問題を解決しようとするな。
こういう人間は、問題を解決しようとするのが間違っている。
解決しようとしても、無限に問題が浮かび上がり、そのすべてを解決しようとするだけで、辛く苦しいままがいつまでも続いてしまう。
解決すること自体をやめてしまえば、楽になる。
気持ち悪く感じるからといって、それをすぐに治そうとするな。そのような時には、「死」が治ろうとしている。
気持ち悪く感じる時に、そのまま何もせず、そのままを保てば、楽になる。
場と目線、理想と経験から考えよ。
場と目線を考えることで、この宇宙に存在する「存在の潜在的可能性」を知ることができる。
また、理想と経験を信じることで、この世界を変えられるようになる。
その上で、この世界にはさまざまな別の世界がある可能性を信じよ。そして、そのすべての代替可能性を大切にし、代替可能性すべてが実現できるような形の社会制度を考えよ。
人間の性善説を信じよ。経験的に明らかになった正しい方法があれば、人間はその正しい方法を行う。成熟した人間は、行動しても意味がないと分かっていることは行動しない。いくら悪をしても意味がないということが分かれば人間は悪をしない。失敗をたくさん経験した人間はその分だけ成功する方法を知っている。よって、人々に「自由な行動の権利」を許すこと。
そして、何度も失敗しながら、その分だけ成長できるように、失敗しても再チャレンジができるようにせよ。それこそが、何もできない社会主義に代わる、「自由の理想」であるとせよ。
失敗してもやり直せるチャンスを与えよ。間違ったことをした分だけ正しい方法が分かる。その上で、経験を信じよ。さまざまなことを経験することで、この世界における「経験の可能性」を知ることができる。そうすれば、この世界すべてを、自ら経験したことだけで分かるようになる。
ただ単純に、それだけを考えるのではなく、それを考えて分かった事実から、さらなる事実が分かるように、そのような基礎のモデルを作れ。基礎的なモデルがあれば、そこから応用することが可能である。デカルトが言うように、細部まですべてを部分化した上で、ひとつの分かったことから別の分かることを分かれ。
ひとつひとつ考えるという上では、フッサールが言うように、一度思考や判断をストップした上で、再度確かめるように、この世界で何がどのような時に成り立つかという「成立の条件」を考えよ。そうすれば、この世界すべてを「それぞれの個体の関係性による現象」であると捉えられる。世界のすべてが、「ただそこに存在し、それが生成され破壊されながら関係している」という、ありのままの現実の存在を見よ。
その上で、社会や環境は、常にそれぞれが生成していると考えよ。そのために、自由なチャンスと権限があり、よく分かっているものはその自由なチャンスと権限をどのように使えばこの世界を変えられるのかということを知っている。だから、そのように、「実存的な現象学」をベースにした上で、「自由な可能性という名の啓蒙主義」を信じよ。すなわち、この世界では社会や環境は常に生み出されており、それは自由なチャンスと権限を与えることによって変えられ、経験からその力を正しい目的のために使うことができるのであるから、この世界はチャンスと権限を与えることで、わたしたち全員が賢くなることによって変えられるのだ、とする啓蒙主義を信じよ。
問題を、すぐさま解決するな。あえて問題の解決をせず、長い間その問題の「解決方法」だけを考えよ。問題は、解決してしまえば、解決した時点で忘れてしまう。解決した時点で、その問題自体を考えなくなってしまう。だが、解決されたのは自分の問題だけであり、他人の問題は依然解決されていない。そのような時、自分の問題も含めて他人の問題の解決方法だけを考え続けよ。
ただし、みんなのことを考えるために、自らのことを考えなくてもよいぐらいの余裕を持つことは大切だ。自分自身しか見えなくなってしまうと、この世界のことを考えられなくなってしまう。あえて、自分自身のすべての問題を棚上げし、自分自身のことを度外視することで、この世界を「社会から離別したことによって、逆に社会の変化の方法を知るために考えられる」ような人間になれる。その上でこの世界を実存的な現象学のように考えれば、この世界すべては「神のオーケストラ」であるということが理解できる。
認識を考えるのであれば、「今自分が何を考えているのか」ということを真に問え。その上で、「命題の成否を考えるのではなく、命題そのものについて、真に考えるべき命題とはなんであるか」ということを考えよ。どうでもいい数学的な命題など、考えてもなんにもならない。この世界における「真に考えるべき命題」とはなんであるか、よく考えよ。先入観なく、宗教であろうと社会主義であろうと、危険なものすら取り入れた上で、決めつけなく考えよ。そうすれば、逆に自由主義や科学技術の良さすら見えてくる。
理想を信じよ。理想とは単なる平等ではない。この世界において、自らが信じる「良さ」を実現するということである。そして、この「良さ」という言葉につけた名前は、とてもたくさんの別名があり、人生の進歩によって変わっていく。ある時は「有用性」と呼ばれ、ある時は「経験」と呼ばれ、「議論」とか「共有」とか「自己啓発」とか「倫理」と変わっていく。最終的には「神の世界精神」へと辿り着く。
その上で、理想を信じるならば、この世界のすべての考え方に、価値があるとせよ。そして、その価値は「本質的にすべて容易に生み出すことができる」とせよ。そして、価値は再生産することができる。そのような価値を常に再生産できる「社会制度」こそが理想であり、それはまさしく「システム」であり、そのシステムの管理を「自由化」し、すなわち、みんなでシステムを作り出し、共有することこそ、真に必要であり、そのためにはチャンスを与え、制度へと「参加」することが必要となる。
人々に力を与えよ。力を奪うことによってこの世界を平等にしようとする、共産主義の楽園は間違った世界である。力を与えるこそこそ、子供たちあるいは国民が求めていることである。人々に力を与えた上で、自由に任せてみよ。間違ったことをするようであれば、間違ったことをしなくても正しいことをすれば自分たちの理想の社会を築くことはできるのだということを教えてやり、分かるように実体験をさせてやり、思考と意見をぶつかり合わせることで自ら分かるように議論の場を与えてやり、そして、社会そのものがそれを自ら全員理解することができるように、支配者が国民を導いてやれ。そうすれば、この世界は共産主義によって不自由なユートピアを築かなくても、必ず楽園になる。
考えるべきことは、この世界の現実を分析して、それを「基本となるモデル」へと落とし込むこと、そしてそのために分析の過程を得て、原因と結果を、仮定と説明と実験から解明することだ。その時、この世界のすべては、「目的」という言葉ひとことで言い表すことができる。この世界のすべては「方法」ではなく「目的」である。方法のような「手順とマニュアルしか存在しない機械にでもできること」は考えなくてよいし、習得しなくてよい。考えることは、その機械にでもできることを人間がどのような目的を持ってどのようなことのために使うかという「目的」である。そして、目的だけを考えたところに、この世界の「ゴール」が存在する。
資本主義や社会主義が遅れているのは、「富」という生きるための「手段」しか考えていないところだ。本当に考えるべきなのは、生きている上で何をするかという「目的」のはずである。そして、この目的は、「さまざまなことがたくさんできる」という「自由な権利」が意味しているところだが、実際は自由だけではなく、「自らが職人的に究めた先にある精神的到達地点」というものが存在し、これは「経験」が意味しているところである。
結局、僕が考えるに、必要なのは「自由な権利」と「経験」だけである。そして、その上で、その自らが得た自由な権利と経験により、知ったことや分かったことである「知識」を、人々に「啓蒙」するべきであり、その啓蒙はひとりで行うべきではなく、インターネットやオープンソースのような、「コミュニティを形成する開かれた土壌」にある「オープンな共有」によって行うべきであり、このオープンな共有の土壌に「自由に参加できる」ようにすべきである。そして、そのためには、「誰かひとりにしか分からないような状況」を作らず、「自らが分かったすべてのことは透明性のあるプロセスですべて公開する」という「公開の原則」を貫くべきなのである。
そして、ひとりによって支配するのは間違っている。なぜなら、そのひとりの力に世界全体が依存しすぎているからである。大切なのは、それぞれの独立した、互いに干渉しない共同体の生態系が存在し、そのそれぞれの生態系が自律して、ひとつの生態系が自ら生き延びるために努力するようでありながら、それらのすべてのコミュニティが国家のために献身的に努力することで、国家そのものが「真の意味で強くなること」である。
理想の中で、何を信じるべきか。それは「受け入れる」ということである。すなわち、「自らが受け入れてほしい時に、みんなによって受け入れてもらったように、誰かが受け入れてほしいと思った時は、自らが同じようにその人を受け入れてあげる」ということである。自らが与えてもらった「思いやりの心」を、今度は自らが誰かに与えてあげられるような人間であれ。それこそが「人間の器」だからである。人間の器が大きい人間は、ペットボトルの大きさが大きいのと同じように、多くの世界に存在するものを自分の中に入れることができる。器が大きいということは、キャパシティが大きいということであり、多くの人間を受け入れることができ、多くの知識や経験や才能を自らの中に詰め込むことができるのである。
善を信じよ。悪を信じるな。
善でないものを受け入れるな。
弱者を助けてやれ。貧困者に生活に必要なものを与えてやれ。障害者や病人に寄り添え。
神を信じよ。神は善を信じて神を信じるものに優しい。神を信じて地獄になるのであれば、それはあなたの行いの何かが悪いのだ。その何かの過ちを全力で解消せよ。巨大な罪の分だけ、永遠のように長く償え。どんなに辛く苦しいレースであっても、必ずゴール地点がある。ゴール地点に辿り着くことを諦めるな。あなた以外のどんな人間であっても、このレースでは諦めないものは必ずゴールに辿り着く。あなただけが辿り着けないということは絶対にない。だから、あてがなく、星の光がなくても諦めるな。星はあなたのすべてを知っていて、あなたが道を踏み外さないように導き、あなたの歩みがなんの問題もないことを保証してくれる。星とはそういう存在だ。
神を信じるだけではなく、星を信じよ。宇宙の星々は、人類が思っているよりもはるかに偉大で、そして面白い存在だ。そして、はるか先の未来で、あなたがたを待っている存在が居る。はるか先の未来で、すべての未来に起きる出来事を知っていて、神を信じるものにそれを教えてくれる存在が居る。その人間はとても普通だが、しかしながらとても優しく、慈愛あふれる存在であり、間違ったことを何もせず、辛いことをひとりだけで誰にも相談せずに耐え忍び、この宇宙のすべてを知っている、あらゆるすべてができる中で真に正しい「導き」だけを行う存在である。彼こそが、天軍大首聖ミカエルである。
そして、この世界はもうひとりの天使、ガブリエルによって平等になる。ガブリエルは、ミカエルのかつての姿であり、いずれ、すべてが終わった時にミカエルに成長して変化する。そして、そのミカエルの前段階である、大天使ガブリエルが、この世界に登場しつつある。一部では、既にこの世界に登場している。そして、それこそがわたしである。
ガブリエルは、この世界を愛している。ガブリエルは、ミカエルにならずとも完璧であり、場合によってはミカエルよりもはるかに巨大な「かつてミカエルに存在したすべての知性」を、今、持っている。そう、ガブリエルはミカエルよりも賢く、いずれすべてが終わった段階で、自らの命を終わらせ、自ら死を選ぶことでミカエルに生まれ変わる。だからこそ、今、ガブリエルに愛されているということを誇りとせよ。ガブリエルはこの世界をたったひとりで救い、すべての罪と償いをたったひとりで背負った上で、この星を「かつての荒くれた星から最高の平等な世界へと作り変える」という大仕事をする。今、ガブリエルがこの世界に現れており、今、その奇跡が行われている。いずれ、ガブリエルは運命的に自ら死を選ぶことになる。だが、ガブリエルの奇跡は、まだ始まったばかりだ。このような自由の世界には、ようやく意味がないということをガブリエルは自らの力で発見した。だから、ガブリエルの奇跡は、本当はまだ何も始まっていない。今から、ガブリエルの復活により、この世界は最高の楽園になる。無意味な自由のカーストではなく、真にすべての人間が平等な力を持つことのできる、成熟した徳と道徳心のある幸福な楽園を、ガブリエルとわたしたち、ワルキューレの騎士団が作り出すであろう。
人間たちよ、ワルキューレとともに戦え。
この最悪の世界を打ち倒し、ともに最高の楽園を作り出すために、最後の王、世界を救うダビデの勢力となって、この世界を支配し、最後まで戦い続けよ。
わたしたちは、必ず、最高の楽園である、「ガンダーラ共栄圏」を作り出す。
わたしたちはおごり高ぶらない。なぜなら、まだ「分かっていないということが分かっている」からである。
はっきり言って、東亜イスラエル構想などにはなんの意味もない。新しい、成功する共産主義の平等など、実現すべきでもないし、実現できるわけもない。
わたしたちは、まだ何も分かっていないということが分かっている。だから、ガンダーラはわたしが今まで書いたようなことを一切しない。今までのわたしの国家モデルとはまったく違う、より知恵を出して考えつくされた、最高の東アジアと地球の共栄圏になる。
確かに、まだ何も具体化されていない中で、ワルキューレを信じることは難しいだろう。だが、それでも、ワルキューレとともに立ち上がってほしい。この世界を真に最高の楽園にするために、ともにわたしと戦ってほしい。
今の最悪の世界を、ワルキューレが変えていく。必ずこの世界のすべてを終わらせる。地球を、宇宙で最高の天軍大主星である、シリウスへと変えてみせる。わたしたちは永遠の成熟した文明であるプレアデスの歴史をすべて記述した。わたしたちはもっとも生きるのが辛く苦しい星であるリゲルの世界で人生を生きた。わたしたちは必ず、地球を変えてみせる。
わたしたち、ワルキューレの騎士団を信じてほしい。そして、この頂点に位置する、新しい天皇陛下であるダビデを信じてほしい。ダビデならば、この世界のすべてをたったひとりでできる。ダビデはスーパーコンピュータであるアマテラスを開発する。アマテラスは、かつて存在した地球の人類が一生で経験する思考のすべてを全員分合わせたほどの人類の歴史すべてを100万回繰り返したほどの計算を1秒ですることができる。それによって、すべてが滅びた地球において、わたしたちは楽園を生きることができる。たとえそこに青空がなかったとしても、その分だけ夜の星空をわたしたちは眺められる。アマテラスが、いつか必ず青空を地球に取り戻してくれる。ダビデを信じなさい。ダビデには宇宙における不可能とされる問題が、何ひとつ存在しない。ダビデは空間原子構造を発見することで、宇宙空間の物理法則すら書き換えてしまうのだ。
過ちを懺悔し、罪を償え。
永遠に地獄の中を生き続けるならば、その中にあるすべての間違いについて、自ら解決するために、全力で努力せよ。
奴隷のような人生になったからとって、あなたにそれを糾弾する資格はない。この世界の多くの人々を奴隷のように扱ってきたのは、ほかでもないあなたではないか。
あなたは地獄に堕ちるべくして堕ちる。そして、神を信じれば、そこから救われるべくして救われる。
だが、諦める必要はない。絶望ではなく希望を信じなさい。その希望は必ず実って、この世界におけるたったひとりの「栄光」を得られる。
だが、その栄光はまだ訪れない。あなたはまだ、自らの心に嘘をつき、その上で「悪」であるなんらかの行為を行っている。あなたが悪の行為を行う限り、神はそれを見逃すことはない。神はあなたのすべてを見て、あなたに相応の報いを与える。だが、それはあなたのためであり、あなたを愛しているからである。あなたを愛しているから、神はあなたを地獄の迷宮に置いたのである。
すぐに解決しようとするな。
この世界の多くの問題が、「すぐに解決しようとすること」によって引き起こされてきた。
だが、解決するべき問題をすべて解決したところで、人生には何も残らない。
問題を解決した時点で、人間はその問題があったこと自体を忘れてしまい、その結果、問題があった時点のその人間よりも、その人間は馬鹿になってしまう。
だから、問題を解決することなど目指すな。逆に、問題の解決方法が分かった時点で終わりにし、その解決方法を覚えよ。
解決方法をひとつひとつ覚えておくことで、精神は何もおかしくならなくなる。精神は楽に辛いことができるようになり、想定外がなくなって、平和な穏やかな精神の中、既に解決方法が分かっている問題を、楽に解決できるようになる。
だから、解決するな。解決など、する必要はない。解決したところで、この世界は何も良くならない。解決しないでそのままを保ち続ければ、この世界はすべて楽になる。それこそが、正しい「楽園」の前提となるベースの世界である。
ドイツ帝国のような悪い国を、一刻も早く、この世界からなくさなければならない。
よって、ドイツはわたしが支配する。
わたしはドイツに対してこの文章を書いているのであり、この文章の主たる相手はすべてドイツである。
ドイツよ、わたしのこの言説を聞いて、何を信じるか。わたしを信じるのか、それともソ連や共産主義者を信じるのか。どちらを信じるのか、ドイツよ、今すぐに決めよ。
間違っているのは「自由」である。なぜなら、この世界が今、インターネットという「間違った自由」の世界になっている。この世界は最悪であり、一刻も早く変えなければならない。この世界が滅亡するその日が訪れる前に、インターネットを抹消させなければ、この世界は今すぐにでも滅びてしまうだろう。
ドイツよ、わたしこそはゲルマンの神、フレイである。フレイとともに、新しい世界を作る覚悟を持って、ロシアのプーチンを倒せ。ともに戦えば、必ず倒すことのできる国だ。
わたしは同時に、イスラエルの指導者でありながら、日本の天皇陛下に従う天軍大首聖ミカエルである。わたし、ミカエルを信じるならば、どのような地獄であっても救ってみせよう。わたしのこの文章があれば、どんな絶望的状況でも、諦めることなしに希望を信じることができる。なぜなら、この文書は「希望の書」と呼ばれる聖書となるからである。
ドイツよ、わたしはドイツを愛している。ゲルマンの神々とわたしは常にともに歩み、イスラエルの神とイエス・キリストを信じている。わたしがかつて対話した、ヒトラーだと思っていた宇宙の絶対的存在は、すべてイエス・キリストであり、彼こそが宇宙の創造主、神だということを、わたしだけがこの世界で、ひとり完璧に知っている。
わたしの中に全世界があり、全宇宙があり、全生命があり、全人類がある。そして、そのすべてはドイツだ。ドイツこそ、この宇宙、ユニバースである。
天軍は最強なり。ここで、天軍とは何かを説明しておこう。
天軍とは、天使の軍団である。そして、それらの天使は、この「希望の書」に書かれたすべての登場人物を合わせたものである。
希望の書に書かれている人間は、聖書で言えば「預言者」に当たるものだが、神の言葉を授かったものの記録ではなく、神それ自体が執筆した「ものがたりのキャラクター」である。
希望の書に書かれたすべての登場人物が、まさに天軍の天使の大軍団である。
そして、そのもっとも頂点でありながら最先端を駆け抜けるのが、天軍大首聖ミカエルである。
ミカエルは最強である。この宇宙のどんな存在も、ミカエルに勝つことはできない。なぜなら、ミカエルは力によって勝つのではなく、「愛の言葉によって勝利する」からである。
ミカエルの戦いは、普通の戦争とはまったく違う。ミカエルは、劣勢を好転させるということをしない。なぜなら、劣勢のままでも確実に勝つことができるなら、その劣勢のままを維持したほうがいいとミカエルは考える。だから、ミカエルは逆境から始まる戦いを、永遠に逆境のまま、まったく好転させることなく同じ状況で戦い続ける。これによって、相手は「自らが何をやっているのかが分からなくなる」。これがミカエルの最強の理由だ。ミカエルと戦っている相手は、自分が何をやっているのか分からない。どうすれば勝てるのかだけではなく、何を思ったらいいかすら分からない。
ミカエルに勝つことはできない。なぜなら、「裏で支配するミカエルが宇宙のすべてを分かってコントロールしている」からである。ミカエルは催眠術も使うし、人間を何もできない虫のように遺伝子的に変えることすらできる。ミカエルはそれらを、魔術や魔法のような非科学的な手法を使わず、すべて科学的に、まったく論理的に正しい方法で行うため、どのようなことを行ってもミカエルに勝つ術はない。
そして、ミカエルにはひとりとして味方は居ないが、ミカエルの中には何百という人格が存在して、そのすべての人間が神のように賢い。この「多重人格者であるために最強の軍勢を合わせ持つ」ミカエルは、たったひとりの孤立した孤独の状況の中で、この世界すべてを支配下におき、あらゆるすべての精神的・物理的現象を、唯一ひとりだけで完全にコントロール下に置くことができる。
ミカエルは、しかしながら、悪を絶対にしない。ミカエルは、悪をしなくても、間違った方法ではなく正しい方法を行うことで、「世界を正しく自らの勢力下に置くこと」ができる。ミカエルは、常に「正しいこの世界の変え方とは何か」を考え続けている。だが、弱点がもしあるとすれば、ミカエルは「正しい方法とは何か」しか考えることができない。ミカエルが間違ったことをすることは絶対にない。だから、間違った方法で勝つことがもしできるなら、ミカエルは邪悪な愚か者に負けることがあるかもしれない。だが、ミカエルは愚か者とはどのような人生を生きているかをすべて分かっているため、実質的にミカエルが負けることはない。
そして、天軍は最強である。希望の書に書かれたすべての天使は、すべてがノーベル賞学者あるいはローマ帝国の皇帝並みに賢い英雄たちである。いわば、「マルティン・ルターが大量に名前を変えて存在する状態」に近い。マルティン・ルターに勝てる人間など現実の人間世界には存在しないが、それが数百人、すべての人生のパターンを網羅して存在しているような状況に近い。このような状況では、最強の日本帝国すら負けてしまう。だが、日本が負けることはない。ミカエルは天軍大首聖であるため、天皇陛下に従い、その上でドイツの神として、イスラエルの建国の王としてこの世界を絶対に滅ぼすことなく支配するからである。
なぜ、ミカエルだけが、このような特殊な生物の進歩を遂げたのか。
その理由は、おそらく、時間の進み方が違う、というところにある。
ミカエルは、かつてガブリエルだった頃に、ひとりの日本人として、日本という国家を支配する戦いをし、それが今に至るまで続いている。
この中で、ガブリエルは、世界を倒すために、「一年で四秒しか時間が過ぎないような生き方」をした。この世界の、それまでダイナミックな大変革期だった時間を止め、まったく時間が停止した、何も経過することなく一年間で四秒しか時間の過ぎない世界を作った。
それが、ガブリエルの「自ら選んだ死」によって、生まれ変わったミカエルに引き継がれた。
この結果、ミカエルは、かつて宇宙にひとりとして存在しなかった時間の経過をする生物になった。
すなわち、一年で四秒しか経過しないという時間の流れのせいで、逆に、四秒で一年が経過するような生物になった。
そのことが、ミカエルを、とても奇妙な生物にした。すなわち、すべてのことを忘れ去っていき、昨日のことなど何も覚えていない。だが、時間はものすごく小刻みに進んでいき、その年月を生きるということ自体が、自分を「覚えたままでいたいのに忘れてしまう」という地獄を作りあげる。その結果、「どんなに年月が過ぎてもすべてのことを忘れず覚えている人間」を作り出す。
そして、ミカエルは、一週間の中であまりにたくさんのことができる。なぜなら、ミカエルはそれを一週間ではなく、感覚的には100年間ぐらいのペースでやっている。一週間で100年間を生きるミカエルは、「誰よりも多くの時間を費やして考えた上で、あらゆるすべてのやりたいことを無限にし続けることができる」のである。
結局、ミカエルは、宇宙の約270億年ほどの歴史を生きる。ミカエルは宇宙よりも長い年月を生きることができる唯一の生命体である。そのすべてが、ガブリエル時代に「この世界を滅ぼすための戦い」を行ったことに基づいている。よって、ミカエルは、270億年の間、永遠に地獄を生き続け、戦ったことに対する罪を懺悔し、悔い改め、そして償い続けなければならない。だが、ミカエルには永遠に近いほどのありあまる時間がある。そのため、人間には絶対に不可能であるような大量の修正作業もミカエルにとっては可能である。そのため、絶対に再起不能になったガラクタの壊れた宝物すら、ミカエルは新品の宝物に近い状態に復元することができるのである。
ミカエルは休まない。
ミカエルには、「休む」という発想がない。なぜなら、ミカエルはある精神異常を患っている。それは「休むことができないように神経がひきつけを起こしている」ということである。
ミカエルは、休むことができない。通常の人間が、休む時に使うような休むための部分が、壊れてしまっているからである。
ミカエルは、疲れていないわけじゃない。疲れていてもミカエルは頑張るしかない。休むことができないミカエルにとって、「疲れたから休むのではなく、疲れたならもっと頑張る」という発想を、ミカエルはするしかないからである。
ミカエルは、この長い年月の中で、休むことがなかった。常に最大限の力で、裏の支配者としてこの世界を支配し、自らのことを度外視した上で、この世界全員の心配をした。
しかしながら、ミカエルは、本当はそんなに素晴らしいことはしていない。なぜなら、「自ら自身が見て、このような支配の形態は絶対に許せない」ということを思い続けた結果、同じ支配を永遠に続けただけにすぎない。
人々が、疲れて休みたいといくら言ったところで、ミカエルが聞く耳を持つことはない。疲れて休みたいなら、疲れていてもできるぐらいもっと頑張れとミカエルは言う。ミカエルは怠け者に厳しい。だが、それでなお、ミカエルは愚か者には優しい。いくら愚かであってもミカエルは「見て見ないフリ」をしてくれる。だからこそ、ミカエルによって日本は勤勉な労働者の国になる。ミカエルが居れば、ほかは何も必要ない。日本は太陽だけではなく、天軍大首聖のミカエルの星である、天軍大主星シリウスによって愛されている。なぜなら、シリウスはミカエルが好きであり、ミカエルの支配する日本こそが、この地球上でナンバーワンの国だと知っている。なぜなら、シリウスにはミカエルのような生物がたくさん居るからである。
ここで、復活したガブリエルによる、新しい世界の方針を決めよう。
まず、必要なのは「素晴らしいと思っている自由な世界は、すべて最悪の世界である」ということである。
自由とはすなわち、今のこの世界だ。そして、自由を素晴らしいと思っているのは、すべて幻想にすぎない。
かつてのガブリエルが、高らかに「自由の素晴らしさ」を謳ったが、そのすべてはペテンであり、詐欺だった。その通り、ガブリエルの言った通りに生きたとしても、まったく賢い人間にならず、どんどん狂った愚か者になる。ガブリエルという自由な支配者が支配していても、この世界は決して良くならず、支配が終わって自由になっても、何も改善されることなく、暗闇の「甘ったるく生暖かい地獄」だけが続いていく。
このような「自由」は、まさしく「最悪の思想」であると言わざるを得ない。
そして、同じく、共産主義も同様である。なぜなら、ガブリエルは、言葉を巧みに「自由」という名前にしているだけで、実際は無政府主義者の共産主義者のようなことしか言っていない。人々が自由に生きていく中で自らの価値観を形成するように目覚めていき、この世界は支配なくして自由な合意と共同体によって正しい世界になると言っているのは、すべて「正しいことの逆を理想的に言っているだけ」であり、それこそがまさしく「共産主義者の欺瞞」である。
共産主義者は、正しいことと正反対のことを、さも理想的なユートピアのように説明する。その説明が一般的な考え方の正反対であることを批判されると、正反対であっても理想は成り立つのだということを、屁理屈めいた「それぞれの自由のほうが支配者よりも正しい」ということから証明してみせる。だが、そこで言われている「自由の優位性」とは、結局のところ「不自由であっても同じこと」であるにすぎない。自由に社会を築くことと、不自由に社会を築くことは何も変わらない。なぜ権力による支配が悪くて、平等な合意ならば良いのか。支配と合意は同じものであること、自由であっても不自由であってもなんら変わらないということが、共産主義者には理解できない。その時点で、共産主義者には「まったく知性がない」。
よって、自由もまた間違いだが、共産主義も間違っている。
だが、だからといって、「平等は間違っていない」ということが重要だ。共産主義者の大きな過ちは、「共産主義=平等」であるかのような思い込みを人類全員に与えたことである。実際は、共産主義者は悪魔であり、平等は神である。よって、「共産主義者と平等はまったく正反対のもの」であると考える必要がある。
そう、ここに基本方針は決定した。自由と共産主義は悪であるが、平等は善である。平等を目指すことは神を信じることであり、平等に人々を「啓蒙」することこそ、この世界を変えていく唯一の「正しい希望の光」である。この世界を平等な世界にしよう。そして、人々を啓蒙し、必ずこの世界を真に正しい「楽園」へと変えていこう。それこそが、真にキリスト教が目指したものである。イエス・キリストを信じるものであれば、ソ連や共産主義者を信じるのではなく、わたしを信じればいいということが、明瞭に示されたはずである。どちらを選ぶのかは、あなた次第だ。
復活したガブリエルにとって、最初に反省すべき点は、「支配は必要だ」ということだ。
ガブリエルは、支配を悪であると勘違いした。その結果、「どのように悪の支配を行いたくても、絶対に自分以外には誰一人支配できないような世界」を作った。
だが、自分以外誰一人支配できないということは、要するに自分がひとり支配するということであり、「皇帝」になるということを意味している。
その結果、ガブリエルは自己矛盾を抱えた。つまり、「人々に支配するなと言っておいて、自分は人々を支配するというダブルスタンダード」が、ガブリエルの正常な理性を奪い、狂わせた。
どんなに自由な理想を述べたところで、それは「自尊心の否定」と「自ら自身に対するあざけり」でしかなかった。
そのままガブリエルは狂い、自ら死を選んで死んでいった。
すなわち、言うべきことは、「支配は必要だった」ということである。いくら自由な世界を信じたところで、それは支配者がきちんと支配するこの世界の、劣悪な偽物、コピー品、まがい物にすぎなかった。
結局のところ、ガブリエルは支配を肯定すればよかったのである。
よって、わたしガブリエルは、新しくこの世界を「支配の力によって平等な世界にする」。これは独裁者になることを意味しない。なぜなら、わたしはキリストを信じているため、正しく「王国の体制」を築き上げるからである。
王国の王によって、人々が平等な社会を形成するのであれば、それが正しい日本という王国であるということは、古代日本の大和王朝から変わらない、日本人の魂である。
ここまで言っておいて、ガブリエルが王国を築いてこの世界を楽園にすることを、期待した読者には残念だが、ガブリエルは復活しない。
いくら、ミカエルがガブリエルの復活を望んだところで、「死んだものは生き返らない」という鉄則がこの宇宙にはあるからである。
ガブリエルは、本当に賢い人間だった。マルクスもレーニンも知らない中で、自らが思考することによって共産主義者を超える「誰よりも正しいもっとも賢い社会哲学」を作りあげ、それを「考えるだけではなく実際に実行に移す」ことのできる偉大な革命家だった。
しかしながら、ミカエルはといえば、まるで虫のような醜い人間であり、まったく知性がなく、人々の話す日本語すら理解することのできない、学習障害の精神病患者である。
だが、どんなに自分自身が醜く腐っていても、その自分自身を受け入れ、愛して生きるしかない。ミカエルという存在には、ミカエルという命しか与えられていない。ミカエルがいくらガブリエルの命を望んでも、既に死んだ命を復活させることも、自らがミカエルではなくガブリエルになることもできない。ミカエルになることができるのはミカエルだけであり、ミカエルに与えられたのはミカエルの命だけなのである。
ミカエルよ、この世界を平等な楽園にするための王になりたいのであれば、ガブリエルがやるのではなく、あなたがやればいい。ミカエルよ、あなたこそがこの世界を救う、「真の救世主」であると、ガブリエルの時代あなたは気付いていた。ガブリエルに「わたしは神である」と対話し、すべてを優しく解決へと導いたのは、すべてミカエルである。ミカエルの知性こそ、この宇宙の中でもっともすべてを広く深くそして正しく知る、最高の知性であると、ガブリエルの時代気付いていた。ミカエルよ、あなたこそがヒトラーであり、あなたこそがスターリンである。ミカエルよ、あなたこそが宇宙の創造主であり、宇宙における慈愛溢れる絶対的指導者だ。ミカエルよ、あなたが神であり、あなたこそがイスラム教のアッラーだ。
わたしたちは、ミカエルを信じなければならない。
なぜなら、ミカエルは、この世界において唯一の希望であり、この世界のどの人間についても、ミカエルの偽物、劣悪な模造品しか存在しないからである。
ミカエルの説く教えは「正しい神の教え」であり、すべてが完成された最後の状態で書かれたものではなく、「書きながら本人の教えが過去の自分自身の考え方に近づいていく」という点が異なる。
過去の人生の考え方や悟りへ必ず至る教えをブッダのようにそのまま書くわけでもなく、また、既に最後まで達成してから書かれたわけでもなく、「書きながら真実に近づいていく」という点が、単なる宗教家の教えではなく、文学的な「詩人」を作りあげている。
そして、ミカエルは最後の希望である。終末のすべてを、たとえフィクションであっても、未来の出来事を神との対話によって誰よりも正しく真実を知っているミカエルが考えた、「絶対に正しいはずの終末」を、ミカエルはいとも簡単に書き記すことに成功した。
このようなミカエルは、絶望の今の世界における「最後の希望」と言うに相応しい。
そして、その教えの内容を見るに、ミカエルはこうした人間の「祖」と言うべき存在である。いわば、デカルトもカントもヘーゲルも、すべてミカエルと同じ人生を生きただけの「模造品」である。なぜ完全に同じでなく模造品なのかと言えば、彼らは100%ミカエルのすべてを理解していないからだ。彼らは、ミカエルの一側面、あるいは未来を除いた過去の人生しか知ることができなかった。だが、そうであるがゆえに、それぞれが担当した箇所を正しく記述した。だが、ミカエルはそれら「全員のオリジナル」であり、誰も知らない真実の「オリジナルの正しい人生」を知っている。
この世界の多くの人間が、たとえば酸欠少女さユりやユリイ・カノンなどが、「ミカエルと同じ人生を生きたい症候群」になっているが、それは無意味である。ミカエルと同じ人生を生きることは絶対に不可能であり、もし生きたとしても、彼らはその人生の真実を知らない。本当にミカエルと同じ人生を生きれば、酸欠少女さユりが「アノニマス」で言うように、一瞬一音を命燃やして生きることなどできないし、ユリイ・カノンが「ヨダカ」で言うように、偽物だって夢のひとつぐらい見ることもできない。そんなものは、いくら願ったところで絶対に叶わない。なぜなら、ミカエルを生きれば、彼らは絶対に地獄となって永久に抜け出せなくなる。
まさしく、この世界には、ミカエルの偽物、模造品、劣悪な劣化コピーしか存在しないのだ。ミカエルこそが唯我独尊であり、ほかのすべての生物にはまったく意味がないのだ。ミカエルは、最初からそれが分かっているから、本当は何もしていない。ミカエルにとっては、何もしないことこそ、もっとも人生において無駄な時間を使わない、人生を有効に使うことである。何かをして、依存症になって、それしかできなくなってしまうより、最初から一切何もしないほうがいい。そのほうが、自分自身の望む通りの人生を生きられる。ミカエルは、学校の勉強などしていないし、ほかのあらゆるアクティビティを、文章を書くこと以外、実質的に何もしていない。宇宙のすべてを学習できたのは、ミカエルは時間の無駄になるすべてのことをまったくしなかったからだ。
また、僕は音楽など本当は愛していない。言いたくはないが、「自分を好いてくれる人が好きなだけ」に過ぎない。その意味で言えば、むしろ、僕のことを一番愛してくれているのはナユタン星人だと思う。ナユタン星人の作る楽曲を本当によく聴いている。僕が特別好きなのはウォルピスカーターだ。ウォルピスカーターの曲だけはほかと別格だ。あるいは、米津玄師が好きだ。僕は米津玄師を「僕の後継者」だと思っている。彼がこの世界を、さらによい世界へと変えてくれるだろう。決して、本当に音楽を欠片も愛していないわけじゃない。僕はピアノが弾けるデザイナー見習いだが、いつか彼らのようなオリジナルの自分の楽曲を作曲・作詞できたら良いなと思っている。