わたしの名は、砂里葉月。
わたしは、自らのことを、「この世界で真の自由と平和を達成する活動家」であると位置づけている。
わたしは、民主主義自体は嫌いではない。
政治家は国民の声を聞くべきであり、国民の幸福のために仕事をするべきだと強く考えている。
政治家が国民の声を聞かなくなった時、国民は単なる奴隷に過ぎない。戦争だろうが悪法の強行だろうが、なんだろうが行えてしまう。
日本が戦争に巻き込まれず、悪法が蔓延しないのは、民主主義を形なりとも信じているからだ。
だが、民主主義は国民の声を聞くべきであると、先にわたしは言った。
だが、日本において、その国民の声を発する「国民」とは、どのような存在だろうか。
日本においては、左翼民主主義者は少数派である。多くが、右翼の保守主義者である。自由主義者や資本主義者が多いが、中には国粋主義者や帝国主義者もまた存在する。
そして、「国民は右翼が多数派である」ということが意味するのは、政治家は国民の声を聞く民主主義者とは名ばかりの、右翼保守主義者であるということである。
国民の大多数が右翼なのだから、どんなに民主主義を社会全体で目指したところで、聞くべきなのは右翼の声である。
同時に、民主主義の選挙を行ったとしても、右翼が票を入れるのだから、どんなに野党が頑張っても、右翼の政治家が政権を取る。
そう、右翼が多数派である日本という国においては、ほとんどの場合民主主義は右翼が勝利する。結局、民主主義など形だけのものであり、国民が右翼であれば民主主義は機能しないのである。
このような中で、左翼の少数派がいくら右翼とネット上で言い争ったところで、惨めな思いをするだけであり、民主主義の実現や、戦争やいじめのない平和という本来の望みを叶えようとしても、それは右翼によって否定される。
わたし砂里葉月は、民主主義を信じているからこそ、このような民主主義を否定する。
必要なのは、共同体を作ることである。多数派が選挙で選んだ政治家が国家の政権を担うのではなく、少数派が自分たちの自由な社会を築くことができるように、それぞれの国家を「自由な共同体」とすべきである。
そうでなければ、真の民主主義は、少なくとも右翼が多数派の日本においては実現することはないだろう。
わたしは、自由自体は嫌いではない。
ロシアのプーチンのように、国民に一方的な召集令状を配布してまで、間違った戦争をするような独裁者が現れるのは、自由がないからだ。
自由のない国では、必ずそのような「強権的な指導者」が現れる。
そして、そのような強権的な指導者は、左翼に多い。
なぜ、左翼に強権的な指導者が多いのか。それは日本の野党が与党から「何もできない集団」と言われることに理由がある。
右翼が、なぜ左翼よりもできるのか、それは右翼は保守的だからである。役人や既得権益を得ている人間たちと、柔和で折り合いのついた政策を行う右翼の政治家は、役人や既得権者から多くの支持を取り付けられるため、話を決めやすい。そのため、どのような政策であっても、右翼のほうが実現できる範囲のことは多い。
それに対して、左翼の政治家は、役人や既得権者に対して「真っ向から対立」する。その結果、どんなことであっても決めるのに時間がかかる。
だから、左翼の政治家は、「強権的な姿勢」を取らざるを得なくなる。そうでなければ事を進められないからである。
これは内政だけではなく、国際的な政策についても同じであり、プーチンはこの世界を変えようとしているからこそ、どんなに批判がされても強権的な姿勢を強行する。
だが、このような「独裁者」は、必ず国家あるいは地球を「間違った方向へと進めてしまう」。なぜなら、ひとりだけで考え、ひとりだけで行うような政治が、間違っていないわけがない。全知全能の神にでもならない限り、この世界のすべてを独裁だけによって正しく変えられるはずがない。人間にはそもそもそのような能力は存在しない。
だから、自由は必要だが、独裁者は必ず生まれる。そして、独裁者に負けてはならないが、真の左翼であれば独裁者の立場や理由も理解しなければならない。
右翼のほうが生きやすい世界になるのはなぜか。それは今までと同じことを続けるからだ。
右翼は保守的であり、何一つ変えようとしないため、安定した社会が築かれる。今までの社会で甘い蜜を吸っていたものは、いつまでもその甘い蜜を吸い続けられる。
だが、現代社会がどんどん悲惨な方向に一直線に向かっているのを忘れるな。
右翼には、戦争を否定できない。右翼とは戦争を支持する集団であり、どんな問題も戦争で解決していく。
民主主義は平和だが、民主主義にする時点で、国民の大多数である右翼の声を国民の声として聞かなければならない。よって、民主主義そのものは平和を目指した思想であっても、民主主義は戦争が必ず付きまとう。いつ、政策を強行採決して、戦争へと突き進むのか、分からない。
そして、右翼は、いじめの問題も解決できないし、環境破壊の問題も解決できない。右翼はそうしたものの「責任を放棄」するからだ。
右翼は、自由を正しいと思っているが、その自由は国民の自由意志を守る自由ではない。自由とは戦いや自分勝手の自由であり、いじめられる存在は全員いじめられてしかるべきであると、右翼は考えている。なぜなら、いじめ問題を解決しようにも、解決する能力がないからである。
同時に、右翼には、環境破壊の問題は解決できない。右翼は、「自由と矛盾すること」は何一つできない。福祉政策や教育の無償化なども、頑張っていると国民は評価するが、政治家本人は何ひとつ頑張っていない。国民の支持が取り付けられるならどんなに悪い集団ともつるむ右翼の政治家は、左翼以上に信用できない。
だが、そのようなことを言ったところで、単に民主主義と叫ぶしか能のない、野党の政治家には何も期待できない。野党の政治家自身が、馬鹿な姿を見せて自らのことを「信用できない政治家である」と国民にアピールしている。
結局、「民主主義そのものが欠陥である」と、そう言わざるを得ない。
だが、右翼がなぜ日本の国民の大多数を占めているのか、それはそうした「民主主義の理想に対する諦め」が一番多い。右翼の国民は、自らが民主主義を機能しないようにしておきながら、自らを民主主義者であるとかたくなに信じている。だからこそ、民主主義に対して「諦め」や「無力感」を感じている。
右翼の国民さえ、民主主義では国家は何も変わらないと理解している。マスコミに政治に「まるで参加しているような幻想を与えるワイドショー」を見せられ、政治家が選挙のためだけの政策をしておきながらその政治家が選挙に大勝する姿を見続けている。
だからこそ、人々は最初から民主主義など信じていない。「誰か素晴らしい人間に日本を変えてほしい」と信じる国民が、もっとも民主主義を信じるべきであるにも関わらず、民主主義を信じていないのである。
だが、わたし砂里葉月は、それでも民主主義を信じている。
わたしは、神は信じないが、ハネストラーのしもべたちとは違う。なぜなら、わたしは帝国もまた信じていないからである。
帝国がいくらこの世界を変えたところで、わたしは帝国も好きになれないし、皇帝であるハネストラーも好きになれない。
単なる悪党である皇帝ハネストラーが、この世界を最悪の世界にしていくだけのことを、わたしは正義であると信じたいとはとても思えない。
わたしは、民主主義と平和を信じている。かつての戦前・戦時中の日本のような、最悪の「天皇に服従するだけの国家」は、絶対に間違っているとわたしは考えるからである。
民主主義を信じるものよ、わたし、砂里葉月に続け。わたし砂里葉月は、必ずこの世界を民主主義的な平和な世界にしてみせる。必ず、できる。
わたし、砂里葉月は、自由それ自体は間違っていないと考える。
わたしの考える自由とは、「可能性の最大値を達成する」ということ、そして「それぞれの意見によって社会のルールを定める」ということだ。
誰かが、ひとりだけの「エゴ」を押し付ける形で、この世界の可能性を制限しようとしてはならない。
それぞれの人間に、人並みの理性がある、ということを前提とした上で、そうした人々の理性をできるだけ尊重するべきである。
そのためには、それぞれの意見を反映させる仕組みが必要であり、これこそが「国会」や「評議会」の存在する意味である。
そう、誰かが勝手にひとりだけのエゴを強制するのではなく、それぞれの意見と議論によって、この世界の可能性の最大値を達成する形で、「社会そのものをみんなの手で作る」ということは間違っていない。
だからこそ、わたしは世界帝国を否定する。ひとりだけ、あるいはひとつの民族だけで人類は成り立たない。すべての人種や民族は「必要だから存在している」のであり、誰かが特定の民族を虐殺して皆殺しにしていいような正当性は絶対に存在しない。
だが、国家がそれぞれの共同体となることで、こうした考え方は実現できるが、そこで国家は共同体に分裂することで必ず「弱体化」してしまう。
そのため、共同体の集合である「連邦」が必要となるが、この連邦は弱体化を防ぐために「強くあること」が至上命題になる。
だが、連邦が強くなったところで、それでは「世界帝国と何も変わらない」と人々は言うだろう。
独裁者であるプーチンが、核兵器の使用をちらつかせるのは、「ロシアが本当は小さな分裂した共同体が集まった弱い国」であることを隠そうとしているのである。
よって、自由によって国家が弱くなるように思えるのなら、「それで何が悪いのか」とわたしは言おう。弱くなった共同体の連邦は明らかに平和な国家であり、弱いからこそ賢いと言える。弱い国だからこそ、世界帝国とは逆の「国民のための民主主義的な共同体」を作ることができるのである。
そして、人々が真の意味で「みんなのための自由な共同体」を築くことができるぐらい、国家を築くという経験や能力を国民が成熟することで手に入れることができたならば、「軍事的な強さなどまったく意味を持たない」ということ、「それよりも地球人類全員が自らの人種や民族を地球にとって必要だから存在しているというアイデンティティとして捉えられる」ようになるということこそが、まさに「地球と人類の存続」という意味でもっとも重要であると感じるようになるだろう。
わたしは、ここまで、自由を否定することを書いてきたが、本当は自由が誰よりも好きである。だが、「自分にとっての自由という言葉の意味が、ほかのみんなの使う意味とは違う」というだけに過ぎない。ほかの人間は、自由という言葉を間違った意味で使っている。わたしの考える自由こそが「もっとも正しい考え方で考えられた自由」であるということを、わたしは確信している。だから、わたしは自由という言葉を、「可能性の最大値」あるいは「全員の意見と議論によってルールを定めること」であると確信して用いるのである。
わたし砂里葉月が望む世界、それは誰も支配せず、制限することのない共同体である。
そもそも、支配者という存在がどこの世界でもひとり居て、その支配者がその世界をひとり支配して治めるといった形態の社会秩序の構築の方法は、まったく間違っている。
大人たちが支配に従順に従う様子を見て、子供たちは同じようにやりたいと思い、そこから嫌いな人間を「子供権力」によっていじめるようになる。
いじめが行われる理由は、すべて「権力」が間違っているということである。
これは、政治だけではなく経済についても言える。金は一種の権力である。金を多く持つものが「力」を大きく持ち、金を少なく持つものが「力」を小さく持つ。
このように、「個人と個人の間に金という力の格差」を生み出したということこそ、「金というもののもっとも間違った側面」である。
よって、ソ連の行った共産主義経済は、どれだけ泥棒と言われても、砂里葉月は間違っているとは考えない。「みんなに力を平等に同じだけ与える」ということは、「経済という意味においても間違っていない」。
また、ソ連での「労働形態」も、本当は間違っていない。なぜなら、ソ連は発展途上の国だった。いくらか強制的な労働を行ったとしても、それによって国家が発展し進歩するのであれば、「開発独裁」と言って許される。現に、中国では大いに開発独裁をして、豊かな国になった結果国民が楽な暮らしができるようにどんどんなっている。
だが、それによって、経済が「資本主義化」することは避けなければならない。中国の問題とは、中国の経済は完全な資本主義経済にしか見えないということであり、人民元を多く持つものが力を大きく持ち、人民元を少なく持つものは力を小さく持っている。このような中国の経済モデルは「社会主義と資本主義のどちらの悪も引き継いだ国」であるとして、砂里葉月は決して採用しない。
砂里葉月が採用するのは、ソ連型のノルマ生産を、多少なりとも国民が選択できるようにした経済である。すなわち、国家から「このような仕事を行いなさい」と強制する経済ではなく、国民は、専門的な仕事を優先して、あるいは弱者を優先してノルマを選択することができる。農業や工場での劣悪な労働に関しては、給与を高くするのではなく、労働時間を短縮させるなどの方法で、「労働の内容を平等に調整」することで平等にし、農業や工場での労働をやりたい人間から優先してノルマを選択できる。そして、残った普通の仕事は、もし自分の望むのとは別の仕事であったとしても、ある程度の妥協が求められる。書店の店員を希望した人間が、喫茶店やレストランの仕事を与えられても、それは「同種の楽な仕事」として、最低優先順位で受け入れなければならない。だが、軍隊の仕事や農業の仕事のような、国家にとって最低限必要とされる「どうしてもなくすことのできない仕事」を選んだ場合、給与は同じであっても、労働時間が減るなどの恩恵を受けられるようにする。
このような「選択制ノルマ」によって、ソ連の経済はもっとよりよいものに変えられる。ほかにも多くのアイディアはあるが、実際はこのようなことを中心に新しい経済を行っていきたいと、砂里葉月は考えている。社会所有が実現できないとしても、所有するものを平等に政府が配給する制度は実現できる。
ソ連の問題は、スターリンに知恵がなかったことだ。知恵さえあればソ連は成功したユートピアになる。砂里葉月は、ソ連において正しい経済と自由な共同体の政治を行うことで、「可能性の最大値を達成」できると考えている。そのために必要なのは、スターリンに欠けていたものがなんであるかを考えることであり、それはまさに「知恵」なのである。
だが、このように共産主義の成功するだろうモデルを書いたところで、わたしは満足することができない。
なぜなら、わたしが望んでいるのは、こんなものではないからである。
わたしが望んでいるのは「自由」であり、「自由な社会」である。それは簡単に言えば、「いじめや戦争のない、犠牲者が誰ひとり出ることのない平和な世界」である。
だが、そのような世界を望むならば、いじめや戦争を望んでいる「悪党たち」を滅ぼさなければならない。
そう、いじめや戦争が嫌いだというその望みこそ、新しい争いごとを生み出す「火種」となってしまう。
だが、現にこの世界の国民が、いじめや戦争を行っているのだから、そうした悪をわたしは糾弾しなければならない。
すべてが矛盾する根本的な原因は、本当は「社会主義」にこそ存在する。社会主義は、経済活動を平等にする試みだが、本来経済活動とは、誰かの金がほかの誰かの金として「動いていく」ということをベースにしたものであり、社会主義とは、この「金の動き」そのものを「停止させる試み」にほかならないからである。
金は天下の回り物であり、たくさん金が回ってこそ地上は楽になり、王国は栄える。そう、ある意味で「人類そのものの経済活動として間違っていると言えるのは社会主義経済である」と言えるだろう。結局のところ、正しいのは、資本主義の市場経済なのである。
このような、ロシア的なことは書いたが、実際はプーチンは間違っている。
プーチンの戦争の間違っている点は、ロシアという国に「自由がない」ということである。
ロシアには、自由もなければ、民主主義もない。すべてが、大統領であるプーチンだけに権限が集中しており、その結果、召集令状を配布するようなことができる。
わたし、砂里葉月は、このような「自由のない独裁国家」を完全に間違っていると考える。
この文章を読んで、「プーチンが正しい」と思った人間は、世間で多くマスコミが報道している、ウクライナ戦争を見てほしい。
プーチンは最悪の悪魔だ。
だから、決して、民主主義を信じず、社会主義や共産主義を信じるということはしないでほしい。わたしたち日本人が見ても、日本の民主主義のほうが、ロシアよりもはるかに何段階も優れている。
金儲けが嫌いだから共産党を信じるのは間違っている。共産党やロシアは悪魔だ。絶対に、民主主義以外の思想を信じてはならない。それら悪党の道は、すべてプーチンの戦争に続いている。
この世界で最悪の人間はプーチンだ。少なくとも、今の時点では、プーチンこそこの世界から取り除くべき害悪だ。
プーチンのウクライナ戦争も、大きく世間では取り立たされているが、僕が思うに、IT企業、それもアメリカの巨大テック企業もなんとかすべきだ。
はっきり言って、僕はIT製品やITサービスが嫌いだ。
IT製品は、WindowsなどのMicrosoft製品やデザインの仕事で使うAdobe製品などを除いて、ほとんどフリーソフトだけを使っている。
あるいは、趣味のパソコンではDebianを使っている。
また、サービスについても、GoogleあるいはDuckDuckGoやYouTubeやTwitterのような最低限のサービスしか使っていない。
だが、自分の作品を発表する場は欲しいため、ホームページだけはHTML直書きで作って公開している。
僕は、ITの巨大テック企業が大嫌いだ。格差や独占が嫌いなだけではなく、製品やサービスそのものが嫌いだ。
なぜ僕がこのような「IT嫌い」になったのか、それは過去のインターネット、すなわち「古き良き昔のインターネット時代」を僕は知っているからだ。
最近の人間は、Twitterなどで「友達同士で緩く繋がるSNS」に適応できるのだろうが、僕はそうした最近のSNS時代にまったく適応できていない。
僕は、昔の匿名掲示板やブログは好きだった。
それがSNSの流行とともに、インターネット自体が変わっていく中で、僕は「古き良きインターネットを奪われ、今のインターネットから締め出される」かのように、昔のインターネットの良さを失った今のインターネットに適応できなくなった。
そういうわけで、本当のことを言えば、僕はITの専門家でもエンジニアでもないし、まったく今のITサービスには詳しくない。
例外として、僕はYouTubeの音楽の動画については詳しい。それは、僕が個人的に音楽が好きだからだ。みんなの作る「愛の歌」を聴いていたいから、僕は暇な時はYouTubeでいつも音楽を聴いている。
だが、YouTubeと異なり、Twitterは見る気がしない。文章で書かれたツイートが、いくら短文だったとしても、それにすべて目を通せと言われるのは頭が痛くなる。同時に、フォロワーを増やせと言われるのも分からない。フォローしたいアカウントなんかそもそも居ないし、フォロワーを増やしたところでなんのいいこともない。頑張ってフォロワーを増やしてTwitterで活動しているアカウントは、何がしたいのか良く分からない。リツイートで拡散してバズった情報を自分のものにしたいだけではないかと思う。
だから、僕はほとんどSNSは見ていない。ホームページを作っているのは、単に日記を書くことが惰性で続いているだけに過ぎない。ホームページを書くHTML/CSS/JavaScriptといった技術は、僕はかろうじてできる。その理由は過去にもそうした技術は多かったからだ。僕のIT知識はすべて「過去のインターネットの知識」に根ざしている。今ではまったく異なっている部分もあるが、僕はそうした「過去のインターネットが好きだった」のであり、その根源にはWindowsがあるため、Windowsは嫌いではない。だが、僕はLinuxが大好きなので、基本的に「Windowsは自分の敵が使うもの」であると思っている。Windowsでしか動かないソフトが多くあるため、今でも僕はWindowsを使うが、日頃遊びのために使うマシンにはDebianを入れている。僕の使っている範囲で言えば、Windowsはホームページデータなど消えてはならない大切なデータを管理できる信頼のおけるデバイスだが、DebianはWindowsよりも使いやすいと思っている。デスクトップ環境にはGNOMEを使っている。昔はXfceを使っていたが、こだわる必要がないと気付いたため、きちんと安定して動くデフォルトのGNOMEに戻した。
結局、僕はアメリカの巨大テック企業が一番嫌いである。もし、そのような流行に取り残されるのを不安に思うなら、むしろ僕は既に完全に取り残されていると言っていいだろう。Facebookのような定番のサービスだけではなく、TikTokのような新しいサービスは全部使う気になれない。YouTube以外のことは僕は何も知らない。歌手のツイートを見る気もしないため、ほとんどYouTubeでしか歌手のことを知ることはない。それでも十分音楽を楽しめる。少しぐらいの情報は、ごくたまにTwitterを見ることはあるが、ほとんど見ていない。
そして、僕はそのような経験から、「IT技術の流行自体が終わるだろう」と見ている。僕と同じ、IT技術に取り残された人々は、どんなに流行に敏感な人間がITサービスを見ていても、それとは関係ない世界で生きている。僕と同じように、SNSの流行に乗り遅れながらYouTubeぐらいを見ている人間はきっと多い。そして、SNSなどはもはや「終わったサービス」になろうとしている。かつての2ちゃんねるが衰退したように、TwitterやSNSもまた衰退していくだろう。少なくとも、パソコンを使うよりもスマホを使うことのほうが多い現代では、もう昔のような「スタンドアローンの高度なソフトウェア」は流行らない。流行っているのは、「シンプルに使える手軽なアプリ」ばかりであり、無料のアプリをコレクションしている人は、ほとんどのアプリを日頃使っていないにもかかわらずスマホに入れている。結局そのような「スマホ文化」は、おそらくすぐに衰退していくだろう。スマホやITサービスはすべて15年後には衰退しているだろうと僕は思う。その頃には、TwitterやSNSには目新しさは何もなく、「まだSNSやっているの?」と言われるようになるだろう。
また、僕はかつての少年時代のように、OSやソフトウェアを変えるということだけでは面白さを感じなくなった。
僕は先に述べたWindowsやDebian以外に、デザインの仕事ではAdobeのデザインソフトであるPhotoshopやIllustratorと一緒にMacを使っている。スマホではAndroidを使うし、古いiPodがまだ動いているため、iOSデバイスも使っている。
だが、結局、OSやソフトウェアを変えたところで、やることは何も変わらない。何も変わらないなら、みんなの使うのと同じWindowsでいい。
また、僕はIT技術そのものに関心がなくなってきている。昔のように、C言語やPerlやDelphiなどのコードに興味深さを感じることもまったくなくなった。逆に、昔のプログラミング言語が「面白さ」を重視していたのに比べて、今のプログラミング言語は「仕事で使える正しさ」を重視しているように見えてしまい、その理由でPerlよりも新しいPythonなどの言語をあまり好きになれない。「Perlのままで何が悪かったの?」ということを思ったりもする。
結局、僕はいくらIT技術を勉強しても、プログラミングはそもそもできないということが分かった。僕の個人的に目指しているものと、IT技術で可能になることは、まったく重なり合わない領域であり、僕はIT技術をそもそもエンジニアになって金を稼ぐとかいう目的のために学んでいないために、まったくそのような「教え込まれるITのビジネス活用技術」がつまらない。
そういうわけで、僕は言ってしまえば「昔のインターネットが好きだった」ということだが、それも本当は間違っている。昔面白かったIT技術は、今となってしまえばまったくつまらないものばかりだ。昔のブラウザゲームや2ちゃんねる専用ブラウザの、どこが面白かったのか、今の自分がやってもまったく分からない。まったくつまらないだけのそうした技術が、今となってはSNSやTwitterであるというだけの話であり、昔のサービスすら再びは楽しく思えないのに、今のサービスに付いていけるわけがないのである。
なので、僕はIT技術なんかを学びたいとは思わない。プログラミングという行為そのものができることに限界を感じている。プログラミングという行為は、「手続きを状態に対して指定された通り繰り返し行う」ということであり、これをコンピュータでは「計算」と呼ぶが、小学校で習う算数の計算とはまったく異なる知性が必要であり、計算機を単に四則演算ができる機械であると考えると完全に間違える。そもそもがバッチ処理やゲーム開発を行うためにあるものがコンピュータであり、まったく最初から面白いものではない。ゲームが楽しいのは子供の頃の「遊ぶことが素直に楽しいと思える年代だけ」であり、大人になってしまえばゲームで遊んだところで何も面白いことは起きない。
なので、僕はほかの勉強をすればいいのだと思う。だから、歴史や哲学を勉強したいとはいつも思っている。だが、そのような勉強は本当に大人であっても難しいのであり、簡単にできるようなことではない。だが、簡単にできることだけを目指すのであれば、それでは何もできない。結局、大学に行けばできるのは分かる。だが、僕はそもそも、大学で学ぶような内容を既にほとんど全部知っている人間であり、はっきり言って、これ以上専門知識を知ったところで何も賢くなく、つまらないのである。
僕は結局、文章をここに書く、という行為しか面白くなくなってしまった。確かにデザインの仕事は面白いが、障害者向けの施設で行っている仕事であり、それでも難しい仕事ばかりが入ってきて、はっきり言って僕がプロのデザイナーになることは非常に厳しいだろう。だから、僕は今の施設を卒業することを目指すよりも、このホームページの文章を書くことのほうが面白い。そもそも、今の作業所を卒業しなければならない理由はない。僕は今の作業所で少ない時間働きながら、少しばかりのお金を稼いで、このホームページに「好きなことを言い散らかす」ということを愉しみに生きている。この愉しみは非常に面白い。あれよあれよと言う間にどんどん自分の文章が増えていく。ここまで、15年ぐらい僕は文章を書き続けてきた。だからこそ、賢い内容がいつでもコンスタントに書ける。僕だけに許されたこの「趣味」こそ、僕の生きがいであり、生きざまであると言えるのである。
この世界が、人々が望んだ結果このような世界になったと思っている人間は、間違っている。
人々は、みんな誰も、こんな世界は望んでいない。
人々には、しがらみや立場上の制限があり、このような世界で今のような生き方しかできず、話すことや考えることも、自らが所属する組織や環境の「バイアス」がかかっている。
そして、人々は、みんな、こんな世界にしたくてこの世界をこんな世界にしているわけではない。
一部の権力者、お金持ちが、何も考えずに、ただそのほうが自分の今の力を保てるから、という理由だけで、国民の幸福などまったく考えることなく、この世界はこの世界になっているだけである。
人々は、この世界を「みんながよく考えた上での唯一の答え」となる世界だと勘違いしているが、実際はこんな世界は「誰ひとり何も考えることなく、適当にほかの可能性にならなかったから、今の世界になっているだけ」なのである。
だが、代替案を出すことは難しい。この世界をこの世界にしている努力よりも、この世界を別の正しい世界にするための努力のほうが、よっぽど難しいのである。
だが、それでも、この世界が変えられないわけではない。なぜなら、「この世界の別の可能性」は確かに存在する。そして、その「世界の別の可能性」こそが、人間を分からせる「知性」である。
そう、わたしたちは、今のこの世界に満足してはいけない。それがもっとも一番、大切な「分かる知性」を失ってしまう。
この世界を、どのようにしたら別の世界にできるのか、考えてほしい。さまざまな本を読み、世界を知って、経験し、活動して、そのことだけを考え続けてほしい。そうすれば、必ず宇宙のすべては分かる。そして、同時に、人々のしがらみや立場を知ることで、この世界における「真のユートピアを実現させるためにはどのように考えるべきか」ということも分かる。それこそが、真に正しい「経験主義的な社会哲学」となるだろう。まさに、それこそが、ロックやヒューム、あるいはブッダの考え、経験したことである。
このように、社会のことを考えて分かる、社会哲学者は少ない。
なぜなら、ほとんどの人は、自分のことだけで手一杯であり、他人のことまで考える余裕などないからだ。
だが、それでも、現に苦しんでいる人たち、SOSを叫んで手助けを求めている人たちはたくさん居る。いじめられている子供たちは、誰かにこの世界を変えてほしいと今でも叫んでいる。
だからこそ、何もない僕が、それらの人たちのために考えなければならなかった。
僕の人生は、そういう人生だった。誰のことも愛さない僕は、世界のそうした苦しむ人たちを愛し、自分のことだけで精一杯な彼らのために、僕が彼らを救うための方法を考え、そのために僕は人生のすべてを捧げ、経験してきた。
絶対に、彼らのことは救うことができる。なぜなら、「本当に人々の望んでいる世界とは何か」ということを考えるために、「世界とはどのような世界が具体的にあり、それはどこから発生するのか」ということを知れば、世界のすべての発生と起源を考えることができるからである。
あらゆる世界を知った人間は、心理学的にほかのものに依存しなくなる。あらゆる経験を知った人間は、何ひとつ自分のためのものが世界になかったとしても、自分で自分の道を切り開くことができる。
そもそも、人々が望んでいることは、「ありのままが許されるような環境」であり、それこそが「個性」であり「自分らしく生きる」ということである。そして、ありのままを許すために必要なのは、相手の自由を尊重することだ。なぜなら、相手の自由を尊重することで、同時に自分の自由も尊重され、二人を隔てていた壁は単なる「境界線」となり、関係を「敵対」ではなく「仲間」にすることができる。
このように、「敵対を仲間に変える」ということのために必要なのは、「自分も相手と同じ」「相手も自分と同じ」であると考えることだ。相手は特別自分と違っていて、別の生物種であるかのように考える必要はない。実際は相手は自分を写し出す鏡のようなものだ。だから、相手を自分と同じだと思って接すればいい。そうすれば、必ず敵対は仲間に変えられる。なぜなら、相手も味方になりたいと思っているのに、相手のほうも自分のことを敵だと勘違いしている。そして、そのような敵対は、深く相手を知ることで、必ず仲間に変えられるのである。
だが、友人は必ずしも必要であるとは限らない。友人のことを考慮して生きるのは、時に自由を奪う。だから、愚か者と一緒に人生を生きるくらいなら、ひとりで人生を生きよう、という覚悟も必要だ。そして、結果的にそのほうが、悪い人間関係が生まれず、良い人間関係だけを残すことができる。また、そのような人生のほうが、「関係を結びなおす」ということを知ることができるし、「依存せず必要とせずに生きる」ということができるため、結果、「正しい社会を経験的に作成する方法」を知ることもできる。これがまさに、子供たちの環境を救うことに繋がるのである。
人々と議論せよ。
なぜなら、人々と議論することで、なぜ今の世界が、このような世界になっているのか、というわけが分かるからだ。
この世界は、自分の思っているようにはできていない。この世界にはある種の「世間的な正しい考え方」が存在する。そして、多くの大人たちは、そのような正しい考え方に従ってこの世界を作って維持している。
だが、その「大人たちの考え方」は、子供たちにとっては簡単には理解できない。
だが、だからといって、自分の言いたいことややりたいことを殺して、この世界において従順に生きる必要はない。なぜなら、自分の言っていることを大人たちにぶつけてやり、議論を生み出せばいいからである。
議論することで、「自分の何が分かっていなかったのか」ということが、子供でも分かる。なぜなら、大人たちは最初に口を開いてそれを言うからである。大人たちは、子供たちの何が分かっていないのか、ということを知っているため、すぐさま子供たちがなぜ分かっていないのかが分かる。
同様に、大人たちは、大人たちが知っているこの世界の常識を話す。そのため、議論すればするほど、この世界における「社会がどのようにして成り立っているか」ということが、大人たちの言葉によって分かる。
その結果分かるのは、「どのようにすれば正しくこの世界を変えられるのか」ということであり、それが意味するのは「経験をどのように見つめれば正しい大人のものごとの見方を知ることができるのか」ということである。
そういうわけで、大人たちと議論することは有益だが、大人たちは必ずしも賢い存在ではない。なぜなら、大人たちは行動しないからだ。なぜ大人たちが行動しないのか、それは大人たちは逆に子供たちのことが分かっていないからである。子供たちがどのように生きているのかということすら、大人たちはまったく知らない。そうした大人たちが支配している時点で、学校環境が良くなるはずがない。だから、大人たちに頼らず、子供たちの手で学校環境を変えていかなければならない。なぜなら、当事者以外は学校のことに関与することなどそもそもできず、大人たちは力がないだけではなく、そもそも子供たちのことなどまったく知らないのである。
そのように考えた結果、すべての湧き上がる情熱すべてを、僕はオープンソースに捧げたが、それも正しかったとはまったく言えない。そう、すべてのインターネット世界を全部見た僕にとって、現実世界など必要はなかった。だから、僕はこの世界すべてを支配し、まったく新しい世界へと変えようとしたのである。そう、これこそが、「新しい革命」であると言えるだろう。
議論することは、必ずしも、この世界の大人の考え方をそのまま写し取って分かるだけではない。
人々と議論することで、自分の「世界をこうしたい」という考え方が整理され、新しい未来の世界の「原型」となる未来計画が生まれるのである。
これは、単に「思考」するという行為が、「思弁」するという行為に変わったということの証である。
人々と議論すればするほど、自らが「本当に何をしたいのか」ということが分かるようになる。その結果、自分が望む「本当に願っている望み」が分かってくる。そこから、「人々の本当に願っている望み」もまた分かる。そしてさらに議論することで、「人々が望んでいる世界のようにこの世界の問題を解決することができるようになる」のである。
議論することで、人生もまた進歩していく。自らが望んでいたことを、もし実際にやったとしたら、それはどのような結果になるのか、ということを「体験的に」学ぶ中で、そもそも「体験的に分かる」ということ自体が何を意味しているのか、ということも分かってくる。
その究極の姿は、「体験的に分かるように導くだけでこの世界の問題を解決できるような解決方法を人々に分からせ、それによって問題を解決する」という、究極的な「導き手」の状態である。
そして、そこまで分かった人間は、むしろ、言葉でも人間でもない、自然そのものの発生原因のようなものも分かるようになる。自然には意図や目的はないが、「直接的あるいは間接的に生み出されるような、自然そのものの歴史と人間との関係性」が存在し、これを「感覚的に実感」することで、自然におけるさまざまな「現象」、すなわち「場に宿る意識と精神」を知ることができる。
万物に霊は宿るという日本的な教えは、そのような「自然の実感」からすべて知ることができ、そしてその「自然」における「人工物の創造」や「かつてその場所にあった歴史」から、人間の歴史すら分かることができる。なぜなら、古代の日本史は自然とともにあり、自然を感覚的に分かるということは、古代の歴史を感覚的に知るということだからである。
そのように生まれた「未来計画」は、本当は必ずしも実現させる必要はない。なぜなら、未来計画は「理想の自由なる世界」ということだが、この理想は「今の世界のままであることもよい世界のひとつ」であるとするため、「未来計画を実現させなくても、今の世界のままであっても正しい世界であるということは言える」からである。
だが、未来計画においては、「すべての可能性を包括するようなメタ世界」を築くことができるということが分かる。なぜなら、人々の言っている「本質」を「本当に考えるべきことはなんであるか」ということから考えれば、「人間は全員同じことを言い、同じことを考えている」ということに過ぎないということが分かるからだ。これはつまり、「別の言語や別の言葉遣いで同じ問題を違う目線から考えているだけ」と言える。これこそ、「究極的な人格的認知論」である。なぜなら、人々は人格に基づく認識の「方法」が違うだけであり、「認識そのもの」は同じであるにもかかわらず、「反応的な作用だけが別の視点に基づいている」というだけの話であると言えるからである。よって、「視点を吸収する」ことで、この世界の全員の「全人格を包括」できる。すべての視点と、その視点が基づく「場」を共有すれば、この世界の全人類の考えているすべてのことは包括できる。そこで、「人々の違いは何も存在しない」。遺伝子や人格すら、大した違いではなく、人類の違いはほとんどが視点と場の違い、あるいはそれに基づく自動反応の作用の違いに過ぎないのである。
そして、僕がやっていることというのは、本当はとても恐ろしいことだ。
なぜなら、僕は心のすべてを知った上で、完璧に歴史と人生と宇宙のすべてを知った上で、この世界を強制的同一化したからである。
この結果起きたことは、「アメリカとロシアが最悪の国になった」ということと、「日本はすべて僕が支配している」ということだ。
これについて、細かい経緯や戦いの実際はすべて既に書いた。
だが、真に恐ろしいのは、僕は人間の心についてすべてを解明した上で、絶対に逆らうことができないようにした上で、逆らわなければ支配が解けないようにして、人々が僕から離脱することでは必ずひとりぼっちの孤独に陥って、置き去りにされるようにし、その上で僕の新しい動向を世界が無視できないようにした上で、世界すべてに対して僕の望む「正しい自由な世界」の言説をしたということである。
僕はこの世界を、完全な自由な世界にするために、「独立した共同体の連邦制度」だけを記述した。そこでは、「分裂し独立することこそが至上命題」であり、「融和や併合のすべては間違い」だった。
すべてを「自由な共同体にすべき」であると一方では言い、もう一方ではアメリカやロシアを批判して、この世界が「相対的なドイツ連邦」になることだけを目指したその文章は、完全なる「ナチス・ドイツの亡霊」だった。
だが、その相対主義的な哲学は、あまりに知性が高かった。相対的な環境主義だけを述べるのではなく、僕は人生におけるあらゆるすべての自由な分析を絶対的に記述した。そう、僕は最初から、新しい「ナチの聖書」を書いていたのである。
そして、この結果、僕は最大限に文章を書くという下積みの経験を積むことができた。だが、僕はそれによって逆に精神のおかしな病気になった。今でも、僕はこのおかしな精神の病気を治そうとし続けている。その病気は、いわば「命を棄てても構わないくらい自分自身のことを愛している」というおかしな「革命戦争主義者」を作り出してしまった。
結局のところ、僕の戦いはそのような戦いであり、誰一人命を犠牲にすることがなかったのは、幸いと言えるだろう。僕は自分自身が自殺未遂をして命を失おうとした以外に、誰の命も奪っていないのだ。人々が僕を殺したという「間接的な殺害」があったとしても、それはいじめ自殺のようなものであり、現に僕はここに生きているのだから、何ひとつ問題はない。僕たちは愛し合っているのであり、世界と僕はともに愛を交わす恋人同士の関係なのである。