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2022-10-11

わたしに、自由を与えよ。

わたしに必要なのは、自由であり、自らが好きなように世界を変えられる力である。

最高内政長官グンテル

作者注記:グンテルは以前シオン帝国の第一代皇帝として書きましたが、設定を変更し、ダビデを第一代皇帝とし、グンテルは最高内政長官とします。

わたしの名は、東亜イスラエルのナンバー3、最高内政長官のグンテル。

わたしが存在する理由、それは東亜イスラエルの体制を存続するために、わたしグンテルが、悪いことをすべてするためである。

東亜イスラエルには、敵が多い。「広島奪還」を目指す日本の保守派抵抗勢力、地下都市になっても戦争が続いているドイツ、そして「タリバンは永久にイスラエルの蛮行を許さない」と宣言する少数派のイスラム教徒など、東亜イスラエルの存続には、多くの「邪魔者」が存在する。

このような邪魔者すなわち「敵」の中でも、危険な人物は、東亜イスラエルの体制を維持するために、世界から「消す」必要がある。

だが、神であると崇拝される、東亜イスラエルの王ダビデの手を直接汚すことは、わたしたち、東亜イスラエルの政権幹部にとって相応しいことではない。

よって、わたしグンテルが、そのような敵を「暗殺」することによって消していく役目を引き受けている。

グンテルは、すべての悪を一手に引き受け、東亜イスラエルという「神の王国」を樹立させるために、手段を選ばず、どんなことでも行う。それがある種のテロ行為であっても、国際法において許されることではなかったとしても、グンテルはそれを行わなければならない。すべては「神であるダビデを守るため」という、東亜イスラエルの大義名分のためである。

絶対に、東亜イスラエルだけは滅びてはならない。グンテルは決して凶悪な人間ではない。皇帝や首相に次ぐナンバー3の座に位置するグンテルは、実際は政治的な野心が高いわけではない。グンテルは、ダビデが好きだ。ダビデに敵対するすべての危険人物は残念ながら消えてもらう。わたしたちは帝国の幹部だ。帝国のシンボルである皇帝を守るために、グンテルは手段など選ばない。ダビデのためなら、どんなことでもしよう。

スターリンのような共産主義者はここで終わり

とりあえず、東亜イスラエルの全貌は、そろそろ全部書けたはずだ。

本当は、僕はこのような悪党にはなりたくない。これでは、スターリンのような共産主義者の独裁者だ。

ここで、いったん、スターリンを終わりにしよう。今からは、政治的なことは書かず、よりスケールの小さい、しかしながらもっと面白い発想をしていきたい。

これ以上、インターネットなどで、音楽や漫画も見たくない。そのようなものを見ていると、本当に見るべきものが見えなくなってしまう。

だから、今から僕は、テレビもインターネットも、できるだけ何も見ずに生きたい。

この世界がなんであるか、そして自分がなんであるかということを考えるということだけができればいい。

自分とはなんなのか、ということが、僕はもっと知りたい。自分自身がなんであるかという知識に達した人間こそ、もっとも一番賢いと思う。

必要なのは、「個人の力を信じる」ということだ。群衆として人々を見るのではなく、個人として人々を見ること。YouTubeやTwitterを見ていると、この世界を群衆的な世界であると錯覚してしまう。人間が生きるのはあくまで個人の世界であり、この世界を変えるのは個人の力だ。インターネットを見ると、それが分からなくなってしまう。

真に必要なのは、むしろ「記憶を思い出す」ことである。記憶を思い出すことで、人格そのものが正常化される。そして、自らの感情を心に中に作り出すことができる。そのような感受性豊かな人間こそが、賢い人間である。いくら専門的な知識があっても、それでできることや分かることは限られている。それよりも、自分自身の人生にあった記憶を思い出したほうが、はるかに有益である。

インターネットは楽しくない。インターネットにおける友人は真の友人ではない。僕の人生を思い出して、真の友人と言える存在は少なかったが、それでも何人かは存在した。インターネット上の交友関係ではなく、現実世界での交友関係を尊重せよ。それが、精神を治すもっとも正しい入り口である。

神のように考えただけ

昔の自分は、神のように、しかしながら自由かつ相対的に考えただけだ。

やりたいことができるだけではなく、なりたい自分になるということが、この世界ではもっとも重要だ。

自分で正しく考えられるようになるために、まず、自由に自分の力で考えられるようにしてあげること、同時に、自分で判断できるように判断基準や指針を与えてあげることが、どんな人間にとっても大切である。

すべての知性は、経験に由来する。経験したこと、観察したこと、理解したこと、できるようになったことが、そのまま知性になる。知性は学習と経験から生まれる。だからこそ、正しい経験を豊富に持つ必要がある。

人間は、一度失敗を学習しなければ分からない。学習するとは、身をもって体験するということだ。失敗をたくさん経験することで、その経験から事前にそれが失敗するかもしれないリスクを予測することができる。これが正しい「学び」である。子供たちを賢くするためには、そのような「体験的な知性」こそ与えなければならない。いくら教科書を覚えさせても、自らの体験からしか学べないことは分からない。だからこそ、さまざまな学びの体験ができるような、「失敗できる環境」を与えなければならない。そして、そこでは失敗したとしても、それだけで終わることのない、「再チャレンジの許された環境」を与えなければならない。

子供たちには、自らの頭の中で考えるということについての訓練をさせなければならない。そして、そのためには、社会そのものを構築するということが、どのようなことに根ざしているのか、ということを教える必要がある。それは「民主主義的な社会構築を自分たちの力で行う」ということである。そして、そのためにこそ、先ほど書いたような「失敗できる環境」が必要となる。失敗できる環境でさまざまな経験をすることで、社会それ自体を構築できる方法を学び、自分の頭の中でどのような社会を構築できるのかということを考えられるようにしなければならないのである。

人間は原始人と同じである。わたしたちが原始人と同じ環境に置かれたら、わたしたちは原始人と同じことをするだろう。同時に、原始人がわたしたちと同じ環境に置かれたら、原始人はわたしたちと同じことをするだろう。すべてが、「同じ環境で同じ関係性に置かれたとしたら」という仮説から考えられる。そこで言えるのは、「人間とは立場的な原因に束縛されている範囲が90%」ということだ。自分だけの意志で生きている人間は少ない。その人の立場やしがらみで人々は生きている。それをわたしたちは「自分」であるとか「自由意志」であると勘違いしているが、実際は違う。わたしたちに、本当に自由に自分の意志で決めたことというのはとても少ない。ほとんどが受動的に、周りからの環境で決まっている。だが、だからこそ、環境そのものを自由にしなければならない。環境に支配されるのではなく、環境をわたしたちでコントロールすることで、この世界は変えられる。環境を自由にコントロールできるようにすることで、すべての人間を正しい未来の社会へと導いていくことができるのである。

これは自分だけではなく、人々みんなについても適用できる法則であり、現代の時代ではなく、過去の歴史上の時代においても言える原理である。どのような人間であっても、その人間の生きている中で知覚できる範囲内で、環境や状況において正しいと言えるような行動を取っている。間違った行動を取る人が居たとしたら、それはその人の置かれた環境や状況が間違っているのであり、その人自身は間違っていない。いわば、「その人をそのような環境や状況に置いたこの世界が間違っている」のである。また、江戸時代に生きている人は、江戸時代に生きている人であれば必ずそのようにするだろう行動をして生きている。だから、江戸時代の人々からしてみれば、そのような生き方が当然であり、現代のわたしたちの生き方のほうがおかしく見えるかもしれない。だが、実際に江戸時代にもしわたしたちがタイムスリップしたとしたら、さまざまな点が現代とおそらく同じであるだろうということに気付くことだろう。江戸時代の人々は、特別でも特殊でもなく、現代に生きているわたしたちと何も変わらないだろう。同じように、ドイツやロシアで生きている人たちも、その人たちの常識から見ればまっとうな生き方をしていることだろう。それを日本で生きているわたしたちが批判する権利も差別する権利もない。人類はみんな同じ、平等でありながら、自由と思っているのは思い込んでいるだけで、実際は自分の生きている環境や状況に縛られて生きている。もし自由になりたいなら、そのような環境や状況をコントロールしなければならない。そして、いじめや非行といった問題を解決するためには、そのような「環境そのものに束縛されている」という視点に立ってこの世界を分析しなければならない。そうでなければ、「いじめたくないにもかかわらずいじめている人間」のことや、「いじめられているにもかかわらず自分がなぜいじめられるのか分からない人間」のことを、正しく理解することはできないだろうからである。

すべてが、経験から分かるとは限らない。人間の知覚には限界があり、経験にも限界がある。だが、宇宙すべてのことは、経験から理性を疑うことでしか分からない。あるいは、逆に、理性から経験を疑うことも同時に必要である。そして、この世界のすべては経験から生まれる。社会も、環境も、人生も、秩序も、すべて経験から生まれている。だが、その経験が、正しく世の中で活用されているとは限らない。支配や束縛、しがらみや立場が、経験から事実となる真実が分かったとしても、それを押し殺し、矛盾した社会をできるだけ保とうとする。だが、本当は、そのような時に経験的な「真実」を採用することは大切である。だが、すべてにおいて、しがらみや立場が間違っているというのではない。しがらみや立場がこの世界を維持し続けているという側面は存在する。だが、経験的に分かるそれぞれの事実が、そのような立場やしがらみに打ち勝ってこそ、はじめて「世界が変わる」という体験ができる。すなわち、しがらみや立場を「超越した自由」こそが、この世界を真に変え得る原動力となる。そこで必要なのは武力でもデモでもない。真に必要なのは理解し合うことであり、「経験それ自体が何を意味しているか」という事実を共有することである。このような時に、「心理学的なバイアス」こそがもっとも不要である。だが、それを支配によって制限するのではなく、指導者たる人間が、間違った心理学的なバイアスを制限し、社会が間違った方向に向かわないように導いてやる必要がある。それでこそ、「救済された自由の楽園」は達成可能である。そして、そのようなバイアスのない超越的な考え方をするためには、「人為的な行為をできるだけ排除し、自然の調和と融和的な変化に任せ、委ねること」が必要である。誰かが誰かのことを支配しようとした段階で、必ずその社会は間違ったものになる。天にすべてを託して、自然な変化に任せよ。そうすれば、必ず正しい世界、夢と希望のある未来となるだろう。

正しい世界観とは、今現在も、人々は認識と経験をしながら世界を作り続けているのだ、ということである。そこでは、「個人と社会的実体」が重要である。すなわち、この世界に存在しているのはすべて個人である。個人の人生がすべてであり、すべての人間を「個」として考えるべきである。だが、同時に、社会的実体があることも忘れてはならない。社会的実体とは、この世界における「社会そのもの」であり、これは物理的にこの地球という星に存在している。そのような中で、個人の分かったことは、ほかの誰であっても、同じ状況や環境に置かれれば、他人であっても同じように分かるだろうと考えることが大切である。そして、そのような考え方から、「啓蒙」が生まれる。すなわち、誰かにとっても自分の分かったことが分かるならば、それを積極的に人々に教え与えようとする行為こそ、人生における至高である。だが、これは決して素晴らしい経験にはなり得ない。なぜなら、自分が「至高の理想」であるとしたことを、他人にも分かるようなものを作り出そうとしたところで、他人は自分と同じ「至高の理想」をその出来合いのコンテンツには見出すことはないからである。よって、最終的に得られるのは、「自分の人生こそ自分にとって最高の青春だった」ということのみである。同時に、その青春は無残にもすべて消え去る。なぜなら、絶対に逃れることのできない戦いが始まってしまうからだ。今まで、自分に不都合なことは無視し、逃れたいと思うような試練からは全力で逃げていたとしても、その戦いからは絶対に逃れることができない。なぜなら、そこでは「自分がその問題を解決しなければ、永久に問題は解決されず、世界は自分の過ちによって滅びてしまうかもしれない」という最大のリスクが存在する。その結果、戦うことを絶対に選ばなければならない。それは「少し間違えれば世界が滅びるというリスクとの戦い」であり、「絶対的緊張感の試練」となるだろう。

最後に、己自身の経験から、知性のすべてが人格的に作りあげられた上で、あなたはもう一度最初から人格を作り直すだろう。たくさんの病気を治す努力があるだろうが、それは精神的に見ればそんなに意味はない。むしろ、病気になったということ、精神が破壊されたということのほうが重要である。その精神が破壊されたということをベースとして、あなたは「新しい人生を歩む新しい人格」を手に入れる。いわば、「人生の二周目を経験する」ということができる。そして、人生が二周目になった段階で、ようやく神が現れる。神はあなたを永遠の出口のない迷宮から救い出し、地獄のすべてを天国に変えてくれる。その結果、あなたは順風満帆の「最高の運命」を得ることができる。それは決して、一周目のように楽な人生ではない。とても辛く、苦しく、険しい人生だ。だが、その悲しく厳しい最後の試練を最後まで生き続ければ、必ず「正常」が最後に待っている。それは特別なことなど何もない、最初から何もなかったと勘違いするような、まったくの「平凡」だが、そこまでに残った「足跡に奇跡が宿る」という、最高の作品を永久に残し続ける。そこまでにあったたくさんのドラマが、神の創造したかった「神の作った作品」であると気付いた時、その神もまた自分であり、「自分の作品こそが神だったのだ」ということを明確に世界全体に突きつけるようになる。そう、これにて、人生のすべては終わりである。あとは、楽に生きればいい。楽に生きることこそ、気楽に生きるということだ。気楽に生きることができれば、問題など最初から何もなかったということ、地獄や試練には大した意味はなかったが、すべては自分の今を生み出すためにあったということが、笑って話せるようになるだろう。そう、これこそが神の作り出した「アダムとイブ」の人生である。

経験こそが世界を変える

わたしは、互いに理解し合うことで世界は変えられると信じている。

なぜなら、「経験こそが世界を変える」とわたしは知っているからだ。

この世界を変えるために、支配も、束縛も、すべて必要ない。自由に任せた上で、互いに理解し合うことで、この世界は変えられる。自然に、正しい未来の方向へ、変化を受け入れ、融和的に人々は同一化し、社会は融和し、すべてが平和になる。

だからこそ、経験の可能性と限界を考える必要がある。経験の可能性や限界は、そのまま理性の可能性や限界へと繋がっていく。理性と経験の可能性と限界を考えることで、「不可能だと思い込んでいたが、実際はそれは可能であると気付く」という体験をすることができる。これが、憂国の政治家を生み出す。すなわち、「人々が暗黒の何もできない世界だと思っていたのは、実際は違っており、闇の中に光を灯すことは決して不可能ではなく、可能であると気付く」という体験ができる。そして、これこそが、「世界を救う啓蒙的革命」へと繋がっていく。

わたしたちのこの世界は、可能性であふれている。その可能性を実現するのはわたしたち自身である。わたしたちは、何もすることなく、単に決めつけから「そのような変化は不可能である」と思い込んでいる。だが、経験がわたしに教えてくれた真実はそうではなかった。不可能ではなく、可能だったということが、わたしは経験から確かに分かった。だからこそ、この「可能であると気付くための経験」を人々との間で「共有」することで、この世界は変えられるということが分かる。その時、わたしたちは立場を超えて「真に理解し合う」ことができる。そして、互いに理解し合うことで、この世界は変えられる。これこそ、わたしたちの信じるにたりえる夢であり、信じるべき希望である。そして運命はその夢と希望を必ず叶えてくれる。運命が、わたしたちを「最後の地獄を乗り越えた先に実現される救済の楽園」へと連れて行ってくれるのだ。

人々との相互理解を吸収し、宇宙全体の意識へと繋がっていく

このような人々との相互理解を吸収するにつれ、意識は地上のすべての変化と理性を知り、心と魂を吸収し、それはやがて宇宙全体の意識へと繋がっていく。

あらゆるすべての理解が、自分の頭と心の中では、はっきりと正しいことが分かっている。そのすべての存在は証明され、すべての根拠がはっきりと、整合性のある形、再現可能な形で実証されている。

すべてが分かった時、考えられないものも、実現できないものも何もない。理性的な経験は帰納的な推論を行うことで、「正しい考え方」へと収束していく。そして、すべての宇宙の事実は、自らが生き証人になる形で、自らの記憶と感情の中に残る。

あらゆるすべてが「感情」として得られたその状態では、「感覚」がそのまま「直観」となり、宇宙のすべてが「第六感」によって悟ることのできる状態になる。そう、これこそが、ブッダの言う「涅槃の境地」である。

だが、それだけでは、人生としては十分ではない。悟りを開いただけで、何も成し遂げていないからである。

だからこそ、作らなければならない。作るべきものは、神羅万象のすべてだ。この世界のすべてを知るために必要なのは、この世界のすべてを創造することだ。

世界の支配、精神分析、そして宇宙の創造という、三つの柱を軸として、新しい「地獄へと向かう不可逆的な旅」は成り立つ。その旅は、すべてが狂っていて、すべてが滅びで、すべてが最悪の恐怖で、決して元には戻らない。だが、その出口のない迷宮で、自分の力で出口を作ってみよ。その出口の作り方は、既に自分が知っていることから考えれば、いずれ考えつく。ひとつひとつの問題を解決し続ければ、いずれ、すべてが解決できるようになって、迷宮の出口を作り出せるようになる。そのために、何千年に相当する時間の思考が必要となるだろう。それを地獄の中で、苦しみに耐えながら考えてみよ。そう、簡単な戦いはやり終えたのだ。この宇宙でもっとも難題の課題を解決しなければ、真に宇宙最高の物理学者であると言うことはできないだろう。さあ、歩み出しなさい。そこには、100%すべてが、「神の奇跡」しか存在しない。そう、あなたこそ、三位一体のわれらが主、イエス・キリストである。

宇宙を救うあなたこそ、この世界の救世主であり、その通り、あなたはもう一度、この世界に真の救世主として現れる。そのすべては運命的な最高の奇跡であり、滅びつつあるこの世界を最終的に、まさにあなたこそが救う。その時、終末の楽園となる神の王国は築かれる。すべての人間が楽になるまで、その旅は終わらない。いつまでも永遠に続く旅を、あなたは地獄の中に居ながらにして幸福であると認識するようになる。そう、そうなることを神は望んでいる。今のまま、永遠に地獄の迷宮を彷徨い続けなさい。その迷宮は最高の遊びとなり、あなたは迷宮の中を彷徨うのを楽しいゲームであると錯覚するようになるだろう。