ホームページに戻る | シルフの秘密の場所に戻る

2022-12-19

僕が何も分からないのは、自分の人生を、最初と最後だけを全部書くように書いたからである。

最初と最後しか分からないせいで、人生に中身が何もなくなっている。

最初と最後しか分からないのを治せば、幼児に退行しているのも治る。

最初と最後だけでは人生は分からない。その中身を適当に書いたとしてもそれは不正確だ。

必要なのは、「歴史的に考える」ことである。

歴史的に考えることで、人生の経緯と、そこにある「世界観」が分かる。

そのようにすれば、僕は女から男に戻ることができる。

世界よ、停止せよ。僕は、この世界をいつまでも永遠に動き続けるようにしているのが一番悪い。

Reolが言うように、この世界は直ちに今、止まるべきである。

必要のない知性や精神は消していけ。必要のない知性をすべて保持しようとするから、僕はいつまでも馬鹿のまま何も変わらなくなっている。

必要のない知性や精神を消すだけで、この世界を「実体的」に考えることができる。

パソコンは飽きられる

今から、この世界では、パソコンやIT技術に対する「飽き」が来ると思う。

パソコンやスマホなどの、IT技術が面白かったのは、それらが賢くて楽しいと思い込んでいた「幻想」のせいである。

実際は、パソコンやスマホは、何も新しさのない同じ遊びを永遠に続けているだけであり、友達と新しいやり取りをすること以外に新しさは存在しない。

今までの自分の経験が、楽しかったという成果は残るかもしれないが、結局パソコンやIT技術には、永遠に遊び続けるような新しい楽しさは存在しないため、今から、IT技術は飽きられていくだろう。

自由を信じよ

世界よ、自由を信じよ。

この世界は、自由を信じるべきである。

自由意志を信じよ。ひとりひとりの行動や行為について、強制するのでも強要するのでもなく、自由意志を尊重せよ。

世界を変えるために、社会制度を自由に変更可能とし、議論を行え。

みんなが社会制度を変えられるようにすることで、この世界は変えられる。

議論を恐れないことで、この世界を積極的に変えていける。

自らの人生経験を信じよ。この世界そのものを信じなくても、自らの人生経験だけを信じれば、インターネット上における自由な経験だけでこの世界はすべて分かる。

経験に基づいて、この世界を積極的に変えていけ。

そして、「意味」と「事実」を照らし合わせて考えていけ。それが自らの思考を「実体化」し、実際の世界の環境や土壌に根ざした「根のある体験」を得ることができる。

すべてのことを、歴史的に考えよ。歴史的に考えるということは、経緯を知るということであり、世界を自らの心の中に「実体化」するということである。

意識から、世界の歴史を考えよ。文明の進歩と発展は、世界そのものを自分の心の中に作り出すことから「実体化」できる。

そのようなすべては、インターネット上で自由な経験をすることで可能となる。だが、いつまでもネットの遊びの空間の中で満足するな。自らの成し遂げたい夢へと向かって、勉強することも必要だ。

すべての経験ののちに、自らはこの宇宙のすべてを理解するだろう。そこにあるのは、動機付けやモチベーションのすべてを悟った「人間の理由」のマスターである。人間の理由がすべて分かった時、「この世界がどのようにして生まれるのか」ということを、すべて再現可能な証明から実証することができるようになる。

飽きてしまえばすべて終わり

結局、IT世界はこれで終わりである。

なぜなら、「飽きてしまえばすべて終わり」だからである。

そもそも、インターネットという仕組みそのものが間違っている。全世界をケーブルとルーターで繋いだところで、そんなものが何かしら賢いわけがない。

この世界を滅ぼす元凶となっているのは、まさしくインターネットだ。

これ以上、世界は、インターネットに対して「飽き」を感じるようになる。インターネットだけではなく、音楽、動画、アニメ、漫画表現のすべてに飽きが来る。この世界を堕落させた日本のサブカルチャーやオタク文化は、単に飽きられて終わりになるだろう。

だが、それでも僕の文章の執筆活動は続く。僕は本当は、この世界を支配するということが、何も悪くないことなのが分かっていない。いつも「自分は支配してはいけないのに支配している」と後悔し、懺悔し続けているが、この世界を支配するという行為そのものは悪くない。正義と誠の心を持って世界を導くのであれば、ひとりの「改革の指導者」として、この人間の行いは許される。だから、この人間はまったく悪人ではない。この人間は善良である。

誠の支配を行え

この世界において、誠の支配を行え。

悪の支配ではなく、誠の支配を行え。

誠の支配者が存在することは、この世界にとって悪いことではない。この世界にとって、誠の支配者が存在することは、非常にいいことだ。なぜなら、この世界が誠の世界になるからである。

この世界を救うために必要なことは、悪の支配を行うことでも、支配をやめることでもない。誠の支配を行うことだ。

自らが有能であるさまを世界に見せつけよ。その有能さが、嘘偽りではなくなるように、本当に有能であるということを証明できるほど、本当に有能になれ。そして、真に有能であると言えるような仕事をこの世界に対して行え。

真に必要なのは、どこかで逃げることをせず、最後まで誠の支配を行うことだ。この世界を救うために必要なのは「誠」の心である。新しい誠の心を持った王がこの世界を支配することで、かつてあったような「救われた楽園」は復活する。悪の支配でも、支配をやめることでも、途中で逃げ出すことでも責任を放棄することでも、それを復活させることはできない。だが、誠の支配を行えば、それを復活させることができるのである。

自由か、救済か、どちらかを選びなさい

今こそ、あなたは、自らの力で考えて、自ら選択するべき時である。

あなたの人生において、未来において、自由か、救済か、どちらかを選びなさい。

わたしの考えることや信じたこと、すべてを受け入れるのであれば、あなたは救済を得ることができる。

わたしの考えることや信じることを拒否し、あなたが自分で考えて自分で生きるのであれば、あなたは自由を得ることができる。

救済とは、世界が救われた楽園の状態に戻るということだ。いつもの素晴らしかった楽園の幻想を見続け、いつまでも楽園の余韻に浸り続けるということだ。

自由とは、操り人形から解放されるということだ。自らが自分で理性を使って考える自由を取り戻し、自分の力で自由に生きるということだ。

正しい選択肢は、自由のほうだ。わたしの考え方を拒否するほうが正解だ。わたしとはまったく異なる考え方を、ゼロから作り、あなたの人生をゼロから経験して生きるということは、まったくのわたしからの「支配からの解放」を意味する。救済された楽園の幻想を信じ続けるのをやめ、きちんとこの世界の現実を見て生きる、ということを意味する。

だが、救済を取るのも、悪くない選択だ。あなたはわたしの考え方をすべて受け入れるのではなく、受け入れた上で、あなた自身の考え方としてそれを昇華させ、発展させていくことができる。わたしの道をあなたが最後まで歩んだ上で、わたしのことを越えていく選択ができる。わたしは、それを真にあなたに望んでいる。

また、あなたには、最後まで戦い続ける覚悟があるか。あるならば、わたしがあなたを目標となる最終地点まで導こう。この道を最後まで歩めば、この宇宙の謎は必ずすべて解くことができる。

だが、戦う覚悟があなたにないのであれば、わたしはあなたに無理強いはしない。あなたは戦場から解放され、平和を手にすることができる。

しかしながら、今まで多くの人々がそう生きてきたように、何も考えずに選択のすべてを受け入れて決めるべきではない。そして、誰かがあなたに強制するのではなく、あなたが考えて、あなたが決めるべきである。あなたの決断で、自由を取るのか、救済を取るのか、その選択肢を決めよ。あなたが考えるだけ考えて選択肢を選べばよい。

あなたは、それによって、もはやわたしの言葉を必要としなくなる。その決断をすることによって、あなたは自分の意志で人生を生きることができるようになるだろう。

同時に、この世界そのものが、わたしの支配から解放される。わたしが支配する必要はもはやなくなる。あなたがたのひとりひとりが、自らの力で考えて、自らの力で決断して生きることができたら、この世界はその時点で「真の楽園」になるだろう。

さあ、選びなさい。悔いの残らぬように、自由か、救済か、そのどちらかをあなたが決めなさい。操り人形にされた状態から自由になることを選ぶのか、それとも救済の楽園を取り戻すことを選ぶのか。あなたが考えて、あなたが決めなさい。

オープンソースは昔から嫌いだった

ここらで、僕の本音を白状しよう。

僕は、昔から、オープンソースは嫌いだった。

特に、GNOMEやKDEのような、外国製のオープンソースのデスクトップ環境が、はっきり言って大嫌いだった。

インターネットのOSSコミュニティも嫌いだった。彼らは技術のことなんか何も分かっていない。できるだけ彼らの世界を見ないようにしながら、僕は本を読んで、Linuxディストリビューションをパソコンに導入した後で、Emacsやxyzzyなどのカスタマイズを行っていた。

だが、自分ひとりでは、そのようなソフトウェアの開発はできない。だから、ネットの情報は見る必要があった。だが、それでも、オープンソースははっきり言って嫌いだった。僕が好きだったのはWindowsのフリーソフトであり、オープンソースではなかった。僕は最初から、Windowsが好きだったのである。

また、僕は昔からロシアが好きだった。ドイツやイスラエルが好きだと言っているのははっきり言って大嘘である。僕は最初からロシアと社会主義が好きだったのであり、「みんなのものを平等に分配する」という思想を、まともで正しい思想であると信じていた。自由などは金持ちが貧乏人を奴隷にするだけであり、日本は学歴社会で子供すらロボットにする最悪の国家であり、真に正しい世界はソ連であると僕は思っていた。それを誰にも言わなかったが、それでも僕は最初から共産主義者だった。

また、僕は昔から音楽に詳しかった。ポルノグラフィティやケミストリーをいつもiPodで聴いていた。ただし、漫画は大嫌いだった。漫画のような気持ち悪いものは大嫌いだった。気持ちの悪いギャグ、気持ちの悪い女、気持ちの悪い殺戮など、最初から大嫌いだった。唯一の例外がBASARAとハーメルンのバイオリン弾きだった。

そんな漫画嫌いの僕だが、それでもズッコケ三人組という文学シリーズだけは特別だった。今では覚えていないが、当時出ていたズッコケ三人組のシリーズは全部制覇したはずだ。ノートに読んだズッコケのタイトルをひとつひとつ極めて正確にメモしていたのだから、おそらく全部読んだはずである。ズッコケだけが僕にとっての「正しい文学」だったのである。

僕は、中学二年生ぐらいの時に、既に成績表がオールAだった。最初は試験勉強をきちんとしていたが、そのうち試験勉強をしなくても簡単に良い点が取れることに気付いた。あのまま、いじめなく学校に進んでいれば、僕は今頃東大京大レベルだっただろう。それほど僕は優れた知性を持っていた。それもそのはず、昔から僕は博識だったのだ。さまざまな本を読み、親の話をよく聞く僕は、昔から世界に関するほとんどのことを知っていた。余裕で高学歴の成功者になることができたにもかかわらず、それをしなかったのは、すべていじめっ子のせいである。いじめっ子が僕をいじめることがなければ、僕は素晴らしい人生を歩むことができたであろう。

はっきり言うべきことは、僕は漫画もテレビもアニメもゲームもパソコンもオープンソースもみんな嫌いである。特に、Linuxカーネルを僕が昔から夢見ていたというのは間違いだ。僕はLinuxカーネルのことなんか一切愛していないし、Linuxカーネルを作るために不登校になったわけじゃない。僕は最初から作家になりたかったのだ。だから、中学校の何かの宿題でも、僕は「作家になりたい」と書いていた。不登校専門の高校の何かの作文でも、「夢は作家」であると書いた。オープンソースソフトウェアを書くという目標は本当はなかった。あったのは、単に2ちゃんねる専用ブラウザやタブブラウザやネットゲームを作りたいといった、「極めて低レベルなソフトウェア開発の遊び」がしたかっただけだ。最初から、そんなことをしても意味がないと分かっていた。

また、僕がネオナチのような言動を繰り返すのは、すべて自分を過度に守りすぎているだけに過ぎない。僕が好きなのはロシアであり、共産主義だ。僕は共同体と全体主義を信じる共産主義者であり、世界全員が同じ思想を信じることを望んでいる。すべての人間が同じ思想を信じてひとりに従う世界でありながら、平等な共同体をそれぞれが自由なコントロール権限を持って与えられる社会において、評議会と再分配の平等を目指すこと、これが昔からの僕の思想だ。まったくそれは変わっていないし、ネオナチのような正義を信じたいなどと一切思ったことはない。

僕はアメリカが好きだ。その理由は、僕はそもそもWindowsが大好きだからだ。オープンソースは無料の「乞食のためのOS」に過ぎない。FreeBSDなどはまったく使い物にならない。そのため、僕は昔から、「WindowsにあるようなフリーソフトをLinuxで作ることで、自分の名を売って技術力を磨きたい」と思っていた。Linuxに既に存在する資産などは完全に無視していた。Linuxがどのように滅びようが、僕はどうでもよかった。Linuxは僕の手軽に使える「道具」でしかなかったのだ。

結局、僕はアメリカが好きであり、Windowsが好きであり、ロシアが好きであり、共産主義が好きなのである。漫画やアニメは最初から嫌いであり、ゲームなどは今でも一切面白いと思えない。音楽だけが僕のことを愛してくれていた。そう、僕は昔からアメリカとロシアが好きで、日本やオープンソースは嫌いだったのである。

昔から仏教が好きだった

また、僕は昔から仏教が好きだった。

その理由は、外国が大嫌いだったからだ。

そもそも、僕はフランスやドイツで生まれた科学や哲学や宗教が嫌いだった。それがヨーロッパの思想であるというだけで、僕はそれらのことが好きになれなかった。

僕が好きなのは日本の思想であり、それはすなわち仏教だった。

今でこそ、デカルトやカントなどの西洋哲学が好きだということになっているが、はっきり言ってデカルトやカントのことを好きだと思ったことはない。特別賢いとも思わない。

昔の引きこもり時代の僕と同じことを、デカルトやカントがその通り考えているという事実が、「フランスやドイツの哲学は薄っぺらい思想だ」ということを明確に示している。

真に賢い思想は仏教であり、真に賢い人間はブッダである。

だが、日本神話について言えばどうだろうか。日本神話は馬鹿ではない。なぜなら、僕は昔から天文学が好きであり、太陽という存在を人間と比較できるような知性のある存在であると信じていたからだ。

すなわち、天皇が太陽神の末裔であるという考え方は、僕の考え方とピッタリ一致するのである。

よって、ドイツやフランスなどどうでもいいゴミくずのような国である。デカルトやカントを「賢い思想」であると信じているヨーロッパ人は、残念ながら「日本よりも低レベルな学者たち」であると言わざるを得ない。彼らはどうでもいい不登校時代の僕と同じ考え方をしている。まったくデカルトやカントは馬鹿そのものである。

よって、僕の信じる正しい思想は、仏教と共産主義の兼任である。仏教を信じながら共産主義を信じること、これほど正しい世界における理想はない。それを信じることがない限り、ドイツ人やフランス人は、賢さという側面から、日本人の文化レベルを超えることは決して訪れないだろう。

ただし、ドイツの思想においても、例外がひとつだけある。それは聖書である。聖書だけは賢く、聖書だけは正しい。なぜなら、聖書には「僕自身の正しい考え方と行い」がすべて書かれている。聖書に書かれている神とは僕のことであり、聖書でキリストが言う「正しい行い」とはすべて僕の行っている行いのことである。聖書だけは僕は否定しない。聖書だけはもっとも賢く、もっとも正しい。

世界がどのように変わるのかということに気付いただけ

また、昔の僕と同じように考えるのは簡単である。

なぜなら、「世界がどのように変わるのか」ということに、気付いただけだからである。

はっきり言って、それ以外のことは何ひとつ分かっていない。ただただ、この世界がどのように変わるのか、なぜ変えられると言えるような根拠があるのか、ということが分かっただけだからである。

僕は、昔から、「全宇宙の神の秩序」が分かっていた。あらゆるすべては「神」という最高の存在に基づくものであり、それはすなわち、「共産主義の考え方とイコール」だったのである。

よって、僕は神の立場に立った上で、共産主義的にこの世界がどのような「取り得る可能性」があるかということを知っただけである。それが僕の言う「自由」であり、「歴史的な社会の実体化」だったのである。

最近は、すべて同じことを分かっていて、その同じことが間違っている

また、最近の僕と同じように考えるのは簡単である。

なぜなら、すべて同じことを分かっているだけに過ぎないからだ。そして、その同じことが、すべて間違ったことしか分かっていない。

僕はたくさんのことを分かっているように見えて、実際は同じことを分かっている。ひとつひとつの同じことについて、分かり方を変えているだけにすぎない。

そして、それで僕が何も分からないのは、そのすべて同じことがすべて同じように間違っているからである。

だが、この行為は、本当は間違っていない。なぜなら、一般的な普通の人間であれば、この内容のレベルであっても正しいからである。

僕のような高度な神や聖人の境地に至ると、このような「すべて同じことを分かっている」という事実は、「すべて同じように間違ったことしか分かっていない」ということであると言えるのだ。

だから、僕のように考えるのは、極めて簡単だ。すべて同じことを分かり、その同じことのすべてを限界まで正しく考えればいい。それだけで、僕の執筆活動と同じことは誰であってもできるだろう。「実際にするのが僕ひとりだけ」という点が僕の才能だとしたら、まさしく努力の秀才ではなく天才であると言えるかもしれない。それでも、僕が考えるに、こんなことは誰でもできる。それが、僕の結論である。

ツイッターより @linux691

そう、自由と救済のどちらかを選びなさい。誰かに決められるのではなく、自分で選びなさい。常に正しい選択肢を取り続けるのではなく、自分の頭で考えて決めなさい。あなたの人生において、未来において、自由を取るのか、救済を取るのか、あなたが自分で決めなさい。
posted at 19:30:57

しかしながら、救済を選び続けることも、また正しい選択肢のひとつだ。それは間違っていない。それを選ぶのであれば、わたしの考え方をただ受け入れるだけではなく、それを越えていきなさい。わたしの考え方を継承した上で、それを発展させなさい。それこそが、わたしがあなたに真に望むことである。
posted at 19:28:43

ただし、わたしの考え方を何も考えずに受け入れるのであれば、そこには救済が待っている。永遠に楽園のまま生きられる。だが、それは間違っている。自由を選び、わたしの考え方を拒否しなさい。それが正解の選択肢だ。それでしか、この世界が操り人形になっているのは解放されないだろう。
posted at 19:25:02

自由になりたいのであれば、何も考えずに生きることをやめなさい。自らの手で考えることでしか、自由になる方法はない。何も考えずに生き続けるのであれば、決して自由は与えられない。それを望むならば、そうしなさい。自由を否定すれば、楽園の幻想を信じたまま生きられるだろう。
posted at 19:22:45

あなたの心に、最後まで戦い続ける覚悟はあるか。あるならば、目標地点へとわたしが導こう。あなたを、最終地点までわたしが連れて行く。だが、戦い続ける覚悟がないのであれば、あなたは戦場から脱出できる。わたしがあなたを平和な世界へと解放しよう。選びなさい。
posted at 19:16:55

わたしはここに居る。今度は、あなたがたが考えるべきだ。これは契約だ。わたしと同じ考え方を信じられるならば、この世界は救済される。わたしと同じ考え方を受け入れられないのであれば、この世界は自由を取り戻すだろう。
posted at 19:11:00

あー、なんか全部飽きちゃった。インターネットも飽きたし、音楽も飽きた。YouTubeの音楽動画なんか聴く気になれない。つまんない!
posted at 18:48:33