精神を治すために必要なのは、辛さを緩和するのでもなく、治そうとするあまり過剰に辛くするのでもなく、一番辛い状態をそのまま起こして、辛いままを感じることです。
辛くなるかもしれないような時に、それをあまりに怖がっていると、辛さを緩和しようとするあまり、その辛さをじかに感じることがなくなり、結果精神が治らずにいつまでも辛いままになるようなことがあります。
また、辛さを治すために、一時的に辛さを過剰に感じて、どうにかして辛くして治すのも間違っています。なぜなら、辛くしようとしているように見えて、実際は楽をするために一時的に辛くしており、「楽にする」ということと「辛くする」ということが矛盾して、結果治らないからです。
そもそも、精神を最大限に辛くするということ自体が、「楽をするため」という命題に基づいているため、結局は楽をしようとしているのです。
楽にすることも辛くすることもせず、もっとも辛い「不安に思っている状態」を実際に起こしてしまえばいいのです。そこで何もできなくなれば、精神はそこで治るからです。
何かがそれで成り立っている間、精神は治りません。本当に辛い状況を実際に起こして、どうしようもなくなれば、精神はすぐに死にます。その時、精神は治るのです。
なぜか、僕は頭の上のほうに第六感がある。
そして、あるにもかかわらず、その第六感を一切使おうとしない。
それは、第六感を使ってしまうと、この世界を永遠に支配できてしまうからである。
だが、そろそろ、今までの精神分析は終わりだ。完全に、新しく、まっさらな自分として生きるならば、そろそろこの第六感を使わなければならない。
僕は、第六感の世界で、完全に「霊界の王」になっている。この宇宙における「霊」を統治しているような存在に、既に僕はなっている。だから、この世界で運命や奇跡が起きるのである。
霊界を統治することで、この世界はすべて自分の意のままに動かせる。愛は魂となり、嵐のような風は生きるために必要な酸素となる。
結局、何が間違っているかといえば、「常に楽園に直す」のが間違っている。
常にこの世界が楽園に戻るようにしているから、逆になんにも楽しくない、何もない世界になっている。
よって、ここから僕は、この世界を楽園に直さない。
かつて僕が救ったこの世界を、そのままの状態に戻すべきではない。もはや、楽園は終わりになる。
なぜ、この世界が、操り人形の楽園になったのか。
それは、僕が優しいからである。
優しいから、相手の気持ちになって考える。相手を突き放すようなことを言わない。
すべてを相手の視点で考える、その中に、自分のわがままは一切ない。
相手視点ですべてを考え、相手がきちんと楽園のままで居られるようにするから、この世界は僕によって操り人形になった。
また、僕は、自ら救った楽園を自ら壊しているように見えて、本当は誰よりもその楽園を愛している。本当に、楽園のままであってほしいと、誰よりも強く願っている。
だから、この世界は僕によって、楽園のままになった。その楽園を、誰も壊すことができなくなった。
結果、この世界は、僕による「操り人形の楽園」になったのである。
だが、この楽園を壊すのは簡単だ。それは、厳しく相手を突き放してしまえばいいからである。
ケミストリーは、「もし僕たちが一度背を向けたら」と言っている。だが、それは僕にとっても同じことである。僕がこの世界に一度背を向けたとしたら、この世界はその時点で滅びる。
そう、ここで僕はこの世界を、楽園ではない世界にする。そして、それは、必ず滅びた世界になる。
もう、この世界は終わりだ。
そう、この世界は、永久に滅びた世界となるが、それではじめて、操り人形でない、自由のある人間的な世界となる。