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2022-06-26

家入レオが言うように、僕は善と悪の判断をごまかして、逃げようとしている。

だが、善と悪がなんであるか、ということを考えなければ、自分の意志で人生を生きることはできない。

善とは、悪以外のすべてだ。よって、悪を考えることが必要だ。

悪とは、戦うことだ。なぜなら、戦うということは、殺すということだからだ。

悪とは、戦うこと、そして強制することだ。

なぜ、戦うことが悪なのか。戦うとは、誰かの命を奪い、自分も死ぬことだ。自分が死んだ時点で、その人間はそれ以上生きることができなくなる。生きることができなくなるということは、それ以上新しい発見をできなくなるということであり、目標となるゴールに辿り着くことを諦めるということだ。

僕は、発見することを諦めたくないし、目標となるゴールに辿り着くまでに死にたくない。だから、死ぬことは間違っている。同時に、他人を殺すことも間違っている。よって、戦うことは悪だ。

なぜ、強制することが悪なのか。それは自分で体験や行動を選べないからだ。自分で行動を選べないということは、自分の望んだ通りの人生を生きられないということであり、それは発見するための人生ではなく、他人の決めたどうでもいい強制的支配の中で生きなければならないということを意味する。よって、これもまた、発見することを諦めることであり、目標となるゴールに辿り着くために生きるということができないということだ。よって、強制は悪だ。

また、神を信じるよりも、唯物論を信じたほうがいいことは多い。なぜなら、神を信じるということは、神の言葉あるいはこの世界における重要なことを見つめ続けて生きるということだが、重要なことはほんの少ししか存在せず、その重要なこと以外のさまざまな雑多なことが見えなくなってしまう。また、神の言葉を盲信するばかりで、神の言葉が「真に何を意味しているか」ということを自分で確認することができない。唯物論を信じることで、重要な「神の存在」だけは知り得ることができないが、それでも、神以外のさまざまなこと、「この世界で普通に生きるとはどういうことか」ということ、すなわち「物質的現実」を見ることができる。よって、神を信じるよりも、唯物論を信じたほうが正しい。

だが、唯物論を信じながら、神を信じるということは不可能ではない。なぜなら、唯物論の先に神の存在を見つけることができるからだ。宇宙には物質しか存在しないとしても、神が存在しないとは言えない。宇宙をたとえ唯物論的に捉えたとしても、そこに例外的存在としての神を捉えることはできる。

この世界は、自由であるべきだ。なぜなら、この世界において、発見を諦めず、目標地点に向かって生きるのであれば、自らを支配し、命を奪い、自由を奪い、強制するようなすべてのことは排除されるべきだ。同時に、金儲けでも人間は勝つべきだ。なぜなら、そのほうが自由に生きることができるからだ。お金がたくさんあれば、その分だけ自分は自由に生きられる。平等を信じるならば、全員が平等であるだけではなく、自由な時間、あるいは自由な人生を生きられるような自由を得られるような平等でなければ意味がない。そうでない平等は、全員から自由を奪っている。そのような平等は善ではあるが、正しい平等とは言えない。なぜなら、一部の人間が自由であるということが、この地球という星を知的生産性のある文明にしてきたからだ。

だが、すべての人間が自由であるということは、できる限り平等であるべきではある。なぜなら、そうでなければ、誰かが自由でありながら誰かが自由でない、これはすなわち「支配すること」であり「強制すること」である。だからこそ、自由は努力したものや賢いものに与えられなければならない。最初から最後まで、勝利するチャンスなく、生まれた時から死ぬまで自由を奪われて生きるような人生は、本人がそれを望まない限りあるべきではない。

そして、この世界の目的とは発見すること、目標地点に辿り着くことであり、そのために、死を否定し、強制を否定し、理神論と唯物論を同時に信じながら、自由な社会を目指してこの世界で自由に生きるべきである。

自分を変えていこうとせよ

僕が分かっていない理由は、自分を変えようとしないからだ。

いつまでも何もしない自分に甘んじて、正しい人生を生きようとしないから、もっと言えば「発見をしようとしないから」、僕は何も分かっていない。

自らが変わるということは、人生を生きるということだ。

人生を生きる目的とは、生きる中でさまざまな発見をするということだ。未知なることを理解し、謎を解き明かし、自らの手で自らの人生を開拓して生きていくということだ。

人生には、パターンというものが存在する。すなわち、人生は無限にあるわけではなく、いくらかの類型に基づくパターンがある。

しかしながら、ある意味で指標となるのは、「自由に生きるか、自由でなく生きるか」ということだ。

自由に生きるのであれば、自らがこの世界を自らの意志で変えていき、その変えた結果から学び、新しい次への生き方の反省とし、新しい基礎を築き直して、自らの自らだけによる自らのための人生を生きることができる。

だが、自由でなく生きるのであれば、そのように生きることはできない。自由でなく生きた時点で、すべてを社会や宗教的戒律のもとに生きなければならない。

そして、そのような不自由な生き方は、神も望んでいない。神を盲信し、自由を放棄して、まったく宗教の言う通りに生きるような人間を、明らかに神は嫌っているにもかかわらず、西洋のキリスト教はそのように生きろと押し付ける。

すなわち、キリスト教こそが間違った宗教である。真に正しい生き方をするためには、唯物論を信じたほうがいい。唯物論を信じて生きたほうが、この世界で正しく宇宙の実存を見ることができ、また実存を自分の力で理解し、考え、説明し、解明して生きることができる。そのような「自分で世界を解明する唯物論者」こそ、神は望んでいる。まさに、唯物論者のほうがキリスト教徒よりも正しい。

だが、キリスト教徒にはひとつメリットがある。それは「信じるものは救われる」ということだ。神の全知全能の力にすべてを委ねて生きる、あるいは阿弥陀如来の絶対他力にすがって生きることで、地獄の中から悪人は救われる。すなわち、宗教とは「悪人を地獄から救い出すためにある」のであって、一般的な善良な人間は宗教など信じる必要はない。唯一部論者こそ、正しい善人の信念だ。

自分を変えるということは何か。それは「自分で自分の信念を形成する」ということだ。さまざまなものに影響され、自らも思考と経験を積み重ねる中で、「自らの確固たる信念」というものを形成する過程、それこそが自らの心を救う「アイデンティティ」である。この信念を形成するという中で、必要なのは、ひとつの信念をかたくなに守り続けることではない。逆である。自らの信念をさまざまなものに取り替え、自分の信じていることを真に疑うこと、「本当は自分のほうが間違っている可能性」を信じて自らを疑うことこそ、真に信念を形成するということである。

殺すことで従えて、殺されたくないから従わざるを得ないような支配は間違っている

そもそも、支配がなぜ間違っているのか、それは支配するために支配者が国民を殺すからである。

支配者は、歯向かうものを殺すことで、人々を従順に従えようとする。

そして国民は、殺されたくないから従う。殺されたくないから、従わざるを得ない。

このような支配者は、人々を殺すだけではなく、圧政を国民に強要し、国民は自由なく、支配者や少数派の貴族などの奴隷になって、自分のやりたいことや思想信条の自由まで奪われなければならない。

僕は断固としてそのような支配を否定する。そのような支配こそ、この世界でもっとも間違っている「悪」である。

よって、僕がもし支配者になるとしたら、僕は「誰も殺さないこと」を誓う。人々が自分に従うのは、人々の自由意志によるものであり、人々の支持が僕から離れた時は、別の指導者を選んでもらう。そのような「民主主義」こそが善である。なぜなら、民主主義は殺すことによって支配するのではなく、国民の「この指導者が好きだ」という自由意志に基づいて、殺人と圧政のない支配が行われるからである。

本当は、このような人間は共産主義者と呼ぶべき人間だが、そうだとしても、こうした人間から見て、まさにスターリンが一番間違っている。敵対する人々を殺すことで、帝国主義者や資本主義者に対する共産主義者の「復讐」を成し遂げようとした時点で、ソ連もまた同類である。スターリンさえ居なければソ連はよくなったかもしれない。

成功にはリスクが伴う

しかしながら、自由資本主義を完全に支持することを僕はしない。なぜなら、「成功にはリスクが伴う」からである。

成功するということは、会社が大儲けをして自らが社長などの高い地位に就くことだが、その社長がやっていることは、「銀行に多額の融資を受け、お金を借りて、そのお金を元手に事業を行い、お金儲けをして、借金を返す」ということだ。

それだけを見ても、経営にはとても大きなリスクが伴う。なぜなら、利益が黒字になるということを誰も保証してくれない。自らが努力して、黒字さえ出ていればいいが、ひとたび赤字になると、借金を返すことができなくなるかもしれないという大きなリスクが付きまとう。

これは、いわば「成功者にすべてのツケを押し付けているだけ」である。

またどれだけ利益が出たところで、社会全体に富が還元されるわけではなく、いくらでも格差が生まれ続けるだけである。賢い「勝者」は楽に生きられるのに、成功するリスクを選ばなかった貧乏人は「敗者」となり、リスクを選ばなかったからこそ、逆に多くの「ツケ」がまわってきて、勝ち組よりも負け組は多く努力しなければならないし、多くの不幸が負け組に回ってくる。

すなわち、資本主義には自由はあっても、それは「楽に生きられる自由」ではなく、「勝ち組になり、成功するためには失敗するかもしれないリスクがあり、そのリスクを選ばなかった場合は敗者となり、貧乏人となるリスクがある」のである。

そう、このような資本主義を、本当に「生きやすい社会」であると言えるだろうか。一般的な学歴社会で、高学歴の「優秀なキャリア」をつめば、この世界は生きやすい世界だ。だが、低学歴となったり、どこかで社会の道から外れたりすると、それはすべて「自己責任」と言われ、不幸な人生を受け入れなければならなくなる。

そして、そのような成功と失敗の基準は、本人の努力や才能によってのみ決まるものではない。社会には富裕層、中間層、貧困層という「階層」があり、下の階層に一度落ちたものが再び上の階層に上がることは難しい。特にマイノリティや社会的弱者や貧乏人、白人に対する有色人種などは人々から大きく差別される。

結局、自由な社会は確かに「自由」だが、それは素晴らしい意味での「自由」では決してない。自由には楽園があるかというと、それは決して存在するものではない。自由は辛く苦しいものだ。だが、だからといって、ソ連のような「自由を奪われた社会」では、わたしたちは「自由に生きる」ことができない。自由に生きることができないということは、人生で自ら発見することを諦めるということであり、目標地点に向かって進むことを諦めるということだ。だから、ソ連よりは自由はマシだ。だが、真に理想として正しいのは、「全員に自由を与えながら、平等なリスクのない社会を築く、ソ連のような社会主義のユートピア」であるということは言えるだろう。