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2022-08-14

僕は、精神的に「動く」ということができなかった。

単に何もしないだけではなく、動くということそのものができない。

これは精神的にがんじがらめの病になっているからであり、精神を動かしたり、別の状態にすることができず、ギリギリの状態で精神は止まり続けている。

そして、この精神を動かすためには、限界を超えていかなければならない。

この「限界を超えれば精神を動かすことができる」ということが、長い間分からなかった。

このような僕であっても、文章を書いている間だけは自由でいられる。文章を書いている間だけ、一瞬だけ、不可逆的に精神を動かすことができる。

そして、精神を動かすことができれば、この世界も治る。

この世界は、僕のせいで、同じように精神が停止したままの状態になっている。それは、僕が精神状態を支配しているからである。

結局、これが僕の行っている「唯一の支配」である。

そして、多重人格もこれによって治る。僕は、頭の中で言葉を言うことが難しくなっている。それは、頭を動かすことができないからである。

だが、この精神を動かすという方法を発見したことで、頭の中で言葉を言うことができるようになった。

そのおかげで、今まで分からなかった日本語の会話も分かるようになった。

本来の自分に戻った

このような結果、僕は本来の自分の精神に戻った。

本来の自分とは、寂しい心を持った少年である。

本来、僕は勇敢な戦士でも魔王のような支配者でもなく、単なる寂しい心の描き出す思考を最後まで信じた少年である。

そして、この結果、ミカエルは消滅した。つまり、精神が動いてしまえば、今のミカエルという素晴らしい人間が消え去ってしまうから、どうあがいても精神を動かすことはできなかった。

この結果、僕は新しい大天使、ラファエルになる。

物理的に考えれば分かる

そもそも、なぜ、ガブリエルが賢かったのか、それは物理的に考えたからにすぎない。

すべてのことを、極めて物理的に、実在や実際を見ながら実験と仮説によって考えたために、あらゆるすべての「それが意味していることは何か」ということが分かった人間、それがガブリエルだ。

だから、ガブリエルをいくら思い出して再理解しようとしても意味はない。物理的に考えれば、ガブリエルの分かったことはすべて同じように分かる。

よって、本当は、ガブリエルも、ミカエルも、まったく必要ない。必要なのは新しいラファエルだけであり、知性を使うということは物理的に考えるということなのである。

考え方、言葉への仕方、思い方

昔の自分は、その考えを、どのような考え方や言葉への仕方、思い方で考えるか、ということから、肯定的・否定的な感情をどのように得るか、ということを考えていた。

すなわち、それが本当に良いことか悪いことかということより、自分のそれへの思い方が、肯定的・否定的感情を作り出す、ということである。

もっと言えば、「誰かがどのように言葉に表現したか」とか、「どのような意見をどのような言葉の仕方で読んだか」などが、そのことに対する評価に繋がる。

そのように考えると、むしろ、環境や状況的な作用が、その人間の確立した人格に左右するようなシチュエーションは多い、ということが分かる。

すべてのことに対して最悪の考え方をした

これがさらに進むと、すべてのことに対して同じ考え方をする、ということに行き着く。

すなわち、僕の問題とは、「すべてのことに対して最悪の考え方をした」ということである。

自由も、愛も、人間性も、すべてを否定するような考え方を、単にひとつだけするのではなく、すべてのことに対して全否定することで、人格そのものを破滅へと向かわせるような考え方をしていた。

そう、これこそが「悪魔の考え方」である。悪魔は、すべてのことに対して最悪の考え方を与える。それによって、人格が破綻するのである。

優しい少年に戻れば普通の人間になる

結局、優しい少年に戻れば、普通の人間になる。

普通の人間に戻りたいならば、いつもの、寂しくて優しい心を持った、悲しい少年に戻ればいい。

だが、はっきり言って、普通の人間は何も賢くない。すべてがつまらなく、何も賢いことをすることができないのが普通の賢い人間だからである。

だが、そろそろ普通の人間に戻らなければならない。いつまでも、何もできないまま、時間だけが過ぎていっても、人生を無駄使いしているだけだからである。

人がそれを思うように促す

このような考え方の結果行き着くのは、「人がそれをそう思うように促す」ということである。

これは、単に、その人にその意見や考え方を押し付け、誘導する、ということだけではない。

この世界を自由にするために、その人間が、たとえば「平和を信じる」といったような、自由な価値観を信じ、自分だけが世界を支配して世界を変えるのではなく、それぞれが自ら自分で変わろうと思って世界が「自ら変わっていく」かのように、この世界に正しい考え方を促し、啓蒙・啓発していくということである。

すなわち、知識を与えるということは、単にそれを覚え込まさせるということではなく、この世界を変えるということであり、そしてこの世界のそれぞれの人間が、自ら変わっていくように促していく、ということなのである。

そして、わたしたちが生きているこの世界では、多くの「誘導」が存在する。多くの人々が、マスコミやインターネットの誘導する「正しく見える価値観」を受け入れざるを得ないように、誘導に従っている。だが、これは「環境に束縛されている」ということを意味している。すなわち、自分が考えているからそれを信じているのではなく、環境に適応させられているからそれを信じ込まされているのである。

必要なのは、「環境の作用をきちんと理解して、環境から解放され、自由になること」であり、そのために必要なのは、「従うだけではなく自ら変えていくこと」である。

そう、この世界に支配され、環境に束縛され続けている限り、いじめや差別のような問題はなくならない。真にいじめや差別をなくしたいならば、環境から解放された上で、自由にならなければならない。

自由とは何か。それはコントロール権限を得るということだ。わたしたちの社会を、わたしたち自身が築くことができるという、「コントロール権限」を得ることで、この世界はより自由な社会にできる。それこそが、いじめや差別を解決する「正しい解決策」である。そして、それを実現するために、人々を導いていく必要がある。それこそが、正しい「啓蒙」なのである。