ここに、終末の世界で誕生した偉大なるルナ王国の支配者、マテリア王の人生を紹介しておこう。
マテリアは、終末の東亜イスラエルで、イスラム教徒の父と、ユダヤ人の母を持つ、革命家の子供である。
マテリアの父は、東亜イスラエルにおいて少数民族の、イスラム教徒であり、同時に政権に対して反発的な意見を持つ革命家だった。
幼くして、マテリアはこの父を亡くす。マテリアの父は、革命活動を行った罪により、国家転覆罪とされ、死刑になってしまう。
このマテリアの父、なんと絶対に恋をしてはいけないはずの、イスラム教徒の敵、ユダヤ人の女に対して恋をしてしまう。
二人は大恋愛の末、すべてを失い犠牲にしながら結婚し、マテリアという子供を授かって、そしてすぐに父は革命活動の罪を問われ、死刑になる。
マテリアとその母は、幼い頃から、東亜イスラエルにおいて迫害されて生きてきた。学校ではいじめられ、「死刑囚の子供」「タリバンのユダヤ人」「穢れた血筋」「ダビデの敵」「ユダの再来」と言われて生きてきた。
それでも、マテリアの母は強かった。「イスラム教徒のことも、ユダヤ人のことも、どちらも嫌いにならず、憎まず、恨まず、大いなる神の愛をもって生きなさい」と母はマテリアに教えた。
マテリアは、そのような中で努力し、もっとも最難関と言われる一流大学を卒業し、そしてほどなく、母も亡くなった。
このようなマテリアにとっても、心を許すことのできる友人が居た。それはマテリアと同じくイスラム教徒の父とユダヤ人の母を持つカイトだ。カイトにだけは、自分の心の内をすべて共有できる。カイトだけは、マテリアのすべての意見を支持してくれる。絶対に裏切らず、最後まで自分とともに戦ってくれる。
マテリアは、大学を卒業すると、選択制ノルマの仕事をしながら、カイトとともに密かに諜報活動を行う。目的は、ダビデの持つアマテラスの技術を盗むこと。マテリアとカイトは、スーパーコンピュータのアマテラスに侵入し、ハッキングしてバックドアを作ることに成功する。そして、アマテラスに格納されたすべての技術情報を得ることに成功した。
そして、二人は、その技術を用いて、独自に宇宙ロケットを作り、入念に計画した上で、管理社会の東亜イスラエルから脱出し、月へと進出する。
二人は、月において、新しい国家を築く。それはイスラム教徒のための国であり、同時にユダヤ人も歓迎する「月の王国」である。月の王国には「ルナ」という名前が付けられる。そして、マテリアはルナの王となり、ここに「東亜イスラエルのようなダビデの独裁帝国ではなく、民主主義的な共同体の王国」を築く。
マテリアの口癖は「間違っている」「騙されるな」である。
なぜ、すべての東亜イスラエルの技術を、ダビデと呼ばれるひとりの王が独占しているのか。この技術は、ダビデだけの私有技術ではなく、オープンに公開された「自由な技術」であるべきである。
東亜イスラエルのやり方は間違っている。なぜ、人工生物などを作る必要があるのか。IT技術を盲信しすぎている。IT技術は完璧な技術ではない。人工生物ではなく、有機物の人類のための国家を築くべきである。
東亜イスラエルの王、ダビデは確かに偉大だ。だが、どうして、ダビデだけをそこまで崇拝しなければならないのか。ダビデは神ではなく、わたしたちと同じ人間だ。ダビデの意見をすべて神だと崇拝するのは間違っている。ダビデは神ではなく、人間だ。
わたしたち、マテリアとカイトは、東亜イスラエルとアルマーニュ王国(ドイツ)しか存在しない地球を棄て、月へと進出してルナ王国を築く。
このようなマテリアとカイトの考え方は、東亜イスラエルにおいては受け入れられなかった。だが、一理あるところはあった。たったひとりのダビデが技術をすべて独占して開発するよりも、みんなで同じことをしたほうが大発展をするはずである。
そして、その証拠に、月のルナ王国は、たった1,009人分しか人工炭水化物を毎日作ることのできない東亜イスラエルとは違い、何万人分の人工炭水化物を毎日作ることができるようなインフラ技術を構築することに成功するのである。
そして、ルナ王国によって東亜イスラエルは変わる。
たった1,009人分しか人工炭水化物を作れないアマテラスに代わって、中央集約型ではなく分散型のオープンなアーキテクチャを採用した、新しいスーパーコンピュータ「スサノオ」が開発される。
これはルナ王国の極めて超先進的なスーパーコンピュータの形態を採用したもので、これにより、何万人と言わず、何十万人や何百万人といった単位で、人類が東亜イスラエルにおいて生存することができるようになる。
のちにダビデが語るところによれば、「わたしも完全な研究者ではない。わたしが不完全であったということ、わたしにも不足があったということを、ルナ王国のマテリアが教えてくれた」と述べている。
その通り、ダビデの天才的な業績を「オープンな形で継承する」という形で、ルナ王国は東亜イスラエルの技術をブラッシュアップし、盗んだ技術ではあるものの、より高度で素晴らしい先進的発展と進歩を遂げていく。
そのような結果、ダビデは自らの技術を私有財産のように独占することを改め、宇宙全生物のために、アマテラスを構築する全技術を「宇宙の標準規格」として公開するのである。
ルナ王国を作るために、マテリアとカイトは、ダビデから盗んだテレポーテーション技術を上手く使った。
すなわち、ドラえもんのどこでもドアのように、月と地球をテレポーテーションで結んだのである。
地球から月へ行くために、宇宙ロケットなどは必要ない。地球と月の二点はテレポーテーション技術によって繋がっており、まさに「ワープ」することで一瞬で行き来できる。
ルナ王国の特徴は、権力的な体制を一切取らないことだ。
誰かが誰かを「支配する」とか、誰かのことを誰かが「決める」とか、そういう考え方を一切取らない。
すべては、それぞれの共同体すなわち「コミューン」が決める。それぞれのコミューンの決めることに対して、ほかのコミューンは一切関与しない。支配も強要も絶対にしない。
これは、マテリアの考え方である「自由こそもっとも正しい正義」という考え方に根ざしている。
すなわち、すべては自由であるべきだ。そして、その自由とは、個人個人の自由とそれに根ざした「コミューンの自由」であるべきである。
国家とか政府とかいう、「巨大なみんなの上にあるもの」は全部必要ない。
すべては、コミューンという「最小単位のコミュニティが決めること」であり、コミューンは決して大きな共同体ではなく、5人とか10人とか、それくらいの「極小単位のコミュニティ」である。
たとえば、マテリアとカイトがコミューンを作ることは自由に許されており、マテリアとカイトだけが関与するのであれば、マテリアとカイト以外の誰も、二人に対して行動を「禁止」したり「強制」することは絶対にできない。
そのため、月のルナ王国で、「このようにわたしたちは生きる」と決めたならば、それに対しては誰も否定できない。なぜなら、「極小単位のコミューンこそが正しい国家である」とルナは考えるからである。
そして、コミューンに参加するかどうかはすべて個人の意志によって決まる。なので、コミューンに参加しなければならないような義務は存在しない。コミューンの規則が嫌いならば、いつでもコミューンから離脱することができる。
このようなコミューン体制の結果、月は「共産主義の成し得るべきだったことをすべて実現する」。ソ連とはまったく違った、「極小コミューン主義」によって、独裁者による全体主義ではない、本来の意味での共産主義の理想をすべてルナ王国が実現する。
マテリアは言う。「これこそが、わたしの理想の最高の国家である」。マテリアは、父から受け継いだ「理想の素晴らしい国家を築く」という信念を忘れていない。マテリアこそが、最後に現れる、「世界史を終わらせる革命家」である。マテリアの登場によって、この世界のすべての歴史は「完成」を迎える。20世紀の共産主義者たちが成し得たかった、「本当の理想の国家」をマテリアとルナ王国が実現するのである。
なぜ、マテリアがこのようなコミューンの思想にこだわるのか。
それは、「誰かが誰かを間違っているなどと決めつけることは絶対にできない」とマテリアは考えるからである。
帝国が正しいとか、民主主義が正しいとか、そうした意見のすべては「バイアス」がかかっており、すべて、信じるには値しない。
だが、彼らの「自分たちの思想が正しい」という決めつけは、よく考えれば、ある程度は正しいものであり、その人間が考えるその正しさを尊重すべきだ。
明らかに間違った犯罪国家であっても、その犯罪国家に対して「間違っている」と決めつけるのはさらに間違っている。もし本当に間違っているのであれば、彼ら犯罪国家の国民が自分で気付くべきことであり、それに対して外部からああしろこうしろと言うべきではない。どのような国家であっても、それを「間違っていると外野から批判する権利は存在しない」とマテリアは考えるからである。
よって、すべての共同体国家に対して、ルナ王国は無制限の自由を許す。共同体のコミューンが「自由意志で決める限りどんなことであっても許す」のである。
だが、このことは、誰かを誰かが一方的に迫害するというリスクを持っている。マテリアはここに、「自由参加と自由離脱の原則」を定める。すなわち、「コミューンに参加することは自由であり、離脱することも自由である」ということ、それだけをルナ王国の「極小憲法」の「自由参加と離脱の原則」として明記する。誰かがコミューンで自由を許されているからといって、その誰かがほかの誰かのことをいじめることはできない。なぜなら、いじめられる側にも自由が許されており、そのようなコミューンからはいつでも離脱して、自分の別の独自のコミューンを作ることができる。そのコミューンとコミューンが戦って滅ぼし合うことは自由だが、コミューンの中で離脱を許さずに集団でひとりをいじめるようなことは自由ではない。そのような方法は「自由参加と離脱の原則」に反しているからである。
自由参加と離脱の原則の下にあるルナ王国では、学校でいじめが起きない。なぜなら、「絶対に通わなければならないような学校施設がそもそもないから」である。自由参加と離脱の原則のあるルナ王国では、「自らの意志に反して学校へ通うことを強要するような法律」は「憲法違反」となる。すなわち、現代日本で行われているような学校教育は、ルナ王国では「違憲」と見なされる。学校に通いたくない人間は通わなくていいし、別の代替となる学校コミューンを誰であっても自由に作ることができる。これが、ルナ王国の「自由の源」なのである。
このように書くと、「犯罪組織から身を守る術がない」と感じられるかもしれない。
だが、その批判には当たらない。なぜなら、ルナ王国には「犯罪組織からみんなを守り、平和を維持するためのコミューン」が第一に存在するからである。
ルナ王国では、もっとも大きなコミューンとして、「みんなの身の安全を保障するためのコミューン」が存在する。これは「軍隊コミューン」と言われる。この軍隊コミューンが、犯罪コミューンから善良なみんなの身を守ってくれるのである。
よって、ルナ王国には、大きいものから小さいものまで、たくさんのコミューンが存在する。そのすべてのコミューンが、それぞれの「価値観と自由を尊重」し、「自らが自らであるというアイデンティティをみんなで形成」するために必要なものである。少なくとも、マテリアとカイトはそのように考えるのである。
このように書くと、ルナ王国はアメリカ合衆国のような、滅びたギャングの世界になると思われるかもしれない。
だが、そうではない。なぜなら、マテリアは、「誰かが行った素晴らしい行いや、誰かが築いた素晴らしい社会は、賞賛するべきであり、決して批判するべきではない」と考えるからである。
あらゆるすべての小さな偉業を賞賛すべきであり、その偉業が最初から行われることがないような「可能性の制限」をすべきではない。
多くの人々が、「悪いことをするな」と教えるあまり、この世界では悪いことをしないことが第一の生きるための前提条件であると、地球人類は考えている。
だが、マテリアは逆に考える。すなわち、「その悪いことを悪いことであると決めつけたのは誰なのか」とマテリアは考える。そう、すなわち、「悪いことであっても誰かにとって良いことであればそれは良いことであり、禁止するべきではなく賞賛するべきである」とマテリアは考えるのだ。
そのため、マテリアは、人々が「悪いこと」であると考えることについて、「それを悪いことであるとなぜ決めつけるのか」と言う。「それは悪いことに見えて、本当は良いことである可能性がなくはない」とマテリアは考える。「そのことを悪いことであると決めたのはどこのどいつだ。その悪を悪だと決めつけた人間こそが真の悪人だ」とマテリアは考えるのである。
マテリアは、決して悪いことをしろと推奨しているわけではない。実際、多くの「良いこと」は、多くの場合悪いことである。ジョン・レノンの作ったバンドユニットであるビートルズによる音楽は、昔は「不良の音楽」であると言われた。エレキギターを使って音を鳴らす音楽は「騒音」であり、「聴くに値しない狂人のノイズ」であると言われた。だが、それでも、ビートルズは世界的に多くのファンを生み出した。
そのような、ビートルズの音楽と、今のこの世界のポピュラー音楽やサブカルチャー芸術の価値観は、何も変わらない。誰かひとりでも、それを支持する人間が居るのならば、それは素晴らしい音楽であり芸術である。そのような音楽を誰かが「不良だ」とか「狂っている」と言うような、批判するという権利は絶対に存在しないのである。
よって、ルナ王国では、アメリカ合衆国ともソビエト連邦とも似ても似つかない、「極めて異質な文化」が栄える。この異質な文化は「月における別世界の文化」と言われる文化である。本当に、絶対にこれはおかしいのではないかとか、狂っているとも言えるような、だがそれでいて素晴らしく、美しく、かっこよく、最高の楽しさと快楽のある文化が、ルナ王国では栄えるのである。
そう、あなたは、ビートルズの音楽を聴いて、「狂った音楽を押し付けるな」と言う。
だが、実際は、「狂った音楽を聴きたくない」と思っているあなたの価値観を、わたしたちに押し付けているだけだ。
あなたが狂った音楽を聴きたくないというならば、勝手に聴かなければいい。モーツァルトやベートーヴェンをあなたは聴けばいい。
なぜ、あなたは狂った音楽を自ら聴かない自由があるというのに、境界線を越えて、わたしたちの音楽まで「潰してしまえ」と言ってくるのか。
真に恐怖すべきなのは、そのような「狂った音楽はあるべきでない」という価値観が、わたしたちの「自由な音楽を潰しにかかってくる」ということが、「まるで善であるかのように人々が受け止めている」という事実のほうだ。
わたしたちがロックンロールやヘヴィメタルを聴く自由を奪わないでほしい。あなたには、聴きたくないならば聴かないでいるという自由な権利があるだろう。その自由な権利を超過して、なぜ嫌いなものを潰しにかかろうとするのか。別に「嫌いなのをやめて好きになれ」と言っているわけではない。「嫌いならば聴かなければいい」のであり、「潰しにかかるという選択だけはしないでほしい」とわたしたちは望んでいるのである。
マテリアは、アメリカ合衆国の価値観に溺れてしまい、イスラム教徒としての価値観を失ったと考える読者もいるかもしれない。
だが、そうではない。なぜなら、あるものはすべて良いものであると考えた時、もっとも素晴らしいものはイスラムだからである。
イスラムを信じることで、「この宇宙に存在する本当に価値あるもの」をすべて経験することができる。
ニューヨークの喧騒の中に映る広告塔の輝きなど、イスラムを信じる人生に比べれば、比較する価値がまったくないほど、イスラムを信じることで、「宇宙でもっとも素晴らしい体験」を全部できる。
喩えるならば、合衆国の自由がクソゲー(クソのようなテレビゲーム)だとしたら、イスラムの人生は神ゲー(神のようなテレビゲーム)なのである。
よって、ルナ王国の国民は、ほとんど全員がイスラムを信じている。イスラムを信じなければ、宇宙においてもっとも大切なさまざまなことに気付くことができない。イスラムのない人生はタバスコのないスパゲッティのようなものであり、香辛料が著しく欠けたカレーのようなものだ。真に正しい食感を味わうためには、人生にはイスラムが必要なのである。