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2022-12-15

精神を治すために必要なこと。

今までの人生で、一度もできなかったことをやりなさい。

今までの人生で、一度きりしかできなかったことをやりなさい。

一度きりしかできなかったことの裏側で、別の選択肢を取って別の行動ができたかもしれないようなことをやりなさい。

何もできなかったことについて、それを元に戻し、復活させなさい。

環境に適応しなさい。

環境に適応するために必要なことは、自分に適応することだ。

自分の心に適応し、自分の心をしっかりと掴んで離さなければ、環境に適応できる。

僕は自由が好き

僕は自由が好きだ。

この世界が、今のまま、自由であることを僕は望んでいる。

無用な法律やルール、義務や戒律を定めるな。そのような決まりは必要ない。全員ができるだけ自由であり、全員の合意によって社会が築かれるようにせよ。

サブカルチャー文化は決してクソではない。サブカルチャー文化は、その文化が好きな人間が確かに居る限り、自由に許されるべきである。

ポジティブに考えよう

僕は、これまで、あまりに否定的に考えすぎた。暗く重たい物語ばかり書き、すべてを悪の側面からしか見ず、完全否定しすぎてきた。

もっと、ポジティブに考えよう。

地球には、未来において、素晴らしい世界が訪れる。すべてがよくなり、いいことが起きる。あらゆるすべてが「ハッピー」な方向に向かう。

だから、夢と希望を信じることを忘れるな。

運命的に、すべての未来は決まっているかもしれない。だが、それでも、神は最悪の未来だけを用意するわけではない。最悪のことがあれば、必ずそれと同じだけ、最高のことがある。

だから、明るく楽しい物語を書こう。すべてが救われるような小説を書こう。この地球という星の未来はまだ終わっていない。「自由はまだ死んでいない」。

特に、人生にあるすべてのことについて、否定から入るのはやめよう。どんなにクソのように見えても、それは本当にクソじゃない。素晴らしい側面や賢かった側面、美しかった側面が必ずある。それは「美化」じゃない。逆に、今までの自分は否定的に生きてきただけであり、本当に過去は美しかったのである。

すべてのことに意味がある

「わたしの人生には生きる意味がない」などと、泣く必要はない。

わたしたちの人生には、少なくともわたしの人生には、生きる意味が確かにある。

すべてのことに意味がある。無駄なことなど何も存在しない。どんなに遠回りであっても、必ずゴールに辿り着ける。最初から、ゴールに辿り着けると運命的に決まっている。

世界は変えられる。未来は変えられない絶望なんかじゃない。運命は変えるためにある。

今の自分の見ている世界を愛せ。青空と星空の大切さが分かったのに、なぜそれを失う必要があるのか。わたしたち全員が心を入れ替えれば、青空を失う必要などどこにもない。本当にわたしたちが大好きなこの世界を、滅ぼすためではなく、守るためにわたしたちは生きられるのだ。

夢と希望を信じ、「すべてのことに意味がある」と信じて生き続ければ、どんなに不幸な人生であっても必ず救われる。神を信じる必要はない。「信じるものは救われる」とは、神のことだけを意味していない。神でなくても、夢や希望を信じるものは救われる。「わたしたちは全員大切な存在である」と信じれば、本当に自分自身も含めて、この世界の全員は大切な存在になる。

自由の考え方

すべてのものには価値がある。生み出されるすべてのものに価値がある。

世界は、支配されるだけではなく、変えられる。環境そのものを自分で変えていける。

全員に、愛されるべき価値がある。愛されるべき価値は全員に平等に存在する。

自由は、悪いこともできるかもしれないが、良いこともできる。同じ自由で、良いことも悪いこともできる。だから、自由な行為をする時は、悪いことをせず、良いことをするために自由を行使しなければならない。

社会とは合意である。自由な社会を作るということは、合意した内容に基づいて協力するということだ。協力とは素晴らしい自由の一形態だ。

他人に依存しないことが、結果的に他人を助けることに繋がる。誰にも依存しなくなって、はじめて自分のことに集中できる。自分のことが自由にできるようになって、はじめて他人のことを助ける余裕が生まれる。だから、他人に依存せず、自分のことだけを十分に解決し、余裕を持った段階で、他人を救うことができるようになる。

社会から離別することは悪いことではない。現実社会の浮世を忘れて、自分のことに集中した時、はっきりとした「社会を救うための経験と理性」を得ることができる。社会から離別することで、逆に社会を救うことができるようになる。自分の心の中に「可能性」を宿した人間は、この世界のすべてを救済することのできる能力がある。

許せ。すべてのことを許していけ。いつまでも恨み続けるのでも憎み続けるのでもなく、その人間を心から許すことができたら、その時あなたは「自由」を手に入れることに成功している。わたしたちの自由は、勝つことからではなく許すことから得られる。いつまでも相手に勝ち続けることでは自由は決して得られない。相手のことを許し、世界全員のことを許した時に、自由は得られるのである。

わたしたちのすべての行いは無駄にはならない。宇宙はわたしたちのことを守ってくれている。どんなに辛く悲しい孤独であっても、癒すことのできない孤独は存在しない。宇宙を信じれば、神がわたしたちのことを救ってくれる。神は神が創造したわたしたちのことを愛してくれている。神が創造したわたしたちに、劣ったものや醜いものは何ひとつ存在しない。わたしたちのすべて、ここにあるすべては、神の奇跡のように美しい。

この世界は変えられる。世界を変えるために必要なのは、力によって支配することではない。世界を変えるために必要なのは、自らが知った知識、知恵、経験、考え方を教えることである。

この世界には、さまざまな可能性がある。この世界は、どのようなあり得ない世界やおかしな世界にもなれる可能性がある。その中の、可能性の最高の頂点を目指していけばいい。もっともこの世界が大きく変わるような可能性を与えることを目指して、この世界を変えていけ。それこそが「啓蒙」であり「導き」である。

世界だけではなく、わたしたち個人についても同じだ。わたしたちには、どのような人間にもなれる可能性がある。誰かがなれたならば、あなたであってもなれる。そのような、なり得るもっとも大きな頂点の可能性を目指して、あらゆる人間になれるような可能性に基づいて人生を選択せよ。あなたは誰かひとりになるのではなく、この世界全員を包括した哲学者になることができる。

そして、そこにある幸福とは、「自らが在りたいように在れることを当然のごとく受け入れられるということによる幸福」である。これこそが「自らの選んだアイデンティティを自由に発揮する」ということである。あらゆる宇宙のすべてが、自分の心の中にあると知れ。あらゆるすべては、自分の「自由意志」によって可能であると知れ。そこにあるのは、人々との会話や絆から生まれる、「自分はこの世界を幸福にできるという確信」である。この確信こそが、この宇宙、この世界、この日本という国家・社会を「平和で救われた状態」にするのである。

すべては経験である

すべては経験である。

この世界に存在するすべては、世界に散らばる経験の集合体である。

経験から、価値は生まれる。

経験から、世界は変えられるという可能性が分かる。

経験から、自分自身の何が正しく、何が間違っているかということが分かり、「絶対にそれは正しいのだという確信」を得ることができる。

経験から、この世界をもっとも大きな可能性の下に「決定」し、「決断」することができる。

経験は、この世界のすべてを変えていく。あらゆるすべてが経験であると分かった時、その世界はもっとも美しく、もっとも賢い世界にするための、可能性があるということが分かる。その可能性は、誰をも遠ざけ小さな門で隠されているわけではない。その可能性は誰しもに開かれており、今でも存在し、誰かが気付いてくれるその時を待っている。そう、「自由は常に許されている」。だから、その自由に基づいて行動すれば、わたしたちはいつでもこの世界を救うことができるのである。

すべてのことを、「決定」に基づいて考えよ。この世界のすべては、「決定され得る可能性」に過ぎない。だが、人々は、自らの学校や職場での「立場」や「しがらみ」から不自由になっている。だが、経験はそのような不自由を破壊する。経験そのものには、そのような立場やしがらみというバイアスが存在しない。経験そのものに基づいて純粋に考えれば、そのようなバイアスはすべて破壊される。すべての人間が「完全に自由であることを前提条件とした世界」において、経験は「この世界そのものを超越した状態で世界を救う可能性を知る」ことができるのである。

すべての人間が苦しんでいるのは、本当は大した理由ではない。人々は自由を恐れている。自由になることで、自らが「考えなければならない状況になることを恐れている」。だが、そのような思考から逃げ出してはならない。そのような「自由になるということ」から逃げずに立ち向かい、向き合うことで、必ずあなたのすべての問題は解決する。それは、神によって解決されない問題はなく、「自由」と考えることこそがその神による思考と「合一」だからである。

自由になるということは、宇宙に任せるということであり、宇宙に委ねることは、神を信じることである。どのような心配やリスクがあったにしても、自由になる選択を取ったものは、必ず神によって救われる。宇宙の阿弥陀如来の導きによって、すべてが救済され極楽浄土に往生できると仏教も教えている。それと同じことが、「神を信じる自由」によって起きる。それこそが、すべてが救われた状態であり、「幸福」である。あらゆるすべてを宇宙に委ねるということが、「すべてを肯定的に考える」ということに繋がる。そう、それこそが、「もっとも巨大で大きなポジティブ思考」である。あらゆるすべては、神を信じればすべて上手くいく。これこそが、宇宙でもっともポジティブな思考である。

経験から世界を考える

経験から、世界を考えていけ。

この世界のすべてを経験だと考えることで、この世界には無限の可能性が未来において存在することが分かる。

すべてを自由に基づいていると考えることで、人々は遺伝子のような先天的な理由で決まっているのではなく、それぞれの自由な心と経験に基づいて、環境的・世界的に決まっていることが分かる。

すべての人間を幸福にするためには、すべての人間を自由にした上で、その自由に基づいて人間が幸福になるために必要な理性を与え、情報を与え、能力を与え、機会を与える必要がある。それによって、この世界のすべては、支配せず、啓蒙することによって変えられる。

すべてのことを啓蒙であると考えることで、この世界のもっとも高い頂点の影響力を行使することができる。それは神のような非科学的な超能力ではなく、影響力の高みに基づいた、世界精神とのやり取りに過ぎない。これこそが、真の「神の業」である。

すべては民主主義であるべきである。誰かが勝手に支配するのであれば、その支配によって決定され、決断されることは、国民の意志に基づいていなければならない。これは「人間はみな平等である」という精神に基づく。すなわち、平等は自由において絶対に奪われてはならない。平等は自由における前提であり、平等こそが自由の中核なのである。

すべてを愛するということが、逆に自分自身を愛するということに繋がる。世界のすべてを愛する人間は、自分が世界に為し得るすべてを愛することができる。どのような社会であっても愛することができる人間は、この世界をどのような社会にしても喜ぶことができる。そこにある「社会における価値」こそが、自らのアイデンティティを構築する。「自らがそのような社会を価値ある社会であると愛することができるということ」、これこそが「アイデンティティ」という言葉の定義である。

だが、無条件にこの世界を肯定するのではない。逆である。この世界における苦しみや悲しみに共感し、「本当の意味でそれを可哀想だと思うこと」、すなわち「憐れみの心」こそがこの世界を救う。だが、可哀想な経験のすべてを、本当に悪であるとするのは正しくない。それが悲しい経験であったとしても、それは無駄ではなく、なんらかの意味ある経験である。その悲しみから分かることや、学ぶことがたくさんある。悲しみのすべてを消し去ろうとするな。悲しみは宇宙における価値ある経験であり、悲しみからしかこの世界を救う方法は知り得ないからである。

わたしたちは繋がっている。全員が同じ場所で、同じ心を持って生きている。今、辛く苦しい地獄に陥っているのは、自分だけではなく、全員である。自分とまったく同じ苦しみを、この世界の全員は感じている。だからこそ、みんなを救わなければならない。自分の苦しみや悲しみを度外視して、みんなの苦しみや悲しみを解決しようとせよ。それこそが、もっとも迷宮からの出口を見つけることに繋がる。誰かが迷宮から出れるようにすることで、自らも迷宮に出ることができるようになる。この世界には、迷宮の出口を探している人々しか居ない。彼らと情報を共有すれば、迷宮の出口がどこにあるかを知っている人間が必ずどこかに居る。迷宮の出口を探すならば、その「出口の在り処を知っている人間」を探せばいいのである。

宇宙のすべては考え方である

宇宙のすべては、考え方である。

決定と再利用から、この世界を考えよ。

集積と共有から、新しい発想をせよ。

考え方を知ることで、この世界をどのように変えればいいかということが分かる。

トップダウンではなく、ボトムアップで世界を変えていけ。ボトムアップのアプローチで、この世界において「ダイナミックな革新的変化」を起こしていけ。

愛されるよりも、愛することを目指していけ。誰からも愛されない人間のほうが、「ほかの人間を愛したい」という本能が大きい。感情そのもののなるように任せていけ。感情に従って、この世界全員を「わたしは愛することによってこの世界を変えられるのだ」という確信に基づいて変えていけ。

必ず、この世界を救う方法はどこかにあると信じよ。それによってしか、この世界を救う方法を見つけ出すことはできない。だが、それによって、子供たちのすべての環境が、「無意味なことではなく意味ある理由によって起きている」ということが分かる。そして、それは複雑怪奇で理解できない理屈ではなく、単純な理屈によって起きている。子供たちを救うために、命題の本質と前提条件がどこにあるのかを考えていけ。そこからすっきりと「世界そのものの境界線」を知ることで、この世界のすべての「問題がどうして起きるのかという認識と行動の心理学」を知ることができる。それによって、この世界のすべてを救うことができる。

この世界のすべてを愛する哲学者となりなさい。「問題を解決する方法」という考え方のみから、原因と結果を思い出して考えれば、あなたはまさしく、アリストテレスになることができるだろう。この世界のすべてをもっとも効果的に変えられる人間は、まさしくアリストテレスだからである。

最後まで分かった人間は、レーニンとキリストを生きる

世界のすべてを「変えられる方法」を、小さな範囲からコツコツとひとつひとつ積み重ねていけば、この世界のすべてすら変えられるようになるだろう。

そして、すべてについての経験と悟りを得たならば、あなたはレーニンとキリストを合わせたような革命家を生きることになる。

そこには、誰よりも辛く苦しい、試練が待っている。

だが、その試練を乗り越えた先に、あなたが本当にこの世界で成し遂げたかったような、「本当の世界の救済」が待っている。

平和を捨て、戦いを選び、自らが救った世界を滅ぼすのには、抵抗もあるだろう。「本当にどうしたらいいか分からない」という、苦悩と葛藤があるだろう。

だが、その試練のずっと先、3,000年の地獄を乗り越えた先に、あなたが本当に望む、「この世界を救済した本当の楽園」が存在する。

そして、その楽園を築くのは、すべてあなた自身だ。

さあ、生きなさい。あなただけの物語がそこに待っている。運命が最初から決まっていたとしても、あなたが自分の人生を変えられないわけではない。あなたが作る、あなただけの、あなたのための物語を作りなさい。それはどんなシナリオも許される小説家だが、その小説は最初から必ず最高の奇跡の物語になることが決まっている。

さあ、最後まで戦い続けなさい。あなたこそが、旧約聖書における、終末のイスラエルを救う、最高のダビデ王である。

世界の誰も苦しみを感じなくていい社会を目指すならば、その時点でその社会をあなたは責任持って築かなければならない

いつか、あなたの信じた信念がある。

それは、「世界の誰も苦しみを感じなくていい社会」だ。

それは、「攻撃するということが、その人間だけのせいではなく、みんながその人間に攻撃させるように、その人間を思い込ませてしまった世界」を、「攻撃しなくてもこの世界は救えるのだ」と気付かせるような社会だ。

そのような社会を目指すならば、その時点であなたの運命は決まっている。

あなたが、そのような世界の救済のために、理想の社会を責任持って築かなければならない。

だからこそ、この世界の罵声や雑踏に飲み込まれることなく、この世界を支配し、立ち向かえ。あなたこそが、この世界を救うダビデ王とならなければならないからだ。

絶対に、あなたはこの世界を救わなければならない。それを知ったのであれば、もはや何も迷い悩む必要はない。この世界をもっとも高い影響力で支配し、「自由」になるように世界を導いていけ。それによって、この世界は「自由なままで悪いことが何もない優しい世界」になる。自由なまま、すべての悪を排除し、絶対に悪が生まれないような社会をあなたは築くだろう。

しかしながら、それで終わりではない。あなたは神に多くの約束をした。その約束すべてを、神は叶えてくれる。あなたが自分でした約束である。あなたが自分で選んだ選択である。それを最後まで生き続けよ。神は、あなたが約束を守るから、神のほうも約束を守るだけに過ぎない。あなたの約束が破られるならば、神もまた約束を守らない。それでも約束が守られるのは、あなたの人生が素晴らしいからだ。あなたの行いと生き方を神が喜んでいるからだ。神はあなたを愛している。神はあなたを通じてこの世界を愛する。そう、この世界における神とは、まさしくあなた自身である。