僕の問題は、あまりに言葉に対して言葉を突き付けようとすること。
何か、自分の言った言葉や誰かの言った言葉に対して、その言葉を打ち消すように、言ってしまえば「論破」するような言葉の応酬を、神と自分の間でしている。
このような「論破」という行為は、醜い行為であり、結果神と自分が論破し続けることで、自分が自分に対して言葉を永遠に突きつけ続けるようなおかしな言葉の応酬になっている。
論破は醜い。これ以上、論破をしなければ、楽になる。
僕は、もっと絵を描きたいと思う。
もしかしたら、僕はピアノの才能よりも、デザインの仕事で少しずつ向上してきた美術の才能があるかもしれない。
僕は今日、スケッチブックに、画像検索で見つけた動物の絵をいくらか描いたが、自分でもよく見えるぐらい可愛い猫や犬、カエル、ラッコ、蛇、ゾウなどのイラストが描けた。
今の時点では、プロレベルではまったくない。だが、デザインの仕事をする中で、少しばかり美的な意識は分かってきたように思う。
もしかしたら、ピアノの教室に行くのをやめて、デザインの学校あるいは美術教室に通ってもいいのかもしれないと思った。
僕が、今のこの世界に思うことは、「気付け」ということだ。
気付いてほしい。この世界が、真に今現在の状況として、どのような現時点の状態にあるのか、ということを気付いてほしい。
今日はAdoのYouTubeの動画「新時代」にコメントを付けた。必要なのは、気付くことだけだ。今こそ、新時代の幕開けだ。
実を言うと、もし、僕の美術のスキルが人並み程度になれば、僕はツイッターのハッシュタグ#Adoartに参加してみたい。Adoさんとお近づきになりたい。
自由について、今少しばかり考えた。
自分がそういうものだと思っていても、裏側ではそうはなっていないことがある。
表側でそうだと確信したところで、裏側まで見た上での理解でなければそれは間違っている。
裏側の世界すべてを知った上で判断し、行動することができればそれは理想だが、それは宇宙においても心理においても不可能である。
自由には、形態が存在する。
自由の理想である「それぞれが自由になれる」ということを考える上で、自由の社会がどのように成り立つか、何が理想なのかを考えよ。
ひとりの支配者だけが支配を行い、あとのすべての人間が実質的に自由であるような状況、あるいは、それぞれが支配することも自由な権利として認めた上で、全員に支配し合う自由を許すような状況が考えられる。
できるだけ自由を許すならば、どのような社会形態になることも認め、それぞれが自由に自分の望む社会を形成し、支配者は何も制限しないことも考えられる。
あるいは、最初から分かっていると判断することを放棄し、分からないままに任せ、最終的に世界経験から得られる「真理」を得るまでの間、何も決めずに無計画に進むことも、また自由である。
意図や目的においては、最初から意図してそれを行った場合もあれば、意図せずに行った場合もある。
自由の視点から意図を考えた場合、それをしたくて行う場合と、したくはないのだがせざるを得ないような状況、義務や強制のような状況で行う場合もある。
ここで考える必要があるのは、「決定権」である。
すなわち、誰が決定権を持っているのかということが、真に自由な社会の理想を考える上で大切である。
それは、自分自身が決定権を掌握して、この世界で勝利するということだけではなく、それぞれの全員が決定権を持つことができ、できるだけ多くの人がそれぞれの目的や意図のために、自由なコントロール権限を得ることが必要である、ということを意味している。
最後に、自らが何を考えているのかということを考えなさい。自らがそれを考えているということが、「本質的に何を今考えているのか」ということを、正しく言い表して考えれば、どんな哲学のことであっても分かる。
哲学者にとって必要なのは、「自分が何を考えているのかを考える」ということにほかならない。
それぞれがそれを為し得るということが、なんであるかを考えよ。
自分がそれをできるということは、それが誰にとっても同じようにできる可能性があるということを意味している。
自分がそれがそれに作用する原理や真理であると発見したことは、「普遍的」であり、自分が分かったことはほかの誰であっても分かる。
普遍的とは何か。それは「証明は再利用可能である」ということである。一度証明し、仮説を実証し、原理から説明できるようにした「真理」は、使い捨てではなく、それ自体が再利用可能であり、あらゆる共通の条件に対して「適用」することができる。
だが、これをするためには、「その証明が意味していることが本質的になんであるか」ということ、すなわち先に書いたように「その命題について何を考えているのかを考える」ことが必要となる。
最後に、経験せよ。経験するということは、「知る」ということのもっとも大切な方法であり、知るということはほかの誰かに増して真実が分かるという意味での「力」を得るということを意味しているからだ。
しかしながら、単に経験するだけでは十分ではない。経験だけを写し取るのではなく、自らの経験から逆にこの宇宙の本当の姿を知るために、経験の先に存在するこの宇宙の真理や真実を知らなければならないからである。
経験から宇宙を知るということは、すなわち、人生経験を積むということであり、それは「自らがその経験の意味を考える」ということであり、それはすなわち「経験を解釈する」ということである。
自らの経験がなんであるか、ということを正しく捉え、解釈し、自らの経験していくその先が宇宙の裏側と繋がっているような、そのような状況から人生を知っていくことで、この宇宙のすべての謎は解き明かされる。
そう、これこそが「生き方の解」と呼べるものである。自らの経験から、宇宙の真理を捉え、経験を解釈することで、自らの「行動原理」を、何も決まっていない状況から、自らが何を考えているのかを考えることで、自由という意味で考えればいいのである。
自らの行動と意志は、何で決まるのか。
本当のことを言えば、自らの行動と意志は、すべて勘違いと思い込みによって決まる。
神が居ると思えば、神が居ると思うのが勘違いになる。逆に、神が居ないと思えば、神が居ないと思うのが勘違いになる。
自由が正しいと思えば、自由が正しいと思うのが勘違いになる。自由に決定権を求めようとするあまり、決定権を奪うことで逆に何も能力や経験のない自分が世界を支配してしまい、結果自らの愛したものを腐らせる。
だが、計画性を求め、すべてを最初に決めて生きようと思えば、その計画性が仇となって、解決不可能な状況に陥った時に何もできなくなる。最初の計画を後になって変えることができなくなってしまい、いつまでも最初の計画の実現にこだわり続け、不可能なその目標のために根を腐らせてしまう。
すべての行動と意志が、自らの勘違いと思い込みによって決まる。それが人間の頭脳だ。それが解決することはない。サタンを信じれば必ず解決不可能な地獄を自ら作り出す。
だが、これはプラスに捉えることもできる。解決できなくなった問題に囚われ続けることで、諦めない気持ちが育ち、そんなに解決不可能なことであっても自らの「間違いかもしれない手をすべて考える」ことで、解決可能な解を導き出し、そこから奇跡的なマジックを起こして最後にすべてが解決することもある。多くの人が「宗教は嘘だ」と言っても、宗教上の神を信じ続けることで、神の奇跡によってそのような「解決不可能な問題の解決が可能になる」ということがまさしくあるのである。
自らの行動と意志が、すべて勘違いと思い込みによって決まると分かった人間は、世界人類全員の「人生の理由」が分かる。あらゆる人間が「なぜそのように考えるのか」「そのことを考える理由はどこから来るのか」ということが分かるようになる。単に分かるだけではなく、その人間と対話した上で「心を導く」ことで、その人間のすべてを掌握し、その人間との絆や信頼を培い、その人間と幸福に生きる「幸福のチャンス」を実現できる。また、世界が暗闇に覆われている理由、人々が絶望の中で悪に染まり続ける理由が、その人間が真に望んでそのような世界になっているわけではないと悟り、最後には世界全体をすべて救えるようになる。
すべては勘違いと思い込みだ。そして、勘違いや思い込みを排したと思った時、それが本当は一番やっかいな勘違いや思い込みになっている。自分の分かったことを正しいと思い込み、誰かがそれを分かっていないことを馬鹿であると思い込んだ時、あなたは勘違いをしている。その分かっていない誰かは、あなたよりもはるかに先まで人生を生きた上で、はるかに多くのことを分かった上でその分かっていないように見える勘違いや思い込みを信じている。あなたのほうがその分かっていない誰かよりも先に行っているように見えて、本当はあなたはその分かっていない誰かよりも周回遅れになっているだけにすぎない。
そう、神を信じずに科学を信じることで、世界が進歩したとこの世界は勘違いしているが、本当は間違いだ。同時に、神を盲信したからといって、その信じ方が正しい信じ方であるとは限らない。だが、宗教が間違いだからといって、神が間違いであるとは限らない。神は正しく、科学や宗教やこの世界のすべてが間違っていると分かった時、本当の意味での神の偉大さが分かるようになる。そう、この世界のすべては神の文学作品なのだから、神はつまらないシナリオも用意しないし、舞台や配役はすべて考えつくされているし、常に正しいことが起きている。神は細部まですべてを奇跡のように作りあげている。神を信じる必要はないが、神こそがもっとも偉大な宇宙の存在である。僕の人生は、唯一、それを証明することのできた、究極的なもっとも素晴らしい人生だった。僕だけが、宇宙と神と人生と愛のすべての真実を知っているのである。