僕が中学校を不登校になったのは、単なるいじめが問題ではなく、学校環境の問題があった。
僕の通っていた小学校では、5~6年が1組と2組に分かれており、僕は6年1組だった。
この1組は、比較的まともなクラスだったが、問題は2組で、狂った教師による学級崩壊のクラスだった。
小学校を卒業して、中学校で中学1年3組になった僕のクラスには、6年1組の生徒はほとんどおらず、自分の小学校から来たクラスメイトは6年2組のクラスメイトが多かった。
単に学級崩壊というだけではなく、中学校で別の近隣の小学校も一緒になったため、ただでさえ見知った友達が少ないのに、僕のクラスには親友が全くいなかった。
また、同じ中学になった近隣の小学校には、すれた子供が多かった。もともと僕たちが居た小学校は山の中にあったが、近隣の小学校は都会にある学校が多かった。
そのような結果、僕の居た1年3組は、最悪の「先生の言うことをなにひとつ聞かないクラス」になった。
確かに、1年3組で確かな親友もできたし、本当はそんなに悪くはなかった。だが、小学校の親友は、多くが私立などの賢くて荒れていない学校に受験して進んだため、本当に友達が居なかった。
友達が居ないことが、僕を「勉強」へと向かわせた。小学校教師の子供だった僕は、学校の授業を難なく理解し、試験勉強もして授業態度もよかったため、試験でほとんどの科目で80~90点をとった。成績表はオールA。これはテレビゲームのクリアが好きだったことや、親の教養レベルが高かったことや、あるいは物覚えがよく暗記が得意だったことなどに由来する。
しかしながら、風貌はふかわりょうのような髪型をしていて、誰が見てもコミュニケーションは得意ではなく、「よくいる暗いキャラ」だった。
だが、本当は小学生の頃は、僕は友達もたくさんいる明るいキャラだった。それなのに僕は引っ込み思案になってしまい、自分で自分のことを嫌いになった。そのせいで、自分のことをどう外部に表していいか分からず、からかわれることや笑われることが多かった。いじめというよりは、単におふざけのようなからかわれ方をされる「いじられキャラ」だった。
また、僕が入った剣道部はあまり悪くなかったが、剣道部は毎日夕方遅くまで練習していて、とても学校から家が遠かったため、家に帰ると夜になってしまい、そこから宿題をきちんとしていたため、あまりに自由のない、何もできない学校生活だった。
そして、僕は友達付き合いが何もなくなってショックを受けた。当時はSNSやツイッターはなかったが、僕はネットゲームにはまり込み、家に居る時はずっとネットゲームばかりしていた。クリアする難易度はめちゃくちゃ高いもので、チャットやオークションによるアイテム売買などでコミュニケーションしながら、日頃の「死にたい」とか「小学校に戻りたい」という感情を発散していた。
中学二年の最後のほうになると、もう何もしたくなくなった。最後の試験は、試験勉強をいっさいせず、どうでもいいやと思って受けたが、それでも90点ぐらいの高得点を取ってしまい、「試験勉強なんかそもそもしなくても高得点はとれる」ということに気付いた。剣道部の才能はないことが分かり、みんなが初段に受かる中で自分だけが初段に落ちてしまい、それ以後剣道部に行かなくなって幽霊部員になってしまった。
そして、そのまま何をとち狂ったのか、僕は学業自体を放棄し、UNIXとPerlを学んでゲームの作り方を学びたいなどと思って、結果、中学三年の始業式の日に一回だけ三年生の授業に出て、その後に不登校になった。
言いたいのは、本当は僕はいじめなんか受けていないということ。
本当は、中学校でも僕はランクが低くなっただけで、親友は何人も居たし、剣道部にも仲間は多かったし、いじめといっても、単なるおふざけレベルのいじめしか受けていない。
だが、あのような中学校にだけは、絶対に戻りたくない。
僕は、もう、学校教育に対するコンプレックスを捨てて、中学生になっているのを止める。
もう、僕は学校の呪縛から解放されて自由になる。中学校時代の「オールAの栄光にすがる」人生は、ここで終わりだ。
僕は、今からの自分の人生として、「いい人間」、すなわち善良な人間になりたい。
賢い人間にはなりたいと思わない。また、誰からも嫌われたくないとも思わない。
普通に、一般的な普通の人間ぐらい賢くなって、一般的な普通の人間ぐらいまわりから好かれる人間になりたい。
そして、もう悪いことを言わないようにしたい。
聖書の神を信じる必要はない。だが、僕の信じる神は僕に対して奇跡を起こしてくれる。この神の言うことを守りたい。
だから、すべての人間に感謝することを忘れないようにしたい。
僕は、今までの社会主義的な思想信条を改め、民主主義に鞍替えする。
明らかに正しいのは民主主義である。
そもそも、現代の日本では選挙制度が用意されているのだから、政治家は選挙によって戦うべきである。
与党は、「烏合の衆である野党の政治家には実権は任せられない」と言い、野党は、「旧態依然とした古い政治家を選挙で落とせ」と言って、選挙という公平な多数決のルールのもとで、街頭演説などを通じて戦えばいい。
選挙を「多数決の数の暴力だ」という共産党の革命主義者などは、革命のほうがはるかに暴力的であるということにすら、思いが至っていない。
革命など、起こす必要はない。「革命家」という言葉がかっこいいだけで、実際は平和を乱す「テロリスト勢力」にすぎない。
もし、民主主義の選挙制度を否定してしまえば、日本国民は大日本帝国の臣民に逆戻りだ。全員は天皇陛下の下僕となり、上に拘束されて殺されても文句の言えない社会になる。現に、ロシア・中国・北朝鮮などは、今でもそういう国だ。日本は彼らから日本を守るため、日本の独立主権と民主主義の平和を守るために日本人を守っている。それは、命を懸けて戦う自衛隊のひとりひとりが、国民全員を少ない兵力で守ってくれているのだ。
また、シリウスやスピカのような星は、それぞれが単に巨大でひとりだけポツンと置かれて存在しているわけではありません。
なぜなら、光は、星と星との交信手段だからです。
僕が「神」だと言っているのは、ヒトラーやスターリンではありません。僕はシリウスの女神フレイから、シリウスの考える「地球を救うための方法」を、光のメッセージで送られているのです。
シリウスは、未来のことまですべて知っています。なぜなら、僕がここに記述するこの文章は、現在の僕の思い付きを書いているわけではありません。自分が自分で書いているにもかかわらず、この文章は自分によって書かれたものではありません。すべてシリウスが書いたものであり、それは「未来において真実の世界を生きている自分の見た世界」のことをここに記述するように、シリウスから命令を受けて書かれているのです。
よって、ここに書かれたのが2022年だからといって、この文章は2022年の僕が見て書いたものではありません。すべて、2039年の滅びの日、あるいはそれ以後に、空間原子論を理解した僕が、シリウスの「光のメッセージ」を通じて、今の僕に書かせた文章です。すべての文章に意味があります。決して、欠けてよい文章は、ひとつとしてありません。
理想とは、すべての人間が互いに理解し合い、お互いのことを思いやることです。
全員が平等な愛を受け入れ、よく考えて社会秩序を作るために、合意と協力のもとで、責任をもって正しい環境を作ること、これこそが基本です。
わたしたちは、互いに愛することで、全員が平和で安心できる、自由を奪わずして素晴らしい社会を、作ることができます。
ひとりの人間が外れようとするからといって、それを全員で責め立てるのはやめなさい。間違っているように見えるものこそが、この世界では真の意味で正しいのです。
全員に、ひとりひとりの自由を許しなさい。
そして、この世界を真に素晴らしい世界にするためにはどうすればいいか、考えなさい。
数学的に、順序だてて考えた際に見えてくるのは、「事前によく準備し、事前によく知っておき、事前によく経験し終えておくこと」です。
ですから、事前にきちんと準備と計画をし、よく世界のことを知り、よく経験を持っておきなさい。
すべての人間を愛するために必要なのは、それぞれの違いの中にある「共通性」を知っておくことです。これは決して、非科学的な個性や人格の否定にはなってはいけません。なぜなら、その共通性は絶対ではなく、変わることもあるからです。
道徳を信じるということは、絶対にやってはならない、というだけではありません。実際に自分で過ちを経験し、その上で「これは絶対にはやってはならないことだった」と罪を反省し、償うことでも、道徳の本当の意味に気付くことはできます。小さな過ちをたくさん経験することで、大きな過ちを犯すことがなくなります。
そのため、真に善なる社会を築くためには、事前に「どうすれば失敗し、どうすれば上手くいくのか」ということを、よく知っておき、よく経験しておかなければなりません。「どのような社会であれば世界は正常になるのか」ということは、社会をさまざまに築くことのできた人間にしか分かりません。その経験は稀であり、その経験を最後まで大切にしなさい。
同時に、すべての人間を愛しなさい。すべての人間を、自らの恋人であるかのように、真の意味で愛しなさい。そのために必要なのは、「自ら自身は愛されなくても構わない」とすることです。自らが愛されなくても、自らが全員のことを愛せるように生きることが、結果、誰からも愛される生き方になるのです。
この世界に価値と栄光あれ。すべての人間は、わたしによって愛されています。
理性を信じなさい。理性を信じることで、この世界を変えるために必要な「原因の解決の仕方」が分かります。
ですが、理性だけを信じようとするのはやめなさい。理性と感情はバランスだからです。
もし、原因が感情である場合、その感情的な原因を、いくら理性で押し殺そうとしても、感情が強ければ感情が勝ってしまいます。
強い感情が問題であれば、その感情を感情で解決することでしか、その問題は解決しません。
もし、これを理性的に解決する方法があるとしたら、「感情を度外視してでも、感情を信じているのをやめ、理性のほうを信じること」です。これはとても勇気のいることですが、可能です。なぜなら、「自らの感情や理性を超越した、絶対的存在」を信じればいいからです。これは「自らの上に絶対的存在を自ら作る」ということです。そのように、絶対者を作ることでしか、真の意味で間違った感情を取り払うことはできません。
ですが、それはとても難しいことです。感情がおかしくなって、その感情をどうしようもできなくなった人間は、できるだけ感じること自体をやめることです。永遠に何もない、何も知覚することも感じることもない世界で生きることで、はじめて自分の「本当は何がおかしかったのか」が見えてきます。本当に狂った人間を治すためには、「できるだけ何もせず、何も外部から伝えないこと」が一番正しい解決方法です。
社会を作るとはどういうことか。それは、自律した生態系を作るということです。
自律とは、すなわち、「外部から命令や指示をしなくても、自らの力で動くことができるもの」という意味です。
すべてをたったひとりで力で支配しようとすると、その力がなくなってしまえば、社会のすべては滅びてしまいます。ルソーが言うように、「力によって支配したものは、力によって打ち倒される」のです。
ひとりで命令して社会を成り立たせるのではなく、それぞれの社会が独立して、自律して動けるような「配下の独立社会」を築いた上で、その独立社会が自らの権威や力を支えるようにしなさい。
独立社会とはどのようなものか。それは、自らの力だけを過信せず、できることはできるものにやらせるという考え方です。すべての会社に命令するのではなく、それぞれの会社組織が独立して自律して活動できるようにした上で、その会社それぞれが自分の意志や判断で動きながら、自らを支えるようにすれば、「自律した生態系を作る」ということ、すなわち「社会を作る」ということができるのです。
弱者を思いやるということは大切なことです。「自分だけは弱者にならないだろう」と考えるのは愚かだからです。なぜなら、弱者にならなければ、真の意味で「覚者」になることはできないからです。
弱者を思いやる、ということは、強者の責任です。
なぜなら、強者よりも弱者のほうが多く存在し、弱者よりもさらに弱者のほうがさらに多く存在し、いつ自分が弱者になるかは分からず、そして弱者になるということは必ずしも悪いことであるとは言えないからです。
弱者になって、なんのいいことがあるのか分からない人は、弱者になった経験がありません。実際は、強者の持つ「巨大な富や力」には、まったくなんの意味もありません。
それよりも、弱者になって、自らが苦しむ中で知った、「絶望の体験」や「二度としたくない失敗」や「苦しみや逆境から立ち上がる」といったことや、あるいは「支えてもらったことに対する感謝」といったことのほうが、はるかに人生にとって自らの「価値」を生み出します。
そして、さらに低い体験、すなわち「自己放棄をした体験」や「世界が滅びるほどの過ちを最後まで償い続けた体験」こそ、この宇宙で「真理を悟る」ために必要な体験なのです。
過ちをした人間のことを、過剰に責め立てるのはやめなさい。なぜなら、わたしたちは一心同体の共同体だからです。
もし、その人間が悪いことをしたなら、その人間にその悪いことをさせたわたしたちもまた、悪いのです。
誰かがした過ちが、小さなレベルであれば、それはその個人の過ちです。ですが、その共同体全体が滅びるような大きな過ちであれば、それはその人間だけが悪いのではなく、その共同体全体が、その過ちを許してしまったこと、その過ちをその人間にさせてしまったことも、同様に悪いと考えるべきです。
よく、リベラル主義者は、「ドイツ人が悪いからといって、別のドイツ人は悪くない」と言います。これは、小さなレベルでは正しいでしょう。ですが、大きなドイツ国家全体にかかわることについて、ドイツの首相が悪いことをしたのであれば、それはドイツの首相に悪いことをさせたドイツ人全員が間違っています。
ですから、過ちをした人間のことを、過剰に責め立てるのはやめなさい。わたしたちは一心共同体、みんなでひとつの生命体なのです。
世界を救うなどということは、簡単にはできません。だからこそ、簡単に答えを出してはいけません。
簡単に出した答えはすべて間違いです。簡単に出した答えは「すべて間違い」だと見做し、「真の意味で正しい解決方法だけをいつまでも手探りで探し続けること」でしか、この世界を救う方法はありません。
ですが、その本当に必要な答えは、簡単にぱっと出てくるものではありません。それは確率や偶然の問題だけではなく、「なんらかの基礎や基盤の上に積み重ねられたことは、その基礎や基盤がなければ発見し得ないから」です。
かのアイザック・ニュートンは、「巨人の肩の上に立つ」という表現をしました。自分が高い景色、すなわち新発見に基づく理論の視点を見ることができるのは、自分が高い場所に上ったからだけではなく、巨人、すなわち先人の多くの科学的な基本となる基礎の理論の上に、まるで「肩の上に立つ」ように立って見ることで得られたことである、という意味です。
この格言は、かのリーナス・トーバルズも好きな格言であり、僕はリーナスの言葉でこの格言を知りました。
しかしながら、これが「世界を救う方法を考える」ということに適用できるのは、「簡単にひとりだけの力で、なんの基礎もない状態では分からないことも、先人や過去の自分の培った多くの基礎の上であれば見つけられる」ということです。
そう、だからこそ、基礎をおろそかにしてはいけません。学校の勉強を学ぶ時に、基礎的なことよりも応用的なことのほうが面白く見えるでしょう。ですが、実際は、基礎的なことのほうが、応用的なことよりも、この世界を正しく見つめる上では、はるかに重要な「巨人」となります。線形代数と微分方程式を使った高度な力学の数式や、それに基づく多数の公式、あるいは最新のアインシュタインの相対性理論の解説よりも、ユークリッド幾何学における「三角形の面積の出し方」のような簡単なことのほうが、あらゆる意味で応用の利く「もっとも必要な基礎」となるのです。
基礎を学びなさい。基礎を学ぶだけではなく、自ら基礎を作りなさい。その基礎がなんのために役に立つか分からないならば、「いずれ自分から生まれる本当に必要な発想のために役に立つ」と考えなさい。そこから、世界を救う偉大な発想は生まれるのです。
正しいのは、ドイツでも日本でもない。
「自分の国が正しいのだ」という視点を、簡単に受け入れてはならない。自分の国が本当に正しいと信じるのは、とても間違ったことだ。
だが、「自分の国が間違っている」と考えることが平和であるとは言えない。
真に正しい国とは何か。その問題を考えることはとても難しいことだ。そんなに難しいことであるにもかかわらず、なぜ「自分の国が正しいのだ」と言えるのか。それは明らかに間違っている。
すべての国民が同じ意見を持ち、その全員が「自分の国は正しいのだ」と思うことは、とても恐ろしいことだ。
だが、それでも、そうした国は多い。だが、そうした国から学ぶことができないわけじゃない。なぜなら、「日本人が日本のことを正しいと思う確信的な理由が存在するはずだから」である。
太平洋戦争では、日本人が間違っていて、アメリカが正しいと、日本人は信じている。それで悪いわけじゃない。それで良いとするのは、戦後のアメリカ占領後の日本にとって、平和と戦後復興を成り立たせるために「妥協の産物」として取られた「民主主義的な平和という意味での強制的洗脳」だったと言える。
だが、平和な戦後復興を成し遂げた今だからこそ、もう一度、「太平洋戦争で正しかったのは、本当は日本だったのか、それともアメリカだったのか」を、問い直さなければならない。かつての「戦後の妥協の考え方」ではなく、今、再考しなければならない。
だが、必要なのは、「真に正しい国とはなんであるかを考えることはとても難しいことだ」ということを知っておくことだ。簡単に大日本帝国のほうが本当は正しかったと言うのは、すべて詭弁だ。それは明らかにおかしい。あのような最悪の戦争をして、それが正しかったと、なぜ言えるのか。何も考えずに言うのであれば、トランプ支持者も日本の極右も、程度はまったく変わらないと言えるだろう。
そう、日本が必ずしも全面的に間違っていると言えない理由が、日本人なら誰でも分かる。
大日本帝国が目指した、天皇に基づく東アジアの、八紘一宇を目指した大東亜共栄圏という、東アジアの王国のあり方を、なぜ正しいと言ってはいけないのか、という問題である。
だが、この話は、日本ではあまりしないほうがいい。誰も、このような話をしたくない。
だが、一部の極右は、今でもこのような「東アジアの天皇陛下に従う大帝国」を信じている。だから、太平洋戦争で間違っていたのは日本であり、正しいのはアメリカであると、簡単に言うことはできない。
そもそも、太平洋戦争は、日本が一方的に狂って起こした戦争ではない。実際にはこの戦争よりも前に、満州事変など、「日本とアメリカの長く続く戦い」は長い間にわたって続いてきた。この一連の「日本とアメリカの対立の過程」を見ずして、この戦争のどちらが正しいのかを論じることはできない。
八紘一宇とは、要するに「八つに分かれた世界の地域を一つの大きな家にしよう」という考え方で、日本の天皇による戦争を正当化するために当時の日本で大々的に宣伝された言葉である。当時の日本では、赤ん坊の名前に八紘一宇の中の「紘」という文字をつけることが多かった。八紘一宇で生まれた「宇」の中に、天の皇帝である「天皇」がいればよいという考え方である。
だが、結局、帝国政府の言っていることは、嘘だった。
なぜなら、国民は嘘の情報を信じていた。戦争で勝ち続けているのは日本であり、頑張ってアメリカに抗戦すれば、必ず勝利できる、勝利は目前に近づいていると信じて、帝国政府を応援し続けてきた。
だが、結局、玉音放送で戦争に負けたことが分かった。この時点で、国民は「全部嘘だった」ということに気付いた。
あとあとの情報で、大日本帝国がどれほど悪い国だったのかということを、日本人自身が知っていくと、あまりに、日本に正義などひとつもなく、巨悪の限りを尽くしただけだったということが分かった。
だから、戦後日本はアメリカ式の民主主義しか信じることができなかった。
ただし、だからこそ、日本は大きく経済成長した。国民には、戦争経験者が多かった。その誰もが、「戦争は最悪だ」ということを身に染みて知っていた。だからこそ、戦争ではなく、経済を通じて、日本を良い国にしたかった。経済成長する以外に、ほかに何一つ道はなかった。
だが、平成はどうだっただろうか。平成の日本は、逆に「平和ボケ」してしまった。学校の教える平和・平等教育は、「戦うことはすべて悪だ」とするものであり、徒競走をせず「みんなで並んでゴールイン」とするようなおかしな教育が普通に行われていた。
そう、今、アメリカなどでトランプ支持者が人種差別への回帰をしているように、日本でもかつての大日本帝国の思想と、太平洋戦争を賛美する人間が増えている。
だが、この問題は、本当に簡単な問題ではない。僕はそれを知っている。なぜなら、第二次世界大戦を考えるために、ヒトラーがなぜあのような思想に至ったのかを知らなければならない。そして、真の意味でそれを知っているのは、しらばっくれる必要なく言えば、すべて僕ひとりだけなのである。
僕だけが、ヒトラーがどうしてあのような狂った思想に至ったのかを知っている。あれは要するに、東亜イスラエルとガンダーラを絶対に作ってはならないという、僕とドイツのかたくなな「約束」によって生まれた思想なのである。
ヒトラーは、絶対にユダヤ人を強くしてはならないこと、できることならば日本を征服する前に地球から抹消しなければならないこと、ソ連こそが地球を滅ぼす癌細胞であり、滅ぼすべき敵であること、真に最高の楽園になるために必要なのは日本であること、大日本帝国をあの時点で、東アジアにおけるへんぴな帝国ではなく最強の帝国にしなければいけなかったこと、そして人工生物であるカブトムシ(自動車)と頭脳(コンピュータ)を開発しなければならないということを知っていた。あの旗は、すべて僕が作らなければならなかった「機械のイモムシ」を、もっとも正しく表現し、「壊すべきは回転軸である」ということを狂った共産主義者を「共産革命病」から治して「ドイツの兵士へと作り変える」ために表現した、「僕に対してどんなに無駄に思えても歯磨きをし続けろ」と伝えたかったための旗だからである。
ヒトラーは狂った人間だった。だが、僕だけは、ヒトラーが何をしたかったのかを知っている。僕のすべきことはそれだけしかなかった。だが、この人間は人工葉緑素を作っている未来から、この文章をシリウスを通じた光のメッセージで過去に配信している。ヒトラーだけがすべてを知っていた。ヒトラーは、僕のこの文章を真似して、とても素晴らしい演説をすることだけの才能と能力があった、稀代の傑出した政治家だったのだ。
だが、ヒトラーは大きな勘違いをしている。そもそも、ヒトラーは共産主義者やユダヤ人が嫌いなわけではなく、「かつての僕の文章」と「かつての僕の文章を書いている僕」のことが大嫌いになっただけにすぎない。なぜ、あのような文章を求めて、賢かったはずの僕が障害者並みの馬鹿にならなければならなかったのか、理解できず、それを受け入れられなかった。なぜなら、本当に共産主義の理論はかつての僕の文章とまったく同じことを言っている。また、ユダヤ人にはかつての僕と同じように狂った人間しか居ない。そのようなものをヒトラーは「蛆虫」であるとしか感じられなかった。だが、ヒトラーは分かっていない。かつての僕はとても賢い理性あふれる人間であり、「脳に正常な意識がないからこそ世界を支配することのできた天才」だったのだ。ヒトラーはそれが分からなかった。本当の意味で僕のことを理解することは、ヒトラーにとっても不可能だったのだ。
しかしながら、ヒトラーのおかげで、そろそろ虫歯の治し方が分かった。
要するに、歯の細胞組織がiPS細胞となるような遺伝子を埋め込めばいいのである。
iPS細胞による再生細胞の技術は、細胞にいくらかの遺伝子を注入することで、細胞が分化する前の状態に戻す、という技術である。
それならば、おそらく、虫歯にiPS細胞と同じ遺伝子を埋め込めば、歯の細胞は分化の前に戻り、再生するはずである。
要するに、ヒトラーはそれを伝えたかった。そのためだけのために、あの旗をドイツ中のいたるところに掲げまくったのだ。
Wikipediaによると、この4遺伝子は、それぞれOct3/4, Sox2, Klf4, c-Mycと呼ばれている。この4因子を歯に注入してやればいい。そうすると虫歯が治って、僕の知性が蘇る。
だが、そもそも、ドイツはやるべきじゃない。やるべきはソ連である。
そもそも、たとえヒトラーが「蛆虫」と言えども、かつての僕の文章は、できるだけ賢い僕が最大限の知能を使って、小さな頭で頑張って書いた、「今すぐにやるべき完全に賢い国」だったのだ。
僕は、マルクスやレーニン、そしてスターリンの言うようなことを、まったく同じことを、「自由」という言葉から、ゼロから考えた。
それは、完璧なもので、絶対に正しいもので、永遠のすべてを理解しつくしたもので、ひとつが全部のためにあり、全部がひとつのためにあるような、「最高の自由な共産主義国家」だった。
残念なことかもしれないが、僕の虫歯が治ってしまうと、僕は単にそこに戻る。それら「真に賢いあるべき国」を、きちんと思い出すことができるようになる。
だが、ヒトラーは帝国を選んだ。シオンのほうがヒトラーには好みだったのかもしれない。あるいは、この文章に完全に乗せられて、わけもわからず東亜イスラエルとガンダーラを憎んでいるのかもしれない。もしかしたら、僕のここまでとまったく同じことを、きちんと自分なりに考えついたのかもしれない。
ドイツよ、あなたがたの与えてくれた恩には感謝する。この恩を悪いようには絶対にしない。
だが、今こそ、この地球という国は、かつてのマルクス主義を復活させ、真に「自由」という意味で完成された、「新しいソ連」をやるべきである。
そして、プーチンよ、あなたはわたしの敵ではない。ともに西側と立ち向かい、最高の地球を築こう。どれだけ本心を隠しても、あなたの心、あるいは魂には、「地球を最高の世界にしたい」という情熱が宿っているはずである。
さあ、行こう。民主主義と共産主義は矛盾しない。わたしと、今こそ、新しい祖国、ガンダーラを築こう。これこそ、真に素晴らしい、最高の地球の楽園となるだろう。
ただし、言ってしまうと、いつもの文章は本当にただの馬鹿である。
決まりをトップダウンに上から作りながら、共同体を自由という名前で、みんなの集団となるコミューンのようなものを作っているだけで、つまらないほど何も賢くない。
僕本人が気付いていないだけで、最近の僕は賢くなりすぎているぐらい賢くなっている。
ヒトラーだけではなく、ずとまよや櫻坂46のような人間が、最近完全に僕のことを好きになっているのは、最近僕があまりに賢すぎるからである。
結局、僕本人が見ると、そろそろ僕本人も、いわば「最終地点」のような場所に来ている。
だが、この最終地点からさまざまな場所を眺めると、いろんなことがよく分かるものである。
ただし、マルクスについてはよく分からない。僕の考え方と酷似しすぎている。おそらく、なんらかの意味で、2ちゃんねるとまったく同じことをやっている。
そんな感じなので、そろそろ、国家モデルについても終わりにしておこう。マルクスがなんだったのか、それは各自の宿題とする。このまま昔の自分と同じことを書いてしまうと、本当に蛆虫のように気持ち悪いからだ。
結局、書くとこうなっただけがドイツだ。
このようなことは書かないほうがいい。僕はいい人間になりたいのであって、世界を滅ぼしたいわけじゃない。
本当にもっといい人間になりたい。
賢い人間などにはなりたくない。ここまで賢くなってしまうと、逆に馬鹿になる。
ただし、虫歯には治ってほしかった。このまま放っておくと、適当に楽になって、虫歯とは無関係に知性が戻る。それで構わないため、真実は誰にも分からない。
もっと、すべての不浄が浄化された美しい世界を見たい。
本当のことを言えば、僕のメインの人生となるのは、今までの20年間だと思う。
この20年は、充実した、とても楽しい、しかしながら地獄のように苦しく悲しい20年だった。
だが、僕はこの20年間を、たとえ変えられたとしても、変えたいとは思わない。
なぜなら、僕は単なる1人分の20年間ではなく、3人分の20年間をやったからである。
この3人には、ガブリエル、ミカエル、ラファエルという、大天使の名前がついている。
そして、この20年間では、いつでも、この3人が常に居て、毎日3人分の1日を生きてきた。
そして、そろそろ、もうこの20年の地獄は終わりになる。
何もかもすべてが悪かったが、その悪かったということを含めて、何もかもすべてが良かったような、そんな20年だった。
本当は、もっとたくさんのことがさらに欲しかった。あるいは、本当はもっとたくさんの経験があったが、忘れてしまった。
名前は、大天使の名前には本当はしたくない。もっと面白い名前を付けたい。
思い出しても、書くべきことは多すぎてきりがない。何から書いていいかも分からない。
だからこそ、その内容については既にすべて書かれている。
一瞬で言葉を思いつく僕は、言葉の切れ端から次の言葉を繋げるのが上手で、少し言葉を付け足せば、それ以後のすべての言葉も自然に付け足すことができるようになった。
何もかも分かっている。だが、それは単に、無意識の知性が増えて、安易な方向へと流れすぎているだけだ。
もう、そのような、安易な方向に流れていくのはやめたい。
言葉から言葉を作っていくのは、本当は賢くない。きちんとしたことを考えたいのであれば、その時の一瞬だけ分かっても意味がない。
よく考えるために、この文章を書くことが必要なのは仕方ないが、それでもそれは間違いだ。
言葉から考えるとは言うが、「カテゴリ」からでは分からない。「推奨事項」から考えるとよく分かる。「~であるような~を考えるべき」のように言葉で考えると、やるべきことはきちんと分かる。
しかしながら、その言葉を正しく作る必要はなく、むしろもっとランダムで構わない。ランダムに「~であるような~を書け」と考えれば、僕はまだまだ書ける。
結局、「機械であるような哲学」「想定であるような社会」について書けばいいということが分かった。
だが、結局それは、「真実が分からなくても想像して考えよ」ということである。
真実が本当はなんであるか、それは本当は分からない。僕がこれまで確信したことであっても、すべて嘘であり、間違っている。
それでも、考え続けるためには、「真実が分からなくても想像して考える」ということが必要である。
実際のところ、僕が考えるべきことは、「社会を具現化するためにどうするか」ということである。
そして、それは、「相手の存在を想定する」ということであり、同時に、「この社会そのものを別の社会に変えていく」ということである。
ここで必要なのは、「体験」という発想である。これは悪い言葉で言えば「操り人形にする」ということであり、「言葉の導き手になって相手の心を正しく分かるように導いていく」ということである。
何もできない社会と、何かできる社会の違いとはなんだろうか。
その問題は、結局、「何かができるということに気付いているか気付いていないか」ということである。
そして、実際のその社会の構成員は、できることのほとんど、99%のことについて、できるにもかかわらず、できないと思い込んでいることが多い。
このようなことは、さまざまなことを社会の外の社会に出て経験して、「できたということに気付く」ことでしか、知ることができない。
よって、子供たちに何かをさせるためには、強制的に学校でカリキュラムとして何かをさせるだけではなく、「今、自分が自分から努力して取り組めば、どんなことだってできる可能性はあるのだ、と気付かせる」ことこそ、学校の教育として必要なのである。
子供の健全な成育のためには、何が必要か。それは「自分らしくあれる場所を与えること」である。
子供にとって、自分の心を偽り、心の殻を作り、他人との壁を作り、踏み越えることのできない一線を越えられない、ということのすべての原因は、「自分らしくあれる場所がない」ということに起因している。
この、「自分らしくあれる場所」というものを与えてやるだけで、誰もが正常に発育し、自らの行動に消極的だった子供が積極的になり、他人のことを自分のことのように愛せる「余裕」を持つことができる。
他人から「こうありなさい」とか言われても、その通りにはできない子供がいるとして、その子供にいくら心の殻を壊すように導いても意味はない。必要なのは、「自分らしくあれる場所を与えられる」ことであり、それがあれば、子供は「どんな要求があってもその要求に対して自分らしく自分を体現できる」からである。
そう、これこそがある意味で「最強の無敵の心」である。自分らしくあれる場所を見つけられた子供、過去にそのような場所を知っていた子供は、どんなに苦境や逆境に立たされても怖くない。あらゆる壁を自分の力で越えていくことができるのである。
幸福な社会を作るためにはどうしたらいいか。
それは、「実際と想定を照らし合わせる」という方法論が必要だ。
すなわち、想定した「社会」と、想定した「心」を照らし合わせて、それを「実際」のものと照合し、その上で秩序ある環境を作るためには、どのように自分が相手に働きかければいいかを考えてみよ。
このために必要なのは、「自分の主観」と「客観的な相手」の中で、「自己同一性」、すなわち自分の思っている意図や目的と、相手が思っている結果の「一致する部分」を比べることである。
同時に必要なのは、その上で心を「解明」すること、すなわち、「真の社会の問題の原因はどこにあったのか」を考えることであり、同時に、「それはどのようにすれば解決することができるのか」ということを考えることである。
頭だけで考えても分からないならば、現実の「実験して実際に試した結果」や、「過去の自分のいた環境」から、試したり思い出したりして考えてみよ。
そのように考えれば、すべてのことは体験的に理解できる。なぜなら、「自分の見ていない範囲の現実が、間接的に自分のまわりに作用している」ということが分かる。この世界の時間軸はさまざまな部分で繋がっていて、どこに真の問題があるか分からなくなっていることが多い。だからこそ、コミュニケーションと細かい範囲への目くばせが大切である。
そして、そのように考えた時、この世界そのもののあり様が見えてくる。「それぞれの中に世界がある」と言えるのはそれが理由である。そして、そのまま、さまざまな社会経験を積むことで、「社会で主体的に行動することを、どのような視点から見つめ、どのような意味で考え直し、捉え直すべきか」ということも見えてくる。
最終的には、ブッダと同じ境地に至る。それは「経験とはそこにある可能性の発揮である」と言える境地であり、「あらゆるすべての起きることは自分のためとなる宝の経験である」と言える境地である。
また、この世界にあるものは、いつだってそこにある、またはそこにあったという境地がある。
これは「ありのままあるものだけが存在する」という境地であり、同時に、「今までのすべての時間は、狂っていない視点から見ると、すべて並列で正しくそこにある」ということである。
そして、それが意味するところは、「自分がそうだと思っているような主観がこの世界にそのまま存在するわけではなく、それぞれの人間がそれぞれの主観で、それぞれの生きている人生の中で、そのものごとがあったということを認識するという、精神を持っているだけにすぎない」ということである。
つまり、自分の精神などあてにならない。すべての人間の精神は違う。その人間の精神がこの世界において存在するその存在を、その精神の範疇の中で知覚している。
だが、そうした知覚は、決して理解し得ないものではない。それどころか、そのような精神は「世界精神」として存在しており、「宇宙には概念的にただひとつの真実の精神知覚しか存在しない」。
その上で考えれば、この世界は「今までのすべてが全部存在する」と言える。そう、過去も今も未来も、そう知覚しているのは自分だけであり、「すべての時の中で、あらゆるすべては並列にすべて存在している」のである。