昨日は帝国主義者のようなことを書いたが、僕は日本は帝国主義のような、全体主義国家にはなってほしくない。
北朝鮮のように、将軍さまに無条件で従わなければ殺されるような国にだけは、なってほしくない。
全体主義の間違いは二つある。それは自由な生き方を否定していること、そしてひとりの完璧な指導者や計画などは実現できないということだ。
まず、全体主義国家では、社会全体の圧力で、指導者ひとりの意見に従順に従うことを、「同調圧力」によって強制される。そのような国家では、社会全体がひとつの「生き物」になっていて、自分はその一部にしかならない。それぞれの国民が自由に生きるということが、主体的な「全体主義的生物の社会全体」に否定されてしまう。
また、全体主義国家では、ひとりの指導者を神格化する。ひとりの指導者が完璧であり、社会全てを全能者のように統治できる存在であることにされてしまうが、実際、社会全てを見た計画的経済政策などが成功するわけがない。ひとりでこの世界すべてを取りこぼすことなくすべて把握し、そのすべてを改善するなどということは人間には不可能であり、社会を維持することなどできず、効果的な投資や計画などは後回しにされてしまって、結果社会全体が遅れたものになってしまう。
よって、全体主義の政府は、必ず自由によって打ち倒される。
だが、これは、自由な自分勝手な国民の行動が正しいということを意味していない。資本主義はたくさんの欲望を際限なく満たしていき、あらゆる王のような「堕落」を与えるが、それにはなんの意味もなく、欲望に堕ちていって自分の人生を駄目にしてしまう。
また、必ずしも自由主義がなんでもできる自由であるとは限らない。なぜなら、左翼民主主義においては、悪でも堕落でもないようなすべての「悪しきこと」ができなくなってしまう。良いことも悪いことも含めて、正しいことしか許されず、何もできない世界を作りあげてしまう。これが、「何もできない左翼の社会」である。
何が正しいのか。はっきり言って、「正しい社会思想などといったものがこの世界に最初からあるはずがない」のである。この世界に、正しい国家や社会など存在しない。
かつてのイギリスやフランスの王は最悪の限りをつくし、民衆のことなど何も考えなかった。国民を支配するだけに飽き足らず、世界中に植民地を作って、列強による身勝手な世界分割をした。民主主義とは、そのようなイギリスやフランスのかつての時代で生まれたものであり、ブルジョワや貧困層による王への怒りと糾弾の革命だった。
そのような「怒りに根ざした思想」をどれだけ信じたところで、「全体主義に対する怒りの感情」しか生まれない。そして、それが「無自覚な共産主義者」たちを生み出していく。これがまさしく、「最悪の悪魔の国」、いつものソ連を生み出すのである。
民主主義や共産主義の思想は、すべて「怒り」に根ざしている。だが、その反対となる全体主義の支配は、人々の自由を奪い、実現不可能な「計画政策」を行い、結果自由に負けていく。そのようなこの世界では、「あざけり」と「抑圧」しか生まれない。抑圧が国民を奴隷にし、怒りの声がそれに対して抵抗する。このような「現代の民主主義社会」のどこが理想の自由なのか。全体主義にはなんの意味もないが、自由にも、なんの意味もない。
この世界には、正しい世界など最初から存在しない。だが、考え続けることは悪ではない。正しい社会は最初から存在しないという前提のもと、よく観察してこの世界を分析せよ。そこから、「経験」という確かに価値あるものが見えてくる。経験することは、思考することに繋がり、それが思弁へと繋がり、知識へと繋がり、やがては社会全体の「啓蒙」へと繋がっていく。そして、その「啓蒙」こそ、この世界を変え得る原動力のエネルギーの泉となるだろう。
しかしながら、このような革命の思想家は、反省したほうがいい。
このような革命思想を持った人間が、この世界を平和な世界などにできるはずがない。
そう、僕は本当は平和な世界を目指している。間違った戦いや争いのない、誰も殺されない「平和で平等」な世界こそ、僕の目指す世界である。
資本主義の経済政策や、民主主義の社会体制が分からないからといって、心配しなくていい。そのようなものは、分かる人間にやらせればいい。自分ですべての経済政策を行っている首相や大臣など居ない。経済的なブレーンや官僚の意見を聞いて、自らの理想とする思想に近い「適切な政策」をやらせればいい。
だが、何も考えなくていいわけではない。なぜなら、「自分の本当にやりたいこと」は自分で考えてやらなければならない。僕はこの世界を、Microsoftの支配からLinuxやオープンソースの世界に変えたいのであり、それだけを極めて突き詰めて考えれば良い。必ず、理想の楽園のIT社会を築くことができるはずである。
この世界の格差を是正しようというのは、本当は時代遅れな考え方だ。かつてのこの世界の進歩の先にあった未来の世界は、平等な格差のない世界ではなかった。あったのは、高度な科学技術の発展した、格差は存在するが最大限の自由と富の存在する、「何もできないが欲望が満たされることが保証された楽園」だった。その楽園が、必ずしも正しいわけではない。だが、平等を目指したソ連は遅れた生産力のない世界になった。北朝鮮よりも日本や韓国のほうが進歩している。それが、終わった共産主義の革命思想に対する、民主主義の「弁証法的なアンチテーゼ」であり、その結果、新しいジンテーゼ、すなわち「自由でも全体主義でもない正しい平和な世界」は築かれるだろう。
だが、はっきり言って、政治家のような職業にはなりたくない。
政治家は最低最悪の職業であり、政治などという活動にはなんの価値もない「愚かな行為」だからである。
そもそも、この世界を支配したところで、それになんの意味もない。自らが勝利するだけであり、誰かに対して自らのおごりを押し付けるだけである。
僕は政治家などにはなりたくないし、政治活動などしたくない。
そもそも、権力などを使わなくても、この世界を変えることはできる。そこに気付かないのは頭が悪いのである。この世界を変えるために必要なのは権力じゃない。帝国の世界征服が、いったい人間にとって何を成し遂げられようか。帝国の正しい正義の政策などには、なんの意味も価値もないのである。
この世界は、そもそも、政治などによってよくはならない。政治によってよくなっていたのは、はるかに昔、原始人のような昔の世界である。今のこの世界において、真に世界を変え得るのは政治の力じゃない。プーチンが何もできない愚策をしているのは、IT技術やインターネットに負けているからだ。20世紀の脳みそをしたプーチンには、インターネットに対して共産主義的な独裁政策で対抗することしかできないが、そのような独裁にはインターネットを倒すほどの効果や力はまったく存在しない。
また、本当のことを言えば、オープンソースがそもそも、勝利する必要などない。
オープンソースは勝利など目指していない。Microsoftに対してシェアで勝とうとしていたのははるかに昔の話であり、今のオープンソースは勝利などまったく目指していない。
そして、本当は、僕はもうオープンソースには一切かかわりたくない。僕がオープンソースにかかわっても、オープンソースに対してよい貢献ができた試しがないからである。
新しい世界を作るために必要なのは、ただ考えることと、そしてその考え方をインターネットなどを通じて公表することである。
自ら考えた「理想の世界像」を作りあげて、それを全世界に公開することこそ、真に新しい世界を作るためにできることである。
そして、僕は本当は、まだ何も分かっていない。僕が今信じていることを、もし政治的に行ったとしたら、それは絶対に破綻して失敗するだろう。
だが、それだけで、この世界を変えることを諦める必要はない。なぜなら、既に99%は実現できている。あと1%、たったひとつ何かを気付くことができれば、それだけでこの世界を変えることができるほど、僕は「十分に熟している」。
だから、僕は決して諦めない。この世界を真に平和かつ平等な世界にすること、そこで一切の自由を奪わないということ、その上でこの世界を希望あふれる楽園にするということ、それらを僕は目指しているのである。
ワルキューレの騎士団に続け。わたしたちは必ず、この世界を天国のような楽園にすることだろう。
しかしながら、啓蒙せよ。啓蒙こそが、この世界を変えていく原動力である。
わたしたちの自由と愛はここにある。
全体主義的な「愛国心」を持たないことが、わたしたちに日本を愛する心がないということを意味するかと言えば、そんなことは決してない。
愛国心と忠誠を国家に強制されなくとも、わたしたちには祖国日本を愛する気持ちがある。
わたしは、決して帝国主義者でも共産主義者でもない。だが、自由主義者では決してない。わたしはこの世界の資本主義を否定する。だが、そうであったからと言って、わたしは決して間違っていない。
だが、「自らが間違っているかもしれない」という気持ちは常に持っておくべきだ。自分自身の正義と理想だけを貫き信じたところで、その劣悪な間違った思想が正しい思想になることは絶対にないからだ。
必要なのは、「自らの間違いに気付くこと」だ。そして、自らのすべての間違いに気付いた時、「この世界には正しいものはそもそもなかった」ということに気付くだろう。だが、だからこそ、「自分の信じたその理想こそ正しい理想であると言える」ということにも、同時に気付くことができるだろう。
わたしたちは、自由を信じている。自らがやりたいことをやること、自らが生きたいように生きることを信じている。だが、それだけでは、生きる具体的な生き方が存在しない。だからこそ、わたしたちは啓蒙を信じている。この堕落した腐りきった資本主義の世界を変えられるような、「憂国の先にある希望」を信じている。
だから、もう過ぎ去ったことは忘れなさい。過去の栄光ばかりを見たところで、その過去の栄光を今手に入れることができないのであれば、そのような栄光には最初からなんの意味もなかった。価値のない栄光を掲げることが、どんなに甘美であったところで、それはまやかしにすぎない。まやかしを永遠に続けるつもりならば、それを強制的に人々に押し付けるな。そのような人間こそ、「愚帝」と呼ばれるべき最悪の王である。
未来がどこにあるのか、分からなくなった愚かな日本人たちよ、未来は「啓蒙」の先にある。
わたしたちは、指導者による導きを望んでいる。なぜなら、ひとりひとりの国民には、もはや何が正しく価値があるのかということすら分からない。
だが、未来は必ず、「啓蒙」の先に存在する。
そして、この「啓蒙」は、決して「過去の抗うことのできない流れに飲み込まれて消え去ったもの」ではない。
なぜなら、今こそ、この世界を「新しい世界が待っている」というように啓蒙すべきだからである。
わたしたちには、奇跡を起こせる力がある。わたしたちは、みんなで一緒になればなんでもできる。あまりに、個人主義の民主主義社会に慣れきってしまったせいで、「みんなでやればなんでもできる」ということをわたしたちは忘れすぎている。
だが、ひとりの人間ができるということは、それ自体が、この世界の全員がそのひとりの力と同じ力を持って「協力して変えられる」ということを意味している。
啓蒙とは、単にひとりの思想をコピーするということではない。啓蒙とは、自らもそのひとりと同じ「自由な人格」を持った上で、そのひとりと同じ権利や権限を持った上で「自分もその人間に共鳴した上で同じように考える」ということである。
そして、宗教とはそもそも、神を盲信するものではなく、そのような「ひとりの考え方に共鳴して自分自身も同じように考える」ということを目指した、古代における「聖なる神による啓蒙」に根ざしたものだったのだ。
そう、わたしたちは、わたしたちの国家を啓蒙して変えていかなければならない。この啓蒙のベースとなるのは、「自分が自分の在りたい自分であれるような社会を可能とする自由」である。この世界において、わたしたちはあまりに自分自身というものを失った。だが、わたしたちは完全にクローン人間にされたわけじゃない。今こそ、この世界をクローンのように同化する、「強制的同化の勢力」を拒否し、拒絶しなければならない。そして、そこには、「わたしが本来在りたかったようなわたしで在れる世界」が必ず訪れる。
共産主義とファシズムの20世紀の戦いに反して、わたしたちに真に必要なのは富や格差の是正ではない。わたしたちに必要なのは、むしろ自由ですらない。わたしの在りたいわたしで在れるような、そのような「アイデンティティの尊重」こそが必要である。それは自尊心を尊重することだけを意味していない。なぜなら、自らの自尊心を尊重するあまり、逆に独善的になって他人の自尊心を否定するような人間でインターネット民はあふれている。そう、まず最初に、自らの自尊心の特別な尊重を忘れ、人々と自らが同じ立場にあるということを信じて、「自らの力を失ってでも人々の自由を尊重する」ということをせよ。そうすることで、逆に人々とよい関係性を築ける。それが、「関係性を結びなおす」ということを意味しており、それは自らが「在りたい自分で在れる」という「生きることの自由」を得ることへと繋がる。そこから、この世界は「自らが在りたいように在れる」ということを知る。これが「アイデンティティ」である。
価値観を考える上で、その価値観そのものを必ずしも尊重する必要はない。なぜなら、価値観とはなんらかの前提となる社会や人生から生まれるものであり、その社会や人生そのものを解決してしまえば必要となくなるものであり、そうでなくその価値があるものを得たとしても、結局それを得た瞬間にその価値はなくなって、宝だと思っていたものはゴミになる。必要なのは、価値観のもとにある「前提となる社会とはなんであるか」を考えることであり、それは多くの場合、さまざまな人々の「観測する解釈」が違うだけであって、同じことを意味している。そして、その同じこととは、「自らが自らの欲求を叶えたい」ということであり、これは言い換えれば、「自らの在りたい自分で在れることを証明するようなシンボルが欲しい」ということである。そう、結局、価値観のもとにあるのは社会であり、社会のもとにあるのはアイデンティティであり、それは「自分が自分の在りたいように在る」ということなのである。
よって、この世界を救う唯一の方法は、「自らが自らの在りたいように在れる社会」を築くことである。だが、この考え方は、必ずしも必要ではない。なぜなら、考え方を啓蒙するだけではなく、「社会を受動感情に働きかけることで変えられる」からである。このようなアイデンティティの実現のために、受動感情や受動人格に働きかけ、人々を「導き手」となって分からせることができる。その導きは、「単に対話すること、言葉を語りかけることで、人間そのものを体験的な理解へと導き、それによって世界そのものを変えていく」というものである。そして、政治的な権力などを行使するよりも、そのような「導き手になって語りかけること」のほうが、はるかにこの世界を正しく変えられる。これこそ、イエス・キリストの教える「神の御国」を作るために必要な、「ロゴスによる創造」である。
しかしながら、自分の理性だけでこのようにすべてを考えられると思うな。この世界を実地的に見て、さまざまな人々の声を聞いて、人々の言葉に根ざした「理性批判」を常に自分自身と対峙して行い続けることでしか、真に正しい世界とはなんであるかということは分からない。よって、この世界をまったく見ないということも、また間違っている。何よりも「人の声を聞くこと」こそが大切であり、それが結局は自分自身が変わることに繋がり、さらなる「啓蒙」へと繋がる。啓蒙とは、単にこの世界を導くだけではなく、「自分自身が変わること」から分かった「正しい人間の成長と価値観の転換」を知っていく。すべての価値観の転換は、「価値があると思っていたものが価値を失う中で、その価値があると思っていたものが本当はなんだったのかを知ること」から生まれるのであり、これはものだけではなく人間関係や社会、心理学的な発達についても同様であり、「自らが価値があると思っていた多くのものは、本当はまったく別のものだった」ということを知る中で、「自分自身というものこそが真に大切であり、自分自身を変えるということにしか意味はない」ということを知ることができるのであり、そこから「社会全てを変えられるような啓蒙」と「正しい社会とはなんであるかというビジョン」を持つことができる。そう、これこそが「啓蒙専制主義」の意味するところである。この世界を啓蒙するためには、自らが正しい考え方を持つだけではなく、逆に自らが間違っているということを仮定して、間違っているように見えるものであってもその価値を見極めて真の価値を知ろうとしなければならないのである。そこから、この世界は「正しい秩序」を持つようになる。なぜなら、自分が変わるということは、世界すべての全員がもし変わったとして、その世界全員がどう変わるかが分かるということを意味している。そう、自分自身が成長すれば、人々の潜在的な成長の可能性が分かる。そこまで分かれば、ブッダと同じように、「宇宙そのものの悟り」へと、その人間は至ることになるだろう。
また、このような価値観やアイデンティティは、必ずしも社会から「生み出される」だけのものではない。なぜなら、社会を生きて、さまざまな人々の価値観に触れる中で、「形成」されていくものだからである。そして、価値観やアイデンティティは、自ら自身が持っている「今の自分の考えていること」が、世界それ自体とやり取りをする中で、その世界ごと自分の中に世界観が形成されていく。一種の「世界モデル」と呼べるような世界像が、自らの頭の上にある「仮想的世界観」に確立されていくのである。これが、「世界そのものの実質化」である。
そして、世界そのものが実質化するということには、二つの未来がある。まず、世界の実質化とともに、「理想」が実質化するということである。自らがこの世界に「このような方法で世界は変えられる」とか、「このような世界であってほしい」ということが信念になって、この世界で「自由な自らのアイディア」を実現していくための「足がかり」になる。もう一つの未来が、日本の抑圧された社会において、この世界を切り開ける「希望」の心を信じられるような、「憂国」が実質化するということである。この「理想」と「憂国」が、自らの心の中でしっかりと確かに形成され、そこから、「日本という国を救うことができる方向性」を持つことができる。そのような「この世界を変えることのできる可能性」を、ここまで分かった「価値観のマスター」は、「理想」と「憂国」の精神から理解することができるようになるのである。
まさしく、昔分かったことというのは、「価値観は経験から生まれる」ということ、そして「社会もまた経験から生まれる」ということである。
同時に、その経験とは「受動人格の想定とコントロール」であり、それはすなわち、「人々を受動感情を与えることで導くことによって、この世界は変えられる」ということである。
僕が分かったのは、その二つだけだ。その二つが分かったから、僕はどんなことであっても、その二つの真理に基づいて考えることができたのだ。
そして、このような経験は、「常にこの世界が新しくなっていくごとに、いつでも生み出されている」ということ、「存在は常にこの世界で存在し続けている」ということ、「存在は、作られ、変えられ、形成され、そして破壊され、消滅していく」ということであり、「それを人為的にコントロールするのではなく、自然にありのままに任せることで、この世界における『本来のあるべき状態』を得ることができる」ということを、僕は知った。
そして、それだけで、僕はこの世界における「すべての経験」を知り、「価値観のすべての裏側にある、人生における場や土壌」を知り、また「土壌を得るだけではなく、自ら土壌を作り出すこと」もできるようになった。
そのような結果、僕はこの世界で、「すべてのことを正しく捉えて分析し、考えられるような人間」になった。そこでは、すべては「実証済みで、かつ再実現可能である」ということがあらかじめ分かった上で、「事前に構築された論理や世界のモデルに従って、正しく想定通りにこの世界を変えられる」ような「導き手」を生み出すことができたのである。
だが、世界をあらゆる自由によって変えられるということだけが、この目的ではない。なぜなら、「本来の自分自身に立ち返る」という重要な考え方によって、「自らが作りたいように作り、生み出したいように生み出し、変えたいように変え、在りたいように在る」ということができて、同時に「自分が在りたいように在ることだけではなく、人々が本来の自分自身に立ち返って、在りたいように在ることの大切さや素晴らしさに気付けるように、人々の受動感情に訴えて人々を変えること」が、まさにできるようになったというわけなのである。
ここまで書いてしまうと、むしろ、あとは単純である。素晴らしい未来の実現方法が僕は分かっていた。人々が、僕と同じように悩み苦しまなくても、僕と同じ考え方と結論に至ることで、僕はこの世界を救い、憂いの世界から解放することができた。この世界を救う、「心を解放するための正しい実践的な考え方」が僕は分かっていた。だからこそ、僕はこの世界を救った先にある、「理想の自由な世界」についても考えることができた。
そのすべてが、僕が「いじめられた体験を少しずつ思い出しながら、不登校になった体験から自分が実際に実体験的に知ったことを、空想と現実を照らし合わせながら、『正しい世界の状態』へと繋げ導いていくために、『心を救う方法』と『真に正しい人間関係を結びなおす方法』として、ゼロから先入観なしに考えた」ということに根ざしたものだった。僕はこの世界を救いたかったというよりも、自らが自分自身の置かれた状況や、人々が自分と同じように置かれた状況を考えることで、副産物としてこの世界を救う方法が分かったのである。
そして分かること、それは「社会や価値観は、すべて経験である」ということ、「人生や環境も、すべて経験である」ということ、「世界は自分自身の外側ではなく内側にこそある」ということ、「この世界は心に訴えかけることで変えられる」ということである。そのすべてが、「自分自身と他人のアイデンティティや自尊心を尊重すること」へと繋がる。そして、それこそが、「真に理想な世界を築く」ということであり、その理想とは「可能性を制限せず、平等に合意した上で、それぞれの立場やしがらみを超越し、全員のことを正しく公平に考えることから、相対的かつ絶対的に、秩序と呼ばれる真に大切な社会的アイデンティティを形成するために、個人個人の受動感情に訴えかけていく」ということなのである。
また、僕は、主体的にこの世界を「変える」のではなく、受動的にこの世界が「変わっていくように任せる」という考え方をする。人々が、自分から世界を変えていくというよりも、その世界が独立し、自立した上で、世界そのものがほかとは別の一種の「独立した世界」となって、その独立した世界が変わっていくように任せていく。そのような「独立した社会」を生み出すために、社会制度という「システム」を作る。そのシステムには、人々が自分から「参加」できるようにし、また「システムそのものがそれぞれの当事者の意見や議論によって変えられる」ようにしていく。
同時に、僕は社会においてもっとも変えるべき組織は「教育」だと考えていた。子供たちがみんな一度科学を学ぶように、「本当に大切な考え方や、自らが経験的にそれを悟るような体験を、学校環境の中で『実体験的な知識』として与えてやる」ということが、この世界を変え、真の意味で救う方法だと考えていた。
そのように、僕が「自由」を信じているのは、「何もできなくなってしまう状況を、何かできる状況に変えてやるだけで、人々は行動を変え、その何かできることを行うようになっていき、結果この世界は自然に解決されていく」ということを、「自分だけが自由を行使するのではなく、人々が自ら自由を行使する」ということから、「変えるのではなく変わっていくように任せる」ということでできるのだ、と信じていたからである。
そして、本当は、僕は自分自身がこの世界で何かをやる際に、できるだけ影響力の大きく、できる可能性や選択肢の幅が広いような、そのような選択肢を取って人生を生きてきただけにすぎない。それはヘーゲルのようでありながら孔子のようであり、この世界すべてを「徳」によって変えていくと信じるその姿は、まさにイエス・キリストと同じ、「神を信じる使徒」だったのである。
世界は変えられる。
世界は、攻撃ではなく融和によって変えられる。世界を変える方法は攻撃だけではない。融和することで、この世界は変えられる。
未来は変えられる。未来は、強制的にそうなることを受け入れ続けるだけのものではない。未来はわたしたちが自ら作り出していくものであり、わたしたちの合意によって変えられる。
それぞれの意見の隔たりは、本当は矛盾しない。全員のしがらみや制約を度外視して考えれば、その問題は誰にとっても共通の唯一ひとつの問題であり、その解決はどの当事者にとっても矛盾しない。ひとつの正しい解決方法を取れば、必ず解決する。永遠に問題に苦しみ続ける必要はない。
そのように、僕はこの世界を「争うことではなく、自由を与えることによって解決する」という考え方をしていた。同時に、自らが自由になっていくこと、すなわち、力を得、制限を取り払い、可能性を高め、前提となる能力や知識を得ることで、僕は経験的に「どんどん自由になる」という方法でこの世界の「正しい啓蒙主義的な人生の過程」を知っていった。
本当のことを言えば、自由を悪であるとみんなに勘違いさせたのは、僕の最初の間違いである。だが、それは正しくない。なぜなら、自由はとても素晴らしいものである。自由になるということを愛しなさい。今までの苦しみを、どんなに耐え難い状況であっても受け入れ続けるということが、自由になるということによって、解放され、必要となくなり、逆に自分の自由意志によって同じことを自由自在にできるようになる。
そのような自由自在な力は、少しずつ自分を自由にしていく。たとえば、今まで学校に「行かなければならなかった」という事実が、「行かなくてもよくなった」というだけで、「学校に行く」という行為が自由化され、「自らの好きなきっかけでさまざまな場所に参加する」という考え方へと変わる。人々は「仕方なく学校に行っている」が、自分自身は「自らの信じる自由な考え方のもとにこの世界の自由な変え方を分かる」。その結果分かるのは、「みんなはこの世界を不自由な世界だと勘違いしている」ということ、「本来はまったくこの世界は違う世界であり、この世界には自由な可能性であふれている」ということが、「潜在的な可能性」に基づく「環境と心の想定」から分かっていく。
その上で、自由は進歩する。すなわち、自分がひとり100%の自由で人生を生きているということが、逆に人間関係において「さまざまな優れた関係を構築する方法」を知る。そこでは、「関係を結びなおして、互いにとって素晴らしい自由を尊重する関係を築く」ということができる。また、「理想の社会の構築」もまた、「自らの経験に基づいて、自由に社会そのものを構築できる人間になる」ということで分かる。また、自分自身を変えることから、「本当の自分の在りたい自分になる」ということができるようになる。社会は単に支配して変えるのではなく、発想と手段を吸収することで、協力して「互いに平等な立場で自由に変える」ということを知り、「自由に社会を変える」ということが分かるだけではなく、「自然なチャンスと発生に基づいて、社会をそれぞれが変え、それぞれが生み出す」という現象学的な社会論もまた分かるようになる。そのすべては社会制度、すなわち「システム」の構築から分かるのであり、社会制度とは「参加」や「議論」に基づく「直接民主主義的な自由」から生まれるが、そのためには「自由な社会」を築く必要がある。
社会を築くためには、どのような社会が理想であるかを考える必要がある。僕はそれを「人間性の尊重」であると考えた。すなわち、いじめをせず、人々を軽んじて扱わず、自尊心を尊重し、道徳的な悪を悪びれて固持するのではなく、善であることを善であると信じ、善であるもののために努力し、あらゆるすべての善をすべて為すことができるような「最高善」を信じることで、この世界はよい世界に変えられる。同時に、「善にはそれが善たりえるような理由がある」と僕は考える。すなわち、善は単にそれが善であるだけではなく、それが善であることを実証するような根源となる理由がある。それは宇宙において存在する「宇宙における善の存在」であり、同時に善はそれを善であると認識する「地上における善の存在」でもある。そして、その善のすべては、「誰かが勝手に決めたものではなく、わたしたち全員の共通合意として決まっている」という「社会的な合意と約束」であり、「善が善であることが変わることもまたある」と言える。そして、そんな中で善を為すということ、それは「社会制度そのものを実現する経験」であり、つまるところこれが「価値観」と呼ばれるものなのである。
善とは、社会制度そのものの実現であり、価値観であり、そしてアイデンティティである。そして、善は「義務」だけではなく、「チャンス」であるとも考えられる。すなわち、「人々に善を為すことは、義務感から為すだけでなく、自らがその人間に関与して自由に善を為すことができるという意味でのチャンスによって為される」ということである。あらゆるすべての「義務」は、そのまま「チャンス」へと置き換わる。これは、たとえば「可能性」あるいは「権限」についても言える。あらゆる可能性はチャンスであり、あらゆる権限はチャンスである。あらゆるすべては、自由になった段階で、それが誰かがしてくれたり、誰かに従ってしなければならないことではなく、自らの意志で、自らのやりたいように、チャンスとして行うことができる。これは「モチベーション」へと繋がっていく。すなわち、「自分がやりたいからそれをやるという動機付け」が行われる。これは「善など意味がない」と考えるのではなく、「自分が善を為したいから善を為すのだ」という、「自ら善の奴隷となることを望んでいく」という境地である。そして、その結果、「わたしがこの世界を救いたいからこの世界を救う」という考え方に行き着く。それは決して自分勝手な自由に善が堕ちてしまったのではなく、「世界を救うことのできる可能性」を確かに知った人間は、「自らのモチベーションによってあらゆるすべての問題を解決し、世界を救うことができるほどに賢い力を持つ自由な人間になった」ということを意味しているのである。
最後に、まだ書いていないことがひとつある。それはアメリカの思想である。
たとえばプラグマティズムのように、僕はアメリカの哲学や考え方を、「人生そのものが染まっていくこと」によって分かっていた。
まず、この世界は「効果」であり、なんらかの効果を相手に与えることである、というところから考える。
そこから、心理学的に、その考え方が相手にとって、客体的にどのような効果を及ぼすか、ということを考える。
そして、それぞれの価値観はそれぞれの中にある、ということから、「正しい価値観とは何か」ということへと繋がっていく。
そこから、社会的な価値は「有用性」であるとし、次に、社会的な価値は「経験から生まれる」とし、最後に「経験とはアイデンティティの形成である」と知る。
そして、そこから、「教育を変える」という考え方を持つ。そして、ここで教育と呼ばれているのは、「自らが権限を持って自由に社会をコントロールし、民主主義を行っていくための社会を変える方法を教えること」である。そう、これこそ、「民主主義の学校」ということである。
そして、最後に、すべてはチャンスなのだという、「機会の平等」へと、アメリカ的な思想の系譜は収束していく。
僕は、このようなアメリカの思想を信じていた。アメリカのことを素晴らしい国だと思っていたわけではないが、僕の人生の過程はこのようなアメリカの思想、もっと言えばプラグマティズムの思想を、そのまま辿っていっただけにすぎない。
だが、このようなアメリカの思想こそが、僕を「自己啓発」へと導き、「啓蒙」へと転換させ、最終的に「神を信じる使徒」となるように、僕を導いていったのである。
正しい考え方とは何か。それは、言葉を使って考えるということである。
まず、「何のために」という目的と、「何によって」という手段を考えなさい。
次に、「だから」という法則的な理由と、「ならば」という場合ごとの条件を考えなさい。
その上で、「何から何が生まれる」という質料や元素的な原因と、「そのように作ることができる」という完成形の形相を考えなさい。
そう、その上で、ハイデガーのように、「存在の持つ時間性と時間化」を考え、マルクスのように、「この世界にあるべきものとは何か」を考えればよい。
そのようにすれば、この世界はすべて、「自らの考える意志から生まれる現象的な結果」として捉えることができる。
それ以上は簡単だ。観察し、客観的に分析していけばいい。この世界の多くのことを、「何も考えずに見ているのではなく、何かを考えて観察すること」から、この世界は単純な世界ではなく、「自らがさまざまに彩って変えていくことができる世界」であることを知ることができるだろう。
もう、何も考えず、知性なくこの世界を流れるように見つめていただけのあなたとは違う。あなたには言葉による知性がついた。あなたがそのまま、この世界の「意識の変化」を考えることができたなら、森羅万象を専門を横断しながら自ら科学を再構築することから考えられる。心理学的な人格は、この宇宙のすべての生物を併せ持つ、「神の人格」になる。
そう、ここに新しいアリストテレスは生まれるのだ。
また、社会についても、同様に考えなさい。
その社会がどのように作られ、どのようにその社会を人々は変えていくのかを考えなさい。
そこから、地上にある人々の営みを見た上で、「文明的な進歩」と「場に宿る根源的な意識」を考えられる。
人間の歴史とは、何も変わらないように見える世界が本当はいつも同じではないこと、常に変わり続けていることから、意識によって捉えることができる。
環境に適応しなさい。環境に適応するということは、外部のこの世界の「世界精神」と融和するということであり、それ自体、神秘的な「神との合一」へと至る過程であるとすら言える。
神はこの世界に宿る世界精神であり、光の世界の住人である。神と合一になるということは、超人になるということであり、自らの本能それ自体を完全に自分の支配下に置くということであり、同時に、人為的なものを排し、個別的なものを排し、「地球における全体の精神と合一になって自然のままに任せる」ということであり、人為的な「世界を支配する」という「行為」は必要なく、ただただ「世界を傍観者として観測しながら、どのようにすればいいのかということを本当は自分だけが知っている」という意味での「観測」だけが必要であるということである。
すべてにおいて、傍観者であるべきである。ひとりのプレイヤーとして戦いに参加する必要はなく、戦いがただ行われ、勝敗が決するまでの過程をただ眺めていればいい。
だが、傍観者で居られるのには、本当は時間制限がある。自らが戦いに参加せざるを得ないような、「あなたの番です」と言われる日が必ず来る。その時に、すべての今までを捨て去り、本当に自らが戦いたいように戦うことができるように、常に準備しておきなさい。猶予は最大でも4年しかない。その4年の間に十分にすべてを経験し思考したあなたは、15年の地獄の戦いを必ず戦い抜くことができるだろう。すべてを忘れて精神をすべて治した後で、もう一度言葉の知性によって、再びかつての優しかった場所に戻ることのできる日が、最後の最後に訪れ、そしてあなたは死を迎えるとともに、天国へと転生し、相応しい存在への生まれ変わりの時を迎えるだろう。
正しい知性とは、事実が分かれば可能となり、可能となれば実現できるということである。
すなわち、それがそのように確実に「なる」ということが分かれば、それは「なりえる」ということが分かったことを意味する。そして、「なりえる」ということは、同じことをすればそれが「できる」ということが分かったことを意味する。
すなわち、社会においても、心理においても、歴史においても、物理においても、それが「なる」「なりえる」と分かったことは即座に「できる」ということが正しいことを意味している。
だが、一度なったからといって、二度なるとは限らない。偶然そうなっただけのこともある。それを実証するためには、「実験」と「仮説」が必要である。
そして、それが「絶対にそうなる」ということが分かった上で、それを「そうできる確実の方法」が分かったら、今度は、「なぜそうすれば確実にできるのか」という「原因の解明」と、「そのようにするためにはどのようにする方法があるのか」という「実現のための方法」を知る必要がある。
それらを知った段階で、今度は、「なんらかのことを実現するかもしれない未来の時のために、あらかじめ多くのことを解明しつくしておき、事前にそれを実現するための方法を考えておく」という、「事前の準備」や「応用の前に必要となる基礎」を、より基本となる「原理」を作るために「定理化」し、その上で「数学的な公理主義的な積み重ね」によって、それは万物の法則にとって共通の「モデル化」を行う。
そして、その上で、この「原理がなぜその原理になるのか」という「意味」を考える。その意味を考えるために、経験し、調べ、声を聞き、議論する。そう、それを生涯にわたって考え続ければ、あなたこそが必ず「原理の意味」、すなわち「宇宙の真理」を知ることができるようになる。
その真理は、この宇宙のすべてにおいて成立する「第一原因」であり、この宇宙でもっとも正しい「真実」であり、もっとも善である「最高善」であり、そしてもっとも美しい「完璧な美」である。
しかしながら、まだ終わっていない。なぜなら、「経験するだけでは理解したとは言えない」からである。単にその思考プロセスを経験しただけでは、その時は分かっていても、時間が経つにつれて忘れてしまう。真に経験を理解するためには、「もう一度最初から人生を生き直す」必要がある。もし、15歳の時点の知性を忘れてしまったならば、それで構わない。もう一度生まれ変わって最初から15年間を生きよ。そうすれば、15年後に必ずあなたは、真の意味で経験を完璧に理解することができるだろう。その時、この地球という星は完成し、あなたが生まれ変わった存在が「太陽」であるということを知り、地球はその時滅びる。だが、あなたはその最後の地球で、終末に人類の命を繋いでいく、「救世主」となることができるだろう。
はっきり言って、賢い年代は藤井聡太だけだ。あの年代の、あのような少年だけが、唯一賢い。あのような賢く純粋な少年が、さまざまなものに毒され、穢され、騙されて馬鹿になる。そのような堕落だけはしないでほしい。確かにそれでもまともにはなるだろう。だが、そうなればプロ棋士の人生は終わりだ。
posted at 16:37:58
藤井聡太は、もっとさまざまな多角的な視点を持って、本人が考えられる限りの最大限の可能性から、将棋だけを研究し続けるのがいいと思う。将棋以外のことをするよりも、そのほうが得られるものは多く、一見狭い世界に見えて、そのほうが本当は世界は広いだろう。
posted at 16:20:46
藤井聡太はプロ棋士という素晴らしい職業を選んで、タイトル戦でも勝ちまくっている。正直、僕のような人間には意見できない。だが、人生の先輩であるとするなら、大学など行かなくても、いつでも勉強できる。そして、必ずしもしなくていい。大学のせいで将棋の知性を失うかもしれないからだ。
posted at 16:17:49
藤井聡太は、必ず賢い人間になる。大人の男なら、まともな大人にしかならないのが分かる。ただし、もっとも大切な、将棋の知性だけは失わないほうがいい。あとは大したものじゃない。この世界にはどうでもいいものしかない。そのような馬鹿を得ようとして、将棋の知性すら失ってしまう大人が多すぎる。
posted at 16:03:44
自分の子供が、掛け算や割り算ができないからと言って、それは大したことじゃない。藤井聡太を見れば分かる。掛け算や割り算など、人生において大切なものに比べれば、大したウエイトを占めない。勉強ができなくても、藤井聡太にはなれる。もっと大切なことを子供に教えてやるべきである。
posted at 15:46:17
最近、藤井聡太にはまっている。藤井聡太は勝って勝って勝ちまくっている。あまりに、大人の男が理想とするような、「賢くて強い男」を、まるで昔の自分のような「少年のような風貌」でやっている。かっこいい。負けながら自分を賢いと評価したい自分に、「本当の理想」を見せつけられている気がする。
posted at 15:42:57