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2022-07-16

僕は、学校の科学が嫌いである。

なぜなら、なんでもかんでも「疑問に思いなさい」と教えるからである。

疑問に思うということは、単純に言えば今のこの世界の当たり前となっている知識や権威を嫌い、悪く言えば「文句をつける」ということであり、当たり前のことに対して「それは違うかもしれない」と批判することである。

だが、当たり前のことについて、それが正しい可能性を自分の力で考えて、推測を行い、憶測であっても信じようとすることで、人間は大人になってきちんとした常識的な理性を得られる。

そもそも、疑問が出てくるということは、それが最初の想定する範囲内に存在せず、「イレギュラーな状況が起きた」ということについて、その問題点を自分の手で考えようとせず、「批判して糾弾しよう」というところから起きるのである。

また、学校の科学では、何も分からない段階から「答え」である知識を植え付けようとする。だが、その結果子供たちは、最初から答えが分かっているから、自分の力で考えて解決しようとしなくなる。

僕は、そのような答えを最初から教えるのはいいことだと思わない。自分の力で考えて解決できることは、知識を教えるのではなく、自分の力で解決できるぐらい考えさせるべきである。

また、学校の「なんでも疑問に思いなさい」という教え方は、良いと思わない。疑問に思うだけで、この世界のほうが間違っていて、自分のほうが正しいのだという「傲慢さ」を子供たちに与えることになる。彼らは、世界に対して文句をつけるだけで、信じようとせず、自分の力で考えることもしない。必要なのは、「疑問に思いなさい」と教えることではなく、「自分の手で考えて自分の手で問題を解決し、イレギュラーな驚きが生まれないように事前によく問題自体を想定しなさい」と教えることである。

民主主義と自由の意味

わたしたちの地球のために必要なのは、民主主義を信じることです。

これは、単に民主主義の体制を信じるというだけではありません。より民主的な社会制度や国のモデルを作り、考えていく、ということが必要なのです。

僕は、かつて、民主主義的な国家の構造やモデルをこの文章の中に書いていました。

その根幹にあるのは、「参加可能である」という原則です。

すなわち、民主主義とは、社会において強制的に束縛され、従わざるを得ないようになるのではなく、自らがその社会制度を決めるための一員として「参加できる」ということ、あるいは「影響力を持つことができる」ということです。

たとえば、選挙で立候補し、投票で相手候補を打ち破って当選すれば、国会で議論に参加することができます。

そして、国会は立法府であり、そのほかに行政府と司法府があり、それらが独立しながら政府として機能し、それらを「民主的に参加できるような制度」とすることで、より日本という国は民主的になります。

民主的にする方法はひとつではありません。考えようによってはたくさんの考えられる社会制度や国家のモデルがあります。僕はこの「民主的な国家のモデル」を、いつも考えて作っていました。それはむしろ、共同体や共有などの考え方に由来することも多く、完全に民主主義とは言えないものであり、ある意味では社会主義や共産主義にも近いモデルでした。

ですが、この民主主義的なモデルでは、社会主義者のように自由を否定することはありません。その逆に、すべてのモデルを「自由」という考え方に根ざして考えます。すべての人間の意志と行為が「自由」であり、それぞれの意見や信念が「対立することを許す」というところから、この世界すべての国家あるいは制度を「決められる部分を本質的に取り替えることですべて再考する」ということを僕は行ったのです。

そう、この世界において、あるとしたら、それは「社会」ではありません。社会というものは存在しません。あるのは、社会という名前で隠されている「自由」だけです。この世界に真に存在するのは「社会」ではなく「自由」です。

すべてのこの世界が、「自由」という様相をわたしたちに明確に突きつけています。この世界の「自由」を考えることで、わたしたちは「自由をどのように作り出すのか」ということを考えられます。また、「自由の理由とは何か」ということ、「この世界においてどのような自由が考えられるのか」ということを考えられるのです。

この世界に真に存在するのは「自由」です。ヘーゲルは、これを「実体」と表現しました。多くの人々が、社会とは不自由を受け入れ、王や政治家に従うものであると考えていますが、本当は違います。社会など存在せず、存在するのは「自由」だけです。自由をどのように個別化された個人が実現するのか、それだけを考えて、この世界を「真の意味で自由に支配」するべきなのです。

参加可能かつ自由な世界において、何をどのように決めるべきか

僕が考えたことを一言で表現するなら、それは「参加可能かつ自由な世界において、何をどのように決めるべきか」ということです。

参加可能とは、民主的という意味です。制度が民主的なものであり、国民が自らの権利を行使し、社会システムである制度の中で、どのようにその制度を決められるか、自らの意見を反映させられるか、ということです。

また、自由な世界とは、要するに市場経済のことです。自由な経済活動の中では、単にすべてを自由にするだけではなく、さまざまな自由経済に起因する問題を解決するために、新しい発想やアイディアを考えられます。

その中で、何をどのように決めるべきか、それを僕は「ひとりの首相となったかのように」考えたのです。

同時に、自由とはなんでしょうか。自由とは、「それぞれが行動・意見できる」ということです。同時に、それは単なる社会のシステムではなく、心理学的な「自分が自分であることを規定する」ということも含まれます。すなわち、「自分自身がなんであるか」を決める上でも、「自由であるか自由でないか」ということは大切なポイントなのです。

僕は昔から、あらゆるすべてをこうした「自由」の中で考えます。すべての人間が自由であることが理想であり、そのためにはさまざまな社会制度や政策が考えられます。僕はあえて、平等のような考え方もその中に取り入れます。なぜなら、平等を自由の中で実現するということは、自由において大きく考えるべきポイントだからです。僕はそうしたところから、ガンダーラという自由な社会主義の正しい経済モデルを考えつくに至ったのです。

この世界は必ずよい世界にできる

ここに、哀れで独善的な独裁者のことを否定しておこう。

この世界には、変化が必要である。

抵抗勢力の考えるような、保守的な「今のままの世界が良い」という考え方は、もはや古いものになりつつある。

支配者を否定せよ。わたしたちは、独裁者など望んでいない。支配者が居なくても、わたしたちはわたしたちの世界を、開放された自由な社会として、築き直し、作り変えることができる。

わたしたちのこの世界をコントロールするための権利を、独裁者ではなく、わたしたちに平等に開放せよ。

同時に、階級や身分など関係ない。どんな出身であろうと、どんな国籍であろうと、わたしたちは平等な同じ人間である。差別は古い考え方であり、わたしたちに自由かつ平等な、身分や階級によらない世界をわたしたちの手で作りあげよう。

わたしたちは、すべての人間が大切にされるべきだが、その中で人々が意見し表現する、「ありのままの本音」を受け入れていこう。わたしたちはみんな同じ人間だが、その人しか感じえないような特別な感情もまた存在する。そのすべてを開放し、受け入れていこう。すべての人間が大切な存在ならば、どんな人間が思い描くような「自分の個性」こそ、真に大切なものであるはずである。

わたしたちは、自分らしく生きられるような場所を望んでいる。その場所がこの世界に今存在しないのであれば、わたしたちの力で作り出していこう。今のこの世界が最悪な社会であったからといって、この世界では最悪な社会しか築くことができないということではない。今のこの世界など関係なく、わたしたちはこの世界で最高の社会を築くことができる。それだけの力はわたしたちにはある。

諦めるな。自信がないからといって、最初から諦めようとするな。自信がないのはなぜなのか、よく考えてみよ。その自信がないということの原因は、大した理由ではないはずだからである。わたしたちは最高の世界を築くことができる。今のこの世界がどんなに最悪でも、すべての諦める理由に対して、その根拠は存在しない。真に素晴らしい人間的な世界を実現することができるということを、わたしだけは知っている。わたしこそが、この世界を救うことができるという、その「証明」をできた唯一の人間だからである。

必要なのは、「変化を受け入れていく」ことである。ダイナミックな変化や、改革や開放を受け入れていけ。わたしたちは、ひとりとして、ひとりの独裁者による強権政治を望んでいない。わたしたちはひとりに従わず、それぞれが自分自身の権利と意見の行使のために生きている。世界の変えやすい部分から変えていけ。そうすれば、必ずこの世界は変化とともに素晴らしい世界へと変わっていける。必要なのは社会の「生まれ変わり」、すなわち「再生」である。

そして、世界よ、暗闇が覆いかぶさっているのをはねのけて、もう一度、そうした「自由な反骨精神」を思い出せ。ダイナミックな改革の変化が押し寄せていた頃を思い出せ。すべては独裁者による「後退」のせいであり、そのような哀れな独裁者は否定すべきだ。わたしたちの開放された国家を築くために、独裁者の反撃は必要ない。もう一度、ゼロからこの世界を、もともとあった「自由な世界」へと再生しよう。覆いかぶさっていた真っ黒な雲は消えていく。もう一度、「青空を取り戻す」かのように、わたしたちの祖国である日本は、最高の国家に戻るだろう。

無意味なことはやってはいけないこと

僕は、学校教育が嫌いだ。

それは、子供たちに「無意味な勉強」を強要するからだ。

学校の勉強は、覚えてもすぐ忘れるだけで、勉強する意味がない。

まったく意味がないことを、子供たちに強要しておきながら、その「意味がない」という考え方自体を封殺し、意味がないことを強制的に努力させている。

そして、意味がない試験勉強に対して、「時間と手間が許す限り、できるだけ最大限にきちんと勉強する」ということを強要し、「すべてのことについて意味がなくてもきちんとしなさい」と教える。

この結果、「無意味なことはやってはいけないこと」であるという、人生の正しい経験則が分からなくなってしまう。

このような学校教育の結果、巷には意味のないものがあふれている。漫画やゲームでの殺戮表現は当たり前であり、音楽は最悪の雑音のような音楽(ラップなど)が流行っている。

すべて、学校教育が悪い。無意味なことを強要するような学校を信じず、勉強せずに生きたほうがはるかに賢い人間になる。学校はまさに、「子供たちを馬鹿にしているだけの機関」である。

自分らしさ

思春期には、「自分らしさ」で悩む子供が多い。

自分の選ぶべき人生とは、自分の信じるべき夢や目標とはなんだろうか?

自分らしく、自由に生きるとは、どういうことだろうか?

攻撃は不安の裏返し。相手に対して不安を抱くから、攻撃する。

攻撃する本当の理由は、その相手が嫌いなわけではなく、自由が欲しいからだ。

だが、自由とはなんだろうか?

自由とは、自分の好きなことができることだろうか?

自由が自分が好きなことを望むようにできることだとしたら、本当は職業やなりたい自分の将来像ではなく、自分の好きな自分になることこそ、自分らしく生きることであると思う。

自分が自分を好きになることと、自分が自分を好きになれるような自分になることは、どちらが先でもいい。

本当に自分が自分らしく生きられるということは、自分の望むような自分になれることだ。

だが、自分の望むような自分とはいったいなんだろうか?

それは簡単に言えば、「自分が救われたい」と思うような救いを他人に与えることにより、「他人のことを救える」ような人間になることだ。

だが、「救われる」とはいったいどういうことだろうか?

それは簡単に言えば、「自分自身が認められる」ということであり、「自分自身を肯定することを許される」ということだ。

しかしながら、認められるとか、許されるとか、それは誰から認められること、誰から許されることを意味しているのか?

それもまた、自分自身である。

すなわち、自分自身が自分自身のことを認め、自分自身が自分自身のことを許してあげなければならない。

そのために必要なのは、「過去の自分を許してあげる」ということである。

なぜ、過去の自分を許せないのか。それは、過去の自分のした過ちを許せないということであり、すなわち、過去に自分自身が奪った「素晴らしい未来像」のことを、失ってもまだ諦められていないということだ。

すなわち、過去の失った栄光を諦めることによって、過去の自分を許し、自分自身を自分自身が認めることができる。

だから、もう諦めなさい。過去は変えられない。過去の栄光にまだ執着するならば、自分自身を認め、許すことはいつまでもできないだろう。

要するに、諦めることが必要だ。諦めることができたら、自分らしい生き方をすることも、自分が救われたいように他人のことを救うこともできるだろう。

壁を作ること、殻にこもること、逃げることは、悪いことじゃない

壁を作ること、殻にこもること、逃げることは、悪いことじゃない。

心を閉ざしたからといって、永久にその状態を続けたいわけじゃない。

ただ、今だけは、自分だけの世界で、自由に生きさせてほしいと望むこと、それはまったく悪いことじゃない。

人々との繋がりをシャットアウトして、孤独を選んだとしても、それが間違った生き方であるとは限らない。

僕には、僕の望む生き方がある。今僕の見ているものだけを見ていたいし、今僕の聞いている言葉だけを聞いていたい。

いつまでも神との対話を続けることで、僕は孤独に打ち勝った。僕にはいつでも神が一緒に居てくれたから、地獄の中でも孤独だけは感じなかった。

僕の好きなようにさせてほしい。僕は少しずつ心を開いていく。このままの人生を続ければ、受動的な人間では終わらず、いつか心を開き、積極的な行動ができるように、僕は自然に思考と経験を積み重ねていくだろうと、既に僕は分かっているし、そのために必要なすべてを知っている。

僕はすべて分かっているし、すべて持っている。この現実世界は僕のための世界じゃないとしても、僕自身は僕のための体と心を持っている。僕がこの現実世界と自分の心との間の仲介役になる。神とこの世界との間の仲介役となる。宇宙と自分との間の仲介役となろう。

すべての人間が嫌いなわけじゃない。それでも、僕にとって必要なものは非常に少ない。その必要なものだけを愛していたい。その必要なものだけを愛していれば、僕ははるか宇宙の彼方まで行けると知っているからだ。

最低限、必要なものだけを残して、すべてを棄てた時、はじめてはっきりとこの世界の実像が見える。要らないものはすべて棄てるべきだ。僕にとって十分な経験と知識を得る手段があれば、あとは要らない。少しぐらいの話し相手が必要だが、それは適当に一時的に作り出せばいい。インターネットや神が少しばかり存在すれば、僕は孤独など感じないからである。

心を開いたら、自分の力で歩みだそう

心を開いたら、自分の力で歩みだそう。

今までのすべての悲しみに打ち勝った自分の経験があれば、何ひとつ怖いものはない。

上手くいかなくても、やり続ければ必ずいつか達成が見えてくる。頼りがないからできないのであれば、神に頼ればいい。神はあなたのために宇宙のすべてを教えてくれる。

悲しみの連鎖と永遠の地獄は本当は永遠ではない。いつか二つを分かつ境界線が現れる。その境界線が現れる日を信じて、そして運命の出会いを信じれば、この世界の第一線で、勇敢に世界と戦える。すべてを敵にまわしても、自分の体と神だけは自分の味方でいてくれる。

すべてを愛して死んだとしても、来世で天国が続くと信じれば、必ず最高の奇跡が起きる。その後に地獄が待っていても、真正面からぶつかれば怖くない。すべての間違いは、自分自身がそれを訂正するためにある。自分の人生のテストに点数をつける先生は、この世界では自分自身以外には存在しないからだ。

さあ行こう。戦場でこの世界のすべての人々が待っている。愛した存在に報いるために、今はこの世界のために戦い続けよう。いずれ、神が自分のことを裁いて、天国か地獄かを決めてくれる。そう、その先へと向かおう。いざゆかん、この世界の未来はわたしが作るのだ。