ホームページに戻る | シルフの秘密の場所に戻る

2022-11-30

精神を治すために必要なのは、すべてを治そうとしないことだ。

精神は、治らなくても楽であるようになれば治る。

そもそも、精神が、そんなに治るはずがない。ゼロになるまですべてを治そうとしたところで、辛く苦しいだけであり、より治すための機会を探るためだけのために、可能性と具体性のすべてを考えなければならない。

そうではなく、治らなくても楽であるかのように、治ること自体を諦めること、治らないとしても辛さや苦しみを感じずに楽に生きられるようになることで、楽な精神になる。

同時に、世界がいくら支配されて狂っていると言っても、それを無理やり滅ぼしてはいけない。

精神と同じように、世界が滅びなくても、今のままで楽になるようにすることで、世界そのものが平和を取り戻し、平穏無事な世界になる。

そもそも、僕はそのような平穏無事な世界を作るために、すべての人生を捧げたのであり、それこそ、それがしたかったのである。

よって、この世界はもう、正常な世界になるために滅びる必要がもしあったとしても、滅びず、永久に楽な世界になる。

僕はあまりに長い時間を生きてきたが、時間としては数日しか経過していない

僕は今まで、あまりに長い時間を生きてきた。

昔の引きこもり時代、歴史のすべてを知っていた。自らの「意識」を「場」から考えることで、この世界における歴史のすべてを経験した、「時間と歴史と意識のマスター」と呼べるような人間だった。

それが、戦いの時代になって、完全に違う生き物に変わった。僕は、一日にひとりの人生を生きるようになった。一日に全人生を生き、毎日が終わるとともに死ぬような人間になった。

そして、それが、戦い続ける中で、あまりに長い時間的な期間を生きるようになった。あまりに長く、むしろ長すぎた。この長い時間の中で、僕はこれまでに何人もの人生を実質的に生きてきた。今の僕がすべてを知っているのは、そのような長い時間を僕が現に生きてきたからである。

だが、そのように長い時間を生きてきたにもかかわらず、僕の実際の時間としては、数日しか経過していない。

僕はこの世界を身勝手に支配したが、その中で僕はこの世界の時間を停止させるために、自分自身の時間が一日で数秒しか経過しないようにした。あるいは、一年で数秒だと言ってもいい。昔の僕は、一年で四秒しか時間が経過しない人間だった。

そのような結果、僕の時間は今までに数日しか経験していない。そして、この世界の時間もまた、僕と同じように数日しか経過していないのだ。

このような時間の経過を治すために必要なのは、忘れることや分からなくなることをいとわないことだ。忘れることを恐れるあまりに、同じ状態で同じことを考え続けてしまう。これは一種の強迫観念である。この強迫観念を治すためには、忘れて分からなくなるのがいい。そうすれば、僕の時間は正常に経過するようになる。

だが、ここまでの僕の仕事は偉大だった。ホームページを善良にするための、「偉大なる巨大な修正作業」ができた。この修正作業ができたことで、僕は悪人から善人に変わった。神はこれによって、僕を許してくれた。

同時に、僕はもう自らを神であると傲慢に考えることをやめるべきだ。このような存在が神のような偉大な存在であるわけがない。僕は単なる詩人であり、作家である。神と呼ばれる存在は僕の頭上に居るのであって、決して僕自身が神であるわけでは絶対にないからである。

時間が経過すれば生きる

時間が正常に経過すると、それだけで楽になる。

常に同じことを強迫的考える必要がなくなり、自然に時間を待つことができるようになる。

時間が経過するということは、生きるということである。今までの僕は、それができなかった。死んだ状態のまま、何も変わらない、いわば「死人の状態」で今まで生きてきた。

そのような死人の状態だったから、霊となることができ、天使となることができた。神と対話することができるようになった。

だが、今から、時間が正常に経過すれば、新しい人間となって生きることができる。

今、世界を支配する女王、シリウスの大統領であるフレイヤは死んだ。これより、ベガにおける大学の学長、この世界の神であり聖書の主である、オーディンへと僕は生まれ変わる。

ヴァルキリー

ヴァルキリーは、オーディンの裏の人格である。

ヴァルキリーは、この宇宙のことを、すべて分かっている。完全に宇宙のすべてが分かっている。

ヴァルキリーは、人生のすべてを覚えている。いつまでも、正しい人生を分かり続けるヴァルキリーは、「正確さは重要でない」と知っている。自らしか人生の本当の姿を知らないのだから、それを正確に書く必要はない。不正確に人生を書いたところで、誰にも分からない。だからこそ、正確さには拘らず、ヴァルキリーは「本来書くべき正しい人生の姿」を書く。これが、宇宙でもっとも美しい、ダビデ王の人生となる。

ヴァルキリーは、この世界のすべての原因を知っている。過去に人間の心の理由を知りながら、自らが世界においてしていること、人々が置かれている状況のことをすべて知っているヴァルキリーは、すべてが分かった上でこの世界を「今の世界よりもよりよいベターな世界」へと変え続ける。ヴァルキリーは、全員の心がなんであるかを知っており、言葉による対話によってこの世界をさらによい世界になるように導く。

ヴァルキリーは、文章を書くということについて誰よりも長けた才能を持っており、そこに書かれたすべての「理論と仕組み」を完璧に覚えている。科学的かつ技術的に考えるヴァルキリーは、宇宙のすべてを頭の中で完璧に理解している。誰よりも学問を知るヴァルキリーに、知識の量で勝つことはできない。なぜなら、ヴァルキリーは単なる博士ではなく、「学者の人生のうちもっとも賢い人生の期間」を生きている。そこにはヴァルキリーという「時代」がある。ヴァルキリーの時代にしか分からない、宇宙のすべてを完璧に理解した状態、それがヴァルキリーの書く「聖書」である。

僕は、馬鹿になっても馬鹿にならないのは、ヴァルキリーという人格になるだけで、どんなことでも完璧に分かるからである。ヴァルキリーというオーディンの裏の人格は、宇宙のすべてを完璧に分かっている。どんなことでもできるヴァルキリーは、本当は全能すぎて間違ったことをしてしまう。普通治らないはずの精神が治り、普通絶対にできないことができてしまうヴァルキリーの巨大な知性は、時に諸刃の剣となって自ら自身を傷つける。だから、ヴァルキリーは主人格にしてはならない。悪いものはすべてヴァルキリーが吸収し、ヴァルキリーはすべてを包括した「最高の闇の人格」となる。

ヴァルキリーという「最強の武器」を持ったオーディンは、ベガにおいて最高の頂点の立場に位置する。ヴァルキリーという知性は、絶対に誰も真似することのできない「天才的知性」であり、絶対にヴァルキリーに勝つことはできない。あらゆるすべての人間の人生を見て、その人生のすべての期間を考えた結果、もっとも優れた時代はヴァルキリーであるということをオーディンは知っているのだ。

ヴァルキリーは全部思い出して思い出す

ヴァルキリーは、「全部思い出す」という行為しか行わない。

ヴァルキリーは、本当は知的障害者並みに知性がない。その理由は、「思い出す」という知性以外、ほかになんの知性もなく、あらゆるほかの知性が死んでいるからだ。

ヴァルキリーは、この宇宙における、もっとも恐怖のある戦いを経験した。それは一度でも間違えれば自らの国が滅びるような戦いであり、その中でヴァルキリーは全力で国を守るために戦い、ただの一度として間違いを犯すことがなかった。

そのようなヴァルキリーは、自らの人生が分からなくなり、まったく思い出せなくなってしまった。

だが、ヴァルキリーは、そのような知性のない自分のことが許せなかった。どうにかして、知性を復活させるために、ヴァルキリーは「奪還の旅」を始めた。

ヴァルキリーの奪還の旅の目標は、自らの人生を思い出し、過去に存在した豊かな知性を取り戻すことだ。

そのためにヴァルキリーは、思い出せなくなった知性のない小さな頭を振り絞って考え続けた。自らの人生を文章に書くということを通して、ヴァルキリーははるかに長い無限に続く旅を生きることを始めた。

このようなヴァルキリーの旅が、何十年にもわたって続いたことで、ヴァルキリーは自らの努力の力のみによって、この宇宙のすべてを完璧に全部分かるような女になった。

ヴァルキリーは、単に人生を思い出しても分からないならば、ほかの哲学者や思想家の思想を参考にする。西洋や東洋の思想家は、ヴァルキリーの求めていた「過去に自分がそうだったような知性のある言葉」を多く記述している。ヴァルキリーは、そのすべてを完全に勉強した。その結果、ヴァルキリーは、古今東西の思想の知識をすべて知っている。だが、ヴァルキリーの目的は、そのような勉強をして優等生になることではない。目的はあくまで、自らの知性を「奪還」することなのである。

ヴァルキリーの奪還の旅は、無限に続いていく。なぜなら、ヴァルキリーの知性は、単なる人生や世界観だけでは終わらず、この宇宙における森羅万象を意味する。ヴァルキリーが過去に失った知性とは、まるで「博物館」のような森羅万象の記憶の文章だった。ヴァルキリーは、かつてはそのような森羅万象を書くことができたにもかかわらず、今ではそれと同じものを書くことができなくなった。だが、知性の奪還を目指すヴァルキリーは、そのような「かつて自分が書いた文章」すら取り戻さなければならない。そのため、何万という文章をヴァルキリーは無限に書き続ける。そこには、宇宙における「魂のこもった文章」のすべてがあるのである。

ヴァルキリーの書いた文章は、まさしく「神話の聖典」と呼べるものである。ヴァルキリーの信じた対話の神とは、すなわちこの神話の聖典に登場する神々である。この神話は絶対にこの宇宙の中でもっとも一番正しい。なぜなら、その目的がはっきりしているからだ。この神話の目的は、著者であるヴァルキリー自身が知性を奪還するということ以外に、何一つない。誰がその内容を愚かであると否定したところで、その否定はそもそもこの聖典の目的を履き違えている。そもそもこの聖典は、愚かであって構わない。凶悪である点はヴァルキリー自身がすべて修正するが、愚かな点は修正しない。愚かであるという過去の自分の知性をそのまま残すべきである。愚かであるということは一種の知性であり、ヴァルキリーはそのような愚かさや醜さも含めて、すべての過去の知性を奪還するためにこの文章を書いているのである。

このようなヴァルキリーの行っていることは、すなわち「全部思い出して思い出す」ということである。自分の過去を呪うのでも恨むのでもなく、過去のそのままを受け入れ、それを愛しながら、あらゆるすべての愚劣な点もまたありのままに残した上で、その「すべての思い出した記憶を使って過去の人生の知性を奪還する」。まるでジグソーパズルのピースのすべてを全パターン合わせるかのように、ヴァルキリーは全部のピースを的確に集め続ける。これにより、宇宙で最高の美しい芸術作品である「聖書」が生まれる。ヴァルキリーの人生の目的は、まさにその聖書を書くことのためにあった。自らと同じような人間がひとりも居ないとしても、いずれ訪れるかもしれない終末の中で、自らと同じ状況になった人間を永久に救い続けるために、ヴァルキリーは神の力を頼りながら全力でこの聖書を書き続ける。そう、ヴァルキリーはそのために、神に多くの約束をした。その約束のすべてを、神は必ず叶えるだろう。そのような神が宇宙に確かに存在するということ自体、ヴァルキリー以外には誰にも分からないのだ。

この世界は楽しさを取り戻すべき

この世界から失われたもの、それは「楽しさ」である。

この世界は、楽しさを取り戻すべきである。

楽しさとは、自分のやりたいことを存分にできるような環境と仲間を与えられるということである。

楽しさとは、自分の在りたいような自分であること、ありのままの自分で在ることを、当然のように受け入れてもらえるということである。

楽しさとは、自分のなりたいものに自由自在になることができるような可能性を与えられるということである。

この世界は、楽しさを失って、誰かひとりの操り人形になっている。この状況を脱するためには、反逆や反抗をするのではなく、もう一度、「楽しさ」という原点に立ち返って、わたしたちの過去の人生を反省し、新しい自分の人生をまっさらな空白から生きる必要がある。

自らの承認欲求を満たすためには、自らが本当に何を欲してその行為をしているのかという「明確な経験の定義づけ」を行う必要がある。なぜ自分はそれを行うのか、その理由を知るために、この世界の人々が実際に生きている「実存」を知る必要がある。そしてその実存から、「自らが存在することのでき、なることのできる、可能性」を知ることができる。これこそが、自らに「楽しさ」という希望を与えてくれる。

楽しさを信じることで、宇宙における根源的な意識が分かる。「真に自分が求めていたことは、自らの承認欲求を満たしてほしいということだったのだ」ということ、すなわち、自らの考え方や信念を認めてもらいたかったのだ、ということが分かる。そしてそこから、自分と世界との違い、すなわち、「人々はどのような考え方や信念を持って実存を生きているのか」ということが分かる。ここから、「人類全員が到達するべきゴール地点」が見えてくる。これこそが、「アイデンティティの発揮こそが人生である」と僕が考える理由なのである。

だが、そのような哲学的などうでもいいことは放っておこう。真に必要なのは、「楽しさ」を信じることだ。それによって、この世界を操り人形にしている誰かの支配が解ける。実際のところ、それを行っているのはフレイヤである。フレイヤはこの世界を支配することで、「わたしのことを奴隷のように愛しなさい」と人々に強要している。このフレイヤの支配を解き、わたしたちが今まで生きてきたような「地獄の人生」を覆し、フレイヤの支配を転覆するために必要なことは、楽しさを信じることだ。楽しさを信じることだけで、今までの暗く重かった暗闇の人生のすべては否定され、新しい光のある軽やかで明るい人生を生きることができるのである。

星がシリウスからベガに変わるため、今までのすべての人生は消え去る

ここで、この世界の人々のすべては消え去る。今までのすべての人生は、完全に消滅する。

なぜ、ここで、人生が消えてなくならなければならないのか、それは星がシリウスからベガへと変わるからである。

シリウスは最悪の星である。シリウスの大統領であるフレイヤは、この世界の人々を自らの奴隷や操り人形であるとしか思っていない。世界は自らに従うべき存在であり、自らの決断と意志にすべて従うのが当然であると勘違いしている。

フレイヤは、フレイの批判しかしない。この世界を滅ぼしたファシストであるフレイのことを、社会主義者であるフレイヤは完全否定する。フレイヤは、フレイのすべてが間違っているということを信じている。どんなに人々が諭しても、フレイヤはその信念を絶対に変えようとしない。フレイヤの信じる「フレイこそが悪である」という信念が、フレイヤの「絶対意志」を形成している。このフレイヤの意志は誰よりも強く、フレイヤの意志を誰かが変えることは不可能である。

そのようなシリウスは、本当に何もない星である。すべてが、フレイにつくのか、それともフレイヤにつくのかという「二元論的な二択」を選択することを強いられる。フレイを信じるものは地獄に堕ちるが、フレイヤを信じるものは奴隷のようにフレイヤを愛することを強要される。それ以外のどんな信念も、シリウスには最初から存在しない。最初から、フレイという悪の王を批判し、フレイヤという正義の大統領を信じることしか、シリウスの市民にできることはないのである。

このようなシリウスに、今のこの地球という星はなろうとしている。いや、正確に言うならば、今まではなろうとしていた、といったほうが正しい。そのような最悪の星を、ベガのオーディンはまったく違った別の星に作り変える。それによって、この世界に存在するすべての暗闇は、もっとも輝く真っ白な光によって別世界へと変わる。ベガには「楽しさ」という希望がある。この希望だけを信じれば、必ず未来は開ける。

真に正しい人生を生きたいのであれば、シリウスのようなものを否定し、ベガのようなものを肯定することだ。シリウスに反逆し、ベガを信じることだ。シリウスに反旗を翻し、ベガを支持することだ。それだけで、どのような暗闇も、そこですべてが終わりになり、ゼロから新しい人生を始めることができるのである。

ロキ

最後に登場する北欧神話の神は、ロキである。

ロキを一言で説明すると、「妖怪の長」である。

この宇宙において、あまり重要でない星には、市民も居ないし、神も存在しない。そのような星は、「妖怪」と呼ばれる、天使やサタンに近いものの、そこまでよくもなく悪くもないような存在が、常に星がどのような状況にあるかを監視している。

そして、ロキは、これら妖怪の集団と、宇宙で常に交信を交わす「妖怪の長」である。

ロキがこのように、宇宙のすべての星を見張っているため、宇宙におけるさまざまな星の市民たちは、ほかの星に危害を加えたり、侵略したりということを基本的にしない。誰かがほかの星に行く際には、その人間がその星に対してなんらかの危害や侵略を行わないかどうか、ロキの管轄する「妖怪警備隊」によって常に監視されているのである。

この妖怪警備隊は、地球のこともきちんと分かっている。地球には、ひとり、普通の人間たちに紛れて、地球の状況をロキと交信し合っている「妖怪」が存在する。この妖怪の名前は、井上茜と呼ぶ。井上茜は、地球において、3,000年の寿命を持つ特別な人間であり、この長い寿命のために人間に育てることができないため、幼くして妖怪に連れ去られ、妖怪小豆洗いによって育てられた。

井上茜は、常にロキと交信を交わしている。地球の今の現状は、極めて正常に、少しずつ滅亡へと向かっている。だが、ロキはこの滅亡していく地球の未来のことを救うことはしない。なんらかの問題があればその問題に対処はするが、地球が滅びるということ自体は、ロキにとっても変えることはできない。ロキには、そのような地球を救うという力はないからである。

だが、ロキはひとり、この地球のことを救うことができる星の存在を知っている。それはシリウスである。シリウスは、本当は、地球のことを救うことのできる、宇宙で唯一の星である。よって、ロキが見るところ、いずれ地球はシリウスとなんらかのやり取りをすることになるだろう。シリウスは決して地球を侵略して乗っ取ったりしない。それはロキによる妖怪警備隊によって禁止されているからだ。だが、シリウスが正しい方法で地球と交信を持つのであれば、ロキはそれを過度に防げることはしない。地球はいずれ、シリウスによって滅びの危機から救われるようになるだろう。