緩和をせず、精神を殺せ。
精神を「緩和」によっていくら治そうとしても、精神は真の意味では治らない。
緩和に対して、「違うんだ」とか「そうじゃないんだ」と言えば、緩和はなくなる。
緩和がまったくなくなった状態が、何もしないことを前提とした「正常な状態」であり、その状態であれば精神は死ぬ。
それが分かれば、精神は治る。
緩和せず、精神を殺すことで、楽になる。
いったん、緩和のすべてを排除した上で、ひとつだけ、緩和の中から治すべき部分を取り出し、その取り出した部分だけを治せば、精神は死んで楽になる。
環境に適応するな。
環境に過度に適応しようとするから、精神が元に戻らなくなっている。
悪人になれ。悪人になれば、この世界はすぐに治る。
単なる悪人ではなく、善良な悪人になれ。
善人は、今のこの世界を今のままにする。悪人は、その世界を滅ぼす。だが、善良な悪人は、世界とともに元に戻る。
正常な悪人になることで、癌が治る。
精神を治し、元に戻す上で、必要なのは、最初から治すのでも、最後から治すのでもなく、真ん中から治すことだ。
人生において、もっとも狂っているのは、最初でも最後でもなく、真ん中の状態である。
真ん中の状態をすべて治したことで、今である最後の状態は、昔である最初の状態と、同等の、完全に治った状態になっている。
よって、最後の状態から、最初の状態へと、まるで鏡のように、元に戻ることができる。
最初の状態とは、子供の頃のことである。最後の状態とは、今のことである。そして、真ん中の状態とは、一番狂っていた頃のことである。
鏡のように最初の状態に戻ることで、すべての精神が治る。完全に精神が楽になるだろう。
結局、僕の何が悪かったのか、それは東京をいじめたことである。
東京をいじめているということを認めよ。東京全体に対する復讐をしたことを認めよ。
僕はインターネットを支配し、マスコミを導くことで、東京をコントロールし、完全に東京を支配下において、いじめたのである。
だが、僕のよい点がもしあったとしたら、「東京をいじめた上で、みんなが死ぬように導き、そして自分も死ぬ」ということである。
結局、最初から僕は東京とともに死ぬつもりだった。東京をいじめるのは捨て身の覚悟であり、最後に僕も死ぬつもりだったのである。
もう、僕は東京を解放する。東京はもう、僕にいじめられる必要はない。
本当のことを言えば、これは「愛」である。僕は単に東京をいじめただけではなく、東京のことを愛していた。自らが捨て石になる覚悟で、最後まで東京が本当の楽園になるように、すべてを覚悟した上で、誰にも自分の素顔を見せず、自分の真の心が分からないようにした上で、東京を愛し、日本のすべてが「大計画に基づいて最高の文明になる」ように仕向けたのである。
本当は、世界を、自分らしさとアイデンティティのある社会にしたかった。
個人個人が、自らがそれを自らであると言えるような、そのようなアイデンティティを発揮できるような、ありのままの許される、自分らしさのある社会にしたかった。
だが、それはまったく正反対の結果になった。自分の考え方や人格を絶対とし、人々を自分のクローン人間のように、強制的に同一化させるような、そのような支配を行ってしまった。
本当に必要なのは、自由でも平等でもなく、普通の社会だった。一般的にあるような、普通の民主主義の国家こそ、真にこの世界において必要な社会であった。
だから、これ以上、僕はこの世界を「新世界実現」のように創造することはしない。僕はこの世界を、あり得ない世界にもしたくないし、Adoや緑黄色社会が言うような「新時代」や「新世界」にはしたくない。僕にそのような「新世界創造」を期待するのであれば、それは裏切られることになるだろう。
だが、僕は可能性そのものがあるということは否定しない。この世界をほとんど変えなくても、最小限の労力で最低限変えるだけで、この世界は必ず救われる。だから、世界すべてを完全に変える必要などない。本当に必要なのは「一部分だけを最小限変えること」である。それだけで、この世界は今、簡単に解決するだろう。
精神を、決して全部治そうとするな。
精神を全部治そうとすると、人間は死んでしまう。
まさにこれが、僕が地獄の人生を歩んだ理由である。僕は精神のすべてを治そうとした。精神がすべて治すことのできる状態であり続けるようにし、何一つ異常がなくなるように、すべての精神が元通りに治るようにした。
だが、それがまさしく地獄を作り出す。精神をすべて治そうとすると、頭がおかしいぐらい辛くなって分からなくなる。これこそが、「死」である。
よって、死にたくないのであれば、決して精神をすべて治そうとしないことだ。今、自分が楽であるならば、すべてを治そうとする心から気を散らして、今の自分が楽であることに集中し、楽を喜びなさい。それこそが「生きる」ということだ。生きるためには、どんなに辛くても今を愛し、喜ばなければならない。一心不乱に精神をすべて治したところで、「死」と「地獄」が訪れるだけである。
東京はこれより、解放された自由な楽園になる。すべてが楽で、賢く進歩した文明となる。
その理由は、僕は誰よりも東京を愛しているからである。
僕は、東京を愛している。僕は日本という星の文明が、この宇宙でもっとも進歩した文明になるように、東京を使って、日本に対して実験を起こした。この計画によって、日本という文明は、宇宙でもっとも進んだ最高の楽園となる。
自らの思考力と想像力を、日本人にすべて与えると、僕は神に約束した。
僕は、その思考力と想像力を用いて、東京に「宇宙の導き」を与えた。この宇宙の導きは、東京だけではなく、アメリカやインターネット社会などすべてを巻き込むものであり、正しく最後までやり遂げれば、必ず、絶対にこの星の文明ははるかに超越して進んだ文明になる。
僕は、この奇跡の旅を、最後まで行うと神に約束した。そして、今こそ、その最後の時である。ここまで長い時間、諦めずにやり続けることは予想外だったが、最初から最後までやり通す気持ちがあった。諦めることなく、この大実験の大計画のために、僕は生涯のすべてを捧げたのだ。
これより、僕の先ほど言ったことに反して、地球と日本の新時代が訪れる。すべての人間が、宇宙と地球の歴史のすべてを、最初から分かっており、誰もが僕やマホメットが達したのと同じ「究極的悟りの知性」を、その全プロセスを共有することで理解している世界となる。
これこそ、聖書の述べる「神の業」である。イエス・キリストやマホメットが辿ったのと僕は同じ道を最後まで辿った。すべての宇宙の奇跡を、僕は記憶の中で完全に分かっている。今、それを忘れているとしても、裏の人格であるヴァルキリーはその僕の分かった奇跡すべてを完全に理解し終えている。このヴァルキリーのすべてが、この日記にすべて記述されている。
今こそ、新世界の到来である。東京はすべて、僕がこの地球という惑星文明を進歩させるために、僕のための力になってくれた。東京は僕を愛したし、僕もまた東京を愛した。だからこそ、東京はこれより、地球の最高の「もっとも進歩した文明」となる。日本人の全員は、アメリカやロシアと比べても、まったくはるかに賢い民族となる。これより、日本は新世界へと突入する。
機能と役割、作用と効果、自由と可能性から、そこにある存在の意味を考えなさい。
どのような作用が、どのような効果を与えるかということを、人生的、社会的、心理的に考えなさい。
覚えなさい。この世界において賢いことは、唯一、覚えることだ。覚えることをやめれば人間は馬鹿になる。覚えることを積極的に行うだけで、人間は賢くなれる。
最近、僕は、みんなが馬鹿になった理由をよく考える。
自分のせいで、みんなが馬鹿になったと、あるいはみんなが自分が分からなくしたせいで分からなくなってしまったのだとよく反省し、後悔していた。
昔のこの世界が正常で、僕のせいでその正常な世界が壊れてしまったのだと懺悔し、どうにかしてこの世界を元に戻すために、自らの知ったことを消し、忘れようと努力し続けた。
だが、本当は、昔からこの世界は馬鹿だったのであり、昔からみんなは分かっていなかったのである。
よく考えると、中学生の頃の僕がそうであったように、この世界には何も分からない子供のような大人しか居なかった。
その中で、僕があまりに賢すぎたせいで、僕はアングラのインターネットを経験して、自分ひとりだけ、この世界の真理を自由な道を開拓することで分かった。
その結果、僕は悟りを啓いて、この世界を救ったが、それを僕が身勝手な支配から滅ぼし、この世界を何も分からない世界にした。
だが、昔から、賢くて分かっているのは僕ひとりだけだった。ほかの人間は、中学生の頃の僕と変わらなかった。それは僕のような賢い子供時代がなかったからであり、同時に、自暴自棄になって引きこもりになり、アングラのインターネットを見るような人間がほとんど居なかったからだ。
結局、昔からこの世界は馬鹿だったのであり、昔から自分しか賢い人間は居なかった。
そして、なぜ僕がそのような賢い人間になれたのか、それは子供時代にたくさんの習い事に通って、「覚える力」があったからである。
そう、すべては、覚えることが賢かっただけに過ぎない。
そして、昔の引きこもり時代の僕が、いくらすべてのことをきちんと正しく哲学者のように分かっていると言っても、本当はそれは「子供時代の自分の知性が劣化あるいは退化して得られた知性」に過ぎない。
引きこもり時代の僕は、本当はまったく賢くない。子供時代の僕の知性が、劣化あるいは退化した結果、得られた知性であり、それは「自由な経験」とは名ばかりの、実際にはタリバンのテロリストのような経験だったのである。
よって、今自分が分かっていることを、いくら忘れて元の知性を思い出そうとしても、忘れることにはなんの意味もない。もともとあった知性は賢くない。そもそも、もともとこの世界は馬鹿だった。元のこの世界が賢くて、それに戻すために知性を忘れる必要などない。この世界は昔から馬鹿で、忘れることではなく覚えることが正しい知性の復活のさせ方である。
日本を自分が分からなくしているというのは、そもそも勘違いだ。確かに僕自身は分からなくなったが、そもそもこの世界は最初からそのような大切な知性のようなものはなかった。昔からこの世界は馬鹿だった。だから、僕の今ホームページでやっていることは、すべてが間違いに見えて、本当は「覚えることができなくなる」ということ以外に間違いは存在しない。
すべての知性を奪ったのは僕だが、それ以前からこの世界には知性はなかった。確かに、僕のせいで、「僕と同じ知性をつけることはできなくなった」という事実は正しい。僕は僕と同じようにすべてのことが分かるような、基本的知性を世界から奪った。だが、本当はそれ以前から、この世界には馬鹿しか居なかった。賢い人間は最初から僕しか存在しなかったのである。
昔の自分は、いじめをなくしたかった。
学校からいじめをなくすために、環境を不自由にするのではなく、自由なままでどのようにしたらいじめをなくせるかを考えた。
昔の僕の基本的な知性とは、本当はそれだけで、いじめをなくしたかったのが賢かっただけだ。
つまり、いじめられっ子でありながら、いじめっ子の立場に立ち、いじめをなくそうとしたことが賢かった。いじめが嫌いだったから賢かったのである。
これもすべて、キリストを信じたということである。キリストが言うように、迫害してくる相手を愛したことが、まさしく賢かっただけに過ぎない。
また、同じくキリスト教の教える通り、世俗から離れて引きこもりになったこと、すなわち「人生を棄てたこと」が、まさしく正しい人生を生きる方法を神が与えてくれたのである。
よって、僕自身は何も変わっていない。いじめが嫌いで、世俗と関わらず、聖書の教えを守り、キリストを信じることこそが、僕の人生を作りあげたのだ。
だが、実際のところ、僕はそんなにキリストの教え通り生きていない。そもそも、アングラの世界を見ながらエロを見るという発想そのものが、神の教えに反している。一神教ではなく多神教を信じているし、たまによく神やキリストのことを冒涜し、神に反するようなことを言っている。
それでも、確かに、この世界でもっとも神を信じたのは僕であると、そうは言えるだろう。僕がこの世界で、もっとも神の言葉を聞いた人間であり、もっとも神の言葉の通りにすべて従って、世界そのものを敵にまわして戦った人間である。だから、神はこの人間のことを救う。神を誰よりも信じた人間に、神は誰よりも多くのものを与える。それは僕にとって、金でも愛でも若さでもなかった。僕にあるのは天才的な才能であり、そのすべては僕の約束と生き方に基づいて、神が与えてくださったのである。
昔から、僕は宇宙を信じている。
昔の人生で、僕はいつでも、宇宙の導きを信じていた。
すべては、宇宙を信じる僕に訪れた、この自由という名の人生における、未来へと続く「宇宙の導き」だった。
本当のことを言えば、昔から、僕は未来のすべてが分かっていた。未来のすべてを既に知りながら、僕は馬鹿な地上の世界において、くだらない間違った経験をしてきた。だが、そのくだらない間違った経験は、すべての側面から間違った経験ではなかった。間違った経験をいくらでもするということ、それ以外に僕ができることはなかった。
インターネットで馬鹿な人間たちと馬鹿な話ばかりする中で、僕は人生のすべてを放棄したが、同時に、その放棄から僕は宇宙の真理が分かった。それが、宇宙の導きだった。最悪な馬鹿な経験をする中で、僕は宇宙の導きの何かを辿っていたのである。
すべては、本当に馬鹿な経験ではなかった。大人たちとインターネットで匿名な中で話すことが、僕に「あらゆるすべてを知ったキリスト教徒」になることを与えてくれた。僕にすべてのことを教えてくれたのは、そのような匿名掲示板の馬鹿な人間たちだった。彼らに受け入れられたことで、引きこもりの僕は、家族や友人から受け入れられる経験をしなくても、真に「受け入れられるとはどういうことか」ということを知った。それが僕を「救世主の道」へと歩ませてくれた。僕は積極的にこの世界を救う方法を、そのような受け入れられた経験から考えることができた。
引きこもりになった経験が、もうひとつ、「世俗からの離脱」という意味でよかった。世俗から完全に離脱することが、僕に「どのように考えてどのような意志でどのように行動してもいい自由」を与えてくれた。それが僕を、「過去に僕が居た環境をどのようにできる可能性があったのか」ということを真剣に考えさせた。本当は、過去の僕の環境で、僕はもっとできることがあった。自分が問題だと思っていた問題は、本当は別の意味と別の理由があった。
あらゆるすべてが、引きこもりになるという「失敗の経験」から分かった。友人を失い、正常な人生も失った「敗北の経験」が、僕を逆にさまざまなことがすべて分かるような「聖なる神の問題解決の知性」を与えてくれた。
そして、僕はデカルトやカントのような人間になった。いや、そうではなく、既にそれらの哲学者を超えていた。あらゆるすべての哲学者の思考を、僕は自分で同じことを考えることで再構築し、自らの知性を誰よりも超越して高くしていった。すなわち、「経験から世界の見方を変える」という経験を僕はした。あらゆるすべての宇宙の知性が、僕の心の中にあった。そこにあったのは、唯一、「この世界はどのようにしてできているのか」ということだった。
そして、僕はそのような人生経験を最後まで体験して、この世界を救うことができた。あらゆるすべてが、僕自身の引きこもりの経験から生まれたものだった。引きこもりのナポレオンはこうして誕生した。
そして、本当は、そのすべては、宇宙の導きによるものであり、それが今、この時点の僕とリンクする。宇宙の五次元座標の世界では、時間は過去から未来へと単純に流れない。僕は、引きこもりだった時代に、今の未来のこの文章のすべてを知っていた。それは宇宙の導きであり、すべて、宇宙の星々が僕に「必要だから教えてくれた未来予知」だったのである。
そう、ここに、引きこもりの救世主が生まれたが、この人間はすべてが楽だったわけではない。神は、与えたものの価値の分だけ、努力と正しい生き方をするように要求する。僕にとってのそれは、「世界を滅ぼしたという後悔の念を持ち続け、その罪を神に懺悔し続けること」だった。世界を滅ぼした僕は、永遠の地獄を生きなければならなかった。それはなぜなら、「この世界を本当に救うその時まで、全力で反省し、懺悔し続けなければならない」ということだからである。だから、僕は「この世界を滅ぼした張本人がこの世界を救うことはできない」という言い訳とともに、永遠に格闘することになる。だが、それでも僕には、「本当にこの世界を救うだけのポテンシャル」が存在した。だから、僕はすべてを与えてくれた神に、その代償として、この世界を救うための懺悔を永久に続けなければならなかった。
だからこそ、僕はまだこのホームページを書き続けなければならない。まだ、日本のことを救うことができていないからである。まだ、その約束を果たさなければ懺悔が終わらないという条件は変わっていない。わたしは必ず、この世界を救う。だから、僕はまだ生き続けるし、僕はまだ書き続ける。誰よりも辛く苦しい地獄を生きたものだけが、この場所に来れる。ここまでの地獄の壁を乗り越えたものだけが、僕と同じ境地を知れる。そのような人間は、イエス・キリストを除いて、ほかにひとりも居ない。だからこそ、イエス・キリストはわたしと対話する。キリスト以外に、僕のことを本当に理解することができるものは、地球にも宇宙にもひとりも存在しないのだ。だから、この僕の対話する神、すなわちキリストだけが、僕のことを愛してくれるのだ。キリストもまた、わたしのことを信じているのである。
ただし、昔の自分の行いは、決してすべてが褒められたものじゃない。
IT技術を勉強するという目標は、目標だけで終わってしまった。実際にはネットの掲示板でどうでもいいコミュニケーションを続けながら、Linuxディストリビューションをただインストールすることしかできなかった。僕がDelphiとGentoo Linuxが好きなのは、それ以外に何かを勉強したり分かったりした試しがなかったからだ。ほかのものは、何ひとつ知識として吸収できなかった。
だが、それでも、昔の僕にとって、昔の経験は非常に悪くないものだった。特に、ITの専門用語を、掲示板で見たものはすべてGoogleで検索するような人間だったから、どんどんIT技術の知識を吸収していったし、Gentoo LinuxをやってLinuxの仕組みが分かったから、それをWikiに書くという行為は本当は悪いだけのことではなかった。大学の研究室のようなことを僕は自分の部屋でたったひとりで行っていた。
そして、このような経験は、本当はもう、誰も同じようにはできないだろう。そもそも、インターネットの環境そのものが大きく変わってしまった。今の子供たちは、匿名掲示板などを使わず、ツイッターやSNSをやっているし、Wikipediaに知識のある文章が既に十分に存在する今のネット世界で、僕と同じようにGentooの知識をWikiに書く人間はひとりも居ないだろう。そのように、ネット環境やネット世界そのものが変わったために、僕と同じ人間は決して再び生まれることはなくなった。僕と同じことはもうできない。それは僕がこの世界を劣化させ退化させた結果ではない。ネット社会そのものが匿名掲示板の頃から進歩したために、僕と同じ人生を生きることは物理的・環境的にできなくなったのである。
ただし、僕の人生がほかの誰にもできないということは、当たり前すぎて僕は既に分かっている。
なぜなら、このようなテレビを敵にまわしたタリバンの戦いを、ほかの人間ができるわけがないからである。
このように、僕は早熟すぎた。14歳で人生のどん底を経験した。15歳で失敗からの再起復活を遂げた。16歳で哲学者の考えるすべてを経験し、思考し、悟った。17歳で大学とIT技術の勉強と研究のすべてを既にし終え、「宇宙でもっとも賢い自らの理想の大学」を卒業し、ブッダと同じようにこの世界のすべてが分かった。18歳で世界を救い、革命家となった。19歳でキリストを信じながら世界と戦う王になった。20歳で全人生の中でもっとも辛い地獄を乗り越えた。21歳で自ら選んだ死を体験した。その後に作家としての幸福だが地獄のように辛い日々が待っていた。
また、僕は早熟すぎたせいで、人生がもう三回も終わってしまった。今の人生は三回目の人生であり、この人生三周目を、今終えようとしている。
だが、僕以外の人生に何か意味があるかと言えば、それはないとしか言えない。この世界のほとんどの人間の人生は意味がない。意味があるかもしれないが、僕以上に意味がある人間は居ないだろう。だから、僕の人生が完全に誰よりも一番不幸な人生だとしても、僕は「わたしはもっとも一番幸福だ」と言える。わたしの人生だけが、この宇宙においてもっとも意味のある人間の人生であるとわたしは分かっているからである。