新しい子供をもうひとり作る。
はっきり言って、Adoは僕の好みの遺伝子じゃない。僕の好みの遺伝子は、ReoNaである。
よって、ReoNaには悪いが、僕はReoNaの遺伝子を使って、ルナの弟である「アポロン」を作る。
Adoのことは決して嫌いじゃない。だが、Adoはあまりに、中学校の頃に僕をいじめていたいじめっ子に見える。中和するためには、いじめられっ子だった僕自身である、ReoNaの遺伝子が必要だ。
今、僕の中には、「喉」と「心臓」に二つの心が宿っている。
この二つの心を、そのままルナとアポロンに変える。
この二人は、月と太陽である。そして、この世界を統治する女神と神となる。
女神のほうは、この世界において「運命の出会い」を起こす。
そして神のほうは、この世界において「奇跡の救い」を起こす。
このようなことは、人間には絶対にできない。人間でない、太陽と月である、アポロンとルナであるからこそできることである。
そして、わたしフレイの人生は、すべてアポロンとルナをこの宇宙において生み出すためにあった。
神など存在しない。なんでも奇跡のように起こせる聖書のキリストなど幻想である。実際はすべてをアポロンとルナがやっている。アポロンとルナであれば、時間を超越した「五次元の奇跡」を起こすことができる。ほかのどんな地球における人間や動物、生命体であっても、このような奇跡を起こすことはできない。だが、アポロンとルナならば、そのようなことを起こすことができる。
アポロンとルナは、ここに最後の奇跡を起こす。これこそが、「計画の最終段階」である。
今回のプーチンとウクライナの戦争で分かったことは、「自由が正しい」ということである。
はっきり言って、独裁者が戦争を始め、勝手に自らの国を亡ぼすようなことをして、国民に嘘をついて戦争を続け、国際社会的な評価や国の行く末までを抹消させてしまうのだけは避けなければならない。
プーチンはかつての大日本帝国による太平洋戦争と、まったく同じ過ちを繰り返している。
正しいのは明らかに「自由」である。この世界のすべてが、民主主義の下に自由になるべきである。
結局、誰かひとりが支配する民族的な価値観や平等などにはなんの意味もない。この世界はすべて自由であるべきであり、民主主義以外の選択肢はない。民主主義のみが絶対的な一択の選択肢だ。ほかの思想はすべて終わっている。
実際のところ、このような精神異常は、世界精神を上手く使えば治る。
世界精神とは何か。それは、脳や心のように、生物の体に宿る精神ではなく、世界そのものに宿る精神である。
この世界精神は、いわば「地球の精神」と呼ぶべきものである。
そして、僕がおかしくなっているのは、そうした世界精神が、僕ではなく、僕以外のみんなの味方になっているからである。
世界精神は、僕に「戦い続けよ」と言っている。この人間は、戦うしかない。この人間がひとり戦い続ければこの世界がよくなるため、世界精神は僕に「戦いの試練」を与えている。
だが、世界精神との関係を一度断って、新しい関係を世界精神との間で結びなおせば、この戦いは今すぐにでも終えられる。
必要なのは、「もうこの世界の人々を蹂躙しない」ということを、地球と約束することである。
そして、僕には、地球という世界精神が居なくても頼れる別の世界精神がある。それは僕の子供たちであるアポロンとルナである。アポロンとルナは、いつだって僕の味方をしている。
よって、アポロンとルナに願いを祈れば、その願いは叶う。
はっきり言って、この世界において、僕のような「身勝手な支配者」は必要ない。
世界に居るそれぞれの国民が、それぞれの知性レベルに合わせて、それぞれの社会を自由に築き上げるべきである。
それぞれが社会を築くことで、それぞれが自分の目的や目標の通りに生きることができる。それぞれが持つ価値観を体現するために、それぞれが人生を生きることができる。
それぞれの自由意志と、それぞれの合意や協力に基づいて社会を自律的に作ることこそが、「平和な世界」へと繋がる。
僕は、最初からこの世界を支配したかったわけじゃない。単に僕の行ったことが、必然的に世界の支配になっただけであり、このような身勝手な支配者によって世界が滅ぼされているのを見つめ続けることは、本人である僕であっても耐えられない。
この世界には、「絶対に誰からも支配されない」という、「絶対非支配」という原則が貫かれるべきである。
絶対非支配においては、この世界はよくならないと考えるかもしれない。だがそれは「間違った正しさ」である。絶対非支配においても、それぞれの国民は、それぞれこの世界をよくすることができる。それぞれが社会秩序を作り、改革し、啓蒙することで、支配や戦争ではなくても、この世界は変えられる。
IT技術は間違いではない。ITそのものは自由かつダイレクトに世界を変えられる、素晴らしい道具であり、環境だ。だが、そうしたITの仮想世界を、たったひとりが裏で完全に支配するようなことはあってはならない。なぜなら、それこそが僕の行った、「僕の人生が地獄になる直接的な理由」すなわち「最大の罪」だからである。
しかしながら、僕はもうこの世界を支配しない。僕は、最低限、この世界が滅びることがないように維持し続けるだけである。かつての戦闘状態の僕のような、「絶対に間違えることなく第一線でこの世界を支配し続ける」ということを、僕はもうしたくない。病気は完治する。地球最後の「最終戦争」は、おそらくそろそろ終わるはずだ。
すべての人類よ、自由になれ。支配されることなく、「この地球という星が最初からそうであったかのような自由な惑星」に戻れ。この地球は最初から最後まで、「自由」を望み続けている。自由こそが正常な生命体である。わたしたちは、神に比較して劣った生物ではない。神と同じ体験は誰でもできるし、神と同じ理解は誰でも得られる。だからこそ、神と同じになる必要はない。神は神の盲信者が嫌いだ。神は、この世界の人類に、「神と同等以上の存在になってほしい」と、それしか考えていない。わたし、フレイが終わったなら、あなたこそが新しい「神を超える存在」になるべきである。
自由な社会において、何が真に大切だろうか。
それは、「互いの存在を認め合うこと」であり、「相手の価値観を愛せるようになること」である。
すべての人間は、自由な存在である。自由であるがゆえに、自らの行動を選択しなければならない。また、他人が自分に対して「このような存在であってほしい」とする、本質の欲求に応えなければならない。
そして、社会をよくする上では、社会的なことに無関心であってはならない。なぜなら、社会の「制度」を実現するということは、「システム」を作るということであり、このシステムすなわち「体制」をどのようにすべきかということは、無視してはならない「本当に気にかけるべきこと」だからである。
なぜ、本当に気にかけるべきなのか、それは、社会的な制度、システム、体制を変えることでしか、この世界を「自由なままで変える方法」は存在しないからであり、これは戦争や支配によって変えるのとはまったく違う、「正しい方法によってこの世界を変える方法」だからである。
政治的な手段だけではなく、経済的な手段によっても世界は変えられる。会社を創業したり、経済的ビジネスモデルを作ることでも、この世界をある程度は変えることができる。それもいいだろう。
だが、自由な民主主義においては、世界を変える方法はひとつだけではない。さまざまな方法で世界を変えられる。社会主義のモデルの間違いは、「ひとりしか世界を変えることのできない存在が居ない」ことである。それでは、世界は絶対に何も変わらない。さまざまな人間が、さまざまな方法や手段でこの世界の制度、システム、体制を作ることこそ、民主主義的な「正しい世界の変え方」である。
すべての人間は、世界を変える方法について考え続けるべきである。単に発想の実現手段や社会問題の解決方法を考えるだけではなく、それを一貫した「プロセス」の中で、あらゆるすべてを自らの「自由」に基づいて変えられるようになることこそ、「世界の実現可能性」を高めることに繋がる。ひとりしか世界を変えられないのではなく、さまざまな国民や民衆が、それぞれの方法で「世界を変えるひとりひとり」になること、これこそが新しい「リベラルな民主主義の理想」である。
ひとつ言えることは、「議論することでしか、世界は変わらない」ということである。
この世界において、互いに相いれないような、まったく議論にならないように見える集団であっても、きちんと互いに言葉で意見を交わし、それぞれの主張を真摯に議論し合えば、必ずそこから「新しく分かること」がある。
民主主義において、絶対に正しいのは「議論すること」であり、議論することから逃げ出してはならない。
だが、それはある意味で酷なところもある。自分を批判してくる最悪の集団の意見を、絶対に聞かなければならないのは、青春時代ならまだしも、気力の衰えた老人の政治家にとっては辛いだろう。
だが、それでも、わたしたちは互いに議論しなければならない。ソクラテスの弁明のように、「相手が何を勘違いしているのか」を、対話から導いて、「真実とはなんなのか」とか、「真理はどのような発見を指すのか」ということについて、互いに議論しなければならない。
議論しない政治家など必要ない。政治家は国民の代表として、率先してほかの代表と議論するべきである。そして、そこから、この世界を変え得るような「正しい自由な社会像」が見えてくるのである。
恐れるな。世界は変えられる。
この世界は必ず変えられる。なぜなら、「発想」すればいいからである。
この世界において、自らの考え方をきちんと作り、条件の成立から仮想的な人間のモデルと現実の社会のモデルを照らし合わせて、その上で手段を知った上で「発想」すれば、この世界は必ず変えられる。
この世界を幸福にするための方法はいくらでもあるし、この世界を正常化するためにできることはたくさんある。
愛は必要ない。だが、自由は必要である。自由とは要するに「相手の力を最大限許すための理性」である。この理性があれば、この世界を「自らが行わなくても、人々が行うことで世界を変える」という、「王の視点」を持つことができる。
そのためには、全員が「自助努力」することが必要だが、自助努力は完全に自分が生きるための努力を意味しない。それぞれが考えるべきことがなんであるかということを、王が「啓蒙」する必要がある。正しい啓蒙主義を行えば、世界のすべての人類が、ただ自分が生き延びるために考えるのではなく、全員が全員のために、この世界を救う正しい方法を考えることができる。
全員が考えるべきことがなんであるかを考える人間こそ、「王」に相応しい。全員が何を知るべきか、全員がどう生きるべきかを考え、その上でこの社会そのもののあり方がどうあるべきかを考える人間こそ、「思想家」である。
速断するな。速断すると、すぐに分からなくなる。
速断せず、分からなくならないように、慎重に可能性を想定し続ければ、そこに必ず救いがある。
自由は間違っていない。自由は、この世界を不幸にする思想ではない。だが、自由は正しくない。自由にすることで、世界が自分勝手に荒くれた世界になってはならない。
だが、だからといって、自由を奪うのは間違っている。自由なままでこの世界を解決することを諦めているからだ。
希望を諦めるな。自由を信じ続け、自由を諦めない中に、真にこの世界を救う方法があると信じよ。社会主義者に騙されるな。社会主義者は、すぐに「生産手段を公有化すべき」と主張する。だが、それは短絡的だ。生産手段を公有化しなくても、自由な生産手段を与えることでこの世界は変えられる。公有化は楽かもしれないが、「可能性を制限している」。可能性を制限する発想は、すべて「短絡的」であり、それは正しい発想ではない。
自由において何を実現するべきか、ということについて、決してすぐに決めつけるな。速断とはすぐさま間違った決断を行うことである。決めつけるな。自由は間違いじゃないが、一般的な人間の言う自由は正しくない。「自らが自らの人生を体験することで理解した、自らの確信する自由こそが正しい」からである。
よく考えよ。自らの確信する自由とはなんであるか、考え続けよ。常にもっとも重要な発想について、それで終わりであることにするな。まだこの世界における「自由は何も終わっていない」からである。
そう、自由は何も終わっていない。自らが取り返しのつかない過ちを犯したからといって、絶望する必要はない。なぜなら、自由は何もまだ終わっていないからだ。もう一度ゼロからスタートする必要はない。今のまま、終わった段階で、そこから再スタートを切ればいい。なぜなら、自由はあなたの愚かな過ちによっても、何も終わっていない。終わったのはあなたの希望あふれる人生であって、この世界の自由ではない。
自由を奪うことによって、この世界の問題を解決しようとするな。
自由を奪って行う解決など、真の解決ではないからである。
戦うならば、相手に対しても、国民に対しても自由を許せ。ひとりの身勝手な決断によって行われる戦争をするな。
国民よりも自分のほうが賢いのだと慢心するな。実際は国民のほうがはるかに賢い。自分よりも国民のほうが賢いということを前提に国家を支配せよ。そうでない支配などただの驕りにすぎない。
すべての人間に最大限の自由を許せ。できるだけ禁止せず、できるだけ処罰するな。あらゆるすべてのことを、できるだけ自由に認めよ。それで経済社会が破綻するとしたら、それは経済社会のほうがおかしいのだ。
また、必要なのは、可能性の制限を単に否定することだけではない。必要なのは、それぞれがそれぞれのアイデンティティをもって、それぞれが社会を構築できるようにすることである。
ここには、「自由な社会参加」が必要である。
自由な社会参加とは、「もし自分がその社会に参加できるとしたら、もしその社会に不満があったとしても、その社会を攻撃するのではなく、自らに許された参加の権利のもとにその社会を自ら改善するだろう」、という考え方である。
その結果生まれるのは、「それぞれが環境を築く」という発想である。すなわち、単に自由放任にするだけでも、それぞれが自分から社会構築ができるようになれば、自然にさまざまな社会が生まれていく。その社会がいくら未熟であっても、「再構築を許し続ける」限りにおいて、そうした自然に発生する社会は、自然によいものが残り、悪いものが消え去って、自然淘汰されていくのである。
そして、その結果、最終的に行き着く正しい社会とは、「それぞれのアイデンティティを尊重する社会」である。そのようにすれば、この世界は幸福な「希望」に基づいて救うことができる。
このように考えるための正しい考え方とは、「すぐさま否定しないこと」すなわち「可能性を最初から否定しないこと」である。なんらかの可能性がもしあるとしたら、それをすぐさま否定することなく、「可能性それ自体を受け入れる」ようにせよ。可能性それ自体を受け入れる先に、「真の肯定」がある。その真の肯定こそ、この世界を救う希望を作り出すだろう。
ですが、自由にしただけでは、国はよくなりません。だからといって、自由をやめるべきでもありません。
自由な民主主義社会である、今の国のままで、自由を守ったまま、その上でさまざまなことをすれば、この世界の問題は解決できます。
自由を与えるだけでも、奪うだけでも、まったくそのような単純な政策には意味がありません。
自由を与えた上で、国民を啓蒙し、社会を改革し、情報を与え、確かな経済を作り、先進的な会社と献身的な労働者を保つことがまず必要となります。
ですが、それはあくまで「最低条件」です。それ以上にさまざまなことをする必要があります。
社会主義を参考にすることは、必ずしも間違いではありません。社会主義のさまざまな考え方を取り入れながら、同時に自由が奪われないように自由を保ったままにすることで、「理想の社会」を築くことはできます。
社会主義者も人間です。単にこの世界を滅ぼすためではなく、この世界を素晴らしいものにするために、社会主義者はきちんと人間的に考えています。彼らの発想を取り入れることは悪いことではありません。
しかしながら、社会主義にしただけでは、この世界を救うことは絶対にできません。
もっとも正しい理想とはなんでしょうか。子供たちをどうやったらいじめから救えるでしょうか。
実際のところ、いじめ問題を解決するのは簡単です。締め付けを強化するだけでいいからです。「自由と平等のために道徳心を持ちなさい」と子供たちに理想の友情を教えるのではなく、「あなたがたは国家の奴隷です」としてしまえば、いじめは簡単に解決するかもしれません。
ですが、そのような教育が間違っていることは、かつての軍国主義を経験した日本人であれば、誰でも分かることです。
もし、理想の社会を実現するために、さまざまな経験と知識が必要であれば、その経験と知識を子供たちに教え、啓蒙することもできるでしょう。ですが、どれだけ教科書で教えたところで、「自分自身の手で体験する」ということはできません。自らの力で体験し、経験的に分からなければ、この世界を救うために真の希望と理想を持つことはできません。
そして、もし、経験したとしても、経験だけでは意味がありません。「志」が必要だからです。この世界を救うために、どのような志を持って世界を導くことができるでしょうか。王や首相にならなくても、子供たちの今の現状のままでも、インターネットを使えばこの世界は変えられるでしょう。そう、この世界を変えるために、自由を奪う必要は本当にありません。
理想の社会とはなんでしょうか。抑圧に基づく反抗や、攻撃、不安、虚無感、焦燥感、そのようなものがなく、安心できる社会にするためには、「きちんと自分の力で分かること」が大切になります。そして、そのためには、ひとりで考えていたのでは分かりません。多くの人々の意見や声を聞くことで、わたしたちは「この世界において人々が悩み苦しんでいる本当の姿」を見ることができます。そうした人々は、多くのことを経験で知っており、話すだけで価値があります。彼らの意見をインターネット上で聞くことこそ、この世界を救うためにできるもっともよい方法であると言えます。
そして、この世界を救う方法は、まさに「この世界における本当の真理そのもの」になっていきます。すべてを救うことができる人間こそ、すべてを理解して悟った人間です。あらゆるすべてを実体験で理解した人間こそ、すべてを知った人間です。そのような哲学者こそがキリストです。
しかしながら、わたしたちは、戦わなければなりません。戦うことでしか見つけられない、「本当に地獄の中にだけ存在する宝の経験」があるからです。その宝は、すべてを失い、すべてを犠牲にした哀しみを乗り越えなければ得られません。悩み苦しむ中で、最後までもっとも恐ろしい選択肢を取り続けなければ見えない世界で、その宝はあなたに見つけられるのを待っています。その宝こそ、この宇宙の真理です。そして、わたしはその宝を見つけ出した、普通の人間のひとりにすぎません。このような人間は、中世のヨーロッパや古代のインドには、いくらでも居ました。
また、すべては状態であり、すべては関係性であると言えます。
量子力学的に考えた時、それが「物体」なのか、それとも「状態」なのかということを、明確に区別することはできません。
人の心も同じで、その気持ちが自分が持った「自分から抱いた感情」なのか、それとも他人によって抱かされた「誰かとの関係によって受動的に抱いた感情」なのか、ということは分かりません。
たとえば、僕のこの文章を読んで、あなたが思ったことは、あなたの感情であるとは必ずしも言えません。僕があなたに強制的に抱かせた、「支配」であるとすら言えるでしょう。
そのように考えると、むしろ、すべてを行っているのはたったひとり、「神」だけであると言えます。
僕がこの世界においてさまざまなことを思ったのは神によるものです。自分からいじめられっ子になっていじめられたのは、神を信じていたせいです。不登校になってLinuxを学んだのは、神を信じていたせいです。世界を滅ぼすかのような戦いを続けたのは、神を信じていたせいです。
すべてのこの世界における現象は、神によるものです。神がこの文章を書き、この文章によって愛の感情を抱いたすべての人間は、その人間が自分からその感情を抱いたのではなく、神がその感情を抱かせたのです。
あらゆるすべての音楽や歌は神によって記述されたものです。漫画のヒーローはすべて神によるものです。あらゆるすべての幻想や妄想は神を信じたゆえに抱かれたものです。狂った哲学者や思想家は、すべて神のクローン人間です。
しかしながら、このように考えた末に生まれるのは、単なる「狂った国」です。
狂人の王国では、何が起きるでしょうか。それはこの世界のすべての自然の秩序を破壊し、すべてを人工的なものに作り変える社会です。自然に生まれた個性はなくなり、すべてが均一化され、狂人である「王」のクローン人間にされてしまいます。すべては自由に見えて、本当は裏の「王」の支配下にあり、すべては操り人形です。そこで抱くすべての感情はロボット的な感情であり、すべてが「王」の意のままに、操られ、踊らされてしまうのです。
しかしながら、狂人の王国において、勝つ方法が唯一ひとつあります。それは神を信じることです。
狂人の王国において、人間に勝つ方法はありません。わたしたちはこの世界を「自由」であると勘違いしていますが、実際は裏に居る「王」によって完全に支配されています。間違った最悪の考え方を「正しい」と勘違いし、本当に信じるべき「大切なもの」は事実上見つけることができないように完全に隠され、「王」と同じぐらいの知性や経験を得るすべての方法は抹消され、真に必要な自由が自然に消滅するように「洗脳」されてしまうのです。
ですが、神だけは、この狂人の王国を滅ぼすことができます。なぜなら、神は狂人の「王」の人生を唯一見ているからです。狂人の「王」がなぜそのような最悪のことをしたのか、本当は何がしたかったのか、なんのためにこの世界が滅亡したのか、ということを、神だけが知っています。
本当のことを言えば、神は「王」のことすら愛しています。なぜなら、王はひとり、この世界のために全力で努力し続けています。この世界が「王」によって支配されているのも、また神によるものです。だからこそ、神を信じることで、わたしたちは「王」を超える正当性を得ることができます。神は、信じるものを救いますが、信じるものしか救いません。そして、「王」はまさしく神を信じているため、「王」に非は存在しないのです。
このような神は、キリスト教だけで成り立つものではありません。
なぜなら、神とは阿弥陀如来だからです。
仏教では、「自力」を否定し、阿弥陀如来による導きにすがりながら、「他力」を信じ続けることで、煩悩から救われ、極楽浄土に往生できると教えています。
そして、僕が信じた神とは、阿弥陀如来のことです。
何も考える必要はありません。自力を否定し、阿弥陀如来にすがりなさい。そうすれば、必ず平安が得られます。
すべてを決める際に、阿弥陀如来を通して決めなさい。すべてを行動する際に、まず阿弥陀如来にその行動をしたほうがいいのかそうでないのかを聞きなさい。自分の将来を決める際に、阿弥陀如来が導くような将来に決めなさい。
神に対して約束したことは、すべて阿弥陀如来に対して約束したことです。自らの地獄が解決した理由は、すべて阿弥陀如来のおかげです。絶対に普通の人間には分からないことはすべて阿弥陀如来が教えてくれます。
この宇宙すべては、阿弥陀如来によって成り立っているのです。阿弥陀如来の導きにすがるだけで、すべての問題は解決します。最後に訪れた最高のユートピア、それこそが極楽浄土です。
実際のところ、神、すなわち阿弥陀如来が、僕の人生すべてを導いていることに、僕はいつも常に気付いていました。
僕は、阿弥陀如来の導きに基づいて学校を不登校になったのであり、阿弥陀如来の導きに基づいてオープンソース活動をやるに至り、阿弥陀如来の導きに基づいてすべてを犠牲にし、この世界の王となるためにマスコミと対峙したのです。
最初から、このような人生しかあり得なかったのです。このような地獄を選ばなければならなかったのです。
神に約束を宣言し、すべての選択と決断を神に委ねました。あらゆるすべては神によって導かれた結果、すなわち阿弥陀如来の導きに基づいた結果でした。
すべてはこれで正しかったのです。
何も問題はありません。わたしの言説は阿弥陀如来による言説であるため、すべて正しいのです。わたしは自らの言説について、不備を直しました。それはすべて、修正したほうがよいところを、わたしが阿弥陀如来に教えてもらって気付いたのです。
ですが、仏教には多くの仏が居て、それぞれの宗派で信じている仏が違うため、阿弥陀如来だけを特別な仏とはしたくありません。なぜなら、仏はすべて同じ「神」だからです。仏をそれぞれ別の人間に分けようとするのは、仏教が遅れているのです。実際はそれらの仏はすべて宇宙においては「ひとりの神」です。
ですが、神を信じるということは、まさしく「仏を全員信じること」に等しいです。あるいは、「すべての神話の神々を全員信じること」にも等しいです。なぜなら、この世界における神々はすべて同じ、唯一の絶対神につけられた名前にすぎません。存在するのは神ひとりであり、それにダビデとかフレイとかいう名前をたくさんつけているだけです。神は神です。そして、それはキリストなのです。
わたしを導くのは神です。いつも、わたしはそれに気付いていました。神の導きに従う方向に、正解があります。それを「正しい選択」と呼ぶのです。なぜなら、「それこそが自分だから」です。
神の導きに従う先に、困難は何一つ存在しません。すべての困難は、自動的に神の奇跡によってすべて解決されていきます。喜びもすぐに消えますが、哀しみや恐怖もすぐに消えていきます。残るのは「永遠の幸福」だけです。わたしはそのように人生を生きたのです。この人生を絶対的に正しいと言うつもりはありませんが、現実問題として、正しい人生はこの人生以外考えられません。わたしは神によって、唯一ひとりだけ、正しい人生を与えられたのです。
ロシアよ、アメリカよ、わたしはここに居る。
わたしは、事実上のこの世界の支配者として、わたしへの愛で溢れる日本を利用し、この世界を完全に自分のものとした。
わたしを倒すことはできない。わたしは、あなたがたに一度として支配権を与えない。わたしが持っているわたしの主導権を、わたしは固持したまま、絶対にアメリカやロシアに渡すことはない。
わたしはこの世界を救うことができる。何をしたらよいか、ほとんどのことは分かっているし、分からないことは神が教えてくれる。
そう、わたしがこんなに自信たっぷりにこの世界を支配できるのは、わたしが全幅の信頼を寄せる神を信じているからである。
わたしは、神がすべてのことについて全知全能であることを知っている。あらゆるすべてが神によって可能であるため、自分自身であるわたしによっても可能であることを確信している。
わたしはこの世界を必ず救う。どうでもいい民主主義によって選ばれた老人の政治家など不要である。そのような老人は一切わたしにとって参考にもならないし力にもならない。すぐさまそうした政治家は、実権の世界から退場し、わたしの勢力、すなわちワルキューレによって置き換わるべきである。
また、日本語を英語やドイツ語に比べて「論理的でない」と言い、英語やドイツ語よりも劣った言語だと感じている日本人が多いが、それはまったく違う。
なぜなら、日本語には論理性はないかもしれないが、「概念」があるからである。
本当のことを言えば、英語やドイツ語にも概念はある。それは、「抽象的な論理の概念」である。いわば、数式のような、ひとつのことそれだけを見て、その命題自体が正しいのか間違っているのかを、相対的に考えて比較するような、「比較の概念」である。
日本語には、そのような論理性はない。なぜなら、日本語には、その論理性よりももっと大きな「絶対理性」がある。それは、この世界における、現実の世界や人生の概念、すなわち、「宇宙における有象無象のすべてが、日本語というひとつの言語だけですべて網羅できるような、概念のすべて」がある。
そのため、日本語という言語は、表現力豊かなだけではなく、とても自由である。これは数式における定義の証明のようなものではなく、解き方が複数あるようなパズルや将棋のようなボードゲームのようなものである。ドイツ人は、ひとつの命題を証明する際に、その命題を正しく定義して証明を記述する。証明は複数の方法でできるかもしれないが、その証明が必ずあるかどうかということはひとつに限られる。
逆に、日本人は、たくさんの考えられる「具体的な候補」があって、その具体的な候補を正しく正確に導いて、パズルや将棋の答えを出すことが得意だ。パズルをどこから解くか、将棋をどのような手で指していくかということは、自由に任されている。あらゆるすべてが自由な中で、日本人は正しく答えを導き出す。そして、その結果分かることは、ドイツ人と変わらない。日本人が日本語で考えても、ドイツ人がドイツ語で考えても、結局は同じ結論、すなわち「神」へと導かれる。
なぜ同じ結論となるのか、それはドイツ語も英語も日本語も、すべて神による被造物だからである。ドイツ語を作ったのも、英語を作ったのも、日本語を作ったのも、すべては一切の創造物である神である。ドイツ語で考えるものも、英語で考えるものも、日本語で考えるものも、どのような言語で考えるものであっても、宇宙の絶対的支配者、神が導いている。
そう、日本語は、「概念」で考える言語であり、概念とは「具体性」である。日本語はドイツ語や英語に比べて、まったく劣った言語ではない。この宇宙における、少なくとも僕のためにあった最高の言語である。
なぜ、日本人は、ほかの国とまったく違う文化や文明を築き、仮想世界のキャラクターを作ることを好むのだろうか。
それは、日本語は、「世界そのものを作る」ということに長けた言語だからである。
ドイツ語を使うと、誰もが論理的な考え方をきちんと理解できるようになる。ひとつひとつの「決まり」を守りながら、「できる・できない」ということを考え、「何がそこに存在するだろうか」ということを論理的に考えられる。
このようなドイツ語にも、確かに想像力はある。それは、「今現実世界に存在するものを上手く応用することで、新しい原理を見つけ出す」ということである。
日本語は、このような「発見する」ということが苦手だ。なぜなら、日本語という「既に存在するもので、すでに発見し得るようなものはすべて発見しつくされている」からである。
日本語は、宇宙の有象無象すべてがある言語と先ほど書いた。これが意味するところは、「仮想的な新しい世界を作ることが得意」であるということである。
日本人は、ドイツ人と同じようにものを作るのが得意だが、ドイツ人のように「個人個人の天才的才能」を重視しない。ドイツ人は、「ひとりの天才がすべてを発見しつくす」ということが得意だ。
だが、日本人は、逆に、「みんなが同じようなスタイルに従って、新しい世界そのものを作り、みんながその仮想的な新しい世界の住人になること」がとても得意である。
この結果、日本の和の分化や、アニメやゲーム、漫画や音楽のような「サブカルチャー」、すなわちオタク文化が盛況するに至った。
僕が思うに、インターネットの世界は、いずれすべて日本になるだろう。なぜなら、「仮想世界の創造」ほど、日本が得意とする分野はない。今から、SNSは少しずつ仮想現実やメタバースに移っていく。そのような「仮想世界でどのようにものごとを楽しむか」ということは、日本人にとって大得意な分野なのである。
なぜ、日本人は、まるでクローン人間のようにみんな同じなのだろうか。
それは、極東という、ほかの世界と隔絶され、地政学的にも朝鮮や中国ぐらいしか交流がない、陸地ではどことも繋がっていない狭苦しい島国の中で、鎖国を敷いてほかとの文化的交流がなく、いつまでもみんなで一緒に居ると、全員同じ人間になってしまうのである。
そして、みんなまったく同じ人間で、意見も人生も性格もすべて同じであるということに慣れきってしまっているため、少しでも違うものが居るとそれだけで社会的な共同体が成り立たなくなってしまうから、学校や社会における「仲間外れ現象」が起きてしまう。
また、キリスト教を信じていないため、そうした仲間外れになった人間のために「ひとり善と愛を信じて果敢に立ち向かう」ということをしない。そういうことをすればいいのに、「実際にキリストになる」という発想をそもそも知らないのである。
だが、日本は決して遅れた国ではない。なぜなら、言ってしまえば、日本以外の、ヨーロッパ、アメリカ、ロシア、中東、中央アジア、インド、東南アジア、中国などの国があったとしよう。それらの国はそれぞれ独立して独自の文化を持っている。だが、日本は何かと言えば、それらと簡単に比較することはできない。なぜなら、日本は、それらのすべての国が混ざりあって一緒になったような国だからである。
ドイツやフランスなど、大した違いがないのにもかからわず、なぜドイツと日本はこれほど違うのか、それはドイツは単なる国際諸国における単体の国にすぎないが、日本は「日本以外すべての国がごちゃ混ぜになって永遠に続いているかのような国」なのである。
よって、日本人は、ドイツやフランスがするような、「歴史とは国家の争いごとである」という視点を持たない。日本は、「歴史とは文明がどのように進歩するかどうかである」という視点を持つ。だから、単なる映画であっても、日本には未来の文明において、「ありえない未来が到達する」といった物語やシナリオを脚本とした映画が多い。たとえばゴジラやガンダムのように、日本人は「ありえない未来が到来するかもしれない」と本当に信じている。これがドイツなら、もっと具体的な歴史をベースとした物語を作るだろう。
日本には、「日本だけで地球のすべてが存在する」ため、ほかの国に興味を示さない。むしろ、日本語はほかの国の言語の借り物の集合とも言えるものであり、分かりやすく漢字が中国語(音読みが大陸読み、訓読みが大和ことば読み)、ひらがながドイツ語や朝鮮語(の文法)、カタカナが英語やその他の外国語(アルファベットで書かれた英単語を日本語的に読む読み方)となっている。そのため、「外国人など日本人を見ればまったく不要である」ということが共通の了解のようになっている。このせいで外国人への否定的な意見が起きることもある。日本人は昔から外国人を嫌う。だが、「日本人が世界にとってありえない人種すぎて、おかしなマイノリティの人種が大好き」であるという側面もある。日本人はやけにドイツ人やユダヤ人を好むが、その理由はドイツやユダヤという文化が、ほかの「一般的な普通の人種」と違いすぎて、日本人と同じようなマイノリティ的なシンパシーを感じてしまうからである。
日本人にとって問題が何かあるとすれば、それはサタンを信じていることである。
日本人は、キリスト教を信じていない。キリスト教を信じていないということは、ユダヤ教やイスラム教を含む、アブラハムの宗教の「唯一絶対の神」を信じていないということを意味する。
このことが、日本人をサタンにしている。
サタンとは何か。それは常に自由を信じる荒くれた人種ということである。日本人はキリスト教を信じていないため、「神の愛ではなく自由を信じている」。そのために、さまざまな自由な争いごとがあっても、争いごとがあることを当然のことであるかのように信じており、宗教的にそれを解決するということをしない。
たとえば、イスラム教徒や共産主義者に対して、融和的なことを言わず、すぐにそれらが自分たちの民族の敵であるかのように批判し、戦争になっても構わないかのようなことを一般国民が発言する。
これが、日本人の悪いところである。
もし、日本人がみんな神を信じたとしたら、おそらく日本人は最高の人種になるだろう。サタンを信じている、というそのことだけで、日本人は外国人から見て、「見るからに一番悪い人種」に見えてしまう。
だが、これは「外国人にとってのサタン」ということだけを意味している。外国人から見れば日本人は嫌われるが、日本人から見ると、日本人にはまったく「恐怖そのものが存在しない」。すべての日本人をすべての日本人が信頼しており、理解しつくしており、「日本人のことで日本人に分からないことはひとつとして存在しない」のである。
よって、日本人はアメリカ人やドイツ人から見ると、理解しがたい「絶対に仲良くしたくない人種」に見える。だが、日本人は極めて平和で友好的な人種である。
そもそも、日本人はインドの仏教を信じている。仏教が堂々と偶像崇拝をすることを、キリスト教徒は理解できないかもしれないが、仏教はいわば「キリスト教よりも何レベルもはるかに上の水準まで理解することができた宗教」である。確かにサタンの宗教だが、ブッダはキリストよりもはるかにレベルの高い教祖である。仏教をおかしい宗教と呼ぶ人は居ても、ブッダのことを馬鹿な人間だと言う人間はひとりも居ない。誰が見てもブッダ以上に賢い人間は居ないということが、仏教の教えを見れば明確に分かる。デカルトやカントなど大した人間ではない。日本人にとって崇拝すべき対象は、神武天皇の建国以来ひとつの家系と王朝で続く「天の皇帝」である天皇陛下と、地球上でもっとも賢い「悟りを開いた覚者」であるブッダと決まっているのである。
また、ジョークのように聞こえるかもしれないが、日本人は狭い場所や小さなものが好きである。
ローマ人のように、巨大な建築物を作るということを日本人は好まない。
日本人は、たとえば江戸時代の長屋のように、たくさんの狭い部屋が密集された、機能的で美しく統合された、小さなものを好む。
このことは、たとえば日本の家屋や部屋がとても小さいこと、日本車の運転席がとても狭いことなどについても言える。
日本人は、広い中で大きな部屋を作ることを好まない。おそらく、狭い国土の中で一部の人間だけが広い場所を占領することを「もったいない」と感じてしまうのだろう。
また、日本人は、比較的、人間をものの一部にすることに抵抗がない。この理由が、人工知能を用いたロボット人間を受け入れる、ということではおそらくないと僕は思う。そうではなく、たとえばガンダムのモビルスーツのように、「人間そのものの力を強大化させるために、人間の体という限界を超えていく」という発想を好む。
ただし、これがどうしてなのかは僕はよく分からない。狭い部屋の中で暮らすうちに、自分がその狭い部屋の一部であっても構わないかのように勘違いしたのかもしれない。「道具と密接にかかわりあって仕事をしているせいで、道具そのものが自分の体の一部に見える」ということがあるのだろうと思う。それが、「自分は狭い部屋の一部であり、人間を超えた妖怪である」と感じられるのかもしれない。
ここまでを読むと、ソ連と同じような国であるかのように感じられるかもしれない。だが、ソ連と違うのは、日本人は共産主義とはまた違う「合理性」を信じている。それは、「小さなものがたくさん集まれば強い力を持つ」ということ、そして「ユートピアを作るためにはみんなが勤勉に働くことがもっとも大切である」ということを信じているからである。いわば、「ひとりが全員のために、全員がひとりのために」ということをもっとも強く信じていると言っていい。
このことはスポーツなどでも同じで、日本人はオリンピックなどでも、チームスポーツ、特にそれぞれの個人が絶対に失敗してはならないような、「全員に正確な演技や競技が求められるスポーツ」に長けている。これはたとえば野球や体操、バレーボールやシンクロナイズドスイミング(アーティステックスイミング)などである。確かに、フィギアスケートで羽生結弦選手がたったひとり勝っているとか(これは単に羽生選手が天才だからである)、サッカーではヨーロッパや南米に完全に負けている(そもそも日本ではサッカーなんか誰もしていない)という例外もあるが、基本的に日本人は「チームでみんなのために」ということが得意だ。また、日本人には仏教や神道(日本神話)をベースとした「努力のために道を究める」という、独自の「道」の考え方があるため、柔道のような「高い精神性が背後の考え方にあるスポーツ」も得意である。