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2022-04-04

この世界で、楽園は必ず作ることができる。

必ずしも、互いに理解し合う必要はない。なぜなら、自分のことが誰にとっても理解できるような人間は、自らの多様で豊富な人生経験をすべて他人の視点から理解できるように説明しなければならない。だが、そのようなことは不可能だ。

そうではなく、現実に存在する多くの人を理解し、友として絆を培うことで、多くの人間のことを自分が理解できるように吸収すれば、この世界において多くの問題を解決し、楽園の創造へと向かうことができる。

だが、ひとりによって支配される、それぞれの国民がある程度の自由な権利を平等に許された、何もできない管理社会は必要ない。そのような社会では、何も知ることはできない。

それぞれが支配し合い、支配されながらにして支配するような、それぞれが自由に支配する社会のほうが、まだ管理社会よりはマシである。

自由な社会において、社会を経験するために必要な考え方は、限界のもっとも高みに生きることである。社会のそれぞれの構成員に自由を与えたとしたらどのように考えるか、しがらみや制限すべてを取っ払った時、どのような「矛盾のない理想郷の実現意志」を考えられるか、これこそ、「自由化の最高限界」である。そして、影響力の高みに立って、すべてのことを「代替可能性すべてを包括することができるようにその発想を留保する」ことで、すべての制度は自らによって実現され得る「メタ社会」となる。

理想郷を作り出すためには、正しい考え方をする必要がある。すなわち、「自由とは与えられるものではなく、自ら社会的アイデンティティとして実現するものである」と考えれば、この世界のすべては「理性によって変えられる」。社会のすべてを誰かのせいにするのではなく、自らが主体的に「変化の作用を与える」ようなものであると考えよ。そうすれば、どのような社会を築くことで、正しくこの世界の問題を解決できるかが見えてくる。

3つの国家モデル

僕が考えるに、国家には3つのモデルがある。

まず、それぞれが王となる社会だ。それぞれが自由に支配者となり、契約によって労働をし、それぞれが自由に人生を生きられる。

次に、ひとりによって支配される社会だ。それぞれの国家をひとりの王が支配する。

最後に、平等な社会だ。すべての人間が平等となり、格差や身分は存在しない。

だが、結局、これらの3つのモデルは、むしろ平等のほうがレベルが低い。なぜなら、ひとりが賢くなるということが、超人的に誰よりも高く、ほかが比較にならないほどはるかに賢くなるような、そのような指導者が生まれるからである。

その指導者は全知全能で、ひとりだけで宇宙の歴史と真実のすべてを知っている。

そう、その最後のモデルを「神の王国」としよう。結果、その神の王国では、宇宙すべての歴史を知っているために、「成熟した最高の社会」が気付かれる。それは「禁止のない社会」である。何かが誰かのためにならないからといって、それを禁止するのではなく、自らの行動や失敗から反省して、自ら気付くことで正しい考え方と豊かな経験を身につけるような、「自分の行動から体験的に学ぶ教育」が行われるようになる。

狂いの原因は無意識にある

また、フロイトが言うように、狂いの原因は無意識にある。

無意識は、自分の人格を決める「裏の人格」であり、今までの抑圧が集積していく「ゴミ捨て場」である。

裏の人格とゴミ捨て場がなんであるかを考えることは、哲学をする上で有益である。「自分が本当はどんな人間なのか」を、すべて知っている人間は少ない。本当に自分の考え方を考えるためには、裏の人格である無意識を考えなければならない。

狂いの原因は、無意識にある。これは「惰性学習」と言うべきものであり、惰性で自分が日々の生活の中で学習した、「自らが今、何をしているかということを、意識することなく行っていること」である。

壊れた過去の記憶や、狂った精神の因果性を考えても、狂いは治らない。間違った楔を取り除くことが、逆に狂いを悪化させることもある。狂いを治すためには無意識を考えることだ。無意識のうちにすべての記憶と知性を抹消させようとしている人は、間違った記憶や知性であっても構築されたまま残しておいたほうが人生が楽になることに気付かない。