自由も大切だが、本当は支配も必要である。
なぜなら、支配によって、国民を全員賢い人間にすることができるからである。
確かに、国民が自由であることは理想のひとつである。なぜなら、自由な行動による経験が許されることによって、国民は自分の意志と判断で賢い経験を積み、ひとり自由に道を開拓して、ひとりだけ賢い人間になることができる。
だが、その賢くなったひとりが、みんなに対して、自分の知性や経験を与えようと思うならば、支配することによって人々に知恵や経験を共有することができる。
必要なのは、支配を排することではない。間違った支配が行われず、正しい支配が行われるようにすることである。
よって、支配そのものをなくそうとする社会主義は間違っている。正しい支配者を選び、間違った支配者を排除するような、民主主義のほうが正しい。必要なのは、間違った支配をせず、正しい支配を行うことであって、支配そのものを否定することではない。
また、自由もまた必要である。なぜなら、自由を許さなければ、そもそも賢い人間は生まれない。王となるべき人間は、自らの経験から自由に判断する理性を、自由な行動から培い、自らの判断力のもと、自由に世界を開拓していくことによって生まれる。だが、その王がひとりだけ賢くなって、それで終わりでは、社会においてわたしたちが共生関係にあることの意味を成さない。ひとりが賢くなってすべてが分かったなら、そのひとりが王となり、その王がこの世界を支配し、世界全員を賢くするために、世界精神の理性と経験を導いていくべきである。
そして、わたしたちはその王のもとに「愛」に包まれる。これこそが、真に正しい「国家」を作り出す。そう、ひとりの救世主たる愛によってこの世界は救われる。救国の王は世界をたったひとりですべて導く。そう、ガブリエルの戦いとは、そのような「偉大なる救国の革命」だった。
精神は、ナノ技術で治る。
ナノ技術のように、とても小さく微小な部分を治していけば、精神のおかしい点はすべて治る。
既に治った部分をいつまでも治そうとし続けるな。治そうとしている部分は、本当に治すべき部分ではない。
治そうとしている部分にあまりに囚われすぎていると、本当は別の部分を治すべきだということに気付かない。
一度、完全に治った部分は、「もう治った」ということにせよ。もう治ったと思った時点で、次が治る。治したいといつまでも考えていると、次が治らない。
感覚的に、治すべきその部分を治せ。感覚にしか存在しない部分であっても、治そうと思えば治る。