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2022-06-23

障害者、社会的弱者、マイノリティ、貧困者など、この世界で苦しんでいる多くの弱者と寄り添い合い、ともに助け合って生きなさい。

僕は、障害者施設に通っている、自身も身体と精神の障害者です。障害者の方とともに仕事をしながら、デザインの勉強と軽い仕事をしています。

平等は必ずしも、正しくはないかもしれません。実際には社会主義経済は実現不可能でしょうし、完全な平等というのは神さま以外にはありえないものなのかもしれません。

ですが、完全な平等がないとしても、困っていて苦しんでいる人が居るのであれば、誰かがそれを手助けしなければなりません。

僕は弱者に対して、突き放すようなことはしたくありません。もし、平等が「弱者への手助け偏重であり、一般的な普通の人間が損をしている」と考えるならば、その人は間違っていません。なぜなら、平等は必ずしも、社会全員の利益になるとは限らないからです。

ですが、僕は金儲けと強者が勝つだけの世界ではなく、そうした「弱者のための世界」を知っています。弱者と寄り添う人々は良い人ばかりです。僕も、今まで自分にたくさんのことを教え助けてくれたこの作業所のひとりとして、弱者を救うためになんらかのことができたらいいと思っています。

僕はもう何もほしくない

僕は、もう何もほしくありません。

これ以上は、今のまま、このままでいいと思っています。

何かしたいことはありません。そもそも、僕は文章を書き、デザインの仕事をするということがとても幸福です。これ以外のことに、幸福や喜びを見つけ出すことができません。

僕は、一般的な人々が持っている、さまざまな「喜び」を共有できません。僕の喜びは僕にとってだけの喜びであり、ほかの人々の喜びを僕は面白いとか楽しいと思うことができないからです。

スマホで動画を見ている人が、動画が面白いのは分かります。僕もたまにYouTubeで最近の音楽を聴いています。ですが、それ以外、文章を書くということやデザインをするなどといった、今僕がやっていること以外で、僕はこの世界に喜びを見出すことができないのです。

僕はこの世界が嫌いです。学校の勉強もしたくありませんし、テレビも見たくありませんし、お金儲けもしたくありません。恋愛もしませんし、セックスもしません。そのようなすべてのことは、僕にとっては「まったく楽しくないこと」なのです。

なぜ、そのようになったのか、それは神が僕に対して文章を書くという天命を与えてくださったからです。神は僕に対して「もっと文章を書けばいい」と教えています。それがこの世界の支配であり、日本に対する反逆行為であることは分かっています。ですが、僕はこの「文章を書く」ということをやめることができません。なぜなら、ほかにまったくこの世界に楽しみを見出すことができないからです。

僕にとって、文章を書くということは僕の人生のすべてです。僕から文章を書くという行為を取り上げると、僕は生きていくことができないのです。

女性と恋愛をしたいとは思いません。ある意味、僕は僕自身と付き合うしかありません。僕は女性とセックスしなくても自分だけでセックスできるおかしな男の女の子です。ですが、僕は幸福です。ひとりであっても、常に神が僕にすべてを教えてくれます。神を信じる僕にとって、孤独はまったく辛くありません。

僕は、このままの人生で良いと思っています。何もこれ以上、変えたくありません。いつまでも今のまま、文章だけを書き続けたいと、そう信じる次第です。

仏教の教えに立ち返りたい

僕は、ここに、もう一度、仏教の教えに立ち返りたいと思う。

そもそも、仏教は昔の僕ではない。僕は、仏教の教えを、昔の僕と同じだと完全に勘違いしている。

実際は、昔の僕の人生はサタンのような経験を積んだだけの何もしない人生であり、仏教的な教えと共通点はあっても、似て非なるものである。

僕は、「正しい生き方とは何か」ということを、もう一度考えたい。

正しい生き方とは、みんなを騙すことではない。殺すことでもないし、嘘をつくことでもない。

正しく生きる方法が「善を為すこと」であったとして、善を為すようなことをいくら口で風潮しても、それは口だけのまやかしにすぎない。実際にこの世界で、善を為してこそ、実践してこその善である。

僕の頭の中は、煩悩でいっぱいになっている。煩悩とは「いらだち」「まよい」「とまどい」のことであり、僕はそうした迷いの末に執着心が強くなり、少しでもずれたものは認めず、自らの間違いを認めず、素直になっているように見えて実際は自分の心にわがままになっており、人々の言葉や周りの言葉に素直に従うことができなくなっている。

真に正しい生き方とは何か、ということを、昔の自分のことを度外視してもう一度考えたい。

「善を為す」とはいったいどういうことだろうか。この文章を書くことはなぜ善ではないと言えるのだろうか。真に善であると言えることはなんだろうか。それをもう一度、煩悩でない平常心を持って考えたい。

Adoに悪かった

僕は、もっと今までの行いを反省したほうがいい。

特に、Adoに悪かった。自分がAdoの子供を産むなどと言っている。明らかにおかしい。あまりにAdoという女性に対して失礼だ。

僕はもっとまともな人間にならないといけない。これでは、まともな人間になる気がそもそもないように見えてしまう。

今までの多くのことを反省したい。

特に、マスコミやテレビに対してあまりに無礼なことを書いた。マスコミやテレビは僕のことを愛してくれているだけなのに、自らの広告塔になっているということを僕は忌み嫌うことで、まるでテレビを使って日本人全員をいじめるようなことを書いてしまった。

何もかもすべて悪い。以後の人生は自らの悪事を反省して生きたい。

禁断の行為をするから馬鹿になる

結局、禁断の行為をするから馬鹿になる。

分からなくなっている人間は、禁断の行為をしている。なぜなら、普通、人間は禁断の行為をしなければ分かる。

禁断の行為とは、要するにいじめだ。

いじめは、しちゃいけないことだ。人々がいじめるならば、それに反さなければならない。同調圧力に屈した時点で、いじめっ子と同じ「何も分からない人間」になる。

みんながいじめをしないためにどうすればいいか。それは、いじめという行為をなぜするのかを考えることだ。すなわち、みんなと一緒に仲良くする、ということが度を過ぎて「仲良くしている友達の言うことにはなんにでも従わないといけない」とするのが間違っている。

いじめに対して、「仲良くしなさい」と諭すのは効果がない。そうではなく、「仲良くしすぎて、友達に絶対になんでも従うようになってはいけません」と教えるべきである。

よって、いじめの問題とは「仲良くすることが間違っている」ということである。それは、すなわち、「仲のいい友達など、本当はなんにも仲良くない」ということである。仲がいいと思っているのは自分だけであり、本当は上手く騙されて使われているだけである。そのような友達と「仲良くしたい」と思うことがまず間違いである。