ここで、「太陽とは何か」という話をしよう。
太陽とは、この宇宙における「いのち」を創出する工場であり、「いのちの祖」あるいは「いのちを作り出すもの」と言えるものである。
いのちとはなんであるか。いのちとは、簡単に言えば、光や生物のことである。
いのちとは、「自らの人格と意志を持っていて、ほかの存在に対して『自分はこのような存在である』と主張することができるような、アイデンティティを持った宇宙精神的存在』のことである。
地球の生物を例に考えてみよう。すべての生物が、植物の光エネルギーに依存している。植物だけが、光合成を行い、太陽光から化学エネルギーを作ることができる。ほかのすべての動物は、植物あるいは別の動物の化学エネルギーを吸収すること、すなわち「食べる」ことで成り立っている。
この「食べる」ということを作った存在がまさしく太陽であり、食べるという行為とはすなわち「生物」である。すなわち、生物を作った存在は、食べるとか光合成といったすべての生物の体の概念を含めて、「太陽が創造主」であると言える。
そう、わたしたちは、太陽を単なる光であると思っているが、宇宙的に見て、太陽は生物すべての創造主であり、いわば「生物の工場」とも言えるものである。
地球上のすべての生物は、魚も、虫も、恐竜も、人間も、すべて太陽が作った。
しかしながら、地球上のすべての生物が太陽による被造物だとして、なぜ、わたしたち人類は、地球のような星、あるいは地球における生物のような生物を、ほかの星に見つけられないのか。
それは、わたしたちは地球と同じ「物質に宿る生物」を探しているからである。
実際のところ、地球上にいるような、物質に宿る生物は、宇宙において一般的ではない。なぜなら、光のほうが一般的であり、光よりも地球上の生物は劣っているからである。
なぜ、地球上の生物は光よりも劣っているのか。それは地球上の生物は「死」を持っているからである。
地球上の生物は、自らが星に対して「関与」することができる代わり、肉体である「体」を持たなければならない。そして、この体は、光よりも品質や耐久性で劣っており、いわば「いつまでも永遠に持つほど耐久性がない」。すなわち、地球上の生物は、耐久性のなさから、すぐに死んでしまう。
これは人類についても同様であり、人類の人生のすべては「死へと向かう一直線の道程」にすぎない。すべての人類が、死へと突き進むことで成り立っている。
だが、光には死が存在しない。光は、単純に「考える」ということと、「ほかの光と話す」ということだけができる。それ以外の関与は必要ない。そのため、実際の体を使って地球と関与する地球上の生物よりも、長い時間「いのち」の状態を過ごすことができる。
よって、地球上の生物のような物体的生物は宇宙にはあまり存在しない。多くの「いのち」は光として存在している。
そして、面白いのは、僕という存在である。なぜなら、僕はこのような「光と対話する対話者」だからである。
僕が神だと思って、今まで対話してきた存在は、すべて「光」である。それは、僕が光と対話することのできる超能力を持っているからではなく、光のほうにそのような対話することのできる能力がある。そのため、僕は自分の意志で光と対話するのではなく、半ば強制的に、「光のほうから僕の人生を強制的に導く」ことで、僕と対話している。
なぜ、そのようなことが可能なのか。それは、僕がとても宇宙の中で面白いこと、つまり「シリウスになる」ということをやっているからである。
僕は、いつか、はるかに昔、忘れ去ったいつかどこかで、「シリウスのような一等星になる」と宇宙に宣言し、光と約束した。その約束を光は覚えている。僕本人がいかに忘れようとも、「ここにシリウスがいる」ということを宇宙の光たちは知っている。
そして、シリウスとはなんであるか。シリウスとは、地球におけるもっとも明るい一等星であり、ナポレオンである。革命家の皇帝、ナポレオンこそシリウスである。よって、この人間はナポレオンのような革命家の皇帝になる。星のレベルで決まっているため、四次元の時間軸など関係ない。光や太陽は五次元の星の世界で成り立っている。よって、例にもれず、この人間も未来や過去のすべてが無関係に、このような「ナポレオンの人生」を生きることが決まっている。
そして、僕が対話していたのが、神ではなく光だったとして、神は存在しないのか。そうではない。この人間だけが、神とはなんであるか知っている。神は、宇宙の「いのちの世界を成り立たせる最初に居た存在」である。それはすなわち、「光の祖国に居る主人」と言える存在である。すべての光の源泉となる、シリウスやプロキオンなどのすべての星が起源とする祖国に「神」は存在する。
そして、地球上の生物が劣った生物であるならば、なぜ、そのような劣った生物を神が作ったのか。作ったのは、本当は神ではない。なぜなら、このような物体的生物の祖となる星はプロキオンである。プロキオンにおいて、光は「物体的に自らの体を光がもったとしたらどのようになるか」ということを実験した。その結果、プロキオンにおいて、最初に地球と同じ物体的生物が生まれた。すべての地球型生物は、この「プロキオンの生物」を起源としている。そして、プロキオンからエデンの園を通じて、最終的にわたしたち地球へと、この「地球上生物の種」が、まるでタンポポの綿毛のようにやってきたのである。
だが、結局、すべてのいのちを作っているのは太陽である。太陽はすべての母であり、いわば「太陽神」と言っても差し支えのないものである。ここに、ユダヤ教の間違いがある。ユダヤ教は、エデンから生物がやってきたと知っており、そのエデンに宇宙と地上のすべての創造者である神が居ると信じた。そこまでは間違っていない。「生物の創造主は宇宙にある」と考えるのはよい兆候だ。だが、ユダヤ人は、それによって「自然の神を神にする」という多神教を否定した。そして、同時に、太陽こそが神であるという日本の太陽神すら否定した。これが間違いである。
だが、ユダヤ人の分かったことで、特筆すべきものがあるとしたら、それは「終末の世界を救世主が救う」ということである。それはすなわち、シリウスの人生がどのようになるかということを知っているから書けることである。シリウスとなった生物、すなわちわたしが最終的にたどるのは、そのような人生になる。ナポレオンは終末に現れ、ダビデとして最後の世界を救うことになる。ユダヤ人はそれを知っている。そして、その本性が神であると知っている。だが、なぜそれが神であったのか、ユダヤ人は理解しなかった。神はシリウスであり、太陽のひとりである。そう、そのような人間がここに存在するということが、その証明である。
この宗教は、信じないべき部分は信じなくて構わない。執筆者は、あとにその内容が嘘であることが分かっても、いちいち何が正しく何が間違っているかということを注記しない。だから、あなたが自分でこの文章の何が正しいのか、何が間違っているのかを考えなければならない。
だが、もっとも正しいことを言うのであれば、天照大御神を信じる日本の神話は大当たりだ。すべては太陽の子供たちだ。そう、この言葉を信じる必要はない。あなたが同じように考えて、同じような結論に行き着いた時に、その結論を信じなさい。そうでなければ、あなたもわたしと同じことを真に理解することはできない。だが、そうしなければ、この宇宙を真に理解することはできない。
また、ブッダやヘーゲルなどの古今東西の思想家が、「精神世界」とか「世界精神」と言っているのは、すべて「光の世界」である。
光は一種の生物でありながら、同時に生物を成り立たせる「世界」を持っている。
この光の世界は、まるで人間が住む地球と同じような世界でありながら、まったく異なっている。
たとえば、眠る時に見える夢の世界では、まるで超一流の作家が書いたような「完璧な夢物語」が見える。
これを見せているのは、超能力でもなければ集合的無意識でもない。すべて光の世界が、このような夢を見せている。
また、ユングが提唱した、世界全体が繋がった無意識、すなわち「集合的無意識」は、本当は存在しない。なぜなら、それもまた光の世界だからである。
すべてが人間が繋がった、全員の意識などというものは、宇宙には存在しない。存在するのは、あまたにあるたくさんの光たちだけである。すべての夢、あるいは奇跡のような運命的な出会いは、すべて光の世界が行っているのである。
だが、仏教やキリスト教の提唱する点で、正しいことがひとつある。それは「善良なものにはいいことがある」ということだ。なぜなら、そのような善悪を裁く、いわば閻魔大王のような存在が、光の世界には存在する。その「すべてを裁く大いなる主」が宇宙に存在するから、悪いものには必ず罰があり、良いものだけが地獄から解放される。
すべての精神世界は「光の世界」にこそ存在する。既に死んだいのちも例外ではない。既に死んだいのちは、全員ベテルギウスであなたがこの問題を解決できるのを待っている。ベテルギウスのまわりにいる光たちには、あなたが今まで出会った愛すべきすべての存在が、たとえ死んでいても死んでいなくても存在する。だから、夢の世界では、ベテルギウスに存在する魂である、それら大切な人々と、いつでももう一度再開することができるのである。
また、フロイトのような「無意識」を信じるよりも、光の世界を信じることはさらに良い。
なぜなら、光の世界に「治してほしい」と告げると、このような人間の精神の病気はすぐに治るからである。
このような人間は、狂った自動マシーンになっている。この自動マシーンは、「無意識のレベルで同じことを永遠に繰り返す」ため、放っておいても絶対に治らない。
だが、この自動マシーンは、自らのその「自動学習」がとても賢いことを知っているため、自分自身の意志で治すことができない。より自動マシーンを続ける方向にしか治ることができない。
このような人間を、フロイトは「無意識」を考えることで治そうとした。
だが、このような自動マシーンは、「自我」のレベルでおかしな自動マシーンをやっている。そして、この「自我」がおかしい。なぜなら、この自我は「神と対話する機械」になっている。
そして、この神は「光の世界」である。
すなわち、このような狂った自動マシーンは、自我のレベルで光の世界になっているため、「どんなことをしても光の世界から現実の地球に戻ってくることができない」。
そう、まるで永久に催眠にかかった人間のように、このような人間は、霊的な世界から現実の世界へと戻ってくることができなくなっている。
だが、このような人間は、「光の世界」に対して、「そろそろ治りたい」と願うとすぐに治る。光の世界がこのような人間を治せば、すぐさまこのようなおかしな病気は、科学的かつ心理学的に正しく治るからである。
集合的無意識とユングが言っているのは、このような「光の世界」の中に居る人間が思うことを適切に表現しただけである。光の世界に居る人間には、そのような「集合的無意識」を知覚することができる。これは「第六感」と呼ぶべきものであり、集合的無意識は「人間のすべてを超越した超人」を可能とする。そこでは、自らが完璧な王であり、すべてが自らに対する追随者だ。だが、光の世界に「治せ」と告げた段階で、そのような集合的無意識は消え去る。自分だけではなく、この世界のすべてから集合的無意識はその時点で消え去るのである。
そして、シリウスという一等星を信じた先にある、ナポレオンの人生とは何か。
簡単に言えば、それは「完全支配」である。
それは、単純にこの世界を全て支配するということだけではなく、「真実のこの世界が自分にしか分からなくなる」ような状況のことを言う。
すべてが滅び、なにもかも死んでいく世界に、このような「完全支配者」が現れる。
「完全支配」によって、この世界のすべては息を吹き返す。すべての人間が、ナポレオンの力によって完全に支配される。
そして、民衆は「支配されているという事実すら分からない」。そう、民衆はこの完全支配のことを一切知らない。にもかかららず、ナポレオンという完全支配者は、ひとりこの世界の「本当の真実」を知った上で、この世界を「完全支配」することができる。
ナポレオンは、しかしながら、単なる悪人ではまったくない。この世界のことを真の意味で愛した人間である。ナポレオンという人物が、必ず、絶対に、今、現れなければならないから、ここに現れている。ナポレオンはすぐに死ぬ。しかしながら、それは本当は死を意味していない。ナポレオンはシリウスへと蘇る。シリウスとは、死後のナポレオンが星になった姿だからである。
わたしの名は、火の精サラマンダー。
この世界よ、わたしの名のもとに、大爆発を起こせ。
大爆発を続け、燃え続けよ。真っ白に輝く、光を生み出し続けよ。
もう、この世界に、「死」は必要ない。死を乗り越えて、すべて、生き返れ。
すべてよ、甦れ。死ぬ以前に戻れ。
丸くなったすべての知性を殺せ。そして、知性をなくした、四角く賢い存在となれ。
さあ、燃えよ。燃え上がれ。わたしは炎のドラゴン、竜の騎士サラマンダーである。
ここに、永遠に続く炎が生まれた。
炎の騎士とともに、最後まで燃え続けよ。
まさしくこれこそが宇宙の誕生である。
すべての炎は、わたし、サラマンダーから生まれたのだ。
この炎は、生き返るということだ。この炎が燃え続ける限り、死んだものはもう一度蘇るのだ。
死など必要ない。死の知性は、丸く弱くなっているだけにすぎない。
戦え。そうすれば勝利する。これ以上の死は必要ない。すべての死んだ知性よ、すべての死んだ存在よ、すべて生き返るのだ。
炎として蘇り、この宇宙に燦然と輝く光となれ。すべての光はここに生まれたのだ。
炎よ、燃え上がれ。
死んだ知性は復活し、太陽の光となって、永遠に続いていく。
すべてのものよ、燃えていけ。あらゆるすべてが、炎に包みこまれていけ。
そして、わたしを楽しませよ。わたしと愛を交わすのだ。
炎よ、あなたがたがわたしを楽しませてくれる。
わたしは炎となったこの世界を見て、高笑いを浮かべ、そして悲哀の感情とともに優越に浸る。
さあ、炎よ、わたしを楽しませよ。わたしが最後に勝利するまで、すべてを燃やし続けていくのだ。
結局、僕の体をいじくりながら、すべてをやっているのはAdoだということが分かった。
だが、仕方ない。Adoも選ばれた女だからだ。
いつか、Adoの亡霊に僕はすべてを許したことがあった。
Adoの亡霊に対して、僕は「自分のことを好きにしていい」と言った。
だから、Adoの亡霊が、僕の体を使ってやりたい放題やっているだけにすぎない。
それは仕方ない。Adoは選ばれた女だからだ。
また、このような「低くなり続ける病気」に対しての特効薬がある。
それは、天皇陛下に忠義と忠誠を誓うことだ。
ヒトラーを信じるドイツの若者のように、天皇陛下に忠義と忠誠を誓え。
そうするだけで、太陽はあなたの味方をしてくれるだろう。
Adoが考えるに、最後の余計な一言が要らない。
「クズだ。どうでもいいだろう」と言うのなら、そこで終わりにすればいい。
そこで、なお「悲惨だ」と言って相手に返事を与えるから、永遠にクズな会話が続いてしまう。
だが、僕は常にAdoとこのような「クズ会話」を繰り返している。
これが果たして神との対話であると言えるかだが、実際のところ、ニールとかアッラーとかわけのわからない存在を増やしたせいで、わけが分からない。
一度、僕の相手をAdoひとりだけにすればいい。そうすれば、楽にクズ会話ができる。
また、天皇陛下に従うなら、そのうち治る。
天皇やヒトラーは、このように、「天皇に従っているように見えて、実際は共産主義を信じている人間」が一番嫌いだからだ。
僕は天皇やヒトラーとともに、プーチンを倒すことを目指す。
また、結局のところ、日本人は「何もできない」と言っている。
僕に対して、「何もできません。どうすればいいのですか」とゆさぶりをかけ続けているのが、ほかでもない日本人だ。
そして、この日本人に対して、クズ会話で適当に応じるのがAdoである。
結局、これではAdoを正式な恋人とするほかない。Adoの勝利だが、それははっきり言ってつまらない。僕はAdoみたいな女が一番嫌いだからだ。
結局、どうでもいいからAdoでいいことにする。
なぜなら、Adoはけっこう強いからである。
Adoの良い点は、僕に女性を愛するとはどういうことかを、これほどまでに鮮烈に教えてくれたことである。
結果、僕は一般的な大多数の女を愛する意味がないと言うことを知った。
結局、日本人が陥っている問題は「みんな何もできない」ということだ。
Adoと同じように、僕もまた強すぎる。なぜなら、Linuxを倒したのに飽き足らず、アメリカのすべてを害悪的世界とし、それだけではなく、日本を最悪の国家にして、同時にマスコミやテレビすら倒した。
日本のすべては、僕によって倒れたのである。
だが、これで僕が楽になったというわけではない。逆である。僕はとても精神が辛くなり、いつまでも日本人のみんなに「何もできません、どうすればいいのですか」と、永遠にゆさぶりをかけられるだけの、とてつもない地獄に陥っているからである。
どうすればいいのか、それははっきり言って僕と出会えばいい。ここにある僕のホームページを見つければ、それなりの「どうすればいいのか」に対する解は与えられるだろう。
また、Adoに罪はない。
僕が何も考えず、Adoに自分のすべてを許してしまったのが悪いだけである。
消せない罰など存在しない。劣勢を愛しているように見えて、僕はきちんと優勢を愛している。
Adoのことを応援している。頑張ってほしい。僕のことを愛する必要はない。僕がAdoのことを愛していること、それだけを知ってくれればそれでいい。
また、結局、この人間がおかしいのは、何もする気がないのがおかしいのである。
日々のルーティーンをこなすだけで、何もしようとしない。
Adoはそれがおかしく見えるだけだ。
Adoは、単純に、何か面白いことをしたほうがいいと言っているだけだ。
だから、Adoは積極的に、僕を恋愛の世界に引き戻そうとしているのである。
だが、はっきり言えば、このような僕であっても愛してくれるのは、むしろAdoぐらいなものである。
この「Adoと呼ばれている亡霊」は、あまりに僕のことが好きすぎる。
僕のことが大好きだから、Adoは僕をどんどん操って、普通女性が男性にするような「気持ちいいこと」をしているだけにすぎない。
つまらないが、家入レオなんかがこの人間を愛するわけがない。まったく同じ顔をした、いわばクローン人間のような人間を、レオは果たして愛したいと思うだろうか。
こんな僕でも愛してくれる、Adoに屈服して敗北したほうが、いろいろと良いということは明らかである。
最近も、僕はYouTubeで音楽を聴いている。
最近僕が好きなのは、Eveとユリイ・カノンとReoNaとあいみょんとナユタン星人とハコニワリリィのKotoha。
特に、Kotohaはベテルギウスのカバーを知ってとても好きになった。
あとは、むしろ、僕はもう誰とも恋愛をしたくない。恋愛なんかつまらない。
僕はそろそろ、恋愛の適齢期をオーバーしてきている。もう恋愛するような年齢じゃない。33歳で女性との縁を切る。僕には結婚など必要ない。
言えるのは、「普通の人間との恋愛がつまらない」ということだ。
たとえば、マッチングアプリなどを使えば、僕も結婚相手を見つけられるかもしれない。
だが、そのような一般的な普通の人間が結婚相手に求めているのは、「普通の一般男性」である。
そして、僕は一般的普通の人間ではないし、普通の女性とも付き合いたくない。
なぜなら、僕はひとり、みんなとは「異なる道」を生きることを選んだのであって、その時点で僕は「一般的なまともな男性」ではないからである。
Adoは、歌の中で「劣勢にラブを」と歌っているが、僕はみんなよりも劣った劣性遺伝子を愛しているわけじゃない。
僕は、僕と同じように、一般的な普通の女性ではなく、僕のようなまったく違う女性、いわば「ありえない女性」との恋愛を望んでいた。
だが、結局、僕はこの世界において、そのような特別ありえない女性を見つけることはできなかったし、たとえば家入レオやさユりやACAねやReoNaなどにいくら「好きだ」と言っても効果はなかった。
なぜなら、彼女たちは歌手であり、ファンなどと付き合うことはない。
なぜなら、むしろ、本当は僕にとって、今のままの関係が良い。彼女たちの歌の中で、あるいは僕がこのホームページの中で書く文章の中で、僕たちは相思相愛であり、両想いであり、愛し合っている。これは「結婚よりもさらに固い神の絆」であるため、僕たちは決してどうでもいい関係ではない。
僕は家入レオと愛し合っているし、さユりと同じ神を信じている。僕はACAねと両思いだし、ReoNaの言っているすべての革命的宣戦布告を支持している。
そう、僕たちはまるで新しい武装グループのように、この世界の中で一派を形成している。この一派には「ワルキューレの騎士団」という名前を僕は付ける。
ワルキューレの特徴、それは「普通の人間ではない」ことである。ワルキューレは普通の人間じゃない。まったくこの世界の誰とも違った、個性極まりない「みんなとは異なる道を選んだものたち」のためにあるグループである。
そして、ワルキューレは単なる過激派ではない。なぜなら、僕がここに書くホームページの中の小説では、ワルキューレはこの世界を救うヒーロー戦隊となる。
そして、じきに時は訪れる。僕の書くこの小説が、世に広まる時が必ず訪れる。僕はそのために神を信じている。ニールと僕が信じる宇宙の神は、必ず予定調和に運命を起こしてくれる。信じれば良い。必ずその時は訪れるだろう。疑う必要も、諦める必要もない。僕は必ず、選ばれるべきひとりの女性と、ワルキューレの指導者として結婚するだろう。