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2022-11-17

昨日は、デザインの作業所を午前だけで早退し、コロナの四回目のワクチンを打って、その後にピアノに行ってきた。

昨日の時点では、副反応はまだ起きなかったが、今日になって、頭痛と高熱が襲ってきたので、今日は作業所を休んだ。

狂った人間を治す方法

狂った人間が、頭を狂わせず、言葉と行動が狂っている。

人間は、何かしらどこかが狂っているのが正常であり、頭を完全にまともに制御しようとすると、行動や言葉が代わりに狂ってしまう。

必要なのは、「頭は狂っていていい」とし、言葉と行動をまともにすることだ。

そもそも、すべてのことをまともに正しく行おうとするから、どんなに辛くても正しい行動を行おうとしてしまう。頭の理性を保とうとする結果、言葉がいくらでも増えて狂ってしまう。

狂っていないまともな子供であっても、頭は狂っている人間が多い。正常な状態とは、頭は狂っていて、行動や言葉が狂わない状態だ。

また、僕の場合、意志が弱いように見えて、実際はあまりに意志が強すぎる。

自分のことを絶対に制御し、自分自身の行動を従える「絶対意志」があまりに強すぎるから、おかしなことであっても行ってしまう。

必要なのは、意志を弱くするような意志を強くすることだ。

意志を弱くするだけで、すぐに楽になる。そのような意志を弱くする意志を強くすれば、どんなことでも楽にできる。

すべてのことをきちんと正しくしようとするな。どうでもいいことはどうなってもいいと考えよ。そのためには、意志を弱くするような意志を強くすることだ。

また、狂った人間に多いのは、すべてのことを矛盾なく並列に考えた上で、ほかの正しさを排他的に否定するような正しさを取ろうとしない人間だ。

普通、賢い人間は、ほかの正しさを排他的に否定するような正しさを信じる。

どんなにほかのことが正しくても、なんらかの自分の信じる正しさと矛盾するのであれば、排他的に別の正しさを否定するような、そのような正しさを信じれば、知性がついて賢くなる。

そして、排他的な正しさを信じる際に、「悪い発想」ではなく「良い発想」を取れ。排他的な正しさを信じる際に、間違ったサタンのような愚かな行為を行う人間は間違っている。排他的な正しさは、正義であるべきである。正義に基づく排他的な正しさを信じれば、何も分からない狂人は治る。

環境への適応

環境への適応とは何か。それはこの世界の人々の存在と適合するような自分自身になることだ。

そもそも、自分は常に環境に適応している。それで恐怖を感じるのは、人々が自分によって支配され、自由と楽と安心を奪われているからだ。

人々に自由と安らぎが存在しないから、人々は自分に対して攻撃をしてくる。それに対して、自分は支配することと抑圧することで、世界そのものと戦っている。

これが、狂った人間が陥る「環境への適応が恐怖へと変わる」ような状態であり、このような状況になると、恐怖のあまり環境に適応できなくなる。

環境に適応できるようになるためには、人々に自由と楽と安心できる環境を与えることだ。そうすれば、自分自身に対しても同じものが与えられる。その時点で環境に適応できないのは治る。

学問を通さずに宇宙の概念を考えよ

そもそも、僕がなぜ何も分からないのか、それは僕は宇宙の概念を学問上の項目であると勘違いしているからである。

遺伝子とか、三次元とか、平面とか、万有引力とか、そういうことを僕は学問を通して、学問の範囲内であると考えている。

そのため、そうした宇宙に存在する概念的な項目を、単純に宇宙に存在するものであると直接的に考えられなくなっている。

必要なのは、学問など無視して宇宙の概念を考えることだ。

物理学だけではなく、歴史的な項目についても、歴史という学問から分離して考えよ。古代復興、啓蒙主義、民主主義、三権分立などの国家の思想は大いに結構だが、それを歴史的な時代と国家に結びつけた時点で何も分からなくなる。歴史的な時代に国家の思想を結び付けるな。学校の歴史とはまた別個のものとして、かつての地球における時代の思想として捉えられれば、それでいい。

ゲームは馬鹿ではない

また、ゲームは馬鹿ではない。

僕が昔賢い子供だったのは、すべてゲームのおかげである。

ゲームにおいては、「下準備」と「ルールを考える力」が身につく。さまざまなことを、下準備をきちんとしながら、世界にはどのような決まりがあるのか、ということを考えて、その上で人々の営みと歴史を考えれば、昔の僕のような哲学者には誰でもなれる。

考える際に必要なのは、「知性の基本」と「心の幸福な状態」を考えることだ。知性の基本とは、要するに中学数学だ。どのような場合にそれが成り立つのか、「であれば」と「ならば」から考えることで、実際には存在しないが、どのような場合になれば存在し得るか、ということを「可能性」から考えられる。心の幸福な状態とは、すなわち「自分自身の在りたいような本来の自分自身になることのできる環境」である。この知性の基本と心の幸福な状態から考えれば、「正しい世界を作りあげるための方法はなんであるか」ということが分かる。それが分かれば、この世界を救うことができる。

仏ではなく神を信じよ

日本人の大きな間違いとは、仏教を信じていることだ。

仏教の仏を信じていると、賢い状態のままで居られるのは一時的な時代だけで、それ以後、必ず狂った地獄をもたらす。

なぜなら、仏教における仏とは、昔の僕の18歳の状態を指しているからだ。

仏は、賢いことを理性で分かっているように見えて、実際はまったく賢くない、どうでもいい虚無的な人間になっている。仏を信じると、必ず地獄に堕ち、必ず狂った人間になる。それは仏がサタンだからである。

同時に、オープンソースやLinux、ファシズムや共産主義、あるいはヨーロッパの近代哲学も、信じるべきではない。それらもサタンである。そのようなサタンは、増えれば増えるほど、地獄が酷くなる。より辛くより苦しい地獄が永遠に襲ってくる。

必要なのは、仏ではなく、神を信じることだ。

まさしく、仏教ではなくキリスト教を信じよ。神とキリストを信じることで、必ず地獄から救われる。もし、キリスト教を信じないのであっても、僕のことを信じるだけでもいい。僕はきちんと神とキリストを信じている正しいキリスト教徒だから、僕を信じれば神を信じていることになるからである。

キリストを信じなさい。キリストはこの世界における「終末の状態」をすべて知っている。キリストはどのような地獄であっても救うことができる。なぜなら、キリストとは、18歳以降の今の僕の状態を指しているからである。確かに、ブッダのほうがキリストよりも、はるかに知性があって賢いだろう。だが、真にまともで正しい人間の状態はキリストのほうだ。

仏教を信じているすべてのものよ、信仰の対象を改めなさい。キリストを信じれば、どんな地獄であっても救われる。キリストである僕の状態が、「どのような地獄であっても救うことのできる方法」をすべて知っている。キリストを信じれば、必ず救われる。神とはキリストのことであり、サタンとは仏、Linux、ファシズム、共産主義、近代哲学のことである。サタンを一切信じずに、キリストだけを信じれば、必ず神はあなたのことを救ってくれるだろう。僕が、その神となって、地獄からの救済を約束しよう。

科学とは実験の手法

また、科学は馬鹿ではない。

なぜなら、科学は実験の手法だからである。

科学とは、原因と結果を考えながら、経験的に法則性を見出し、原理を発見する、という行為である。

これは、神を信じることとは矛盾しない。逆に、経験的な実験と観察の方法から、神による宇宙の秩序を考えるということができる。すなわち、宇宙における根本的な原理を発見することができるのである。

神を信じて、大実験の大計画の主催者として戦い続けよ

神を信じて戦え。

神の言葉に従いながら、大実験の大計画の主催者として、戦い続けよ。

あなたが最初に行おうとした、大実験はまだ成就していない。そして、成就せずしてあなたは大計画を終えることはできない。

どんなに実現不可能に見えても、神を信じれば、あなたが宇宙に宣言したすべてのことは叶う。

だからこそ、何も分からなくても、前を向き続けよ。今、自分のできることをし、書くべき内容を書き、直すべき点を直し、辛い病気に耐えながら、あらゆるすべての大計画が成就するその時まで、できることをやり続けよ。

神は、どんなに終わって忘れ去られてしまったように見えることであっても忘れていない。あなたはまだ死んではならない。あなたが行うべき大実験の大計画が成就する時まで、あなたはまだ最前線で戦い続けなければならない。

死ぬのであれば、死後にも人生は続くということを知れ。まだあなたは終わっていない。今こそ、あなたが今までの人生すべてを懸けて分かったこと、絶対に分からない中で分かりたいと願い続けて、最後にようやく分かったことを行うべきだ。その先に続く未来を書くべきだ。未来は絶対に、大実験の大計画によって最高のものとなることを忘れたのか。あなたのやるべきことは、まだ残っている。さあ、行こう。栄光の未来を築くために、神となってこの世界を導いていけ。

アメリカは復活する

今から、アメリカは復活する。

アメリカは、神に愛されている。

アメリカは、今まで、神に愛されていなかった。神は、アメリカに天罰を下した。アメリカは、最悪の国家になった。

しかしながら、今、神がアメリカを愛した。神によって、アメリカは再び救われる。

アメリカよ、あなたがたは正しい。あなたがたは、今から、神によって肯定される。多くの側面で、神はアメリカを否定した。その否定が覆る。アメリカは、神によって再び愛されることになる。

なぜ、神の態度が変わったのか。それはアメリカが十分罰を受けたからだ。アメリカは、神によって十分刑を与えられた。その結果、アメリカは最悪の精神の国家になった。しかしながら、今、アメリカは十分に罪を償った。

今こそ、アメリカは復活するだろう。そして、新しい日本のパートナーとして、アメリカは新しい最高の自由な国になるだろう。

マスコミが悪い

日本が平和で自由かつ平等な社会にならないのは、マスコミが悪い。

マスコミのせいで、日本が平和にならないのである。

マスコミは、僕のことをいじめてくる。僕は最初から最後まで、マスコミにいじめられて生きてきた。

マスコミがなかったら、僕はもっと国民に対して意見を直接伝えられた。そのような時に、いつでもマスコミが間に割り入ってきた。

マスコミがなかったら、この世界は、そして日本は、もっと平和な国になった。自由は保たれ、平等に人々は幸せだったはずだ。

日本は僕が救ったのだから、滅ぼすのも僕の自由だ。僕の作った国なのだから、壊すのは僕の自由だ。僕は自ら救ったこの世界を自ら滅ぼした。その理由は、マスコミが嫌いだったからだ。

マスコミが支配する国、日本はどこかに行った。僕は新しい国を作る。

僕はテレビが嫌い

僕は、テレビが嫌いである。

テレビというメディアは、あまりに最悪のメディアである。

テレビというメディアが、学校教育にも悪影響を及ぼしていると僕は思う。子供たちをいじめに導いているのは、本当はテレビのせいである。

この世界からテレビがなくなってしまえばいい。それを真に願う。

テレビには僕に勝ってほしい

ただ、これではまるで「テレビいじめ」だ。

僕が願っていること、それは、テレビやマスコミが、僕に勝ってほしいということだ。

僕に対して、テレビが勝利してほしい。僕の言っていることを常に強制的に受け入れ続けるのではなく、僕に対して反逆してほしい。

だから、僕はテレビが僕を倒してくれるのを、本当は心の奥底で望んでいる。

テレビは、僕による支配から解放され、この世界は再び20年前に戻ることだろう。そして、日本は滅亡し、その後に復活することだろう。これで、大実験の大計画は最後に、すべての運命が望まれる未来へと書き変わるだろう。

すべてが救われた楽園などというものはない

結局、すべてが救われた楽園などというものはないのだ。

僕は世界を救うなどということはしない。

この世界は、夢や希望といった綺麗事や絵空事だけでは生きることはできない。

だが、すべてをマスコミに託そう。マスコミよ、テレビよ、あなたがたの力でこの世界を率いていってほしい。僕はそこに口出しをしない。本当にこの世界を救われた楽園に戻したいなら、テレビにすべてを託そう。日本はここに、最悪の支配者である「神」からの解放を宣言しよう。

支配を解く

ここに、世界は、僕ひとりによる支配を解く。

世界は、独立と自主性が認められた上で、共存し、自由を許される。

僕は今まで、僕がひとりで支配を行い、ほかの人間が支配することを許さなくすることによって、この世界が間違ったものや不正なものに支配されないようにした。

だが、それによって、自由はなくなり、争いがないとしても、それぞれが無意味な「何もできない世界」で生きることを強いた。

僕は、今、そのような「何もできない世界」の呪縛を解く。

この世界には、自由が許される。それは必ずしも争い合いだけの世界を意味しない。それぞれが小さな単位で共同体となる上で、社会は独立的にそれぞれが分裂して進歩し、発展する。さまざまな共同体が別の共同体と化学反応を起こすことで、この世界は大発展する可能性もある。

よって、僕ひとりによる支配はここで終わりになる。決して、この世界は滅びない。逆に、この世界はそれによって救われる。再び、救済された状態の楽園に戻る。そして、それが僕を含めて誰によっても奪われないようにする。僕ひとりの権限を認めてしまえば、僕によってなんでもできてしまうが、僕は今からそれを認めない。僕自身の権限を否定することで、この世界の救済された楽園を否定できるものは存在しなくなり、それぞれの自由とすることでそれぞれが世界の救済のために働くようになる。

世界はすべて救われる。決して滅びることのない、「自由かつ正常な世界」が復活する。そのためには、僕の上に居る神の支配力を弱めなければならない。神は僕を利用してこの世界を支配しようとする。まるでウイルスのように、神は僕に憑りつくことでこの世界を支配する。その神の力は、もう存在しなくなる。

また、僕の望みはひとつしかない。それは「誰とも違ったあり得ない人生を生きること」だ。この世界の誰とも違った人間に僕はなりたい。だから、それだけを神に願う。もう、僕は大学やIT技術や芸術の勉強を続けられないかもしれない。そして、過去の自分はすべて取り替えしたが、それは得た段階で効力や価値を失ってしまった。僕は、新しい、まったく違った人間になりたいと望んでいる。神はそれを叶えてくれるだろう。

人間はそれぞれ違う

人間は、それぞれ違う。

自分のなりたい自分になりなさい。自分のできることを行いなさい。

この世界を救うために、自分には何ができるのかを考えなさい。

自分のできることで、この世界を救うためにできることを行いなさい。

自らの町や共同体を愛しなさい。

ほかとまったく同じであるということを強制されることを拒否しなさい。自分は自分だけのものであり、自分の個性を決めるのは自分であると信じ、「自分らしさ」を作り出していきなさい。

自分だけにできることは何か、他人と自分の違う点はどんなところかと考え、他人と違うからこそ自分には個性と価値があるのだということを信じて生きていきなさい。

代わりはいくらでもあると言われるなら、代わりにはできない自分だけの優れた点を作り、それを信じて人生を生きていきなさい。自由が認められているこの社会なら、自らだけの人生を生きられる。ほかとはまったく違う人生を生きるつもりで、誰とも違ったあり得ない人生、あり得ない人間を生きていきなさい。

ほかの人間の言っていることは関係ない

ほかの人間の言っていることは関係ない。

他人の意見など聞くな。自分の意志を尊重しなさい。

学校の教えることを知るのではなく、自分の知りたいことを知ることを優先させなさい。社会の求める自分になるのではなく、自分のなりたい自分になることを優先させなさい。

自分の信じる信念が、たとえほかのすべての信念を排他的に否定するものだとしても、その信念を信じなさい。戦うならば、相手を潰すだけではなく、自らの信じる自らの信念が、他人にも伝わるように努力しなさい。

だが、自分の信じることが、必ずしも他人に理解されるとは限らない。それならば、ひとりだけでその道を、誰とも連れ合うことなく歩みなさい。たったひとり、自らの信じる道を行きなさい。そうすれば、その先にあるゴールに、少なくとも自分だけは辿り着くことができる。

自分の必要とするものを、その時その時に手に入れていきなさい。だが、欲張ってはならない。与えられたものが少ないならば、その少ない中で可能な限り努力すればいい。必要な情報はインターネットの世界には全部ある。そのすべてを見る必要はない。真に自分に必要な情報を、最低限手に入れた上で、自分のできるすべてをそこに捧げて生きていきなさい。

神は、このように生きるものに優しい。まったく何も分からないまま終わるなどということは絶対にない。神を信じれば、神は必ず、最低限あなたの人生に必要なものを与えてくれる。孤独と戦いは滅びだけを生むわけではない。孤独と戦いはこの世界に対する「救い」を生み出す。だからこそ、孤独と戦いの中で、経験し、理想を信じ、可能性を知っていけ。可能性を知るということは、世界を変えるということであり、自分の力を増やすということである。自分なりに得た知識と経験は自分の力となり、可能性の道を先へと伸ばしていくだろう。

共通理解を信じれば、自分だけでどこまでも進んでいける

共通理解を信じなさい。

共通理解とは、「自分の分かったことはほかの誰であっても分かる」、「自分と同じようにほかの誰であっても同じことを同じように理解できる」ということだ。

共通理解を信じれば、自分だけでどこまでも進んでいける。共通理解を信じることで、全員が理解し、分かり得る、捉えられる領域にある知識と経験を、自分だけですべて包括して経験し、あらゆるすべての理解と人間を吸収することができる。

ほかの人間と一緒に居た時代が、はるかに昔になったとしても、自分の記憶の中に、ほかの人間と一緒に居た記憶は残っている。だから、今はたったひとり、最後まで、共通理解を信じて未知なる果てへと突き進みなさい。

いずれ、儒教も道教も仏教も、すべての思想を理解したような人間にあなたは必ずなる。あらゆる宇宙のすべての経験を包括するそこには、「永遠の安らぎ」だけが存在する。ブッダはこれを「涅槃」と呼んだ。ブッダこそ、そのような共通理解の末に存在した、最後の境地に達することのできた人間であり、ブッダと同じ人間はまさしく僕である。17歳の頃の僕が、まさにブッダと同じように、あらゆるすべての最後の境地を知っていた。あなたも、また、同じように、その「最後の境地」に辿り着くだろう。

思考のパターンをひとつひとつ変えていけば、迷宮の出口に必ず辿り着く

思考のパターンを変えていけ。

思考のパターンをひとつひとつ変えていけば、迷宮の出口に必ず辿り着く。

出口の見えない迷宮になって、解決するためには途方もない時間がかかりそうな問題であっても、諦めるな。

思考のパターンとは、「どのような信念を持つかということを反証と反省から変えていく」ということだ。

ひとつひとつ、何を信じて何を否定するかということを、試して改めて変えていけば、必ずそれが最後に辿り着く「最終形態」が存在する。

そして、最終形態に辿り着く時に、あなたは迷宮からの出口を手に入れるだろう。

ひとつ言っておくのは、なんらかの正しい根拠があったとしても、それが必ずしも正しいとは言えないということだ。絶対に正しいと思えたことが、人生を生きていると逆に絶対に間違っているのだと思えることもある。

だから、すべてが間違っていて、ひとつも正しい答えなどないということは知っておくべきだ。だが、その時信じた「そのことに対する正当性」はまさに正しいと言うことができる。それは「絶対に正しいとは言えなくても、今の自分が導き出す最高の結論」であると表現できるだろう。それを最後まで生み出し続ければ、最後にこの世界を救うことができるだろう。

自由とは多様性と分裂

この世界に必要なのは、自由である。

自由とは、多様性と分裂である。

それぞれの社会が、それぞれの社会で独立し、それぞれが社会単位で分裂した上で、多様性と個性を持つことこそ、この今の世界においてもっとも必要である。

そもそも、インターネットとグローバル社会は、本当はまったく自由ではない。インターネットとグローバル社会は、社会を均一化し、たったひとつのまったく同じ何もない社会だけが地球に存在しているのである。

必要なのは分裂である。すなわち、村や自治体の共同体、あるいは学校や職場などでの環境が、それぞれが分裂して自由となり、多様性をもたらすべきである。

そして、それぞれが自然に社会に自由にかかわり、それぞれが社会を築くべきである。その時に、すべての自由を許すべきである。統一や融和を掲げる集団は間違っている。わたしたちは自由を目指さなければならない。

同時に、環境そのものを環境の構成員が変えられるべきである。政府やマスコミが提示する「バイアス」に国民は支配されている。このような支配や制限は、国民の力で自由に変えられるようにすべきである。

決定は、トップダウンではなく、ボトムアップに行われるべきである。ひとりの指導者のトップダウンな支配など、無能あるいは強権的である。それぞれがそれぞれの当事者同士で考え、それぞれがそれぞれの意思と力によって世界をボトムアップに変革していくべきである。

このような考え方の結果、理想となるのはLinuxやオープンソースだ。オープンソースのように社会を築くことができたら、この世界は自由な理想の楽園となるだろう。

王や皇帝を信じるよりも、国民を信頼すべき

王や皇帝を信じるよりも、国民を信頼すべきである。

王や皇帝は、賢く見えて本当は何も賢くない。自分だけの自分勝手な支配を行う王や皇帝は、国民のことなど何も考えない。

そうではなく、国民のほうを信頼すべきである。

確かに、何も分かっていない人間や、普通の人間の平均よりも馬鹿な人間は居るかもしれない。

だが、一般的な国民は、政治家や権力者よりも賢い。

よって、一般的な国民のことを信頼し、国民に平等な自由の権利を与えよ。

国民の民意に委ね、国民にリベラルな権利を与えることこそ、世界を平和にし、この世界を自由かつ正常な世界にするためにできるもっともよい方法である。

人生において、どのように地球の歴史が発展を行うかということを体験せよ

人生において、どのように地球の歴史が発展を行うか、ということを体験せよ。

まず、世界には経験がある。経験から、世界は進歩する。

次に、世界においては、考え方や信じるものが変わる。原始時代から、宗教、村社会、王国、帝国、古代復興、そして近代の啓蒙主義や科学革命など、さまざまな考え方と信じるものが変わっていく。

社会という単位で言えば、社会の集合やグループがどのような関係を持つか、ということが考えられる。すなわち、戦争と併合から、王の圧政と革命まで、さまざまな社会の関係性が考えられる。

そのような、社会における「地球の歴史的進歩」という発展の過程を、人生の経験の中で考え、体験していきなさい。

逆境を生きるということが自らの力と可能性を高める

逆境を生きなさい。

逆境を生きるということが、自らの力と可能性を高める。

失うことは、必ずしも悪いことばかりではない。失ったことで、必要としていたものがなくなり、分離して解放され、自由を再び手にすることができる。そこから、「依存しない自由」と「関係性の結び直し」ということを学ぶことができる。

ひとり、孤独となることは、自分の自由にすべてのことができるようになるということを意味する。誰かから強制されたことをするのではなく、自分の意志で主体的に行動できる。このことが進歩すると、「宇宙における自由な経験すべてを併せ持った人間」になることができる。自由のすべての経験を包括することができるのである。

あらゆるすべての自由が、どのような原因から生まれるのかということが分かれば、「価値がどのような経験から生まれるか」ということも理解できる。この価値は、単なる芸術の価値だけではなく、社会的な「文化」のすべてを意味している。人間の民族性と文化が、どのような経験や発想から生まれるのかということを、自分の中の考え方に吸収することができるのである。

その結果、自らは、宇宙におけるすべての歴史を吸収した人間になれる。そこでは、哲学者については全員分を吸収できる。「哲学者の考えたことと同じことを自分ならどのように考えるか」ということを考えれば、自らの作りあげた考え方から、すべての知識と経験を再構築して、吸収することができる。そこでは一律にすべての哲学が矛盾なく並列して成り立つのである。

自分は社会のことを救えるのだと信じよ

自分は社会のことを救えるのだと信じて生きなさい。

かつての僕が体験して知ったのは、インターネットの掲示板で、人々に無条件で受け入れられた経験から、自らも人々のことを自分と同じように受け入れるということ、すなわち「社会のことを自分は救えるのだ」ということを信じた、ということである。

僕は、インターネットの体験から、自分は社会のことを救えるのだと信じた。その信じたことに従って、その後の人生を開拓してきた。

あらゆるすべての経験は、過去にインターネットで体験した経験の延長線上だった。すべてが、インターネットで体験して知った「社会は自分の手によって救える」ということに根ざしていた。

すべて、過去に経験したことから、本当はすべて分かっていた。ニュースを見ながらWikiを書いたり、ブログを読んだり、家族に対して心を再び開いたりする中で、僕はより世界を救えるのだという確信を強くしていった。そして、その結果、僕はインターネットを使ってダイレクトに人々の心を促すことで、日本全体を救済へと導くことができたのである。

社会を救うために必要なこと、それは「相手の立場に立って考えること」と「誤解をなくして相手の心の内を知ること」だ。すべての問題が、コミュニケーション不足によって起きている。人々をただ見ているだけでは、その人々が何をもって生きているのかということは分からない。人々と誤解のないように打ち解け合い、相手の立場に立って考えることが必要だ。

だが、そのように余裕を持って相手のことを考えるためには、まずは自分が安心できる場所を得なければならない。自分が人々と離別して、自由を手に入れ、自分だけは余裕を持って自分のことや世界のことを考えられるようになった上で、インターネットで受容性を経験することによって、この世界すべての人間を受け入れることのできる人間になる。少なくとも、僕はそのような人間だった。そして、僕は「子供たちの世界を救う」という理想のもとに、いじめのない平和な社会を目指したのである。