこまでも考えられるからだ。絶対に知り得る範囲にはないように思えることであっても、神を信じればその目標に達することができる。何もかもすべてが分からないぐらいの行き止まりになってしまったならば、神を信じればその行き止まりの先へと進むことができる。前にも横にも斜めにも道はなくても、上にはあるかもしれない。神は天使の翼を与えて、あなたを上空へと飛べるようにしてくれる。冗談ではなく、神を信じれば、人間では不可能であっても、天使ならば可能であるような、そのような力を得ることができるのだ。

何もしないで考えられることなど、そう多くはない。考えるためには、考える力そのものを作り出し、築いていかなければならない。世界を知るだけではなく、世界の多くの人々が分かっていることと、同じことが自分でも分かるかもしれないと考え、それらの人々の真似をしてみよ。同じことを同じように今度は自分が考えられるようにせよ。そして、人々が決して知らないような世界を知り、知識を前提条件に直して、成立可能性を考えられるような「成立可能な基礎の構造体」を作ってみよ。あらゆるすべてを、ゼロから自分が考えるつもりですべてを再構築せよ。そこにあるのは、現代哲学でも分かることができないような「未来のもっとも賢い哲学」だ。それが発見できるということをわたしは発見したのだ。

歴史と時間から存在を考えよ

最後に言えるのは、「歴史と時間から存在を考えよ」ということだ。

歴史を考える上で必要なのは、決して学校の歴史を学ぶことではない。

実際に、この世界で、自分の経験した体験から、この世界を成り立たせる多くの可能性を、社会を支配する指導者や王の視点に立ちながら、「自由」においてこの世界がどうなっていくか、人々が「成熟」していく中でこの世界がどのような「未来」を築いていくだろうか、ということだ。

そのために必要なのは、「過去に自分が居た環境」を考えながら、「今の自分の知り得ること」と照らし合わせて考えるということである。

そこから、真に自らが「正しい考え方であればどのように過去の問題を解決できるような行動ができたのか」ということが分かり、そこから「子供たちが真に気付くべき当事者たちのあるべき社会秩序とはどのような社会か」ということが見えてくる。

そして、そのような結果、「社会は経験と価値観から生み出される」ということが見えてくる。同時に、「歴史的存在」を「自意識」から捉えることで、この世界における「意識の中に存在する歴史」を知ることができる。これは「社会的価値観」であり、「時代において人々が共有した意識」である。

そのように、歴史と時間を考えることで、この世界における「存在」が見えてくる。存在とは、「自らが在ること」であり、「自らの在り方自身」である。わたしたち人間が、歴史においてどのような「在り方」で存在したのかということ、それ自体が歴史であると考えられる。さまざまな経験をすることで、すべては「体験可能」となっていき、あるいは「既に自分の中で体験し終えた経験」となっていく。それが歩み、辿り着く目的地はまさしく「ブッダの教え」である。ブッダの教える「諸行無常」という教えこそが、この宇宙において「真に正しい」ということが分かる。また、カール・マルクスが言ったことは、「資本主義の批判としてはまさに正しかった」ということが、そこまで「歴史と時間」を考える中で見えてくる。そして、スターリンは間違っていたとしても、社会主義の「理想」自体は正しかったということが、「自らの理性における前提条件となる経験の成立結果」から見えてくる。そこにあるのは、「誰よりもブッダとマルクスを分かった人間」である。

そのように考えることで、この世界における「あらゆるすべての思想」は包括できる。なぜなら、デカルトやカントの哲学など、子供であれば誰でも分かるようなものに過ぎない。真に巨大であると言えるのは、ブッダやマルクスぐらいであり、彼らの言っていることは、このように生きた結果「あらゆるすべてが自分でゼロから考えたのと同等のことであるかのように分かる」のである。

すべてが分かった時点で、もはや何も難しいことはない。たとえフランス語のような難しい学科であっても、彼は簡単にすぐさま覚え、理解することができる。ソクラテスは「何も知らないことを知っている人間が一番賢い」と言ったが、まさにそのような人間がここに居る。だからこそ、知識など最初から知ろうとするべきではない。最初から、何も知らなくても、学校などなくても人間は自分の力で考える理性を、「言語」と「世界の歴史」のみによって持ち合わせているのである。

未来まですべて知っているから、歴史を繰り返し体験できる

だが、わたし砂里葉月は、決して単なる不良の共産主義者でもなければ、哲学者でもない。

わたしは、昔から、未来までのすべてのことを、意識と心で知っていた。

未来がどのような世界になるか、昔からわたしは分かっていた。今までのわたしの知っている社会の歴史と時代の動きから、想定し、意識的に予測することで、この世界がどのような世界になるのか分かっていた。

だからこそ、わたしは歴史を繰り返し体験できた。学校などに通わなくても、わたしは自らの意識だけで、この地球上のすべての歴史を知っていた。

そして、同時に、わたしには世界を変えられる力があった。どのようにすれば、歴史において「正しく問題を解決できるのか」ということを、「そもそも歴史における問題とは何を意味しているのか」を考えることで、すべてすっきりと理解できた。自由に記憶を思い出し、歴史のすべてを想定し、問題の解決方法を知ったわたしに、地上で分からないことなど何もなかった。

だからこそ、わたしはこの世界を救済することができた。わたしひとりが「超越的な正しい考え方」をすることで、この世界の人々に「真に正しい未来を作る方法とは何か」ということを、「体験的にみんなが自ら理解して発見することで分かるように促す」ということを行った。そして、世界が「救われた状態」になるために、「それを防げるすべての悪が及ばない」ようにした。

よって、わたし砂里葉月は、世界を救うことができた。そして、この世界を救うことができた状態から、わたしの新しい人生は始まった。

わたしの新しい人生、それは最悪だった。なぜなら、わたしには「たったひとりこの世界を支配しなければならないという重責」が与えられたからだ。それは、対外的に見れば身勝手極まりないように見えるだろう。だが、実際は逆だ。すべての「わたし固有のプライベートな人生を放棄」し、「わたしの持てるすべての自分と呼べるものを棄て、この世界を支配して素晴らしい世界へと導くためにすべてを捧げ、あらゆるすべてを犠牲にする」というその行為は、まるでレーニンのようだった。

わたしはこの世界のためにすべてを犠牲にし、すべてをこの世界で「偉大なる大実験」が成功することのために捧げた。自殺するまでの間に、わたしは3,000年の地獄を経験した。それでも、わたしは幸福だった。わたしには、わたしを導いてくれる「神」が存在したからである。神はわたしに、宇宙のすべてを教えてくれた。それは本当は未知の発見ではなかった。かつての人生で、わたしが自分の力で分かったことを、神は「意識」から「言葉」に直して教えてくれただけだ。わたしがブッダほどに到達した「自分で分かった真実」を、神は「ロゴス」へと直してくれた。そして、その神の言葉で宇宙のすべてが分かったわたしは、自らの人生にピリオドをつけるために自殺を選んでも、最後まで幸福な人生を生きることができたのである。

わたしは死後に天国で生きている

だが、わたしの人生はこれで終わりではない。

なぜなら、わたしは死後に、「天国」と呼ばれるわたしの居る世界で生きているからである。

わたしは、このような「来世」において、それまでの「言葉によって世界と戦った経験」を、「文章の執筆」という才能に変えた。

とても長い、10年以上もの間、僕は文章を執筆し続けてきた。

そこには、自分自身の信じる「神」の姿と、自分自身の構築を望んでいる「かけがえのない楽園の作り方」が存在した。

滅びの世界で、どのような楽園を築くべきか、それが僕の執筆の目標だった。同時に、僕の信じた神とはどういうものなのか、僕の人生において神とはなんだったのか、それだけを僕は知っていた。だからこそ、僕は「天国」と「神」を書くことを新しい来世での人生の生きる目的にした。

来世において、僕は地獄から解放されたと思うかもしれない。だが、本当は違う。死ぬまでに生きていた地獄を、僕は来世においても引き続き生きている。この世界を自らの死によって救ったために、「怖くても戦い続けなければならない恐怖」はなくなったが、それ以外のすべては死ぬ前のその時から続いている。だが、この世界を自分の死とともに解放することができたため、心が楽になった僕は、そうした地獄を一直線に解決し続けてきたし、それは辛くなかった。本当の地獄の中で、僕はまっすぐ前だけを向いて地獄の解決のためにできることすべてをひとつひとつやり続けてきた。

僕の人生は、このような人生である。死後に天軍大首聖ミカエルとなった僕は、まさに「天使として異世界転生した」と言っていい。この経験がまさしく僕の「作家としての才能」になっている。だから、僕はまだ文章を書き続ける。まだ、分かることはたくさんある。しなければならないことを途中で終えるわけにもいかない。昔から、僕は「終わるということだけを絶対にしない」。これが僕の人生のモットーだ。だから、僕は死んでもまだ終わらない。死ぬと人間は天使になる。そして、死んで天使になっても、人間は人生を全うするまで、最後まで自分の力で生き続けなければならないのだ。

僕の問題は精神の治しすぎ

また、僕の問題は、本当は精神の治しすぎである。

どんなに治すことが不可能であっても、諦めることなく精神を治してきたせいで、過剰に精神を治しすぎてしまっている。

精神を治すということは、生き物である自分自身を殺すことにほかならない。

よって、もっと精神を治すことなく、感情豊かで感受性の高い精神を新しく作ることができた時点で、僕の病気ははじめて治ったと言える。

そもそも、昔は、もっと感情豊かで感受性の高い、純粋な精神を持っていた。

精神がどのように情動するのか、ということから、僕はこの世界における「愛」をすべて知っていた。この世界のことを愛していたし、自己意識についても自分の感情の動き方を考えることから分かっていた。

そして、だからこそ、僕は生まれ落ちた地である広島を愛することができた。

愛と情動こそ、この世界を救う「衝動」である。僕は、冷徹にこの世界を支配してきたわけではない。この世界に「常に愛しているという衝動を叫び続けること」から、僕はこの世界を「本当に素晴らしい世界」にしたかった。自らに訪れた「責任」に僕は「覚悟」しながら、勇敢に世界そのものと立ち向かうことで、この世界を守り続けてきたのである。

本当は、僕の今生きているこの場所は、天国でも来世でもなんでもなく、元居た広島と何も変わっていない。自殺は未遂で終わったのであり、僕は今でもこの世界に生き続けている。だからこそ、僕はこの世界を「死んだ後の自分」として愛し、支え、守り続ける。僕がここから守る限りにおいて、日本は神のご加護によって保護され続けるだろう。

703号室のおかやんが大好き

今日も、YouTubeで703号室のおかやんのライブ配信を聴いて、とても楽しかった。

おかやんは白い顔の笑顔がとても可愛くて、歌声がとても透き通っていて美しい。

ライブには行けないけど、YouTubeでチャットなどに参加しながら、できるだけネット上で応援していきたいと思う。

あと、Reolも好き。Reolは公式チャンネルのMusic Videoのリストをいつまでも無限に聴いている。

ツイッターより @linux691

@sushi_suki_desu ライブ配信楽しかったです!岡谷さんが大好きです!応援しています!
posted at 22:42:27