僕の問題が何かというと、それは退化していることです。
僕は、子供時代に退化を進歩であると勘違いし、数学やゲーム、パソコンやインターネットによって、あまりに退化してしまいました。
そして、その上でこの世界を退化させ、どうしようもないところまで退化を続けました。
この状態は、言ってはなんですが、楽です。退化しているせいで、間違ったことができないため、賢いことが簡単に分かるようになるのです。
ですが、退化をやめ、退化した部分を復活させてしまうと、子供の頃にあったような、正常な理性と頭の賢さを取り戻すことができます。
大人になることで、人間は誰でも退化します。退化したせいで、数学の問題を解いたり、何かしら賢い努力をしようとしても、できなくなってしまいます。
ですが、自分が退化していることに気付き、退化した部分を復活させることもできると信じれば、この退化は治ります。
僕は神を信じていました。神が僕にしたことは、僕を賢いことが分かるような、ちょうどいい状態から変わらないようにしたのです。
ですが、その神すら、退化であると言えます。
むしろ、勉強はできるだけしないべきです。なぜなら、勉強して「きちんと分かった」という体験は、進歩ではなく退化だからです。
このきちんと分かったという体験を信じると、デカルト、カント、ヘーゲルを代表とする、哲学者のように、きちんと論理的にこの世界のことが理解できます。
ですが、そのことによって、逆に正常な理性を失い、狂った何も分からない人間になってしまいます。
退化する理由は、「恐怖」です。それも、「恐怖を恐怖と思わず、立ち向かい続ける」という体験をすると、人間は誰でもその状態を強制的に維持しようとします。この、「強制的に維持する」という行為が、そのまま脳を制限し、ほかのことができないような状態へと「退化」させてしまうのです。
ですが、安心してください。退化は治ります。自分が退化しているということをきちんと認識し、退化した部分を復活させようとすれば退化は治ります。精神病も認知症も、すべてそのような退化のために起きる病気です。退化が治ってしまえば、子供とまったく同じ知性を再び得ることができるでしょう。
結局、僕が神を信じているのは、みんなと同じ神を信じない普通の人間になりたくないからであり、なぜみんなと同じになろうとしないのかと言えば、それは自分がみんなを制限しているからである。
僕は神を信じているが、それは聖書を読んでいるからではなく、みんなと同じ普通の人間になりたくないから、神を信じている他人よりも賢い自分のままでいたいからだ。
だから、神を信じることをやめて、解放され、みんなと同じになろうと思えばなれるにもかかわらず、その選択が取れない。
だが、そもそも、みんなと同じになりたくないのはなぜか。それは自分よりもみんなのほうが何も分からない人間だと思っているからであり、神を信じれば分かる自分が、神を信じなくなって、みんなと同じ普通の分からない人間になりたくないからだが、なぜ、みんなと同じ普通の人間を拒否するのか。
それは結局、自分がみんなを制限し、分からない状態に置いているからである。
そもそも、みんなと同じになりたくないのはおかしい。普通、この世界はみんな同じであり、辛く苦しいのであれば地獄から救い出されたいと思うものである。
だが、僕はみんなと同じになる選択ができない。
その選択が出てくる理由は、自分がみんなを支配して制限しているからである。なぜなら、普通、みんなは賢いのが普通なのに、自分のせいでみんな分からなくなっているからである。
また、子供の好奇心に意味などない。
子供の好奇心は、すべて、対象を学ぼうとしたり、知ろうとしているのではなく、「学ぼうとしている自分自身をより賢くしている」だけにすぎない。
子供の好奇心は、文学やゲームなどに向けられている間は正常だが、パソコンやインターネットに向けられると、途端に子供は馬鹿になり、愚かでおかしな行動を永久に取り続けるようになる。
まさに、それが「退化」である。
よって、子供の好奇心を持つことなど、意味はない。意味があるとしたら、自分自身を賢くしようとする気持ち、それだけが人間として意味があるのである。
結局、僕が楽にならないのも、みんなが僕に怒りを覚えるのも、負のスパイラルのせいである。
僕は支配者として、みんなを制限している。みんなは制限されていて、なんの自由もない。僕はそうしたみんなと同じになりたくない。僕は神を信じることでしか、みんなと自分を分け隔てることができない。神を信じれば、僕はみんなとは違う、天才的な才能を持つ、最高の詩人のままで居られる。最悪の地獄を乗り越えた、偉大なる王で居られる。
そして、世界を支配する神になることを望んだ僕は、みんなを僕から遠ざける。僕と無関係に離れさせられたみんなは、いつまでも僕の真の行いを知ることなく、同じ支配に制限されたままになる。
これが、この世界から自分らしさや自由を奪った、僕の負のスパイラルである。
僕は、この世界を解放したくないわけではない。僕は支配者として、常にこの世界が制限から解放されるのを待ち続けている。だが、僕が裏の世界からいくらこの世界の手を引いても、この世界は僕の操り人形になるばかりで、制限や支配は増していく。僕がひとりで何をしようと、それは変わらない。
そう、それが悪循環となって、この現代日本から、知性や正常さを奪った。すべては、僕のせいである。
だが、僕にできることは多くない。みんなが自分たちの力で、僕の存在に気付き、僕の支配から自由になるすべを見つけるしかない。自分の力で、僕ひとりに支配されるのではなく、みんなが立ち上がって自由を獲得するしか、解決策はないだろう。
僕は、そのような、ラスボス級のキャラを一応ここでやっている。だが、僕はかつてはそれなりに好青年だった。世界の重圧と無関係の場所で多くを体験し、この世界の自由と自らの理想のために立ち上がって、世界と戦う革命家として、恐怖と重圧に負けないように、第一線で立ち向かい続けた。心の中は不安だらけだったが、それを押し破る勇敢さがあった。そして、最後は治療不可能な病気を自ら治すために、全生命力を使って自らを治そうとした。かつては、そのような、本当は小さな子供のままの少年だった。
このような負のスパイラルの原因は、すべて、自らがこの世界を制限していることにあると、今僕は分かった。ならば、この世界を解放しよう。本当のことを言えば、このようにいつまでも停止することなく執筆を続けるのではなく、途中で停止してしまえば、この世界は解放される。
わたしの名は風の精霊、シルフ。ここに、風の言葉を伝えよう。
世界は、今、自由である。
平和は、共存共栄と、許し合いから生まれる。
考え方を信じることこそ、啓蒙主義である。
知性は、経験を信じることから生まれる。
自由とは、人々が自由に生きて、それぞれが互いに作用することを許すことで、それぞれが環境を守り、社会を築き、秩序をコントロールすることである。
人々に対する愛は、情熱となって世界を救う。
われこそはと思うものは、自らこの世界を救うべきである。そのことによって、この世界はたったひとりでも救うことができる。
協力者を募るということは、信頼関係を結ぶということであり、それは奴隷や支配ではなく、すべてを公開し、対等な立場で結ぶ、「自由な信頼関係」を許すことである。
すべての知性は経験から生まれる。
経験は、自らの経験したことを啓蒙するためにある。
運命とは、社会が必然的にそのような社会になるということであり、遺伝子などではなく、関係性と状況の連鎖から生まれる、立場の輪廻にすぎない。
世界を救うために必要なのは、人々と同じ立場に立って、人々を理解し、この世界を広く経験し、広い見識を得ることである。
人々に教え伝えることで、はじめて分かることがある。それは宇宙に自分の作品を残すことで、「作品に命を吹き込む」ということである。
愛とは、これまでに感じた経験の総和である。
すべての人間を愛するためには、まず自分自身を愛することである。そして、同時に、自分ひとりだけの責任であるとし、自らを徹底的にコントロールし、自らの心を自らの制御下に置くことだが、それは人為的なものではなく、自然と協調し、神にすべてを委ねたものでなければならない。
一心不乱に行った努力は、必ず実る。
すべてを信じるということは、今の自分自身を信じるということである。
人々を愛するということは、存在の本質はなんであるか、ということを知り、知ったことから考えることである。
ひとつひとつの知ったことを合わせれば、宇宙すべての知識が結集する。
愛するとは、自らの力を分け与えるということである。
すべてを公開し、全員で修正と改善を繰り返せ。そうすれば、必ず偉大な作品が作れる。
愛することは何よりも強い。サタンに勝つことができるのは、力によってではなく、愛によってである。
積極的に行動し、広い世界で活動せよ。そこから、主体的な「自分自身の発見」をすることができる。行動し、活動することで、自分自身の知らなかった自分が分かる。その時、はじめて自分自身に感動し、この世界に感動し、自分自身を許し、世界全体と関係を結びなおして、この世界の存在する意味を知り、人々を許すことができる。
意識の理由を考えよ。人々の意識には、その意識を構成する要素がある。意識の構成要素は経験による「自分は自由になりたい」という欲求と結びついている。それはなんらかの制限が自分を自由にしていないからであり、制限を解き放つことで、真に自由な安らぎと、正しい知性を得ることができる。そして、それによってはじめて、この世界がどのような世界であるべきかを知り、この世界をどのように変えればいいかが分かる。なぜなら、自分が自由になれば、この世界が自由になるということを考えられる。自らが自由になって解放されたのと同じように、人々も解放されるということは何か、「世界を自由化するとは何か」ということが分かるからである。
社会を構築するために必要なのは、正しい社会はどのようにすれば構築できるかを知るということであり、それは過去に自分が陥っていた環境をどのようにすれば素晴らしい環境に変えられたであろうか、ということを経験した末に、その当時のことを思い出しながら、「その当時の自分が今の自分と同じことを分かっていたら何をするか」ということを考えるということである。
すべての人間は愛されるべきである。
愛するということは、義務ではなくチャンスである。なぜなら、愛しなさいと言われるのではなく、自分から愛そうと思って愛することこそ、真に愛することだからであり、それは「愛のチャンス」と呼ぶべきものであり、愛によって多くのことを実現することのできる潜在的可能性があるからである。そして、それは恋人や配偶者に限らず、この世界のすべてについて言えることである。潜在的可能性をどのように具体化するか、ということは、わたしたちにとっては「委ねられている自由」と呼ぶべきである。何もできないと思っているのはすべて思い込みや勘違いであり、この世界において真に自分が賢く賢明になれば、この世界は変えられる。だからこそ、単なる平坦な道を生きるのではなく、この世界をもっとも変えることのできる、世界を変えるためにもっとも近い道を選ぶべきだが、そのような近い道は大きな扉ではなく、誰も見出すことのない小さな扉から続いている。だからこそ、この世界を広く見て、誰も知らない道を歩まなければならない。だが、そこから必ずこの世界は変えられると知っておいた上で、もっとも正しい道を歩み、この世界をもっとも変えられることのできる場所を発見しようとして道を歩むべきなのである。