この世界は、ヨーロッパ、ソ連、アメリカ、日本、そしてイスラエルに分かれよ。
ヨーロッパでは、それぞれの国家でそれぞれの支配者が王となり、それぞれの王と国民の価値観とアイデンティティを、王国として形成せよ。
ソ連では、すべての人間が平等となり、国民は全員同じとなり、国家の全員で考え、全員で足並みを揃えて、ともに高まれ。
アメリカでは、それぞれが場合によって王となったり従者となったりしながら、それぞれが自由に作用し、それぞれが時と場合によって自由な社会と異なる関係を持つように、社会にそれぞれが自由に働きかけよ。
日本では、たったひとりの神のように賢い「もっとも賢い超人的指導者」が現れるため、全員がその指導者に従え。
イスラエルでは、すべてのユダヤ人が理想的な最高の指導者である「神」を信じ、その神の言葉に従え。
この5つの地域が、最後の地球の「滅びの時代」に生き延びる地域となる。そして、それぞれはまったく別々の文化と社会を形成し、多様性という言葉で簡単に語ることができない「生態系」を形成する。
今までの、すべての国家がそんなに何も変わらない「普通の世界」は、終末において遅れたものとなる。それは単に旧態依然として古びたからだけではなく、以前のような平和な社会に戻ることのできないような「危機的状況」が訪れるからである。
だが、危機的状況を乗り越えて、この5つの地域だけが生き延びる。そして、人類はそれぞれの国家において「まったくほかの地域と異なる生物」へと進化していくだろう。
結局、僕がプログラミングができないのは、論理的に考える力が欠けているからだと思う。
父親と少し、論理的に考えるとはどういうことか、ということについて話し合った。
その結果、「情報から類推すること」であるということが分かった。
たとえば、そこに存在するものがそのような見た目をしている。このものはなんだろうか。
見た目から察するに、このものはこのようなものと見た目が近いため、そのようなものと同じグループに属するのではないだろうか。
ということは、このものはこのような用途に使えるはずである。
ここまでは「仮定」である。しかしながら、これを実際に「実験」し、そのような用途に本当に使えるのかどうかを実際に試してみることができる。
そして、そのような実験の結果、それはそのようなものに使えるものであるということ、あるいはそうではないということが分かった。
この分かったことについて、誰であっても理解することが可能であるような「定理」を作る。
そして、この定理に基づいて「説明」する。
この説明が、本当に正しいということを、既に正しいということが分かっている説明の延長線上として、「証明」する。
そう、このような考え方が、論理的に考えるということである。
結局、このように抽象的に書いても、何を言っているのか良く分からない。
たとえば、「猫でもわかるWindowsプログラミング」という本がある。
だが、この本を読んでも、猫でもわかるはずなのに、人間が読んでもWindowsプログラミングが分からない。
なぜ、猫にはわかるのに、人間には分からないのだろう。
ここで、論理的に推察して考えると、「そうか、人間は猫よりも馬鹿だったのだ」ということが分かる。
猫の知性でもわかるのに、人間の知性では分からないということは、猫よりも人間のほうが知性が劣っているということの証明である。
まさにこれこそ「類推」という行為である。そう、このように「事実からその意味を分析して説明する」ということが、論理的に考えるということなのである。
このように、「そうか、そうだったのか」ということが、子供の知性には多いが、大人になると、そのようにひらめいたりする、ということ自体がなくなってしまう。
何についても、当たり前に知識と常識で分かるだけになってしまい、知性を論理的に使って考えなくても、知識や常識から「当たり前になった考え方」で分かるようになる。
だが、このような大人は、何もせずに生きているに等しい。
大人は、何をやっても、ただやっただけで、そこから何も発見しない。やったからできるだけで、それ以外に得るものがない。収穫すべきものをただ収穫するだけであり、そこにオプショナルな「発見」が存在しない。
僕も、もれずにそのような大人になってしまった。すべてのことを知識や常識から分かるだけで、「そうか、そうだったのだ」というひらめきが一切ない。このような大人はまったく、「生きている意味が本当にない」。
だが、本当に生きている意味がないだけではなく、「意味がなくてもいいことになる」というのが大人の特徴である。生きている意味がまったくなくても、大人は辛くない。今すぐに死んでも、明日何もできなくなったとしても、まったく後悔することがない。生きている意味自体が当たり前にないのだから、生きている意味をまったく求めなくなる。
結果、大人は楽になって、何もなくても満足した状態で、自分のやっているそのこと自体を愛し、すべてを何があっても受け入れるようになる。どのようなことがあっても、その結果はすでに分かっている。自分がしたそれが、なぜ成功したのか、なぜ失敗したのか、考えなくても当たり前に分かる。だから、意味はなくてもアクティビティは無限に続いていく。いつまでも楽しみが続き、永遠に楽しみが終わることがない。そう、これが「大人」である。
なぜ、子供にはひらめく知性があるのに、大人にはないのか。
それは、子供の知性は、最初の一回目に分かる時にしか、できないからである。
たとえば、この世界にあるすべての物質が、原子であるとする。そうすると、まわりにあるものだけではなく、地球上のすべてのものが、原子によってできていることが分かる。
地球上のすべてのものが原子でできている。そして、原子は万有引力を持っている。
原子は、実際に見える姿ではなく、宇宙における本当の「実体」として原子構造という「状態」が存在している。この状態が、万有引力によって、地球と結びついている。
そう考えた時、地球にあるすべてのものは、繋がっていると考えても、なんらおかしくはないことが分かる。
子供は、このように考えた結果、「そうか、地球にあるすべてのものは地球の一部なのだ」ということをひらめく。
だが、大人は、同じことを考えても、そのように「ひらめく」という発想にならない。
なぜならないのか。答えは簡単であり、二度同じことは発見できないからである。
一度発見したことは、「発見」という言葉の意味通り、発見である。今まで知らなかったことを、その発見によって知ることができる。その発見によって、世界観が変わり、価値観が転換し、ものを見る姿勢やものの見方そのものが変わる。この世界の見え方そのものが新しくなる。
だが、二度発見したことや、あるいは三度も四度も発見したところで、そのような「自分自身の考え方それ自体が変わる」ということは、もう体験できない。
簡単に言えば、「青春は使い捨てである」ということである。一度しか発見の効果はなく、二度も三度も発見したところで、何ひとつ面白くない。
そのような結果、子供にとってもっとも大切な人生の道標である「ひらめき」を、大人は完全に失う。
しかしながら、大人の賢い点は、「ひらめきではなく、ほかの方法で分かるすべがないかどうかを永久に探し続ける」ということである。
大人には、子供にあったようなひらめきがない。一度発見したことについて、再び同じように発見はできない。だが、同じように発見できないならば、「違うように発見することはできないだろうか」と大人は考える。
そして、子供の「ひらめき」とは異なる方法で、大人は聖書を信じたり、専門書を読んだり、小説や学術論文を知ることで、まさに「きちんと分かる大人の常識」を手に入れるようになる。
そう、大人とは最初から、子供より劣った存在だ。なぜなら、「最初の一回目に分かったことをもう一度分かることができなくなる」からである。だが、だからこそ、大人は子供よりも賢い人間になる。大人にこそ、大学の知識を教えるべきである。大人が大学を学ぶと、誰とも違う「自分だけの特別な才」を得ることができる。デカルトの言葉で言えば、そのような「平等に配分されている良識」こそ、大人にとってもっとも大切な「ひらめきに代わる道標」なのである。