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2022-01-12

事実、自由な民主主義国家とは何が優れているのか。

それは、コミュニケーションが優れている、ということである。

政府の政策や、政治家の言動に対して、常にマスコミが監視しており、そのマスコミの伝える内容から判断して、国民が政治に対して意見を持ち、それが国民全体に広がって、それをマスコミが報道する、という「メディアコミュニケーション」が優れているだけにすぎない。

結局、政治制度が自由かつ民主主義的であると言っても、一票で政治が動かせるなどということは普通ない。

メディアがあるから、政治について関心を持ち、自らの投票が政治を変えるかのような幻想を抱く。まるで「政治ショーに国民が参加している」かのような幻想を抱いてしまう。

だが、これは危険である。なぜなら、マスコミは国民を洗脳している。国民がさも自分たちが政治家と同じ立場に、あるいは政治家よりも上の立場にいると錯覚させ、実際はマスコミのバイアスのかかった常識をこの世界の普遍的意見だと信じさせている。まさに、これが洗脳である。

僕はこの世界を自由にする

僕は、この世界を自由にする。戦いや支配の中で生きるのではなく、国民が真に自由なことをするために、それができる社会を作るために僕は生きる。

マスコミよ、わたしのことをせせら笑うがいい。わたしはこの世界の自由を守るために戦っているのだ。

わたしは、マスコミが見せる「この世界らしきもの」を信じない。わたしはそのような世界らしきものは偽物の世界であると知っているからだ。

わたしはこの世界を自由にする。真に人間らしく、モノ扱いされず、自由な信頼関係の中で、相手のことを信頼して生きられるような世界を築く。

新しい自由な国家

僕が考えるに、国民は何よりも自由なことができるべきである。

それは、学校にも会社にも制限されず、どんな仕事や可能性であっても自分の自由にできる、ということを意味する。

僕は、ここに「自由ノルマ」を新しい経済モデルとして採用する。

これは、すなわち、自分の仕事を自由に選ぶことのできる、新しいノルマ制度である。

自由ノルマにおいて、すべての労働は「等価な労働量」が保証される。すなわち、どの仕事を選んだとしても、その労働の辛さはすべて同じになるように、仕事量や労働時間を調整する。

また、辛い仕事については、少ない労働量で構わないことにする。

同時に、最低限のノルマをこなして、残りの時間は自由に生きることもできるが、「特別労働」に基づいて、自分の好きな仕事を、給与や報酬を度外視して、そのために必要な最高の環境で、ボランティアで労働することができる。

そして、最低限のノルマ、すなわち「基本ノルマ」については、自由に選ぶことができるだけではなく、どんなノルマを選んだとしても楽であることが保証されている。

たとえば、工場では休憩を多くとるし、農業では農作物を作るために必要な農業機械などを十分整備し、ほかのどの仕事を選ぶよりも農業を選んだ方が苦しみは少ないように調整を行う。

自分の嫌な仕事を選ばざるを得ないとしても、嫌な仕事は最低限すればよく、それをきちんとこなせば、特別労働の枠で自分の好きな仕事ができる。

また、僕は再分配をするために、逆消費税、すなわちマイナス消費税の制度を採用する。これはすなわち、消費するたびにその10%を税金でとるのではなく、逆に10%の割引きが得られる仕組みであり、このための財源は別の税金で所得税や法人税を取ることによってまかなう。そのため、独裁政権が資本家の富を強制的に没収して再分配しなくても、自動的に豊かな人間から貧しい人間へとお金は再分配されていく。

また、僕は政府の政策として、新しい市場経済に基づく計画経済を行う。この本質は、「雇用数と製品の数を調整することで格差は是正される」ということである。マルクスではなくケインズが正しいのだとすれば、需要と供給に基づく数量に基づいて物品の値段は決まるはずである。それならば、数量を政府が調節すれば、市場経済のままでも計画経済と同じように、格差を是正して平等にすることができるはずである。僕は「計画経済ではなく、調整経済を」というスローガンのもと、独裁者がひとりで五か年計画を計画するのではなく、数量を調整することで社会を平等にする。そうすれば、社会主義経済と資本主義経済は融和し、国民にとって必要な物資を十分に生産することができなかったソ連の二の舞にはならない。

また、学歴社会は必要ない。会社が労働者を雇用するのは、権利ではなく、義務である。会社が欲しい人材を自由に得るのではなく、どんな人材であっても会社はある程度の労働者を雇用しなければならない。そこで学歴などで差別してはならない。また、労働者を雇用したからには、責任をもって人並みの仕事のできる従業員に育てなければならない。生活できるための給与も与えなければならない。そのために、国家は「労働者憲法」を定める。この憲法では、労働者を守るべき第一優先の条文が裁定され、すべての会社はこの憲法を最優先に守らなければならない。

このようにすることで、新しいユダヤ人国家、シオンは楽園となる。

ツイッターより @zaidoubansou

国民が豊かになり、国富が大きくなることは、富という意味で正しくても、国民の成熟レベルという意味では低レベルだ。なぜなら、金のために働いて奴隷のように生きるならば、それは動物と何も変わらない。人間には知性と自由がある。知性と自由のために生きることこそ、人間にとって真に意味がある。
posted at 19:54:47

よって、ある程度の大きな国家を支配し、過激派を生み出さず、全員を一律に雇用し、国民の自由を奪わず、支配ではなく不満の解決によって国を治める国家こそ、理想の国家である。
posted at 19:51:16

しかしながら、自由を奪うのは間違っている。なぜなら、たったひとりの指導者が国家を支配したところで、ほかのすべての人間が強制的に従うのだとすれば、それは強いかもしれないが、国民は自分の意志で行動していない。すべてが独裁者の思うがままであれば、国民は人間ではなく機械となってしまう。
posted at 19:50:23

だが、世界人類の平等な世界政府もまた、間違っている。その政府の首脳が愚か者だったならばどうするのか。アメリカの大統領が、本当に世界全体の首長でいいと言えるのか。実際はアメリカなど無能であり、一国だけで正しい政策をするしかない。世界政府は無能な大統領が支配するリスクをはらんでいる。
posted at 19:47:12

そもそも、際限なく共同体を作っても、小さくなって弱体化するだけである。アメリカをヨーロッパのように各国に分けたところで、アメリカの一国の力が弱まるだけにすぎない。その行き着く先が現代だ。個人ひとりだけが力を持つ世界では、ほかの個人には個人であるがゆえ、ひとりとして何もできない。
posted at 19:45:16

政府は何もできないという現実は確かにある。アップルのスティーブ・ジョブズと同じことは政府にはできないと。だが、それはジョブズという人間が例外的に賢すぎたのだ。なぜなら、ジョブズが死んだことで、IT業界はすべてつまらなくなった。そう、ジョブズと同じことは会社であってもできない。
posted at 19:34:57

資本主義は、法治国家であり、正しいことだけができて、間違ったことはできないため、自由においても正しい秩序になるとするのは、嘘である。実際は、詐欺まがいの金儲けや悪いことをして出世する人間しか居ない。なぜなら、一般的国民には判断力がない。だからいくらでも悪党が騙すことができる。
posted at 19:29:41

社会主義に唯一正しい点があるとすれば、それは全員雇用することであると思う。公務員として全員を一律に雇用すればいい。そうすれば失業者は生まれない。国民を雇うことを、会社にとっての権利ではなく義務とせよ。そして、雇ったからには責任を持って人間らしく働ける労働者として育てよ。
posted at 19:24:19

わたしが思うに、学歴社会が間違っている。どんな人間であっても会社に入れるようにすることはできないのか。会社にとってほしい人材しか雇わないのは、確かに自由だが、社会の公器としての会社の役割を果たしているだろうか。僕は学歴に基づく自由な雇用体制に否定的である。
posted at 19:22:21

よって、国民の権力が過激派を無くすようにせよ。また、正義の国民には自由を与えよ。そして、過激派が生まれないように1%の不満分子を作らないようにせよ。それでも過激派が生まれる理由を作らないために、不満分子には自由を与えよ。同時に、支配によって解決せず、不満を解決するようにすればよい。
posted at 19:19:05

よって、どうすればいいか。それは過激派の攻撃する理由をなくすために、そもそも過激派を生み出さないようにすればいい。過激派が居なくなれば、自由な支配者と国民の権力は矛盾せず、正しい。居なくなればいいのであれば、過激派を生み出さなければよい。そのために国民に自由を与えればいい。
posted at 19:15:29

すべての元凶が、1%の過激派であるとするならば、ここに矛盾はない。すなわち、自由に多数派の国民に判断を委ねれば平和になり、また自由な支配者の権力による弾圧によっても平和になる。だが、1%の過激派の視点に立てば、自由を与えれば過激派は攻撃する理由を失う。過激派が居るから矛盾が生まれる。
posted at 19:14:04

だが、実際問題、99%の国民が自由な平和を目指していても、1%の愚かなテロリストが、身勝手な権力の掌握を目指してテロを起こす。彼らには道理は存在しない。そのようなテロリストを殲滅させることもまた平和であるとするなら、多数派による支配と弾圧は平和を目指していることになってしまう。
posted at 19:11:41

要するに、平和と自由は同時に成り立たない。なぜなら、自由を目指すということが支配に対する戦争となる。だが、平和と自由は本当に同時に成り立たないだろうか。国民の自由にして、国民が自ら戦争を選ぶなどということが、果たしてあるだろうか。
posted at 19:10:32

しかしながら、一度、そのような「平和主義」を棄て、「自由主義」に基づいて考えてみよう。すなわち、平和を実現するために自由を与えるのではなく、自由自体を至上目的とした上で、政府とテロリストが戦争することすら、自由という意味で肯定することはできる。
posted at 19:09:35

攻撃は何を求めているのか。それは政治的な権力の掌握であり、それは「自由」を欲しがっているということである。ならば、自由を与えてみよ。自由を与えれば、自由を与えないよりも、テロリストが政府を攻撃する理由はなくなる。だが、政府はそれを絶対にしたくない。そう、平和の実現は難しい。
posted at 19:08:11

攻撃する必要がなくなれば攻撃はやむ。戦いを必要としなくなれば戦いはなくなる。
posted at 19:04:56

国民を幸福にするために、外部からできることなどない。その人間が自分自身の力で、幸福になるために努力し、行動しなければならない。だから、国民を幸福にするということは、国民が自ら幸福になることができるように促すということである。
posted at 19:00:29

幸福こそが平和である。不満を持つから戦いが起きるのであるとするならば、戦いを抑止力で押し殺しても、くすぶった不満は解決しない。真に必要なのは支配することではなく、不満を解決することである。そして、そのためには国民を幸福にしようとしなければならない。それが平和である。
posted at 18:59:40

わたしがすることと、同じことが全員にできなければならない。わたしが分かることはすべて万人にとって分かることであり、わたしは単にそれを知る機会を与えられたというだけにすぎない。よって、わたしと同じ人生を生きることは、神を信じれば誰にだってできる。
posted at 18:58:26