今日は、デザインの作業所で雑務をして、ピアノに行ってきた。
木星は長い間弾いてきたので、もういいだろうということで、松任谷由実の「春よ来い」を弾いた。
それで思ったのは、自分は子供の頃の癖で、何も音符の音を確かめずに、分からないまま弾いて間違えることが多い。
きちんと分かって弾けば分かるのに、子供の頃適当に弾いていたせいで、間違った音を何も考えずに弾いて間違える。
それで、それを考えながら、家でもこの曲を練習した。
それで分かったのは、家で弾く時は、なぜか何も考えなくても、分かりきった音を自分だけで弾くせいで、間違えずに弾くことができたりする。
要するに、昔の子供時代、家で家庭教師のピアノの先生に習っていた頃は、このような子供時代の悪い癖のままでも、間違えずに弾けていた。
これはある種の「家という環境」と「ピアノ教室という環境」の間にあるものだということが分かった。
そして、この「春よ来い」という曲はとても良い曲で、もっと練習して弾きたいと思ったので、家でも練習することにする。
ピアノ教室では、音をきちんと確かめて弾くために「読む」ということの練習になる。そして、家では、読んだ音に基づいて「覚える」ということの練習になる。
そして、ピアノ教室で培った「読む技術」のおかげで、家でも楽に読みながら「覚えて磨き上げる」ことができる。
これはとても楽しいので、もっとピアノを弾いていくことにする。
実際のところ、僕がおかしいのは、すべて、受動反応と自動思考のせいである。
そもそも、世界を心理的に支配するということをしようとすると、受動感情を完全にコントロールし、世界に対してずる賢く狡猾に心理的戦いをしなければいけなくなる。
これはまったく間違っていて、いくら受動反応で世界を変えたところで、それは誰からも受け入れられない「最悪のテロ行為」にしか見えない。
結局、受動反応と自動思考を殺せばいい。それが、この世界を正常かつ幸福にする唯一の方法である。
今日は、先ほどのピアノを全部で四回ほど練習して、母親をモデルに絵を描いた。
母親は、「感じがよく出ている」と言っていた。
絵は、お手本を元に模写するのもいいが、このように何も考えずにたまに適当に描くのも悪くない。
もっとピアノを弾く時間と、絵を描く時間を作りたい。僕にはほかに何も残っていない。