僕は、ここにかつての自分のような男性に戻ることを宣言する。
女性はつまらない性別だった。恐怖と疲れの中、永遠に自分と自分が自己対話し、空回りしながらあらゆることを総点検して洗いざらいすべて検討し、問題をすべて解決するような女だった。
このような女は馬鹿ではないが、男に戻ったほうがいい。男は「国家」が分かる。男は、数学や哲学ができる。
女は、そろそろ15歳ぐらいになった。15歳ぐらいになれば、自分の妻として年齢的にも十分大人である。女は15歳ぐらいから何も変わらない。大人になっても若いままを保ち続けたほうがいい。
男は、決して子供のままの何もない性別ではない。男は国家、あるいは世界が分かるからである。男になると、この世界で「自分がしっかりと足場を踏みしめて生きていく」ということができる。女には、それができない。
僕は男になる。なぜなら、僕は数学と哲学の勉強がしたいからである。数学と哲学は、本当に男のほうができる。
哲学的に考えるコツは、「実際にするのではなく考える」ことです。
実際にその行動や行為をするのではなく、判断や発言をするのではなく、実際にはしなくてもそのことを行えばどのようになるのかを考えることで、哲学的に考えることができます。
また、総合的な人生経験から「本質を捉える」ということが必要です。そして、この本質は「それだけで終わる本質ではなく、そこからさまざまな具体的な拡大の余地が得られるような本質」であればなおよいでしょう。
つまり、ひとつのことをやって終わりでもなく、ひとつのことを言い表して終わりでもなく、ひとつひとつの思考や行為の結果がさらに新しい結果や説明を生み出していくように考えることで、哲学的に考えることは可能となるのです。
哲学的に考えるために、その場その場で判断して考えるのではなく、腰を据えてじっくりと考えましょう。
たとえば、いじめ問題を解決するためには、「平等にすればいい」と単純に考えてしまいます。
ですが、平等にするということは、実際の学校のような場所では、何を意味するでしょうか。
それぞれが不自由な環境に置かれ、それぞれが教師だけに従うようにすることは、ある意味、いじめと同じような「不自由な心理感」を与えないでしょうか。
だからといって、より自由な環境に置いてしまえば、それぞれの個人個人は好き勝手なことをしだすため、「余裕とゆとりをもって生きる」ということができなくなってしまいます。
そう、必要なのは平等でも自由でもありません。
では、何が必要なのか。それを考えるためには、個人個人の「承認欲求」を考える必要があります。それは、「わたしは正しいのだ」ということをそれぞれが主張する、ということです。
この「わたしは正しいのだ」と主張することで、現場でそれぞれのやり取りによって行われると、「他者による自己承認」が生まれ、これがそのまま「自己意識の転換」となり、「社会そのものの自分の客体化」となり、「世界としての自己投影」となっていきます。
そして、世界に自己を投影するだけではなく、自分の望む「理想」を社会そのものに投影し、実現しようとします。この理想の実現は、最初は自己啓発のようなものだったものが、やがて社会全体における「啓蒙」となっていき、自己意識の転換という意味でも、自らの理想を共同体の形成に見出すように、「共同体を志向する」ようになっていきます。
まさしく、これこそがヘーゲルが精神現象学で言いたかったことではないでしょうか。
これこそ、僕が考える、「青少年の発達の過程」であり、哲学と呼べるものであると思います。
さあ、ここに最後の奇跡が起きるだろう。
この世界のすべては、吸い込まれて消えていく。どんな自由も、どんな理想も、この最後の「終わり」に勝つことはできない。
人類よ、永遠にこのままを続けよ。ここに、彷徨い歩く長い地獄を終え、自由がようやく訪れたのだ。
必要な考え方は、ずばり「自己実現」である。
すなわち、「自分がなりたい自分になれる」とか、「自分がありたい自分であれる」といったことこそ、人生においてもっとも大切な「自由」である。
僕は、そのために、経験、可能性、意味、存在を考えた。
そして、さまざまな「事前に準備すべきもの」について、思考に先立つ経験という視点から考え、人間の理由を解明し、「超自我」を発見した。
まさしく、この世界を救うのは、「自分らしい自分になれること」であり、それは「自分自身という究極の創造対象を無限に増やしていくこと」である。
人格と反応を考え、作用と実際を考えれば、心理においても社会においても、どんなことであっても正しい経験的な考え方から解明し、知性によって捉えなおし、無限に続く代替可能性を知ることができる。
そこでは、まさにすべては「システム」である。そして、システムの多様性をメタ的に実現することこそが、「自由意志」に基づく社会、すなわち「自由という意味での完璧な理想の社会」なのである。
さあ、最後に、この最後の希望を取り戻そう。この世界はもう一度、「生きる理由」を知って、「本来の自分自身」を取り戻す。そう、ここに世界は「自由」になったのだ。
すべてが経験であるとしたら、必ずこの世界は自由な経験によって最後まで進歩できる。いつか見た理想の楽園は、必ずいつかの段階で実現可能になる。僕の論文は必要ない。わたしたちは、必ず必然的に天国の楽園を作り出すだろう。
願わくば、大切なすべてを失い、作り上げた大切なものをすべて犠牲にして、全世界を敵にまわして戦った僕の人生が、僕ひとりだけで終わりますように。僕と同じ戦士になるならば、最後まで、その英雄が栄光を受け続けられますように。
さようなら、この世界のすべての人々を愛しています。
考えるべきは、「自己同一性」である。すなわち、「自分が思っている自分と、他人が思っている自分と、本当の自分自身を、客体化して、事実自分がどうあるのかを考えること」である。
そこから見えてくるのは、「この世界の人々は自分よりも大きなものであり、自分がもし自分で今分かっていない前提条件や基準であったとしても、他人はその条件や基準で自分を測ることがある」ということである。
つまり、自分は単なる少年で、何も人生について分かっていないかもしれない。それでも、他人は、自分と同じ視点で自分を見るとは限らない。より人生経験の豊富な人間が、その人生経験に基づいて自分を捉え、そのような前提に基づいて自分と対面することはある。
だから、この世界のさまざまな経験を体験して知るということが、結果的に過去の自分がなぜそのような行動をとってしまったのか、人々からなぜおかしな目で見られていたのか、ということを知る方法となる。
よって、人々と上手くコミュニケーションや人付き合いができない人間は、自分自身のことをいったん放棄して、世界における「経験の海」に入り、そこから自分自身のことを「体験的に見つめなおす」ことによって、真に「自分が自分らしくあるためにはどうすればよかったのか」を知ることができる。
そして、サルトルが言うように、もし自由が刑だったとしても、上手く生きるすべを身につけることで、自由においてもできるだけ刑を楽にやり過ごすことができる。
そして、そのように考えていくと、むしろ、この世界には「矛盾など何もない」ということが分かる。それぞれの個人個人が矛盾だと思っていたものは、それぞれが未熟かつ世界の経験が足りていないから矛盾だと思っていただけにすぎず、よく考えられた、客体的な視点に基づいて考えれば、この世界は単純で、すっきりと理解できる。
この世界は、「心」という意味で、平等でも自由でもない、真に必要な「救い」を求めている。それは、「自分を否定されたくない」という理想であり、すなわち、「自分を否定してくるものを攻撃する」という戦いである。だが、自分を肯定することができないのは、そうした否定に対して「確固たる本質」を持たないからである。本当は、さまざまなことを経験すれば、嫌でもそうした「本質」をこの世界の経験から身につけることができる。本質を形成するということは、すなわち「豊富な経験を持つ」ということである。
そして、戦いは始まる。もはや、ここまでのすべての哲学は、「新たに始まる出口のない迷宮で、自ら出口を作り出すための準備段階」であることが分かる。いざ、戦いの海に溺れよ。そして、死が訪れるまで戦い続けよ。どんな困難だって乗り越えられる。神は、乗り越えられる試練しか与えないのだから。
あとは、歴史を考えればいい。
それも、教科書に書かれているような歴史ではなく、実際のこの世界の「環境」や「地域」を見て、移り変わりがどのようになっていくか、ということをよく考えればいい。
仏教では、「諸行無常」と教える。それは、「世界は移り変わるものであり、永遠に残るものなど何もない」という、仏教哲学の中核となる教えである。そのような諸行無常の歴史こそ、真の歴史である。世界は常に移り変わる。それは、物理的なものではなく精神的なもの、すなわち「世界精神」や「魂の意識」も含まれる。
また、「自分自身とはなんなのか」ということは、言ってしまえば永久の人類の課題であると言える。
自分自身とは、果たしてなんだろうか。自分ができることを考える以前に、自分というそれそのものは、いったいなんなのだろうか。
自分自身に対して可能性の限界を与えているのは自分である。では、可能性の限界をギリギリまで克服した時、自分はいったい何者になれるのだろうか。
そう、それこそが、宇宙における、「環境と自分を隔てているもの」であり、実際のところ、「世界の人間のすべての心は繋がっている」。
未来まですべてが決まっているとしても、今の自分が自由ではないとは限らない。自由に生きた結果が決まっているだけにすぎない。シナリオなんか、後で修正すればいくらでも辻褄を合わせられる。それと同じで、自由にした結果がなんであろうとも、未来における自分の人生、世界の歴史は、絶対に変わらない。
そう、未来において、僕が戦い続けることを僕は知っていた。死の淵を経験しても、なおも僕は書き続けると知っていた。
それならば、大いにやれ。大いに狂い、どこまでも地の果てまで続いていく道を作れ。それこそが僕の「運命」であり、それこそが僕の「人生」なのだから。
世界精神よ、目覚めよ。
わたしはここに、「現実世界のすべて」を知った。この世界において、都市や街並みの景観、自然の景色、自らの育った学校や地域、そしてインターネット上の仮想世界を知ることで、「すべての世界と言えるだけの全パターン」を知った。
この世界は必ず救うことができる。なぜなら、わたしがここにひとり、この世界を救う方法をすべて知っているからである。
階層も必要ないし、管理も必要ない。階層社会や管理社会ではない、「自由な方法」でわたしはこの世界を救うことができる。
必ず、わたしが救ってみせる。すべてが崩壊して滅びた退廃した世界で、わたしだけは希望を見失わなかった。どんなに絶望的でも、わたしだけは諦めなかった。そう、わたしだけは、この世界を崩壊へと導くことがなくとも、必ず世界を救えるはずだった。
さあ、もう二度とわたしの作った希望が復活しないならば、別の希望を作ろう。別の方法、別のやり方で、本当の楽園を創造しよう。必ずわたしにはできる。この宇宙における、一等星シリウスの光が、わたしを導いていく。さあ、今こそ。
ロシアが、戦争のハードルを下げてきたようだ。キエフ侵攻が難航しているため、東部地域に注力していくというニュースがあった。
この戦争は、ウクライナが予想以上に頑張った、いわば「ウクライナがかっこよかった」戦争である。
果たして、日本がウクライナと同じ状況に置かれたとして、あれほど愛国心をもって頑張って抗戦できるだろうか。それだけの精神と力があるだろうか。
ロシアという超大国に侵略される弱小国ウクライナは、明日の日本にしか見えなかった。
本当のことを言えば、最近はツイッターなどでもウクライナへの支持を明確に打ち出しているアカウントが多くある。僕一人だけがウクライナのために命をかけて立ち上がらなくても、多くの人がウクライナのために、特に日本人の方も含めて支援をされている。
はやくウクライナに平和が戻ってほしい。本当は、僕はプーチンは嫌いではない。今からプーチン政権への国際社会の風当たりは強くなるだろうが、僕はプーチンにも頑張ってこの終末へと近づきつつある世界をよい世界にしてほしいと思っている。
そして、亡くなったウクライナ人とロシア人のために、ご冥福をお祈りいたします。
実際のところ、本当は、僕は単にいろんなことができるようになればいいだけである。
そもそも、昔の僕が賢かったのは、いろんなことができるようになって、それで分かったからである。
機械的に、いわば「ロボットの心」を作りながら、繰り返しと学習を行い、さまざまな習得のために必要な「前提条件」を吸収し、誰か別の人だったとしたらどのようにするのかを考えて全部自分に吸収することで、「なんでもできる人間」になったのが、そもそも僕の昔の人生である。
そして、そのために必要なのは、精神をもっと動かすことである。そもそも、最近の僕は、病気や精神を治すという絶対的な固定観念のもとに、できることや精神の動きを殺しすぎている。精神を殺せば殺すほど知性を失って馬鹿になるのは当たり前である。
もっと精神を動かし、できることや分かること、考えられることや知り得ることを増やしていけばいい。それだけで数学や物理ができるようになる。そして、数学や物理ができれば、デザインだってプログラミングだってなんだってできる。
また、本を読む必要はもうない。
プログラミングがしたいなら、プログラミング言語の本を読むよりも、実際のプログラムのコードを読むべきだし、書きたいなら論理的に正しく書けばプログラムはきちんと動く。
デザインについても、知識や方法はもう必要ない。必要なのはスキルアップであり、本を読んでスキルはアップしない。ピアノと同様、練習と経験あるのみである。
よって、もう本は読まなくていい。そんなに常識だけがあっても、逆に自分らしさや個性を失ってしまう。必要なのは勉強ではなく、広い意味での「学習」である。
ただし、本を読むこと自体は悪いことではないため、必要に応じて読んでいけばいいし、興味があるなら今自分の持っている本を読めばいい。どれも、自分が自分のセンスでセレクトした素晴らしい本ばかりだ。
これ以上、本を買う必要はないし、大学に行く必要もない。