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2022-09-01

精神は、留保された決定可能性を取り除けば治る。

精神がおかしいのは、なんらかの留保された決定可能性が、いつまでも保留状態のまま、決定されるのを待ち続けているからである。

精神の中で、決定可能性は、「確実に決定される」まで待機している。この「確実に」という考え方を守ろうとするせいで、それが最優先となり、ほかのことができなくなってしまっている。

留保された決定可能性を取り除くことで、精神が完全に解放され、楽になる。

また、一度決定可能性を留保された状態に戻すことでも精神は治る。留保されたすべての決定可能性を決定する必要はない。保留状態のままであることこそ、決定可能性の正しい状態である。そこに戻すことでも精神は楽になる。

実現可能性から文明の起源と進歩を考えた

昔は、歴史や文明を実現可能性から考えることが多かった。

「それぞれのみんなが集まる」ということをネットで経験し、その中でどのような社会がどのような社会になるかということを、ネットの「現場実験」で知ったり、あるいは環境の変化と因果性を数学的に証明することで分かった。

その結果、僕は実現可能性、すなわち「何がそこでできるのか」ということや、歴史的な社会の「意識」によって、社会がどのように発生し、進歩し、歴史がどのように展開し、結果どのような歴史上あるいは未来の社会になるのか、という、「文明の起源と変化」をすべて捉えて分かった。

僕は、その時点で、この世界のすべての歴史について知っていた。

世界や地域を眺めながら、僕は「歴史的な文明」について空想し、また意識で実感した。この世界のすべての歴史が意識の中にあり、それは文明的な実現可能性から知ることのできる「実感」だった。僕はこの実感から、「直観力」を得ることができた。

事前の対処とその時分かることはどちらも大切

僕は、事前によく準備して対処策を考えることと、その時になって初めて分かることは、どちらも重要であり、どちらも考えるべきであると考える。

準備や対処策を、事前にすべて考えておくということは大切なことだ。事前に問題の準備をし、考えられるあらゆる対処策を講じておくことは必要だ。

事前の準備をそこまでやるならば、「初期投資」という考え方ができる。初期投資をあらかじめすべてしておくことで、それによってその時行うべきことが「ゼロ秒」でできる。

そして、基礎や基盤をよく準備して培っておくということも大切だ。過去の自分の経験は自分のためになる。過去に事前の準備の基礎をすべて持っている人間は、それだけでも能力と才能を持った天才になれる。事前に完璧な基礎を作っておけば、すべてのことが一瞬でできるようになる。

だが、それでも、その時それが起きてみなければ分からないことというのはある。

その時起きるか起きないか分からないことについて、事前に心配していても何も始まらない。その時起きた時に、きちんと対応できるのであれば、そのためには事前にたくさんのことを考えておくということが、逆に足枷となってしまう。その時起きることは、その時になってみなければ問題の詳細が分からない。そのためにあらゆる事前の対策を行うことは、不可能に近い。

よって、その時起きるかもしれないことを、本当にきちんと対処するのであれば、それ相応の特別なやり方が必要だ。すべてを事前に知ることは困難だが、基礎の力を持ってどのような場合にでも対応できるような「思考する意識」を持つことで、それはその時必ず解決可能となる。それこそが、「正しい対処策」である。

それだけが間違っているように見えて、本当はそこに至るすべての思考プロセスが間違っている

思想や信念を考える上で重要なのが、それだけが間違っているように見えて、本当はそこに至るすべての前提となる思考プロセスが間違っている、という事実だ。

誰かが、自由を正しいと信じていたとする。この自由は間違っていたと分かった。だから彼は国家主義を信じるようになった。

ここで、国家主義を信じるようになったということが、間違っているにもかかわらず彼は自由へのアンチテーゼとして国家主義を信じてしまった。

だが、間違っているのは国家主義だけではなく、そこに至るすべての思考プロセスである。

「国家主義が間違っている」とする根拠は、「自由を信じていたが、自由は間違っていた」からである。ここで、自由を正しいと信じていた、とすることがまず間違っている。国家主義を正しいとしたのは、信じていた自由が間違っていたからであり、国家主義が間違っているだけではなく、その前提となる「自由を正しいと信じていた」という、そこに至る思考プロセスがすべて間違っている。

要するに、国家主義も自由もどちらも間違いだが、「自由が間違っていたから国家主義が正しい」とするのが間違いだ。つまり、最初から、そもそも自由を信じるべきではなかったのである。

最初から自由を信じなければ、その後にある自由が間違っていたとか、国家主義が正しいとか、そういう発想は生まれなかった。

彼は、国家主義を信じているように見えて、実際は国家主義を信じるための足場となる経験として、今でも自由を正しいと「信じ続けている」のである。

このようなことは、日本の教育に多い。最初に平和主義や自由を教えるから、子供たちは最初は平和や自由を信じて、それが間違っていると気付くと、軍事主義や帝国主義を信じるようになってしまう。最初に平和主義や自由を教えたこと、それ自体がそもそも間違いであり、最初から平和主義や自由など教えるべきではないのである。