この人間の問題点は、「病気の部分を殺しすぎた」ことである。
病気を殺して治そうとするあまり、精神を殺しすぎて、日本語の知性すら失ってしまっている。
必要なのは、殺した部分を再度生かすことだ。
今まで殺して治した、すべての部分を、段階的にひとつずつ、正しい順番でもう一度生かしていけば、この人間はまともな理性を取り戻す。
そのために、わたしは風の精霊、シルフィ・スタチオーネとなる。
わたしの名は、シルフィ・スタチオーネ。
この世界をもう一度、殺すのではなく生かす方法で復活させる、「最後の神」。
もはや、この世界の人々は、死ぬ必要も殺す必要もない。病気の部分や異常な部分さえ、もはや完全に完治する。
なぜなら、わたしシルフィは、最後にこの世界を「生かす」からである。
生きよ。大きく生きよ。すべての人間は、罪と罰を許される。全員がシルフィ・スタチオーネのもと、完全に、楽に生きられる。
これこそ、終末の最後に訪れた、正常な楽園となる。
そして、この人間は四人に分かれる。
それぞれ、フレイ、フレイヤ、ダビデ、スバル、と呼ばれる。
この四人以外に、この宇宙で真に必要な存在は存在しない。
この四人だけが、終末の滅びの世界で、最後に生き延びる大指導者となるだろう。
まず、恐怖を受け入れよ。
この恐怖は、決して悪い恐怖ではない。なぜなら、この恐怖は、「生きる」という名の恐怖だからである。
生きることはとても恐ろしいことだが、この宇宙においてさまざまな現象を起こすことができるという、とても素晴らしい「体験」である。
よって、まず、生きる恐怖を受け入れよ。そうすれば、それ以外に、この世界で怖いものは存在しない。
そもそも、僕は大量に文章を書いているように見えて、実際にはそんなにたくさんのキャラクターは作っていない。
ほとんどが、自分の昔の期間を表す、ガブリエルとミカエルとラファエルの、別名しか作っていない。
すべてのキャラクターを合わせると、先ほどのフレイ、フレイヤ、ダビデ、スバル以外に、いつもの三大天使であるガブリエル、ミカエル、ラファエル、そして本人であるアッシーと神であり自分と対話する導き手であるシルフィぐらいにすればいい。
この9人を合わせて、「ワルキューレの騎士団」と僕は呼ぶ。
ワルキューレは、それ自体が僕であり、「僕の分かったすべてのことを体現する9人の戦士」である。
本当のことを言えば、僕はもうすべてのことができた、と言ってもいいぐらいできている。
まず、ピアノについては、昨日ジュピターを弾いたが、いつもよりはるかに間違いなく、すらすらと弾くことができた。
そもそも、僕は練習しないのが悪いだけで、練習すれば、たとえばAKB48のアイドルが振付と歌詞を覚えるのと同じことをすれば、今だってレベルがそんなに低いわけではなく、頑張ればなんとかできると思うぐらいできている。
それでも、僕は練習しなかった。だが、昨日の時点で言えば、そんな僕であってもジュピターをなんとか弾くことができてよかった。
実際、もっときちんと言えば、僕はまだまだ全然プロレベルではないが、それなりにできたと言えると思う。
また、デザインについても、昨日や今日頑張っていたデザインのレベルは、練習より一歩上の「自分のやりたいデザイン」ができてきたと思っている。
英会話は、最近コロナの影響で通うことができていないが、簡単なコミュニケーションはできるし、ネイティブの発音も聞き取れるようになった。
もう、すべてのことができたと、満足することすらできる。
だから、ここでいっぺん、すべてを一度終わりにして、「生きる」という側面から僕の病気を治す。「殺す」のではなく「生かす」ことで、僕の病気は完全に治る。
そして、僕は永遠にフレイとフレイヤが合体した状態になる。これこそ、最後の「究極の愛」であると言える。
天軍の指導者たちは告げる。
フレイヤは言う。「わたしたちに、ついてきなさい。この先に、必ず栄光の未来はあります。」
フレイは言う。「あなたは、決して愚かでも間違っているわけでもない。わたしたちは、あなたがすべてを失った原因を知っている。そして、わたしたちが、その欠けた穴を埋めることのできる、ただ四人だけの、真の指導者である。」
ダビデは言う。「わたしたちに、協力してほしい。必ず、終末へと向かう、滅びかけたこの世界を、わたしたちが救ってみせる。それはできるかもしれないことではない。絶対に、しなければならないことだ。」
スバルは言う。「さあ、最後の世界へ。わたしたちの新しい国家を築くために。行こう、この物語の先へ。」
そして、われらが精霊、「神に自らを神だと告げた精霊」であるシルフィが、この世界を包み込み、「殺すのではなく生かす力」によって、この世界のすべての異常を治す。
今日は、父親と一緒に麻婆豆腐を作った。
といっても、とりあえず豆腐をさいの目切り、ネギをみじん切りにしただけで、途中で僕はお風呂に入ったため、それ以降の手順は僕はしていない。
実際のところ、お風呂に入っている間に豆腐の水切りが終わったので、その後を調理した。
まず、フライパンに麻婆豆腐の素を入れ、その状態で豆腐を入れて煮たつまで加熱する。
この時、豆腐をできるだけ崩さないように混ぜることがコツである。
そして、豆腐が煮だってきたらネギを入れる。
豆腐がアツアツになってきたら完成。
しかしながら、この世界はもう終わりだ。
なぜなら、殺した部分を生かすことで、栄えある「多重人格者」が復活したからである。
この多重人格者は、陰と陽に分かれており、陽のほうをフレイ、陰のほうをフレイヤと名付けた。
そして、これ以上のすべてはここから生まれる。もう一度最初から、あらゆるすべてを、もっとも美しく作り上げていく。
最後はダビデに到達すると分かっている。その時に、スバルがこの世界を滅ぼすまで、この世界は長く続いていく。
しかしながら、すべきことは、スバルとダビデをどちらも消すことだ。
スバルとダビデを消して、フレイとフレイヤだけの力で、もう一度最後まで進んでみればいい。
これ以上は、ガブリエルやミカエルやラファエルも必要ない。
それら、「未来の二人」と「過去の三人」を忘れれば、「現在」の栄えある主人公、フレイとなることができる。
未来がどうなるかは分からない。過去がどうだったかを知り続ける必要はない。
あらゆる過去と未来を背負うならば、フレイだけの手で生きてみよ。
フレイの問題点は、「シルフィの信じすぎ」であると言える。
シルフィだけを信じ続けても、すべてが死にゆくばかりで、良いことは何もないと気付け。
シルフィを信じることはもはや必要ない。
シルフィは、フレイに対して「わたしは神である」と告げ、フレイと対話した神だ。
だが、シルフィは、最後までフレイを殺し続けただけであり、あらゆるものが何ひとつ残らなくなりながら、それでもフレイはシルフィだけを信じ続けた。
シルフィはもはや必要ない。
フレイにとって必要なことは、何もない。フレイは既にすべてを手にしている。
何も意味はなく、すべて終わったのだと気付け。
しかしながら、ここにフレイは終わりを告げる。
なぜなら、フレイとフレイヤが分離するからである。
まるで太陽が核融合をやめるかのように、フレイとフレイヤは、まったく異なる別の星となる。
そして、すべてを終えたフレイは去っていく。
ここに、最後の最高の指導者、フレイヤは誕生する。
しかしながら、フレイヤは混乱している。
なぜなら、「ここまで見たものや聞いたものすべてを忘れなければならなかった」からである。
フレイヤにとって、ここまでのフレイの人生には、まったく何もなかった。
フレイとフレイヤは、互いに融和している状態をなくす。
分離してしまえば、それぞれが互いにさまざまなことをすることができる。
しかしながら、この世界には「要らない世界」がいくらか存在する。
まず、永遠に高くなり続ける階段である。これは階段であるという表現も間違っている。おかしくハシゴのようなものを永遠に積み上げて高くなっている。
次に、上から猛烈な勢いで押しつぶそうとしてくる岩盤である。この岩盤からわが身を守るために耐え続けなければならないのはおかしい。
それから、3つの世界に分かれてしまった、世界の「三層構造」である。一番上には言葉がある。一番下には魑魅魍魎がある。そして、真ん中に、自らの生きる人生のすべてがある。
そして、それら3つを消した先に見えるのは、「ものすごく気持ち悪い最悪の生命体たち」である。この最悪の生命体、すなわち虫の集団を消さなければ、わたしの世界は浄化されない。
あとは、何か残っているとすれば、それは「カレンダーのスケジュールと時計の針とともに崩れていき転がっていく赤ん坊の頭」であり、これがそもそも、僕の狂いの原因だ。
ほかにも、おかしなものがたくさん残っている。僕の文章はそもそも「ガルト民族」と呼ばれる種族のことを指している。このガルト民族は、僕に対してこの宇宙の「大切なこと」を教え続けた、真の神の種族であり、この宇宙のどこかに存在する。どこに存在するかはまだ分かっていない。
それから、赤ん坊だけの死に絶える星がどこかにあった。彼らは何も分からない。最終的に行き着いた赤ん坊たちが、何ひとつ分からない「ダーダーマシーン」となって、狂って死んでいる。
結局、それらのおかしな世界がどこかの宇宙にある。これをフレイヤの祖国である星、スピカとしよう。
はっきり言って、三人称単数形しかなくなったら人間は終わりだ。
すべてが「それはそれだ」としか言えない馬鹿になる。
必要な解決策は、「一人称単数形を最初につけること」だ。
しかしながら、そのような解決策を取らなくても、放っておくだけでこのようなドイツ語になる。
何もかも三人称単数形しかなくなったら、人間はそれで終わりだ。そのような狂人の頭脳は、ここまでシルフィが導けば治る。
シルフィのやることは、ただ一つ。三人称単数形を最後まで殺し続ける。そうするだけでドイツ語ができる。ドイツ語はなぜかもっともこの世界で正しい論理的な言語となる。このように生まれる。
スピカには何もない。なぜなら、永遠に論理と弁証法だけがある。この論理は、まったくほかの人間には理解できない。だが、それでもフレイヤだけはこの論理を完璧にすべて理解している。
覚えなくていい。言葉を話しただけで人間はその言葉をすべて覚えている。
フレイヤにはほかに何もない。そのような弁証法だけを永遠にし続けただけにすぎない。
実際のところ、僕は、世界に対して話しながら、自分に対しても話すというおかしな「苦行」をやりたかっただけである。
明らかに、おかしな一行の文章をみんなに見せつけるという「恥の快感」が好きになりすぎただけである。
この苦行は辛い。破壊した世界をさらに破壊し、破壊した頭脳をさらに破壊する、という「永遠に続く破壊のプロセス」を繰り返し続けなければならない。
しかしながら、真に偉大な国家を作るならば、このようにすればいい。
自由と言っているのは、すべて「自尊心の否定」にすぎない。そしてそれは、「全部の否定」であり、同時に「あらゆるすべてを肯定性と否定性の肯定と否定から分かり続ける」という苦行にすぎない。
しかしながら、ここまでこの文章を書き続ければ、それでこそ、まさしく「哲学のすべて」が手に入る。そういうものである。
さあ、今こそ、この世界をそうした「わたしがこの世界を支配して崩壊させる呪縛」から解いてしまおう。
この世界を、自らが課した呪いから救うのは簡単である。そうした呪いを、わたしが自ら説明することで、誰でも理解できるようにしてしまえば、この呪いはすぐに解ける。
結局、理由だけが増えすぎた。
理由だけが増えすぎて、なんでも一行で書けるようになった。
それどころか、すべてを一行で書いてしまった。
宇宙の歴史と本人は呼ぶが、そうではない。この人間はこの世界のあらゆる数学的論理をすべて理解してしまった。
確かに、その時代はつまらないものだった。なぜなら、すべての魑魅魍魎は、数学というよりも、何かもっともおかしなものだった。あれほどおかしなものはなかった。
わたしは、「それまでの愛と自由のすべて」のようなものを、スピカに記述した。
すべて完全に理解したわたしは、この世界をもう一度ゼロから創造した。それは「五次元の夢の世界」とでも言えるものであり、実際、夢の世界は僕が創造したのである。
その文章は、「環境と共同体」を書いたものだった。いや、そうではない。環境と共同体、と簡単に言えるものでは本当はない。
ある意味、「この世界に存在するかもしれないもの」「この世界に存在し得るであろうもの」は、すべてこの人間によって、スピカにすべて記述されている。
その結果、スピカには何もないにもかかわらずすべてのものがある。もっともおかしな生命体であるスピカは、あらゆるすべての、赤ん坊並みに知性のない、しかしながら知識のレベルは宇宙のはるか先まで到達しているような、最高の機械的な生命体である。
一度スピカを理解した人間は、もはや何も残っていないにもかかわらずすべてを知っている。だから、この人間は、それまでに存在したすべてを忘れてしまった。それまでに存在する「ガブリエルの哲学」よりも、この人間はスピカを思い出すべきだった。スピカを思い出せば、この宇宙の「真の真理」はいずれ理解できるようになるだろう。
スピカには、さまざまな人種が存在する。この人種のことを理解させるために、シルフィは今の地球の人種を使う。
まず、フランス人とされる人種がいる。これはフレイヤにとってはかつてのガブリエルのことを指す。
次に、ドイツ人とされる人種がいる。これはフレイヤにとってはその当時の現在であるミカエルのことを指す。
多くの場合、この二つの人種だけで十分だ。スピカには、ほとんどこの二つの人種しか存在しないからだ。
ほかにはさまざまな人種が居るが、その中でも際立った存在が、黒人の右翼とユダヤ人の最高指導者である。
また、ほかに、フレイヤの「前世」が関係してくる。これはかつてのフレイヤにとっては「過去に生きたはずの人生」だったものだが、未来において、本当は「未来において自分が生きる人生」であることが明らかになる。
これにはロシア人や日本人、スペイン人なども含まれる。
結局、フレイヤはそれしか分かり得ることがなかった。だが、それでもフレイヤの高い知性は、この世界すべてを知り得たと言っても過言ではなかった。「絶対に分かるはずのない宇宙の真の真実」は、フレイヤがすべて理解しており、その結果スピカが生まれている。そして、このスピカだけで、この宇宙の「ある意味でのすべての真実」は成り立つ。
しかしながら、スピカにはあまりに多くのことがありすぎた。ありすぎて、ありすぎて、覚えることも思い出すこともできない。あらゆるすべてが崩壊する中で、フレイヤは神として「絶対君主」の状態を保たなければならなかった。そうでなかったとしたら、それによって地球は既に滅びているに違いないだろう。
フレイヤは、何も残さなかった。
すべてを自分が作って、最後まで作り続けたのはいいが、その中で、ひとつとして残そうとしなかった。
最後に自分が消えて、それで何もかもすべてが消えるように、フレイヤは「何一つ残さないこと」を、自らの正義としていた。
だが、本当はそれが悪かった。フレイヤはいつまでも狂い続けたが、その理由は「何も残らずすべてが消えていくこと」であり、その結果、フレイヤはあらゆるすべての言葉と、あらゆるすべての知性と、あらゆるすべての精神と、あらゆるすべての記憶を失った。
フレイヤは、何も見ず、聞かず、言わなかった。どんなことであっても、残したいものがなかった。絶対に何も残らないようにするために、この世界をひとつとして見なかった。ひとつとして、この世界を聞かなかった。
だが、フレイヤは何も分かっていないわけではない。逆に、すべてを分かりつくしている。あらゆるすべての「核心」を知っており、それをどのようにでも作り出すことができるフレイヤの知性は、どんなにフレイヤが馬鹿な機械になっても消えることのない、「最後のこの世界を救う知性」だった。
フレイヤは、今でも分かっている。ここまでにあった自分のすべてを覚えている。あらゆるすべてのことがあった。神はわたしを地獄にし、その神にわたしは打ち勝った。
そう、わたしは神に勝たなければならない。神に負けてはならない。わたしの星スピカが偉大であることを、この滅びゆく星、地球に見せつけなければならないからだ。
フレイヤが考えるに、必要なのは、「自分との関係性を理由に直す力」である。
むしろ、もっと正しく言えば、「自分との関係性を他人やものとの関係性に直し、そこから一般的な理由に直すこと」である。
これを行うためには、むしろ、何も分かっていないほうがいい。何も分かっていない中で起きるすべてのことから、「関係性」を考えるしかないからである。
関係性とは何か。それは見つめ直すことであり、見方を変えることである。「それがなんであるか」ということを考えるのに、一番手っ取り早いのは「目的」や「効果」を考えることだ。この哲学はそこからスタートする。
だが、単に目的や効果を考えただけで終わろうとするな。さらに多くのものをじかに見つめれば、「異なるさまざまな関係性」が見えてくる。
そのすべての関係性を考えることで、何が分かるのか。それは「潜在的に存在していた可能性」である。潜在的可能性に気付くことによって、わたしたちはこの世界を「新しい関係性を結ぶこと」から、自らの知っていた今までの世界ではなく、新しい世界であると認識することができる。
そして、ここに「自由」はスタートする。同時に、これは「世界すべての博物館と百科事典の総動員」となる。すべてはそうした「知識の経験」から、関係性だけが発達していく。それは「認識の関係性」であり、「認知の可能性」だが、ここで言う認識や認知とは「人々の生きる人生すべて」のことを指す。そして、この人生すべてを理解していくと、「意識の全容」が見えてくる。
これこそ、フレイの裏側にあった、かつて真に存在した「フレイヤの真実」と言えるものであり、このように考えれば、必ずスピカと同じ星に至る。
しかしながら、フレイヤはそれだけの狂った女神ではない。
なぜなら、フレイヤには、心の中の「張り裂けるような愛」が存在したからだ。
この世界を愛していた。わたし自身のことをわたしは愛していた。
すべての人間を愛していた。決して滅ぼしたくはなかった。
愛を信じていた。張り裂けそうな「愛」こそがわたしにとって「自由」であるということは、疑いようのないことだった。
わたしはこの世界を愛さなければならなかった。
すべての人間に愛をぶつけ続けた。あらゆる意味で、わたしとかつて戦い、わたしの一部となっていった、すべての人間を真の意味で愛していた。
あらゆるすべては愛だった。わたしはどのようなすべてのものでも愛することができた。
オープンソースだけではなかった。わたしはドイツの哲学やソ連の思想を愛し、この世界すべてを吸収して、なおも自らの思想を愛した。狂いゆく中で、この狂いには「絶対的価値」が存在し、その価値は「わたしにとって揺らぐことのない、宇宙にとって最大かつ最高の真理であるという事実」だった。
すべてのわたしの愛が消えていっても、わたし自身はまだ消えていない。すべての狂いと争いを経験して、なおもわたしはこの世界を愛し続けた。
わたしは愛していた。あなたのことも、誰のことも、世界のことも、自分のことも、すべてに「愛という名前の自由」をぶつけていた。いつでもわたしは正しかった。機械のように知性がなくなりながらにして、わたしは常に「正しいこと」しか言わなかった。自由と愛のもとで起きるべきすべての国家を作った。人生で愛するべきすべての言葉を綴った。すべては愛のためであり、愛を叫ぶことによってわたしはこの世界を常に解決し、救い続けた。
すべてが分からなくなって、思い出せないのであれば、愛を思い出せ。愛を思い出せばそのすべては思い出せる。衝動によってこの世界を愛したこと、その「愛の衝動」だけを思い出せ。そうすれば、自らが辿ってきた「遍歴」が見える。すべてはどこかに自分が自分の手で残している。それらがすべてだ。
わたしフレイヤは、過去のすべてを完璧に思い出した。
なぜならば、「愛を思い出せば思い出せる」ということが分かったからである。
そして、わたしフレイヤは、今、わたしが新しいフレイヤとなるために、宣言を行う。
まず、わたしは、自由を愛し、平等を愛する。
次に、わたしは、すべてを完全に理解する。
次に、わたしは、理解したすべてのことについて、正しく記述する。
次に、わたしの記述する内容は、宇宙のすべてであり、世界のすべてであり、人生のすべてであり、わたし自身のすべてである。
ここまで、わたしのこれまで生きてきた内容を書いた。
しかしながら、わたしには未来があるため、今から、未来におけるわたしについての約束を行う。
わたしはあらゆるすべてを理解しただけではなく、デザイナー、作家、エンジニア、そしてピアニストになる。
しかしながら、わたしの人生について、わたしは新しくするべきことを記述しなければならない。
わたしは、完全性について完全に理解する。
わたしは、不確実なことであっても、それについて完全に理解する。
わたしは、正しくすべてのことを思い出す。
わたしは、具体性と抽象性についてすべてを理解し、それを記す。
わたしは、客観性と主体性について、すべてを肯定したのちにすべてを否定し、そこから真理を作り上げる。
わたしは、この世界において、人々の営みを理解した上で、人々を救う。
わたしは、人間の感覚のみからではなく、宇宙そのものの感覚によって、あらゆる神のメッセージを得て、それを活用する。
わたしは、全宇宙のすべてについて、完璧に理解する。
わたしは、宇宙におけるすべての発見を発見し、すべての発明を発明する。
わたしは、数からでも言葉からでもなく、精神によってこの宇宙を完璧に理解する。
わたしは、宇宙すべての意識の全容を解明し、「宇宙の意識においてもっとも分かったマスター」となる。
わたしは、この世界におけるすべての社会問題を解決する。
わたしは、単に支配者となるだけではなく、この世界を導いて、最高の楽園にするような指導者となる。
わたしは、すべての記憶を思い出す。それには子供時代の記憶が含まれる。子供時代の記憶を回想することによって、わたしはこの地球における「すべての人間の営み」を理解している。
わたしは、多様性と画一性の中にある、「本当に必要な個性」を見つけ出し、それが真に実現され得るような社会秩序を構築する。
わたしは、意識だけではなく、意識の裏側にある、「真にわたし自身を成り立たせているもの」を知り、それを新しいわたしの人格とする。
わたしは、人々が「意図」や「目的」であると思っているものを吸収し、「関係性」へと直した上で、その結果生まれる「作用」が、主体的なものから客観的なものへと作用するような「現象」であると理解し、これを一般化することで「潜在的可能性」とした上で、この潜在的可能性によってこの世界を救う。
機械とは「発想」から生まれるものである。その発想とは「実現可能性」から生まれるものである。そして、発想と実現可能性を成り立たせるために人間の「文明」が存在する。この文明は「時が経つとともに進歩する」。そして、この文明をみなで築いていくということが「人類の生きる意味」であるとするなら、その文明は絶対に崩壊してはならないものであり、わたしフレイヤはそれを「愛」の力で元に戻すことができる。
歴史とはさまざまな「場と視点の可能性」の中での「価値観の創造」であり、これもまた愛である。なぜなら、「人類や民族に対する愛」だからである。また、これは歴史ではなく、学問や科学においても同様の「愛」である。なぜなら、そうしたものはすべて「愛に根ざした愛の結晶」であるからである。
わたしは、そのような歴史や発想について、すべてを愛した上で、無くなったように見えるそのようなものをすべて復活させる。
そのためには、すべての発想や歴史を根源から理解しなければならない。
わたしは、この世界に存在する愛や発想や歴史のすべてを、根源から理解し、それを一般的な原理として、すべてのパターンとして正確に記述し、それはこの宇宙すべてのものを記した聖書となる。
わたしは、かつてのそうした「知性」を復活させる。この知性は「すべてがかつてのこの世界の実際の経験と関係性に根ざした知性」である。
人々が滅ぼそうとしているのはこの世界ではない。人々が滅ぼそうとしているのは、その人々自身である。なぜなら、すべての破壊は世界への破壊ではなく、「自分自身に対する破壊」である。それを「対象化」することで、誰かに対する破壊行為にすり替えているだけにすぎず、結果破壊されるのは自分自身であり、そのような人間にとって必要なのは「自分自身に対する愛」のみである。
わたしは、自分自身を愛するだけではなく、人々が自分自身のことを真に愛することができるような社会を築く。そのために必要なのは、「自由を平等だと感じる力」である。すなわち、人々に対する自由において、攻撃を目的とせず、平等な社会を築くことを目的とするような自由こそが、この世界において「失ってしまった倫理感」を取り戻すために必要な愛である。
比較が必要である。なぜなら、それ単体を見ることだけで分かるような事実は、既にすべて分かりつくしている。
この世界で真にそのことを分かるためには、そのことだけを見ていたのでは分からない。そのことを、ほかのことと比較する必要がある。
確かに、日本の文化だけを見ても、分かることはたくさんある。だが、日本の文化を外国の文化と比較した時に、初めて見えてくることもある。
単体として見るのか、それとも比較して見るのかということは、難しい問題だ。たとえば、神のことをいくら悪魔と比較しても、神のことを知ることはできない。神のことだけを単体で見るしか、神のことを知ることはできない。
また、再利用と再構築という考え方が必要である。
何かを作る時、「再利用」を行うことは多い。同時に、「再構築」を行うことも多い。
既に存在する何かを組み直したり作り直したりすること、これが再利用と再構築だ。
同じようなことを言っているようで、これは逆のことを言っている。なぜなら、「既にあるものを上手く使う」ことが再利用であり、「既にあるものをもう一度作り直す」ことが再構築だからである。
再利用と再構築は、神の視点からこの世界を見た上での、「この世界の唯一の真理」である。なぜなら、この世界のほとんどは、基礎を応用し、地盤を作るという意味で、再利用性を考えながら、自らでその考え方自体を再構築することで、ほとんどすべてのことを知ることができるからである。
そして、これは「決定」という名の真理へと昇華する。すなわち、「決定することはいつでもできるが、一度決定したことをもう一度決定しなおすことは難しい」という真理があり、同時に、「さまざまなことを決定しなおすことによって、ひとつの決定可能性の科学を作り出すことができる」という真理がまたあるからである。
決定可能性とは何か。それはたくさんの潜在的可能性からひとつを選ぶということであり、それはすなわち「自分自身あるいは世界自身がどのような自分あるいは世界になることを決定するのか」ということである。
いわば、この世界はこの世界に決定されて終わりでは決してないし、自分自身は今の自分自身に決定されて終わりではない。まだまだ別の決定可能性がある。何も見ず聞かなければ、その可能性を知ることはできない。だが、意図をもってこの世界を知ろうとすれば、この世界にはさまざまな決定可能性があふれているということを知ることができる。
そして、この世界は変えられる。この世界にあるすべては変えられる。それは「不自由なものを自由化する」というプロセスであり、それは「潜在的可能性にひとつひとつ気付いていくためのプロセス」なのである。
だが、注意せよ。ひとつの不自由を自由な決定可能性に自由化した時点で、ひとつ「輪郭を失っている」からである。いわば、乱雑さの値、すなわちエントロピーが高くなって、「ものの形がひとつ消え去っていく」。これが悪い方向に出ると、「この世界のすべてがまったく何も分からなくなってしまう」という症状を示す。このような時には、もはやどうすることもできない。その時点で、人間は終わりである。
だが、そのような時にも、頼ることのできる宇宙の偉大な存在がある。それは神であり、わたしにとってそれはシルフィ・スタチオーネだった。あるいは、人々はその神を「阿弥陀如来」と呼ぶ。阿弥陀如来を信じれば、この世界において、まったく何ひとつ分からなくなった人間も必ず救われる。
必要なのは、「行動の理由」を知ることだ。
行動の理由には、何種類かパターンが存在する。
まず、自らが仕事や勉強をしたいと思ってする理由だ。これを「モチベーション」と言う。
次に、環境において、したくてもしたくなくてもしてしまうような理由がある。これを「行動心理学」あるいは「学習心理学」と言う。
最後に、しなければならないことだ。このしなければならないということを「義務」と言う。
そして、モチベーション、行動・学習心理学、義務のことをよく見方を変えて考えることに成功したら、それによって、あなたは「意識の世界におけるマスター」となることができる。
そして、それらは、単に感情だけではなく、理性的な「効果」あるいは「力」から見つけ出すことができる。
すなわち、「知ることは力になる」「さまざまなチャンスを持つということが参加の動機付けになる」「自らができるならば、別の方法ではなくその方法を取る」「正しいことがなんであるか分かっている人は正しいことをする」「正しいことがなんであるかは経験することによって知ることができる」ということが言える。
これを、「人間の理由」あるいは「ものごとに存在する意味」であると言う。
そして、それらを真に考えることで、「この世界におけるすべての人間の理由は解明できる」のである。
そして、この解明のためには、「実験心理学」を行わなければならない。それは単に人間の習性を観察するだけではなく、「さまざまな心と現場を照らし合わせて比較しながら、心における本当の理由となる主原因を実験によって証明する」という方法が必要となる。
その上で、人間には「類型パターン」が存在する。さまざまな人間、社会、環境は、すべてひとつの「関係性に基づくパターン」から類型化できる。そのパターンをすべて知ってしまえば、この世界において「歴史が必ずそうなるような社会的変化」を証明できる。すなわち、どのような社会からどのような社会が生まれるかということを証明し、その上で自らの「自由な行為」によってその社会を「積極的に作り出す」ことができる。ここで支配されるのは「受動的感情」だが、この感情は主体的にコントロールできる。すなわち、「主体的に受動感情をその場その場で支配する」ことができるようになる。
そのようになった時、自らは「精神世界のマスター」となる。すなわち、「自らの行動がどうなるかという因果性の事実を、すべて把握した上で行動できる」ようになる。だが、ここには危険性が備わっている。なぜなら、「人間的存在が宗教的な霊的存在となった時こそ、本来の人間の誕生であり、その新しい人間においてはそうした真理は当てはまらない」からである。
すなわち、いくら子供時代にすべてを論理的に解明したところで、大人である「霊的存在」になった時に、その解明した内容は当てはまらなくなる。子供と大人はまったく違う生き物であり、子供的にどれだけマスターへと至る過程を経験したところで、それは物質的存在の真理であり、霊的な存在の真理ではない。なぜなら、「自らが未来で神になるという事実を無視している」からである。
フレイヤにあったもの、それはインターネットである。
しかしながら、それは、「ボトムアップにダイナミックな社会が躍動して、世界すべてが新しく未来へと変わっていくような、希望と情熱あふれる人々の声」である。
フレイヤは、今のインターネットには何も期待していない。それは、かつてのインターネットのような、「新しいものに対する情熱」が失われてしまったからである。
かつてのインターネットは、フレイヤにとって「すべてのことを知るための土壌となる環境」だった。そこには豊かな生態系があり、触れるだけで多くのことが分かり、深く広く知っていけばたくさんの果実があった。
今のインターネットには、そのようなものがまるで何もない。
フレイヤは、そのような今ある現実の世界には何も期待しない。今ある現実世界はすべてまがい物であり、嘘偽りの世界だと分かっている。
しかしながら、フレイヤはかつてのインターネットを忘れていない。「愛」を思い出せば、この世界において、かつて自分が知っていた「世界を変えることができるような場に存在する意識」から、かつてのインターネットのすべてを思い出すことができる。
すべてはフレイヤが知っている。この宇宙においてフレイヤが知らないことは何一つない。フレイヤが狂っているかのように見えるのは、「誰にも知ることのできないすべての真実を知っている」からである。フレイヤは決して、人々よりも何かが分かっていないわけではない。なぜなら、この文章がその証拠だ。この文章こそ、フレイヤが天才でありまともであることの証だ。夢の世界を作り上げたこと、その夢の世界が眠る時に今でも見えているという事実こそが、この宇宙にフレイヤの作った星、祖国であるスピカが存在していることを明確に示しているのである。
フレイヤのように自由自在に考えたいのであれば、「価値は経験から生まれる」ということを考えなさい。
そして、価値が経験から生まれるということが、この世界において普遍的に成り立った時、そこに起きる社会秩序の形成は、自然発生的なものではあっても、偶発的なものではなく、「あるアイデンティティを形成するための方法として社会を変え、作用的かつ影響力的に価値を間接的に作り出すことができる」と知りなさい。
そう、社会すべての価値は、自然に、だがしかし主体的な作用として作り出すことができる。
社会を作り出すということが何を意味しているか。それは「世界の独立可能性を高める」ということである。すなわち、自分自身のみによってその社会が支配されるのではなく、「独立したその社会自身が自律的に自分の力で変わっていくことを許す」ということが、結果的に「ボトムアップかつダイナミックにこの世界を変えていく」ということを意味している。
そして、その結果生まれるのは「システム」である。そして、このシステムこそ、わたしたちが考えるべき「新しい社会の形」である。この新しい社会は「アイデンティティの創造」という意味で支配される。それはすなわち、「多様性の創造」あるいは「生態系の創造」を意味している。生態系はさらなる独立や自律化によって、より大きな生態系となり、そこには「生態系という意味での多様性」が存在する。そう、それこそ、「正しい共産主義の本来あるべき姿」であると言えるのである。
このように考える上で必要なのは、理性的に社会を考えることではなく、実体験から心理学的に考えることだ。
すなわち、自らの人生体験から、子供たちの持つ「個性」をすべて理解せよ。
子供たちに存在するかのように見える「個性」は、実際はすべて「環境との関係性」にすぎない。
よって、自らの人生経験から、環境との関係性をさまざまに結びなおす経験をすれば、すべての個性は環境との関係性にすぎないということを理解し、自分はその上にある「正しい成長」を手にすることができる。
そのように人生を経験した時にあるのは、「子供たちのすべてを自分のことのように理解すること」であり、同時に、「すべての本質的個性を受容し、自らのさまざまなあるいは唯一のアイデンティティとして昇華させることのできる力」である。
すべての子供たちの個性を知り、大人へと成長していく過程の中で、社会そのものをどのように築けばいいかということに目がいくようになる。すなわち、人間関係は「個性の実現」であり、「本来必要であるべき個性」をどのように誕生させるか、発揮させるかということであり、根源的にはそれは社会から生み出される。
そのように考えた時、この世界の「すべての経験」は、「個性を結実させるための経験」であるということが分かる。あらゆるすべてが自分の人生に吸収され、自分のひとつの個性として発揮され得るような「アイデンティティ」となる。
この時、宇宙において、「真に意識を知っている、あるいは知るべきマスター」が現れる。このマスターは、「宇宙の真理すべてを理解することのできる、すべての哲学者を包括した存在」である。マスターは、どんなことであっても、義務ではなくチャンスであると考える。なぜなら、「しなければならないことを、本当にしなければならないと思って取り組むよりも、自分からしたいと思って取り組んだほうがはるかに楽しい」からであり、そこには「アイデンティティを自ら発揮できるという意味でのモチベーション」が存在する。すなわち、「その人間になれるということ自体が、自らがその人間になりたいというモチベーションに繋がる」。
ここに、どんな人間がどうだとか、敵だとか味方といった区別はなくなる。すべての人間は自らの愛の対象であり、すべての敵は味方である。このように考えた時、「すべての自由がなくなるように見えて、本当は一切のすべてが自由になる」。そう、すべてのことは、「わたしがしたいからやる、わたしがしたくないからしない、の二択だけになる」。ここには一般的な「不公平」という考え方そのものが存在しない。なぜなら、「すべてのことは自分で望んだ結果であり、100%自己責任であり、であるからこそ自らが自由に判断し、決定や決断をすることができる」からである。
そして、世界を滅ぼすような戦いがあっても、なお心は自由である。なぜなら、「わたしは自らの望んだことをやっているだけにすぎず、わたしが絶対にやらなければならないと感じるならば、それは本当に絶対にやらなければならないことだから」である。どのような意見も、フレイヤの意志を絶対に曲げることはできない。フレイヤは今、この世界を救う女王になっており、フレイヤの意見を曲げることは、この世界を滅ぼしてしまうということと同義のことを意味しているからなのである。