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2022-09-08

子供が大人になるとは、いつか支配者になった時のために、準備段階の努力と経験を重ねるということだ。

そして、そのためには、「全体を見通す力」と、「裏の裏の細部までよく知っている力」が必要となる。

それを身につけるために必要なのは、「思い出して別の可能性があるかもしれないということを考える」ということだ。

すなわち、「理想の自由な社会」について、「必ず実現する方法がある」と信じ、そのために必要なことを経験することで、子供は大人になる。

世界を自由にするために

僕は、この世界を心で支配するのをやめ、この世界を自由にする。

世界をひとりで掴んでいるのをやめるために必要なのは、単にその心を掴むということについて集中し続けるのをやめ、ありのままを見せて、世界に自然な変化を自由に許せばいい。

世界を自由にするために必要なのは、奪った自由を返してあげること、自由を奪う前の状態に世界を戻すことだ。

そして、イエスとノーのどちらかに決めるのではなく、保留された状態に世界を戻してやれば、世界は自由になる。

世界を真に自由にしたいなら、「支配のターン」をやめて「自由のターン」へと変化せよ。常に支配者として支配しているからこそ、神に自らが支配されてしまう。相手を自由にすることで、自らも同時に自由になる。これが「自由のターン」である。

暗闇でも前だけを向いて進め

暗闇であっても、前だけを向いて進み続けよ。

それこそが、この世界で唯一の「他人に勝つ方法」である。

暗闇だからといって諦めず、確かな道を一歩一歩進んでいけば、そのような経験は誰にも真似できない「自分だけの力」、すなわち「才能」となるだろう。

己の力を信じよ。明らかにできると分かっていることは必ずできると確信せよ。恐れるな。神による試練に比べれば、ほかのどんなことも大したことではない。

宇宙や人間のことを考えるためにはものを分かるべき

僕は、そろそろ分かった。

宇宙や人間のことを考えるためには、「もの」を分かるべきである。

ものは、宇宙のすべてである。また、ものは、人間のすべてである。

過去に、僕がなぜ宇宙のすべてを知っていたのか、それは「もの」を考えたからである。

同時に、人間のことを知りたいなら、「生きる」ということを考えるべきである。

生きるとは、まさに宇宙のすべてである。生きるとは、人間のすべてである。

そして、社会や心とは、すなわちものである。生物や歴史とは、すなわちものである。

ものとは、時間であり、場所である。また、ものとは、作り出すことであり、変化させることである。

すべて、ものを分かることで、宇宙のすべて、人間のすべては分かる。

では、ものを分かるためにどうすればいいのか。それは、単純にものについて考えればいいのである。普通に、何もバイアスや偏見を持つことなく、ものについて単純に考えればいいのである。

そう、ものを考えるということは、とても生きる上で重要なことである。

そして、大いなる間違いがこの世界に存在する。それはインターネットである。なぜなら、インターネットには「もの」がないからである。

インターネットには、ものが存在しない。ものというものが存在せず、画面上の映像と文字だけが存在するインターネットは、人間から知性を奪う。なぜなら、人間の知性とは、ものを分かることだからである。

よって、インターネットやIT技術に関与している時点で、人間は何も分からない。

だが、インターネットですべての知性を失ったとしても、もう一度ものをきちんと考えれば、知性を取り戻すことができる。ものはどこへも逃げていかないからだ。ものはそこに存在し、それを人間が捉えて考え、作用したり関与したりすることを待っている。インターネットで知性が奪われた人間であっても、ものを考えれば知性を取り戻せるのである。

ものからことを考えよ

また、ものを見ているだけでは分からないことがある。それは「こと」である。

ものを考えるということは、すなわち、ものから「こと」を考えることである。

まず、この世界にあるものとは何かを考えよ。その上で、ものからことを考えよ。

そのように考えることで、まさしくこの世界が分かる。宇宙のことも、哲学のことも、人生のことも、すべて、ものからことを考えるということを通して分かるのである。

ものをまず考え、そこからことを考えてみよ。それがまさに人間の知性である。ものとことをきちんと考えれば、誰でも数学者のように知性がつく。哲学はそこから始まるのである。

本を読むことはそんなに正しいことじゃない

本当のことを言えば、インターネット同様、本を読むという行為も、そんなに正しい行為ではない。

言葉や文章によって分かったことは、自分でものを見て、自分で考えて分かったことでないからである。

大哲学者のソクラテスも、言葉を文字にして書くということはいいことではないと言っている。言葉を文字に書いた時点で、その言葉の持つ意味が失われてしまい、真意が分からなくなってしまう。

だから、本を読むことよりも、自分の見た世界や、自分で考えた思考のほうを優先させよ。言葉を本で読むという時点で、既に自らがそれが真実か嘘であるかを判断することを放棄していると考えよ。

ものとことを考えることで、このような「大学」が治る。どれだけ言葉を本で読んでも、大学では何も分からない。実際にこの世界を見て、実際にこの世界のものとことを考えること、これこそが知性を付けるために必要な「唯一の問題解決の発見方法」なのである。

本を読むことで分かった気になるな

本を読むことだけで、すべてを分かった気になるな。

実際に自分の目で見て、自分の手で操作して、実際に自分がした体験や経験からしか、どんなことも本当には分からない。

インターネットには、言葉と画像は溢れているが、実際の経験が存在しない。経験することをまったくせず、人々の言っていることだけを参考にして分かると、「自分の頭で考える」ということを忘れてしまう。考えなくても分かるせいで、考えて分かることが抜け去り、自らの体験的に分かる「真実」を奪われてしまうのだ。

よって、真実を知るために、本を読んだり、インターネットを見たりする必要などない。真実を知るためには、世界を直接目で見て、人のやっていることと同じことを自分でやることだ。「みんなのやっていることをやる」ことは重要だが、むしろ「みんながやっていないことであってもどんなことでもやってみる」ことがさらに重要だ。

思いついたことすべてをせよ。強い意志を持って、戦いの最前線に居るような気持ちで、綱渡りの上を歩いていけ。前に進むかそれとも落ちてしまうかのギリギリの道のりを作っていけば、この世界の真実のすべては分かる。

だが、集中しすぎるな。休憩することは大切だ。たまによく休むようにしなさい。むしろ、常にいつでも休んでいるかのようにしなさい。その上で、ギリギリの道のりを諦めず、前だけを向いて歩んでいきなさい。そうすれば必ず、偉大な詩人の哲学者、ゲーテほどになることができるだろう。

経験と作用

新しい発想でものを作ったり、新しい発見をしたりするためには、経験と作用が必要だ。

なんらかの新発見をする上で重要なのは、その新発見ができる人間と同じ「境地」に達することであり、これは経験と作用だけを考えれば、おそらく可能である。

この世界に存在するすべてのものは、「作用」に根ざしている。「効果」と言ってもいい。人間だけではなく、心理や社会についても、すべて「作用」に根ざしている。どのような「効果」をほかのものに与えるか、という「関係性」こそがこの世界の原理だ。

すべての人生は、「経験」に根ざしている。人間がいつ何を考えるのか、何を感じるのか、ということはすべて、「経験」であり、それはすなわち「受動的な自動思考」すら支配する「慣習」である。

作用と経験、あるいは効果と習慣を考えることで、この世界のすべては見えてくる。あらゆるすべてが、作用と経験の原理に従うものであるということが分かる。

すべての作用について、分類や概念を考えてみよ。同時に、経験からそのような分類や概念を作りあげてみよ。そこにあるのは「論理性」である。そして、それは考えるだけではなく作り出すべき形而上学、すなわち「哲学」なのである。

その場所ではその時間が流れている

環境や存在について言えることは、「その場所ではその時間が流れている」ということだ。

その環境では、ほかの環境とは異なる別個の場所で、その場所にしか流れない時間が流れている。

この世界は、実際のところ、そのような「環境ごとに分離された時間の流れる場所」であると言える。

そして、自分の人生は自分しか知らない。自分だけではなく、ほかの人間も同じだ。その人間の人生は、その人間にしか分からない。

コミュニケーション不足こそ、この世界の問題の元凶ではあるが、同時に、コミュニケーションをして相互に理解するのは限界がある。本当の自分の人生は、絶対に自分にしか知り得ない。

だからこそ、人生の答えを出せるのは自分だけだ。他人が考えて分かることなどない。自分の決断は自分でしなければならないのだ。

概念の積み重ね

この世界は、概念の積み重ねによって成り立っている。

数学は概念と方法の論理性であり、物理は物質と力の法則性である。

あらゆる機械は、物質の特性を利用した方法によって成り立っている。新しい発明をするためには、物質の特性と、実現方法を発見する必要がある。

あらゆるすべての方法は、小さな方法の組み合わせである。もっとも小さな単位の方法を組み合わせることで、どんな方法であっても作りあげることができる。また、すべての方法は「推論」から考えることのできる「証明」である。

仮説を立てるということは、「もしかしたらこうではないか」と考えることだ。同時に、そこから「こうすれば必ずこうなる」と考えることが重要だ。そうすることで、法則性を見出すことができる。法則性を解明し、再現性を持って説明可能とした時、仮説は原理となる。

そして、そこから、社会や心のすべては解明できる。あらゆるすべての「理由」を、まさに自由自在に「支配」することができるようになる。理由さえ分かってしまえば、その理由は基礎となり、さまざまな場面で応用し、活用できる。全知全能の神になることは、決して不可能ではない。偉人は皆そのように生まれるのだ。

人生

この世界のすべてのものについて、価値観はそれぞれの人間の側にあり、ものと関係性は効果と作用を発揮すると知りなさい。

受け入れられることで、この世界を愛する経験をし、自らと他人は同じであり、自らの分かったことは誰にとっても分かると信じなさい。

社会は、作ることのできるものであり、社会そのものの価値観を発揮させてやるように、世界の可能性を高めることで社会を変えなさい。

ものだけではなく、自ら自身にとっても、自らの効果と価値を発揮するような「アイデンティティ」が存在すると知りなさい。

経験の裏側にある経験を知り、そこから直観的に人生の経験をすべて知りなさい。

自らが作った「弁証法的思考」から、この世界のすべてを言葉と言語によって捉え、あらゆるすべては想像力であると知りなさい。

直観的に、誰も知り得ない、人間には知ることのできない「宇宙の裏側」を知りなさい。それはカント哲学のような「仮象の世界」である。

あらゆるすべてについて、先入観を排した上で、すべてを矛盾なく理解することのできる「絶対理性」を知りなさい。

自由における成熟レベルとは、「それが正しいことか間違っていることかを経験的に判断することができる」ということだ。それに基づいて、社会を変えるために教育システムを考えなさい。

世界を変えるのは「チャンス」であり、「自助努力」であると知った上で、人々にチャンスを与えながら、自分で努力するということはどういうことかを教えなさい。

単に知識を教えるだけではなく、体験的に、自らがそれを自分で理解できるような状態を、子供たちに与えなさい。

すべては直観的に理解できる。なぜなら、それは「経験が概念になっているから」である。経験的な概念、すなわち本質から、この世界すべての理性は直観へと変貌していく。

世界や文明が、どのような文明からどのような文明へと変貌していったのか、ということを、意識の分析をすることで知りなさい。そこには「時間」という本質が存在しているということを知りなさい。

すべての存在は、知覚されているからこそ存在する。これは「存在のアイデンティティ」である。存在は誰か別のものから知覚されることで、「初めて存在している意義を発揮する」のである。

すべてのことを「意義の発揮」であると考えなさい。大学の知識を知ると、本当のその対象の意味や意義が理解できなくなる。その価値を本当に知るためには、その価値が十分に発揮されるような可能性と前提条件のもとにその価値を知らなければならない。

世界を救うために必要なのは、「自由な社会は必ず実現できる」と確信することだ。自由な社会を考える上で必要なのは、普遍性と個別性を統合し、客観性と主観性を統合した上で、個別のものが全体の環境でどのような効果や作用を発揮するのかという「社会モデル」を作ることだ。

知恵を得るために必要なのは、「代替可能性」を考えることだ。今存在しているものが、唯一無二の可能性であると考えるな。同じ発明であっても、違った技術が標準になってもよかったということはあるし、今発見されている発明がすべてであるとも限らない。

あらゆるすべての知性を、自分の頭の中で再証明・再実験し、自分の中に再構築せよ。これを「再考」と呼ぶ。再考することで、この世界のすべてについて「根拠を確かめる」ということができる。あらゆる根拠を確かめ、すべての論理が確かになった時、あなたは宇宙のすべてを悟って、新しいひとりの哲学者となるだろう。

まさしく、これこそが僕の人生である。

正しい考え方

教育を変えよ。教育こそがもっとも間違っている。

真に教育内容の価値に気付くためには、授業を覚えるだけでは十分ではない。自らがそれを真に理解するために、「体験」こそが大切となる。

正しい考え方とは、その人間の立場に立って考えることだ。

いじめの真の問題とは、その人間の立場になって考えないことにある。いじめられっ子だけではなく、いじめっ子の立場にもなったつもりで考えよ。そうすれば、「なぜ自分がいじめられていたのか」という原因に、いじめられっ子自らが気付くことができる。

あらゆるすべての価値は、きちんと考えて「合一」にならなければ分からない。だが、この合一になってその価値を知るという体験は、人生を生きる上で非常に価値ある体験だ。合一によって価値を知ることで、この世界に存在する「本当の価値の発揮」、すなわちアイデンティティを知ることができるからである。

すべての社会について、その社会の価値を発揮するアイデンティティを知れ。すべての社会の価値を知っている人間こそが、この世界を支配するに相応しい。

宇宙のすべてを知ることは不可能ではない。きちんと経験から正しく考えれば、宇宙にあるすべての真実を知ることができる。だが、そのためには、論理的かつ哲学的に考えなければならない。間違えることや矛盾を恐れるな。最初から矛盾せず、最初から間違えずに、正しいゴールに辿り着くことはできない。間違いや失敗は必ず必要であり、自らの過ちは最後まで反省し、罪を償わなければならない。

すべてはチャンスにおける可能性

すべてのことを、チャンスにおける可能性だと考えよ。

社会のことも、人生のことも、自分の夢の実現のことも、哲学的真理についても、すべてはチャンスにおける可能性である。

そして、すべてを「愛」であると考えよ。そして、「愛する」とはどういうことか、ということをチャンスから考えていけ。そこにあるのは、「倫理性と道徳への目覚め」である。すなわち、「真善美」という哲学のテーマを、「愛するとは何か」ということから考えていけ。それこそが「人生におけるもっとも大切なこと」だからである。

理想を実現するためには、幻想だけを見ていたのではいけない。人々の現実を、リアリストのように真正面から見つめる必要がある。だが、「絶望を真正面から見つめた時、その絶望は大したことのない壁であると気付く」という体験がある。すなわち、本当に絶望の状況を目の前で見たとしても、本当はそのような絶望は大したことはない。正しい方法で勝利することで、絶望に勝利することはできる。

さあ、世界よ、自由になれ。しがらみという縄を破り、敵対という壁を打ち破れ。社会に対する反抗心や不安感が頭をよぎるのは、すべて自由がないからである。自由であれば、恐怖は恐怖ではなくなる。どんな苦しみであっても、自由があれば積極的に努力することができる。

そして、「主体性」から「善悪」を考えていけ。自らが、他人によって認められた経験が、同時に自分自身を自分自身で認める経験になり、それが自分以外の他人を認める経験になる。自分自身の直面する問題から離脱して楽になった人間こそが、他人のことまで考えられる余裕を持った大人になる。子供たちを救う人間が居ないならば、自らが子供たちを救う第一人者となれ。誰も救ってくれる人が居ないなら、自らがそうした人々を救う光となれ。