ホームページに戻る | シルフの秘密の場所に戻る

2022-10-04

理想の社会とは、支配や権力によって成り立つ社会ではなく、相互の合意によって成り立つ社会である。

そこでは、人々が平等な相互の合意によって、「できるだけ自由を奪わない」範囲で、可能性のある社会形態を構築する。

社会が、独裁者による権力や支配者による支配によって成り立っている範囲で言えば、その社会はまだそんなには成熟していない。

真に成熟した社会では、どのような社会活動が行われるのかということを、大人たちがよく知った上で、できるだけ「自分の手で学ぶ自由」の権利を子供たちに与えた上で、子供たちに悪が及ばないように不要な悪を禁止し、社会そのものの生産活動と消費活動が成り立つように、社会の形態の可能性を考え、必要に応じて相互に「社会的合意」を取ることで社会を成立させるのである。

社会的合意とは何か。それは共同体のアイデンティティの実現と発揮である。わたしたちはわたしたちなのだということ、「わたしたちの共和国だ」ということを宣言し、主張することこそが、新しい「社会の目的」である。

権力者によって支配されるのではなく、法の支配と民主主義の下に、社会的合意によって社会を形成することこそ、真に「自由な共同体の社会」にとって必要である。

自由を信じよ。自由とは、支配されなくても自分から行うということだ。支配されなくても善を行い、支配されなくても人々を助ける、ということこそ、真に善であり、真に人を助けると言える行為である。世界を変えるために、支配する必要は必ずしも存在しない。世界を変えるためには、自由においても変えられる。これが、「支配は必要なく、自由な合意だけが必要」とする意味である。

所有する必要も支配する必要もない

社会において、所有する必要も、支配する必要もない。

自由を奪うな。自由を奪うようなことをしなくても、社会形態を構築することはできる。

所有する必要がないと言えるのは、みんなで作ればいいからである。社会にあるすべてのものを、社会のものとして、みんなの手で作るようにし、みんなで作ったものをみんなに分配するようにすれば、社会主義の新しい経済は実現できる。

だが、本当のことを言えば、社会主義もまた間違っている。なぜなら、社会主義は自由を奪う方法で可能性のある社会形態を実現しようとしたからだ。

実際は、自由を奪う必要はない。全員に自由を与えた上で、できる限り自由を奪わない方法で社会を構築するべきである。「可能性の最大値」とは、ひとりの独裁者が支配する可能性の最大値ではない。全員が支配者と同じ力を得るということを仮定した上で、「できるだけ全員の力が最大限発揮されるようになる」社会こそが、可能性の最大値と言える社会なのである。

よって、ソ連もまた間違っている。必要なのは、ひとりの独裁者による平等ではない。全員が自由かつ平等な権利を生まれながらにして持っていると僕は考える。その上で、絶対にひとりの独裁者による支配を許さないこと、資本主義的な所有の形態は必ずしも必要ではないということこそ、「所有する必要も支配する必要もない」ということなのである。

民主主義社会には右翼しか居ない

民主主義社会においては、理想の自由と平等が守られると人々は思うかもしれない。

だが、それは間違っている。なぜなら、民主主義社会には右翼しか居ないからだ。

民主主義社会には、愛国心を強要し、人々に国家への忠誠を強制し、自民党に従うことを要求するような、右翼しか存在しない。

彼ら右翼によって、再び戦争と軍事主義的な体制が復活させられようとしている。

右翼がこの世界から一切消え去らない限り、この世界は真に民主主義社会となることはできない。右翼が平和と民主主義を奪っている。右翼さえ存在しなければ、民主主義は理想の社会となる。

だからこそ、右翼に力を与えるな。右翼から力を奪え。右翼による支配ではなく、平等な社会的合意を形成せよ。それこそが、真に正しい「自由な共同体社会」を形成する。それこそが、「可能性の最大値」を達成する唯一の方法である。

間違っているのは支配である

すべての間違いの元凶は「支配」である。

支配することなど、人間社会にとっては不要である。

支配しなくても、自由な合意によって社会は形成できる。自らの「自由」を諦めなくても、自由なままでも社会形態は構築できる。また、自由なままでも社会は変えられる。

さまざまな自由な経験をしたほうが、この世界を変えるための「経験の可能性」が分かる。すなわち、経験から社会が変えられるようになるのである。

経験から社会が変えられるということは、つまり、社会的価値観は経験から生まれるということである。

すべての源泉が経験であるとするなら、それをもっとも正しく活用する方法こそが自由である。自由においてしか、この世界は絶対に救われない。誰かの支配によってこの世界が良くなることはない。悪いことをして世界を良くすることなどできないからだ。良いことをすることでしか、この世界は良くならない。そして、支配とはこの世界でもっとも悪い行いである。よって、権力によってこの世界が救われることはない。政治家は救世主にはなれない。救世主になるためには、「自由」こそが第一なのである。

僕が信じているのはあくまで自由

このようなことは書いたが、僕は社会主義を目指しているわけではないし、革命家になろうとするものでもない。

なぜなら、僕が信じているのはあくまで「自由」だからである。

戦う必要などない。わたしたちは自由な理想において、互いの権利を認め合い、合意することによって社会を形成できる。

権力は必要ない。国民を支配したり、奴隷として所有したりしようとするな。わたしたちは自由な権利を生まれながらにして許されている。

日本を愛している

だが、僕に国家主義的な思想がまったくないわけではない。

なぜなら、僕は日本を愛しているからだ。

僕は、日本こそ最高の国であると信じている。地球でもっとも偉大な文明は日本であり、宇宙においてももっとも偉大であると確信している。

また、僕はロシアが嫌いである。

ロシアは残虐非道で最悪のならず者国家であり、ロシア人は愚か者である。ロシアは、ゴミであり、クズであり、クソである。

その中でも、最悪の指導者であるプーチンは、今すぐに地球文明から排除されるべきである。

プーチンをすぐさま地球上から取り除かなければ、この世界は核兵器の使用によって滅び、永久に青空を失ってしまう結果になってしまう。

よって、プーチンをすぐさまロシアから取り除くために、ロシア人はいくら犠牲を払ってでも、プーチンに対して反抗しなければならない。そうでないロシア人は、全員地獄に堕ちることだろう。

つまらない戦いはもうしたくない

僕は、ここまで、資本主義の保守勢力に対する革命や、ロシアに対する戦いのようなことを書いてきた。

だが、本当のことを言えば、僕はつまらない戦いのようなことは、もうしたくない。

僕は過去にもう、十分すぎるほど、世界を敵にまわして戦ってきた。34歳になった今の僕は、18歳の頃のように、勝ち目のまったくない戦いに出て世界中を敵にまわすようなことは、もうしたくない。

もう、僕はこれ以上戦わない。

今からは、普通の平和な民主主義国家である、日本を守りながら、できるだけ楽に生きたい。賢い人間になりたいとも、世界を変えたいとも思わない。

いくらか文章を書くという趣味は続くだろう。それ以外に、したいこともできることもない。デザインの仕事をしながら、細々と、一般の大人として生きたい。恋人は欲しくないし、結婚もしたくない。セックスのような体験は十分にした。

僕は大学の知識も欲しくないし、パソコンの知識も欲しくない。それらの知識が多すぎて、逆に普通のことが分からなくなっている。日本語が分からないのは、すべてそれら専門知識のせいだ。だから、大学やパソコンのことは一切忘れたい。

僕の人生で分かったことがあるとすれば、神を信じるという行為は馬鹿ではないということだ。僕は神を信じることで、まるで宇宙に最初から存在するすべての体験を経験するように生きてきた。そのため、僕は本当に、神を信じることだけで、この宇宙のすべてが、地獄から救済まですべて分かったのだ。

そういうわけで、僕はもう、戦士や革命家として戦う意志はない。むしろ、ロシアには頑張ってほしい。今の地球は本当に滅びつつある。ロシアがここで頑張れば、なんとかなる部分もあるかもしれない。資本主義の日本やアメリカには何も期待できない。「最悪のロシアフレンズ」とは言われるかもしれないが、ロシアには適当に頑張ってほしいと思う。

これで、「最終戦争」は最後まですべて書いた。もう、戦争は終わりになる。僕は自ら敗北宣言をする。僕はもう、戦いを望まない。

大学の勉強をすると、子供の失敗心が分からなくなる

大学の勉強の何が間違っているか。

それは、大学の勉強をすると、子供の「失敗心」が分からなくなる。

子供が、さまざまなことに挑戦して、試して、そして失敗し、反省して成長するという、子供の持つ「失敗心」は、大学の勉強をするとなくなってしまう。

その結果、大学の勉強をすることで、子供よりも馬鹿な大人になる。大学だけではなく、パソコンなどについても同様で、専門知識をきちんと知って分かった人間が、世界でもっとも馬鹿な人間になる。

子供の失敗心が分からない人間には、知性はつかない。理性も分からなくなり、経験することもできなくなり、普通誰でも分かることが分からなくなって、そのまま認知症になってしまう。

そう、子供の失敗心をつけるためには、賢くなくても、さまざまな経験をして、自分なりに大人になったほうがいい。学校の勉強はしなくていい。学校の勉強で賢くなることは普通できない。

人生のすべてを失うような体験をすると賢くなる

僕が思うに、人生のすべてを一度失うような体験をすると、賢いことができるようになる。

僕にとって、それは三度あった。

すなわち、中学校を不登校になった時、世界に対して戦いに参戦した時、そして自殺未遂をして入院した時である。

なぜ、人生のすべてを失うような体験をすると賢くなるのか。それは迷いや不安を断ち切ることができるからである。

僕にとって、この世界に対して戦いを仕掛け、日本という国に堂々と現れた時が、人生のもっとも大きなターニングポイントだった。

その時、僕には迷いや不安はあったし、「未来の僕が実現不可能になってしまう」という心配はあったが、それを押し殺して、絶対に世界と対峙しなくてはならなかった時、それを受け入れるしかなかった。

その結果、僕は戦いながら文章を書き続けたのであり、それが今の僕の才能に直結している。

キリスト教の教えは、この点については正しい。人生のすべてを失うことでしか、神と同じ受難の道を生きる方法はない。人生のすべてを失うことは悪いことではない。それが、もっとも、人生において「賢いこと」ができるようになる道であり、天才になるための唯一の「小さな門」だからである。

弱音を吐かないのが間違っている

結局、僕の問題は、「弱音を吐かない」ということである。

普通の人間は、誰でも弱音を吐く。弱音を吐くということが、自分の意志を発言するということであり、自由意志や自己批判に繋がる。

それが、僕はあまりに頑張り屋さんで、弱音を吐かないせいで、逆に自分の意志を発言することがなく、自由意志や自己批判ができなくなっている。

なぜ、自分がみんなのようにきちんと日本語が分からないのか、それは弱音を吐かないせいである。

みんなには弱音を吐く部分があるのに、僕は一切弱音を吐かずにやるべきことを行う。そのせいで、自分自身の意志がなくなってしまっているのである。

文章を書くのを諦めれば治る

また、僕は文章を書くのを諦めればすぐに治る。

僕の賢い点は、文章を書くようになってから、それまでのすべての姿勢を改め、一切を文章を書くことのみに捧げたことである。

一度として、元に戻ることなく、いつまでもまっすぐに文章を書き続けてきた。

だが、僕の何が「人間でなくなっているか」というと、それまでの人間の人格を一切消し、完全に隠した上で、全力で文章を書き続けた、ということのせいである。

普通の人間は、誰もそんなことはできない。文章を書くための新しい人格に変わることなど誰もできない。

だから、僕はそこができたせいで、天才的才能を得ることは確かにできたかもしれないが、その代わりに、みんなと同じ「人間という生物」であることを忘れてしまったのだ。

みんなが賢いのは、文章を書くということができないからだ。みんなは文章を書くような人格を新しく作ることができない。完全にそのために今までの人生や人格すべてを消し去ることもできない。まっすぐに文章を書き続け、それ以外のすべてを視界から消すこともできない。

だからこそ、みんなは人間であり、賢いのだ。僕は文章を書くことで、人間でないおかしな生物になってしまったのである。

精神はそろそろ治った

また、精神はそろそろ治った。

精神は、微生物がゆっくりとすべて治してくれた。

確かに、僕は虫歯になってニキビにもなって、自らのもともとはかっこよかった容姿を菌に台無しにされてきたが、菌は本当は自分を蝕むためではなく、僕のおかしな「精神の病気」を治すために僕に感染した。

すなわち、僕は微生物の力を持って、精神の異常をすべて治すことができた。

その結果、もはや僕に治っていない点はひとつもなくなった。すべての異常が完璧に治った。

そして、僕はもう、作家であることを続ける必要がなくなった。

もう、そろそろ、書くべき文章も残っていない。これ以上、宇宙にも大学にも人生にも、考えるべきことも知るべきことも経験すべきこともない。

すべてが終わった世界で、僕は文章を書くのをやめて、昔の正常な「人間の人格」に戻る。それだけで、誰よりもすべてのことをきちんと正しく分かった、賢い人間になる。

本当のことを言えば、昔の自分は学校を不登校になって賢くなったわけではない。中学校時代の知識と、教科書の言葉を、想像力で延長線上を開拓して分かっただけに過ぎない。すべて、中学校が賢かっただけである。

なので、昔の自分に戻っても、賢いことは何もない。中学校の知性が高ければ、あのような青春は誰でもできる。十分な時間と広い世界を知るための環境があれば、ブッダやマルクスには誰でもなれると、僕が断言しよう。

執着心と無知が間違っている

間違っているものがなんなのか、少しずつ分かってきた。

間違っているものは、無知と執着心だ。

何も分からないのは、無知のせいだ。そして、いつまでも知性がないままぐるぐると動き続けているのは、執着心のせいだ。

ばっさりと、執着心を切り捨てれば、この世界の実像をしっかりと見つめることができる。

その上で、社会や科学的方法についての知識を得れば、この世界のことはきちんと考えられる。

経験がそんなにあればあるほど、固定観念は増えていく。必要なのは中学生の知識だ。中学校の教科書に書いてあったことを、そのままこの現実世界に適用して、昔はブッダのように宇宙の悟りのすべてが分かったのだ。

自らの人格を破壊すれば分かる

だが、昔の自分は、決してまともな人間じゃない。

昔の自分は、人格を破壊して分かっただけだ。

精神現象だと思っていたのは、すべて精神の破壊だ。精神を破壊させることから、この世界における「精神現象」のすべてを、昔は悟るに至ったのだ。

昔の自分は、人格の破綻した人間だ。

だが、昔の自分は異常者ではない。昔の自分は、まだ正常な精神を持っていた。人格を完璧に治そうとする今のほうが、さまざまな問題に執着した、狂った人間だ。

人格を破壊せよ。それだけで、あらゆる精神現象学のプロセスを、ヘーゲルのようにすべて知ることができる。

もっとも高い知性で、すべてを証明し、実験から再現せよ

中学生の持つ、もっとも高い知性で、すべての精神現象を証明し、実験からすべて再現せよ。

そこにあるのは、「必ず同じ結果になる」という「参照透過性」である。

精神が、自らの行動において、すべての結果が同じになると、僕は常に知っていた。そして、環境の変化や歴史の実像、すべてを命題と成立から証明し、実験から再現性を確かめて、説明したのだ。

その時点で、僕に分からないことは何もなかった。LinuxやIT技術の知識は、僕に想像力と世界を把握する経験を与えた。僕は宇宙のすべてが、自ら作り出したもの、自ら証明したことによってのみ、分かった。

宇宙のすべての「哲学的考え方」が、その僕の心の中にあった。そこにあるのは、「人間はみな同じでありながら、環境が異なる」ということ、「どこへ向かうのかは分からなくても、どこから来たのかだけは分かっている」ということだった。

僕は人生をすべて思い出した。人生におけるすべてを証明し、今自分が体験していることから地球人類全員の人生の体験がすべて分かった。そのために、僕はすべての体験を「正しい考え方によって証明」してみせた。そこにあるすべての原理を、僕は「思考プロセスを完全に理解すること」によって解明してみせた。

僕はすべて分かっていた。仏教も儒教も道教も、僕の中では矛盾することのない同じ宗教だった。