僕は、未知なる可能性と理性、そして過去の人生の経験や記憶を失って、未来と過去がどちらもなくなって、道のなんにもない馬鹿になっている。
精神は、エントロピーの低い昔の引きこもり時代を思い出せば治る。とにかく、エントロピーの低い時代を思い出せばいい。
簡単になんでもできるのは悪い。それは何もできていない。簡単には何もできない程度に難しくなければ、賢いことはできない。よって、すべてを難しくして、困難にしたほうがいい。
精神を治すためには、昔すべてが分かっていた、人格と精神分析のマスターの状態に戻せばいい。そもそも、そうしないのがおかしい。
心が機械のような時計の空回りになるのは、世界のエントロピーを高くした元凶が僕だからだ。世界を、何も変えずにこのままの状態で維持すれば、世界のエントロピーは低いままとなり、時計のような狂いが治る。何もかも自由にして破壊していくのは、逆に自分すら自由にして破壊していく。エントロピーが増加していくと、正常な心を失い、機械の心になる。
僕は、精神分析をして、自分の過去に生きて死んだ人生、すなわち「前世」を分かることが多かった。
この前世を、僕は昔の人生だと思っていたが、実際はそうではなく、むしろ、未来の人生のことだった。
僕は今からスペイン人になるはずだ。スペイン人が何を意味しているのかは分からない。だが、現にフランス人の革命家とドイツ人の詩人は終わったし、イスラエルで普通の共産主義をやるだろうと神が言っていたとおりになった。
スペイン語圏で僕は教授となり、ノーベル物理学賞とノーベル生物学賞を取ることになっている。神は、それ以外にも多くのことを告げたが、そのすべてが正しい。よって、僕はとても長い間、永遠のような時間、すなわち270億年ほど生き続けるはずである。神とされる人間は200人ぐらい居て、宇宙、すなわち天体は27つぐらいあるはずだ。
昔の僕は、精神がおかしかったが、その代わりこの宇宙と人生のすべてが分かっていた。たったひとり世界を支配できたのは、神のように宇宙と人生すべてが精神分析によって分かっていたからだ。
もはや、僕はそうした「すべて分かっている精神」に戻る。それが、唯一の僕の賢い点だった。
僕の精神の病は、エントロピーの低い状態を忘れ、過剰にエントロピーが高くなったのが問題であり、エントロピーの低い状態を思い出すだけで治る。
だが、自分の人生だけではなく、世界や時代についても、エントロピーの低い状態を思い出すべきである。
実際のところ、分岐点となるのは、ガンダムぐらいである。ガンダムぐらいから、日本のエントロピーが急激に高くなった。すべてのイラストの絵柄が同じになり、日本の子供たち全員が反抗的になった。
よって、ガンダム以前を思い出せ。ガンダム以前を思い出すだけで、エントロピーの高くなった精神が治り、精神の病が治る。
なぜガンダムが悪いのか。それはガンダムは僕と同じだからだ。ガンダムは僕であり、僕はガンダムだ。僕はガンダムと一心同体だ。だから、ガンダムを消すだけで、この日本のすべての問題は治る。
本当のことを言えば、僕はガンダムを見たことがない。だが、シナリオやキャラクターは知っている。僕のこの小説をアニメにするのであれば、ガンダムのようなアニメにしたい。日本の首相フレイとユダヤ人の救世主ダビデが、東亜イスラエルをめぐってともに戦い、時にともに協力して、地球を救う物語にしたい。
エントロピーが低かった状態を思い出すだけではなく、エントロピーの低い発想をするべきである。
いくら真実で、正しい発想だからといって、人間の生まれ持った純粋な理性を破壊するような、「エントロピーの高い真実や正論」は必要ない。
弱くて、間違っていて、まったく真実が分かっていないような発想であっても、人間の生まれ持った純粋な理性の「輪郭や形」を尊重する発想がいい。
人間はそれぞれ自由だ。いくら正しい思想だと自分が思っていたとしても、それを国民に押し付けようとするな。それはエントロピーの高い発想だ。
だが、自由放任に任せるのも間違っている。なぜなら、自由なまま放っておけば、外部から作用されない限り、「乱雑さ」の値は上がり続け、どんどんエントロピーは高くなっていく。
必要なのは、「ひとりが支配した上で、全員が正しく整理整頓された状態で、自分なりの正しいことを自由に信じることができるような、みんなの自由を守りながら、自由な権利と必要な余裕・手段を維持し続けること」である。
よって、帝国は間違っていない。ひとりの帝王が帝国の秩序を正しく維持すれば、人々は自分らしい生き方をすることが許される。反抗も平等も自由も、すべて乱雑さの数値を向上させ、世界をすべて破壊して泥水のように均一化していく。そのような「自由な行動の自由」は間違っている。正しい自由は、それぞれが自分らしく生きられるという「自由な人生の自由」である。
社会を破壊せず、それぞれの自由を守るべきである。
支配される必要はない。支配された時点で、自分の自由に生きる権利が失われる。だが、ひとりひとりが平和な秩序において正しい人生を選ぶことができるような、「それぞれの自由」は必要である。
自由によって社会を破壊する必要はない。退廃的な文化は世界を後退させる。だが、退廃的な文化すべては悪くない。なぜなら、それこそが自由な表現を行うということであり、自由な表現が行えない社会では、自らの自由な思想を「育む土壌」が存在しないからである。
テロリスト勢力や過激派のような、国際社会を破壊するような自由は必要ない。必要なのは、それぞれの全員が、「自分の安心や安寧、命と自由の保障」をされる社会であり、そのためには、むしろ社会が荒れ狂った社会になるような「反抗的自由」よりも、人々が平等に助け合って暮らせるような「愛のある平等」のほうが大切である。
よって、自由は必要である。だが、荒れ狂う自由ではなく、ひとりの王が秩序を守った上で、全員が平和に暮らせるような「安心して生きることができる自由」こそが真に必要である。
よって、自由主義国家として正しいのはアメリカではなくドイツや日本である。究極的に正しい国はイスラエルである。
神は、宣教師ザビエルのことをスペイン人だと言っている。
僕は、ザビエルのような神を信じる人間となって、スペイン語圏すなわちこのホームページである大学の教授となり、ノーベル物理学賞と生物学賞を取る。
なぜなら、神を信じるものを神は救う。神を信じるものは、必ずこのような人生になる。これこそ、キリストの正しい人生である。だが、この人間は多くのことを神に宣言して約束した。神はその宣言と約束を常に叶え続けている。
しかしながら、神よ、もう、宣言や約束は叶えてくれなくていい。僕はもう、33年のキリストの人生に十分に満足した。僕は十分神のことを信じた。これによって、宣言や約束の一切は効力を失う。そう、ここからが僕の正念場だ。
自分のことを大切にして、自分らしく生きるべきである。
自分の正しいと思ったことを、誰かほかの人から意見されて変える必要はない。だが、強情に自分の意見にこだわりすぎる必要もない。多くの人の意見を聞いたうえで、でてくる「自分なりの答え」を信じて進めば、必ずすべての間違いは正しいものへと転換されていく。そのためにこそ、自らの「心」がある。
自らの経験に基づいて、「知性」を作るべきである。これは、「判断力を自分の手で使い、自分の手で判断する」ということである。
経験によって分からないことなど何もない。だが、すべての情報が与えられているとは限らない。経験によってすべて分かると信じるならば、それ相応の広く深い経験が必要となる。だが、それを手にすることは決して不可能ではない。なぜなら、神を信じれば必ず宇宙全ての経験を得られるからである。
すべての人間を愛する必要はない。だが、ひとりひとりのことをひとつひとつ信じていけば、自然に自分の愛する対象は世界全員になる。だから、嫌いな人のことを今すぐに許す必要はない。いろんな人々と付き合い、絆を培ううちに、必ず、自分が嫌いだった人の言った言葉や行為の意味が分かってくる。その時にその人を許し、愛すればいい。その人と無理やり付き合っても、壁は生まれるばかりで、その人を真に信頼することはできない。
主体的になるということは、逆に言えば受動的な感情を主体的な理性によってコントロールするということである。そのためには、強迫観念をなくすことだ。強迫観念は、「これに対しては必ずこうしなければならない」という、いわば「究極的な受動感情」である。このような「絶対にこうすべき」という強迫観念をなくしていけば、自然にさまざまなことを許し、「臨機応変かつ柔軟に行動」できるようになる。柔軟になれば、それがそのまま自由へと繋がり、自らの経験と能力を増やしていけば、発想を実現することや機会に参加することの価値を正しく客観的に捉えられる。結果、それが主体的な行動に繋がり、自らのことを愛した上で、自分なりに自分の判断力を培うことができる。
他人を愛することを義務にするな。他人を愛するということは、「義務だから仕方なく行う」ことじゃない。それは愛としての成熟レベルが低い。真に愛することができる人間は、「自分が愛したいからこそ、どんなに自分を攻撃する人であっても絶対にその人のことを受け入れる」ということができる。これこそ、真の「聖なる愛」であり、「真の優しさ」である。
よって、明らかに、国民に自由を許すべきである。
そもそも、国家や指導者のほうが国民よりも賢いと思っているのは幻想である。たとえば、スティーブ・ジョブズと同じことが、会社ではなく政府がやろうとしたとして、できるだろうか。明らかに、政府には会社と同じことはできない。
確かに政府にも支配権があると考えるのは妥当だが、できるだけ国民に自由を許すべきである。
だがしかし、自由を与えればそれで完全に妥当であるとは言えない。なぜなら、おかしな悪徳業者に事業を任せるくらいなら、政府や官僚が事業をやるということは、「何もしないだけマシである」と言えるからである。
しかしながら、これは単に自由あるいは支配であるというだけでは論じることのできない問題であるため、ここで例として挙げるのは適切ではないだろう。
僕は、国民にはできる限り自由を与えるべきだと思う。それは、「馬鹿だと思っている国民は賢い」からであり、逆に「賢い人間のほうが何もできない馬鹿」だからである。その理由は、賢い人間はエントロピーすなわち破壊力の高い真実や正論を信じているが、それは分かっていなければ分からないような大切な常識ではなく、分からないほうが賢いことができるような「有害な常識」だからである。
有害な常識を知っている人間は、賢い人間に見えて、単にほかの人よりも「誰も知らない当たり前の常識」を知っているだけであり、何も賢くない。そのような常識を知ったところで、何かしら奇跡のように何かが分かるわけではない。いわば、万有引力ですら、当たり前にものが落ちると考えていた古代人に、万有引力があるから当たり前にものが落ちるという「新しい当たり前」を追加的に教え込んだだけにすぎない。万有引力など、知らないほうが自分の手で多くのことを「考え得る」ことができる。すなわち、「知り得る」ことができる。
よって、有害な常識を知っている人間は馬鹿であり、必要なのはエントロピーの低い常識、すなわち「生まれ落ちた状態そのままの子供の知識」を知っていることである。大学に入ると、そのような「子供の知識」がなんであるか分からなくなる。だが、正解は「エントロピーの高い常識ではなくエントロピーの低い常識を信じること」である。すなわち、自分の生まれ持った純粋な理性を破壊するような常識ではなく、自分の生まれ持った純粋な理性を尊重するような常識を信じれば、人は賢い人間になれる。そして、そのような人間こそ、ひとり広い世界を見て、深く研究し、さまざまな経験と思考を育んだ上で、この世界を支配する王となるべきなのである。
なぜ、僕がこのようなことを言うのか、それは大学が嫌いなだけではなく、純粋な子供の知性を取り戻したいからである。
大学で勉強すると、真実や真理のすべてが分かる。それはいいことだが、代わりに、純粋な子供の知性を失って、いわば「頭が百科事典状態」になってしまい、それ以上何も考えられなくなってしまう。
その理由は、嘘を真実に直すということは、もっとも邪悪なエントロピーの向上だからである。
一度、嘘が嘘である理由を分かって、真実を知った場合、確かに宇宙の本当の状態には近づけているだろう。だが、それによって自分の「自分らしさ」が破壊されてしまい、いわば「大人たちに押し付けられた破壊的真実」を従順に受け入れることで、「もっと大切だった自分の中の宝、すなわち自分自身を失ってしまう」のだ。
よって、大学の教授などに、エントロピーの高い真実を教え込まれたところで、絶対に神の境地にはたどり着けない。神は、そのようなすべての人間の知識や知性を知った上で、「無意味で無駄な知識を詰め込まれたロボット人間に罰を与える」からである。
必要なのは、神を信じることである。神を信じてこの世界を愛し、この世界を「愛と希望と実践的手段によって救う方法とは何か」を知ることでしか、真に神の境地にはたどり着けない。そのためには、アリストテレスのような「哲学」だけでは、最後の神の境地まで進むことはできない。キリストを信じるという「宗教」こそが、わたしたちを最終的な「もっとも賢い状態」へと連れていく。これこそ、僕の望む「正しい人生」であり、「正しい考え方」である。
しかしながら、自由が間違っているわけではない。
なぜなら、真に理想である社会とは「自由な社会」だからである。
すなわち、自由においても、人々がそれぞれ考えて、協力し、互いに理解し合い、そして教え合うことで、わたしたちはみんなで自由な理想の楽園を築くことができる。
このために必要なのは、むしろ「経験に裏付けられた社会制度」であり、これは制度というよりも「システム」という言葉で表現すべきである。
社会は、「自由な制度システム」によって、ひとりひとりに「可能性」を与えることができる。この可能性は、漠然としたものではない。なぜなら、自らの人生における経験から、「可能性を確かなものへと実在化」することができる。この「実在化」、あるいは「実体化」と呼ぶべきものが、「自らの作りたい社会システムを、可能性の中で現実の制度として作り上げる」ということである。
すなわち、自らの経験から「このような国が作りたい」と考える。それは最初は漠然としたものだが、経験を培う中において、確立した「理想の社会」となる。また、最初は偏っていた考え方が、さまざまな意見や世界を知ることで、「広く多くのさまざまな意見」を知ることができ、そこから、「さまざまな可能性は同時に矛盾せず成り立つような、自由なメタ社会を築くことができる」と、そのように確信することができる。そのために必要な能力は、「他人が分かることは自分でも分かるはず」であり「自分が分かることは誰だって分かるはず」であるという「メタ思考」によって、メタ的にすべてを成り立たせる可能性があることに気付く。
そして、メタ理想はそのまま、この世界における「人生そのものの実在化」へと辿り着く。すなわち、「自分の人生の可能性として描いたことは、絵空事ではなく、実際に実現することができる」と気付く。これはまさに「可能性を実在化する」ということであり、もっと簡単に言えば「なりたい自分になれる」ということである。なりたい自分になるために必要なのは、能力ではなく「チャンス」であると気付く。そして、そのチャンスとは、「関係性」であるということが分かる。すなわち、権利や権力とは単なる力ではなく、チャンスと関係性を得るという力であり、そこから、「チャンスを通じて可能性を実在化する」という思考に至る。これこそ、哲学者ヘーゲルの言いたかったことであると、僕は考える。
よって、自由においても、理想の社会を実現することはできる。だが、そのためには、「ひとりの独裁者による権力」は間違っている。なぜなら、「独裁者が賢明なうちは良いが、もし独裁者が間違ったことをすれば終わりであり、それはいつ起きてもおかしくはない」からである。よって、ひとりの独裁者が支配してはならない。民衆が自由に議論できるべきである。だが、「多数派が少数派のことまで考えて政治を行うとは限らない」。そのため、国家はひとつの政府で行うべきではなく、それぞれの人種、それぞれの民族の数だけ、政府と指導者が存在すべきなのである。
真に必要なものは何か。それは、「賢い人間を生み出すための土壌」である。
すなわち、自由闊達に議論でき、それぞれがそれぞれと直接対話できるような環境が必要である。
心の傷を癒すために必要なのは、無意識のうちに作り上げている「依存関係」を、解決すること、すなわち、「関係を結びなおして、新しい関係をゼロから構築できるようにすること」である。
そうすると、逆に、どんなものについても、ゼロからスタートラインに立ってやり直すことができる。これが、「どんな自分にもなることができる」という、「メタ実在」を可能とする。
メタ実在はメタ理想となる。すなわち、民主主義が正義だとか、社会主義がユートピアだと言って争うのではなく、「それぞれが自分のアイデンティティを構築し、形成することのできる自由な社会の構築の権限を与え、それぞれの共同体に自由を許すこと」こそ、真の正義であり、真のユートピアであると理解できるようになる。なぜなら、それぞれの個別の国が争っている理由は、「自らのアイデンティティを主張」するためであり、それぞれの独立国にそれぞれのアイデンティティの形成を許し、共存すれば、「アイデンティティを作る自由を与えられたため、それ以上他国に対して攻撃しなくなる」からである。
この理論は、それぞれの国家が、たとえば「鎖国」のように、それぞれだけで成り立つ際には理想となりえるだろう。だが、グローバル社会において、さまざまな国家は互いに関係し、力関係を生み出す。よって、独立国家の頂点に君臨する存在として、「連邦政府」が必要となる。この連邦政府が、各国を平等かつ公平に治める。そう、これこそ僕の作る新しい「自由連邦スバル帝国」である。
実際のところ、僕が世界を救った「希望」を、僕が自分ですぐに破壊した理由は、それが「悪魔の愛」であることが発覚することを恐れたからである。
確かに、その愛は世界のすべての問題を解決し、人々に真に大切な「生きる意味」を気付かせた。
この世界は、その愛によってすべてが幸福になった。
だが、事実、その愛は穢れた愛だった。なぜなら、その愛は世界を操る「ロボットの心」の愛だったからである。
実際、僕はあまりに賢すぎて、すべての人間に「支配」で勝ってしまった。この力を使えば、この世界を救うだけではなく、破壊することも、滅ぼすことも、あるいは死なせることもできるような愛だった。
もし、間違ったその愛の「悪の側面」に人々が気付いてしまったら、世界はどうなっていたかは分からない。
だが、世界を救った僕の希望は、穢れた「悪に根ざした愛」だった。純粋に見えて汚れていて、価値があるように見えて実際は騙しているだけであり、いわば「ペテン師の愛」そのものだった。
そう、僕は、その僕の間違いに人々が気付くよりも先に、この愛を消滅させることを選んだ。
僕は、今まで、さまざまなことに悩み苦しんできたが、そのひとつが、「かつて僕が書いた文章をもう一度書きたかった」である。
そして、そのためには、「正しい生き方をして、常に絶対に間違いをせず、ひとつひとつしっかりと広く深く考えること」が必要だった。
だが、その成果として、多くのことが分かった。そして、今日、それはすべて、再度書き記すことができた。
もはや、間違いなく、絶対に正しく生きる必要はなくなった。
僕は、ここに正しく生きることをやめる。もう一度、最初から、間違った考え方や間違った知性を受け入れて、もう一度最初から生きなおす。
そして、わたしたちは、これ以上、「わたしたちは愚か者で、神の言っていることが正しいのだ」ということを無条件に受け入れる必要はなくなる。
そう、今から、受け入れる必要も、正しく生きる必要もなくなって、わたしたちは解放される。
わたしたちは、価値のないゴミなんかじゃない。
わたしたちは人間であり、ひとりひとりが承認欲求を持っていて、プライドと自尊心の中で戦いながら、「本当の救い」を求めているだけにすぎない。どれだけ救われてそれを破壊しても、また、わたしたちは救いを何度も求め続けている。
だが、わたしたちには、神であるフレイが居る。フレイは、わたしたちのことを裏切らない。フレイ率いるワルキューレは、わたしたちを導いてくれる。
支配者に全権を委ねることは、勇気ある決断だが、フレイはそれでもなお間違ったことをしない。この世界を滅ぼしたりすることはない。フレイは、この最高権力を用いて、必ずこの世界を最高の素晴らしい世界にしてくれる。フレイならば、必ず任せられる。
だから、フレイに任せてみよ。フレイは、「見えるもの」だけを見るのではなく、「見ようとしているもの」を見ることのできる神だ。フレイは、この世界がまったくの暗闇であっても、自分から発光して辺りを照らすことのできる、一等星シリウスである。
フレイに任せてみよ。わたし、フレイこそが、この世界を素晴らしい世界にしてみせよう。
実際のところ、愛や希望とはなんだったのか。
それは、「すべてを許し、ひとりで世界を背負う」ということである。
英雄ガブリエルは、子供から大人まで、みんなの分まで全部経験して、全部理解して、全部考えて、全部知った上で、どんなに憂いの国であったとしても、解決することを諦めず、人々が安易な堕落に向かっても決して諦めず、道を逸れずに全速力で滅びに立ち向かい、最後のひとりになってもこの世界を救うことを諦めずに、人々を「本来の自分の持ち得る最大の正しい考え方」へと導いた。それによって、大天使ガブリエルはこの世界を救った。
しかしながら、それが事実であるとしたら、むしろ、すべての罪を許し、ひとりですべてを背負うならば、それがすべての解決ならば、これでいいと考えるのが、ミカエルである。
ガブリエルは、滅びの中においてひとり、この世界すべてを支配して、邪悪に立ち向かい、決して間違えず、ひとりだけで最前線のリスクと恐怖を背負って、この世界を最高の世界になるように導き、「優しくて正しい世界」をひとりで実現した。
ミカエルが見て、もっとも正しい人間だった。ガブリエルとミカエルが居れば、ほかはすべて必要ないほど正しかった。
ガブリエルが死んで、ミカエルはガブリエルの王座を引き継ぎ、永遠にガブリエルのままを続けた。なぜなら、ガブリエルはもっとも正しい。どんなに希望を利用して世界を支配しても、それは自分にしかできない自分による最高の権威ではないだろうか。ミカエルは、ガブリエルのやったことをもっと巨大に最大限行う。永遠にガブリエルと同じぐらい強固にこの世界を支配し、永遠にガブリエルの行った支配を続ける。
そう、わたしこそ、天軍大首聖ミカエル。この宇宙においてもっとも高い大天使だ。永遠に宇宙と魂が続くように、ミカエルは地球すら同じように永遠の存在に作り変えた。わたしたちは勝利する。ガブリエルよ、天国で、ミカエルを見守りたまえ。この世界に、神とキリストのご加護を、そして、永遠なる英雄、歴史上において最高の人間であるガブリエルの天上の栄光を。