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2022-07-27

今日は、デザインの仕事で、超難しいレイアウトの紙面を完成させて、ピアノ教室に行ってきた。

松任谷由実の「春よ、来い」を弾いていて、弾きながら、僕はメロディラインの音階を頭の中で言えることに気が付いた。

メロディラインの音階が頭の中で言えるのであれば、楽譜を見なくても、その通りに弾けば間違いなく弾ける。

このことに気付いたため、僕はいつもより間違いなく、すらすらと弾くことができた。

男になる

僕は、新しいラファエルとして、男になると決めた。

はっきり言って、女はもういい。女としては、もう十分すぎるほど生きた。

今から、僕は新しい男の大天使ラファエルになる。

目的があって、それを実現する、それが基本

基本として言えるのは、「目的があって、それを実現する」ということである。

ここで、物体や機械について言えるのは、「外部の誰かがそのものをなんらかの目的のために使う」ということである。

そして、生物について言えるのは、「それ自体が、自分自身がそうする・そうなることを目的として、自分自身を使う」ということである。

すなわち、ものは誰か主体となる人間が存在して、その人間に対して「従属」する。

これに対して人間は、自らを自らの目的のために使い、自らがそうなるために「自律」して行動する。

しかしながら、コンピュータシステムは、この二つの中間にあると言える。すなわち、人間に対して「従属」していながらにして、自らを「自律」して制御する。

コンピュータシステムによって、このようなヘーゲルやサルトルの言う「即自存在」「対自存在」(即自的・対自的に存在する)は、もうひとつの「中間存在」を作り出したのである。

目的があってそれを実現するならば何をするべきか

考えるべきことは、「目的があってそれを実現するならば何をするべきか」ということである。

この世界にはさまざまな問題がある。その中でも重要なのは、「心の空虚さ」という問題である。

わたしたちは、学校や資本主義社会といった、小さな枠組みの中に強制的に押し込まれて、管理され、そこでなされることがこの世界のすべてだと勘違いしている。

だが、本当は、学校などは小さな世界であり、学校の環境だけがこの世界のすべてであるとは言えない。

資本主義社会についても同様である。学校や資本主義社会で、いくらいじめや抑圧といった「空虚な現実」が広がっていたとしても、その空虚な世界がすべてであるとは決して言えない。

では、どうするべきなのか。

それは自らが「確かに確信することができるような自らの本質」を信じることである。

そして、その本質とは何か。

それは「いじめや抑圧のない社会」であり、言うならば「権力者や金持ちが勝利するのではなく、真の意味での国民が平等に勝利する」ような社会であると言える。

だが、平等に勝利するとはどういうことなのか。

それは「自分自身のことを愛する」ということ、「ありのままの自分を受け入れる」ということであり、そして「そのためにこの世界はある」と言えるような世界を実現することである。

だが、それを精神論だけではなく、物質論から考えることもできる。

そのために必要なのは、「自らしようと思うものに対して手段を与えること」であり、それはすなわち、「生産手段をオープンに共有すること」なのである。

人間とは何か

ここで考えるべきなのは、「人間とは何か」ということである。

なぜなら、人間は社会的な存在であると同時に、理性的な存在でもあるからである。

理性的に考えるとはどういうことか。

それは、自らの経験に基づいて、確信できるような理想と、それと照らし合わせられるような現実から、「理性」を自ら行使するということである。

だが、その行使するべき「理性」とは何か。

それを考えるためには、「理性がどこから生まれるのか」を考える必要がある。

端的に言えば、それは「自らが知っていること」すなわち「経験」である。

なぜなら、あらゆる理性において、自らは「自ら知っていることからしか考えられない」からであり、それを与えるのは「経験すること」だからである。

経験から言えることは何か。

それは、どんなに失敗し、人々と離れた現実が突きつけられたとしても、それだけでは人生は終わっていないということである。

経験において重要なのは「成功」だけではない。

なぜなら、「失敗」を経験することで、「どんなに失敗してもまだ終わっていない」ということが確信できるようになる。

学校でいじめられて、不登校になった経験から、僕は「不登校になってたったひとり孤独になったとしても、自分の人生はまだ何も終わっていない」ということを確かに知った。

その上で、自由に行動して自分なりに考えることから、「逆に自由になることができて、自ら自由に行動し、積極的に自らのやりたいことを自分の判断から行うことができるようになった」ということを経験した。

その結果、僕は、「成功では得られることのないような、自らが自らの力で判断し、自らの基準で取捨選択できるような、100%自己責任でありながら自由な心の余裕を持った人生の正しい生き方」を知ることができた。

そして、そのような考え方から、僕は「哲学者となるために必要とされるようなすべての前提となる経験」を、すべての側面から広く深くすべて知ることができた。

その結果、僕は「あらゆる人間のアイデンティティをメタ的に包括したようなアイデンティティ」を知ることができた。

同時に、「人間が本当に人間らしく生きるためには、どのような社会と人生を持って、成熟レベルの高い世界を築くべきか」を知り、その「実現方法」まですべてをゼロからひとりで考えた。

そう、その結果、僕はこの世界を救うことができるような、「救世主となるための予備知識」を知ることができた。

そのすべては、「知ることができたから」可能であったのであり、その知るということは「経験するということがすべての前提条件である」ということであると分かった。

そう、これがまさしく、僕の「自由な経験」である。

このような自由な経験の結果、僕は「地球という星のすべての現実的状況」を知ることができた。

僕は、地球をどのようにも変えられる人間だった。

それは、「支配」では決してなかった。自由において「導き手」となる、ということは、相手を支配することの「真逆の行為」である。相手を自分の意のままに動かすのではなく、相手に「自らが自由にできる余地」を与え、その自由において感情を促すことで、僕は相手に「実体験的に分からせる」ということができた。

そう、これこそ、終末における「最後のソクラテス」と呼べるような人間であり、僕は中学校を不登校になって家でひとりインターネットを経験するだけで、このように考えた結果、「子供たちの環境を自由なまま秩序のある正しい環境にする」ということができるようになったのである。

その方法とは何か。

それは、子供たちに「正しい社会秩序を築く方法を教える」ということである。

子供たちは、「社会秩序を築くための方法を知らないにもかかわらず、自分たちだけで社会秩序を適切に形成しろと大人たちから強要されている」のである。

サルトルは、「自らの本質が定まる以前から、その本質が定まっていることを前提に社会は要求してくる」ということを、「実存は本質に先立つ」と言った。

同じことが、「子供たちの社会環境」でも起きている。

すなわち、子供たちは、自らがどのようにすれば正しい社会環境を築けるのか、ということを知らない。誰も知らないから、いじめや非行が起きる。その理由は、子供たちが社会秩序を正しく形成する方法を知らないにもかかわらず、大人たちは子供たちに「自分たちで仲良くしなさい」と強要し、子供たちに「仲のいい友人関係を築いて、学校で平等にいい子にしなさい」と要求してくる。

だが、好きになることのできない友人に対して、子供たちは排除したり支配したりいじめたりすることでしか、人間関係を構築することができない。

解決策は、子供たちが正しい社会秩序を築くことができるぐらい、子供たちが成熟することであり、僕はそれを正しい方法であると思い込み、「子供たちには自由な経験をさせながら、自由なコントロール権限を与えるべきだ」と信じた。

だが、実際は、自分の思っているのとは違って、子供たちははっきり言ってみんな馬鹿で愚かな餓鬼である。

そのような餓鬼である子供たちを、大人たちは「管理」しようとしたがる。大人たちは、優等生が居れば不良もその優等生を見習って、優等生と同じように学校で大人しく大人たちに従いなさいと強要する。

そう、すべて、子供という存在があまりに特殊だから、起きる現象なのかもしれない。

だが、このような「子供たち」の環境は、本当は大人たちであっても当てはまることであり、資本主義社会において、多くの弱者は強者に「疎外」され、子供たちと同じように、いじめと同じ状況の仕打ちを受けている。

必要なのは、自由な経験から成熟することではない。自由な経験から成熟するというのは、子供たちに対して「自ら自立せよ」と宣告しているだけであり、「正しい社会秩序を築く方法を知らないにもかかわらず、正しい社会秩序を作れと要求する大人たちと何も変わらない」からである。

結局、「経験した上で正しい社会秩序を作れ」と言っているだけであって、大人たちと変わったことは何も言っていない。成熟していい子になりなさいと言うのが、単に大人しくしていなさいと言われるのと、何が違うのか。

だが、成熟すること自体は間違っていない。そもそも、僕は「たったひとり自分のために自由な経験をした」だけにすぎない。そのような孤独の経験から分かったことを、単にかつて自分が居た学校の環境と照らし合わせて、「このように成熟した高い視点で考えれば、あのように悩み苦しむ意味はなかった」ということを知っただけにすぎない。

つまり、結局は世俗から離れて、社会から疎遠になった上で、自らがひとり経験して成熟するしかない。みんなは、それぞれがそれぞれの考え方と経験のもとに、それぞれがやりたいようにやればいい。

だが、はっきり言って、それはまさしく大人たちの言うことと同じ、「放っておいて好きなようにやりなさい」ということであり、解決策とは到底言えない。

だが、真に平等な社会を作るために革命を起こしたところで、何が実現されると言えようか。社会そのものが滅び、崩壊して、ソ連のような殺人と逮捕と弾圧を繰り返す「最悪の共産主義国家」が生まれるだけにすぎないだろう。

答えはまだ分からない。だが、ここまでの思考のプロセスを振り返れば、なんらかの意味で、大切なことに気付くことができるだろう。