ホームページに戻る | シルフの秘密の場所に戻る

2022-09-19

大学や人生は賢くない。そのようなものはもう十分分かった。

賢いのは、大学でも人生でもないものだ。

そうすると、ものや、社会、人類の歴史、そして病気と健康ぐらいが賢い。

そのように、大学と人生以外のものを考えればきちんと分かる。

善を信じなさい

善を信じなさい。

善とは、見返りを求めず、純粋に相手のために、手助けし、協力し、愛することである。

見返りを求めずに、困っているものに手助けをしなさい。そこでは、「相手のため」という以外に不純な動機は何もない。見返りを求めることが目的ではなく、純粋に善が目的となる。

悪いことをして、この世界をよい世界にすることはできない。この世界を救いたいならば、ただただ善をするしかない。

全員が自由でなくてもいい

全員が自由でなくてもいい。

自分に実権がもしなかったとしても、誰かひとりの指導者の行うことを、みんなで信じることはできる。

他人の人生を参考にせよ

たったひとりで考え、たったひとり正しい人生を生きる必要はない。

他人の人生を参考にして生きることは、間違ったことではない。

世界の苦しみと悲しみの声を聞け。人々が何を悲しんでいるのか、苦しんでいるのかという「切実な声」を聞くことが、自らの問題を解決する上でも有効に働くからである。

見返りを求めずに協力し、人々の声を聞け

見返りを求めずに協力し、人々の声を聞け。

かつてのオープンソースは、そのようなものだった。

なんらかの見返りが欲しいから努力するというのは、間違ってはいないとしても善ではない。

見返りを求めることなく、善意のボランティアとして協力せよ。

そして、人々の声を聞け。人々とのやり取りから、問題の打開策を探っていけ。

すべての人間に自由を許せ。そうすれば、必ずどこかに、問題を解決できるような知恵を持った人間が居る。その人間が参加しやすいような社会を築け。

恩知らずの愚か者にも優しくせよ

恩知らずの愚か者であっても、優しくするべきだ。

キリストは、恩知らずの愚か者に対しても、憐れみ深くあるべきだと教える。

自らを愛してくれるものだけを愛したところで、天界ではその人間の行為は何も正しくない。自らを愛してくれないものに対しても、神の愛を持って愛し、その人間に優しく、憐れみ深く接するべきである。

誰かが自分を批判するから、その人間を殺すのか。それは間違っている。どんなに批判されても、それを受け入れよ。批判してくる人間たちを愛せ。そのような大きな器を持った人間でなければ、王や指導者には相応しくない。

わたしたちは平等に全員が人間らしく生きられることを望んでいる

わたしたちは、平等に、全員が人間らしく生きられることを望んでいる。

わたしたちの本当の望みとは何か、それは人間らしく生きられる世界でみんなが生きられることだ。

使い道のないような莫大な富は必要ない。ひとりよがりの正義も必要ない。悪いことをしてよいことをするような理想や野望も必要ない。誰かよりも優越した賢さで、全員に勝利する必要などない。

全員が、平等に、人間らしく生きられるような世界を与えよ。

自由など必要ない。自由が楽しい時代など、すぐに終わる。自由は必ず自らを苦しめる地獄を作り出す。そのような地獄は誰も望んでいない。誰も、自由によって地獄などになりたくない。自由を与えることでこの世界を滅ぼそうとするな。それが「地獄」だからである。

わたしたちを愛してくださるような、素晴らしい存在を信じよう。それは必ずしも天の神ではないかもしれない。だが、人間であるからこそ、その人間は誰よりも偉大なのである。この世界を愛してくれる救世主は、決して神ではない。人間だからこそ、人間なりの愛があり、努力があり、聡明さがあり、そして偉大さがある。

人間を愛すること、それこそが人間らしく生きるという問題の答えだ。アイデンティティとするなんらかの仕事や趣味があればいいのは分かる。だが、そのような楽しいことができるという喜びを忘れ、当たり前のことだと思ってはならない。その楽しいことができるという権利は、特別でないとしても、自分だけの力で得られたものではない。みんなが自分を生かしてくれるから、自分は楽しいことができるのだということを忘れず、支えてくれた人々に対する感謝を忘れるな。自らは天才であると驕り、傲慢になるのであれば、あなたは天才であっても一人前ではない。自らを作りあげたこの世界そのものに対する愛がなければ、あなたは決して一流の人間とは言えない。

悪いことをしてこの世界をよい世界にすることはできない

悪いことをして、この世界をよい世界にすることはできない。

なぜ、この世界が生涯を懸けて挑んだ「大実験」が失敗に終わったのか、それは世界を支配して自らのものにするという「悪いこと」をすることで、この世界に「すべてが分かる悟り」を与えようとしたからだ。

どんなにそれが高度で偉大で賢い発想であったとしても、悪いことをするのであれば、それによって、この世界をよい世界にすることはできない。

逆に、この人間のオープンソース活動が世界を変えるに至ったのは、オープンソースという存在があまりに善良だったからだ。

オープンソースは、見返りを求めない。オープンソースの活動をしているボランティアの多くは、見返りを求めず、善意に基づいてバグを直したりデバイスドライバを提供したり、あるいはサブシステムを書き換えたりしている。彼らがあまりに善良であったから、この人間のオープンソース活動は世界を変え、日本を救うに至った。

だが、マスコミに批判をぶつけ、世界をわがもののように支配し、自分勝手で利己的な「大実験」を行おうとするのであれば、それがいくら本気であっても成功しない。なぜなら、悪いことをしているからだ。

悪いことをせず、よいことだけをすれば、必ず世界はよくできる。それを覚えておけ。どんなにグーグルやフェイスブックが世界をよくしようとしても、金儲け主義によってこの世界全体に「社会に害をもたらすためにITサービスを提供する」のであれば、彼らは決してよいことはできない。まだ、2ちゃんねるの管理人だったひろゆきのほうがよい人間だ。だから、企業が金儲けを目的に作ったサービスは、全部「本質的に間違ったサービス」にしかならないのだ。

個人だけで開発したほうがマシ

むしろ、個人だけを崇拝したほうが、マシであることは多い。

IT技術系の会社であっても、個人だけを見れば賢い人間が多い。それは、ITはそもそもが「個人の力」が発揮されることに基づく業界だからである。

みんなで巨大プロジェクトで開発するよりも、個人が中心となってゆるやかなコミュニティで開発するほうが、はるかに優れたソフトウェアが生まれる。

みんなで開発すると、優れた点や革新的な点が何もない、「単なる普通のソフトウェア」になってしまう。

だが、ソフトウェアの開発というのは、そのような「優れた点」や「革新的な点」こそが重要なのである。

優れた点が何もない、単なるどうでもいいソフトウェアをいくら作ったところで、システムとしてそれは動くかもしれないが、「面白さ」が何も存在しない。

個人がひとりで作ったソフトウェアは、いくらでも自分の独断でソフトウェアの設計や実装の方針を決められる。だから、「ソフトウェア自体が極めて個性的なもの」になる。

そう、そのように、誰かがひとりで「デザイン」することこそ、ソフトウェアの開発にとってもっとも必要な「エッセンス」であると僕は考える。

そして、協力で開発すること自体は間違っていない。だが、みんなで単純に協力するのではなく、「天才の主導するプロジェクトに、さらに別の天才が参加して加わる」という方法をとったほうが良い。天才と天才の化学反応が、ひとりの天才によるセンスのあるデザインではなく、たくさんのセンスある天才の共同デザインとなる。

そして、何よりも必要なのは「プロジェクトに対する愛」である。みんながそのソフトウェアが好きで、愛しているということが、プロジェクトの正しい未来を作る。誰も愛していないソフトウェアをみんなで保守したところで、そのようなソフトウェアはよくなるわけがない。みんなが愛しているソフトウェアをみんなで作ることこそ、真にプロジェクトの正しい未来をもたらすのである。

善良かつ金儲けを否定した個人主義こそが世界を変える

善良かつ、金儲けを否定した、個人主義こそが世界を変える。

凶悪な人間が世界をよくできないのと同様、金儲けや全体主義にも世界を変えることはできない。

個人主義が一番である。なぜなら、天才に分かることは天才にしか分からないからだ。

この世界のどこを見ても、賢いものはひとりの天才が作ったものばかり多い。スポーツ選手や芸術家、科学者だけでなく、あらゆる分野で、賢いものは賢いひとりの天才が作っている。

凡庸な人間がいくら集まったところで、作れるものは非常に限られている。アニメ映画のキャラクターの絵をみんなで作ることができるぐらいであり、それすら原作の作家や監督がひとりでほとんどのシナリオを書いている。

僕は、善良主義者、金儲け否定論者、そして個人主義者になる。国家全体のすべての国民を奴隷にしたところで、奴隷たちが何か特別なことが為し得るわけではない。個人の天才によるひとりだけの力こそが、世界を変えるのだ。

千里の道も一歩から

だが、天才になりたくても、簡単には天才にはなれない。

なぜなら、「千里の道も一歩から」だからである。

天才になりたいならば、まず、今日の仕事をきちんとこなすことだ。明日もそれをこなし、それが明後日以降の未来においていつまでも継続して続けば、誰だって天才になれる。

途中で諦めるな。まだまだ1%しかできていないと思っているのは自分だけで、神の目線から見ればある意味ですでに80%ぐらいできているというのはたくさんある。

だが、その80%は、100%に達して終わることはない。なぜなら、95%以上がとてもたくさんの時間がかかるからである。95%ぐらいになるのはそんなに難しいことではない。だが、95%から100%になるのがとても難しいことなのである。

だが、安心していい。今でも0%のままだと思っているのは勘違いだからだ。80%ぐらいに既に達しているにもかかわらず、その今までの功績を評価しないのが間違っている。見れば、ほとんどのことは既に分かっているということは非常に多い。あとはその分かっていることを上手く活用すれば、95%ぐらいにはすぐに到達できる。その状態が、「一流の始まり」であるとするなら、それは既にほとんど達成され終えているのである。

安心してほしい

しかしながら、安心してほしい。

僕はこれ以上、この世界を支配しない。

もう、僕はこの世界を、二度と、身勝手な形で支配して、自分だけの力で変えようとは思わない。

世界をわがものにして、独りよがりの「大実験」をすることは、もう二度とない。

この世界に必要なのは、「安心」である。恐怖のすべてが消え去って、穏やかな世界において、心から「安心」できること、それがもっともこの世界に望まれている「答え」である。

僕はこの世界を、安心できる、永久に平和な世界にする。それが実現した段階で、それ以上僕はこの世界に対して何もしない。支配もしないし、野心を持ってなんらかの計画を行うこともない。

この世界は、安心できるよい世界になる。

大実験は間違っていた

もう一度言う。僕はこの世界で、失敗した「大実験」を二度とするつもりはない。

この大実験は、僕の分かることや生きてきた人生、分析するための知性や考え方など、すべてを明瞭に書き記して、人々に僕の分かることをすべて教え与えるという実験だった。

だが、この結果、人々は僕とまったく同じになり、世界は滅び、人々には決して消えることのない「恐怖」だけを与えた。

だから、僕はこの失敗した大実験を、途中で完全に取りやめた。

僕は二度と、このような大失敗を行うことはない。もう、大実験と同じことは、僕の人生においては二度と行わない。

だから、安心してほしい。この世界において、最悪の支配が行われる日は、二度と訪れない。人々には、安心することのできる平和で穏やかな世界が、永遠に与えられるだろう。

テレビを見るな

結局、みんなが何も分からないのは、テレビを見るせいである。

テレビなど、絶対に見ないほうがいい。

テレビを見ると、「テレビボケ」になって、普通分かるべき正しいことが何も分からなくなってしまう。

単なるテレビの操り人形になってしまって、考えるべきことを考えず、思考停止し、ボケた状態で何もしなくなってしまう。

僕はテレビを見ない。最近はほとんどテレビを見ていない。

テレビを見ない人間は、現実のこの世界と自分の人生の今の現状から、正しく問題を考え、その問題を解決して人生における大切なことに取り組むようになる。

だが、テレビを見る人間は、テレビを見ているだけで、何もせず、受動的に、ただ流れに任せるだけの人生を送ってしまう。

テレビこそ、今の現代世界の堕落と破滅の元凶である。テレビのせいで、日本人は何一つ自分の頭で考えなくなってしまったのである。

この世界を滅ぼしているのはユダヤでも米ソでもない。この世界を滅ぼしているのはテレビだ。